投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

今日の日は再び来ぬ 尊き一日

 私たちは、朝目が覚めて今日という一日が始まることは「当たり前のこと」のように思っています。

しかも、そのことがまるでいつまでも続いていくかのように…。

けれども、明日の朝、何事もなく今日と同じように目が覚めるという保証は誰もしてはくれません。

 大きな自然災害による被害の惨状が報道されるのを見たり聞いたりする度に、私たちの未来には何が待ち受けているのか予測することさえも出来ないのに、まるで自分の未来には都合の良いことばかりが待ち受けているかのような錯覚の中を生きていることに気付かされます。

 「一寸先は闇」という言葉があります。

この言葉のように、私たちの未来にはいったい何が待ち受けているのか、誰にも知り得ることは出来ません。

けれども、もし一つだけ確実に分かっていることがあるとするならば、それは既に生まれてこの人生が始まった以上、いつの日にか必ずその終わりの日が来るということです。

 もし「あなたの命はあと一年」と宣告されたとしたら…、いかがですか? たとえ嫌でも、今はまだ知らないだけのことで、必ず「最後の日」は私の上に訪れるのです。

そのような意味で「今日」というこの一日は、私の人生においては、二度とはやって来ないこよなく「尊い」一日だといえます。

私の身の事実

『仏教聖典』に

「人ははからいから、すべてのものに執着する。富に執着し、財に執着し、名に執着し、命に執着する。」

と説かれています。この富と財は一応重ねることが出来ますから、そうしますと人が執着する最大のものは「財と名と命」の三つになるといえます。言い換えますと、すべての人は、この三つの事柄が、自分によく適えられるように願って生きているのだと言い得ます。

「財」とは、生活条件の基本で、よく生きるためには財がなければなりません。自分にとっての理想の人生を描けばよいのですが、便利で豊かで快適な生活ができ、環境にも恵まれて、平穏無事な人生が送れれば、これに過ぎるものはないといえます。そして今日の科学文明の社会では、このような生活が一部の人々だけのものではなくて、社会に生きる全ての人々に可能となりつつあります。そういった意味で、経済が現代社会では常に大きな問題になり、経済のひずみが争いの原因や国と国との紛争へと展開していきます。だからこそ「財」はそれだけ人間にとって大切だと言うことができます。

多くの人にとって、一人で生きていくということは極めて困難なことであり、それ故に誰もが仲間を作って生きるという、社会的な生き方を求めます。そこで、人が仲間と共に生きるために最も大切なことが倫理・道徳となるのです。社会生活を営む上では、人の和を乱したり、他に迷惑をかけるような自分勝手な行いは許されません。そのために「規則」が作られ、その規則を守ることが善になり、反対に破ることが悪ということになります。このような意味で、人は生きる上で善をなすことが求められるのです。

ところで、社会的に生きるためには、いま一つ重要なことがあります。それは一人一人が「名」を持つということです。社会全体の中で一人一人が個別に存在しているのですが、その一人の自分が、他と区別して自分の存在を示すためには、一人一人が必ず自分の名を持たなくてはなりません。そこで名を持ったもの同士が、互いに仲良く生活していくことになります。そうすると、いつしか自分という存在が他人によく思われ、しかも他人から素晴らしい人だと認められたいという思いが湧いてきます。この場合、一番の近道は、他人よりも多くの善をなすことです。したがって、善いことをして名をあげることが人間にとって重要な事柄になります。したがって「名」は自分にとって、最も大切なものだということになります。

また毎日の生活の中で、ことに願われるのが「やすらぎ」です。どれほど財を蓄えたとしても、人々から自分の名がどれだけ誉められたとしても、自分の心にやすらぎがなければその人の人生は悲惨です。そのような意味で、いままさに生きているという「命」は、やすらぎの中になければなりません。

そこで人は、やすらぎを得るために懸命になります。この場合、そのやすらぎは努力をすれば得ることができます。例えば、静かな道場で座禅をしたり、荘厳された本堂で念仏を称えたりといった具合です。そのような仏道は、当然やすらぎの心を生みます。この他、日常生活の中でも音楽を聞いたり読書をしたり茶をたて花をいけて心をやすらげることは可能です。このやすらぎのある生活は、私たちの「命」をとても充実させてくれます。

このようにみますと、私たちの人生にとって財と名はやはり非常に重要なのであって、財と名に支えられてやすらぎの命があるのです。いうまでもなく、私たちにとって最も大切なものは自らの「命」なのですが、その命が財と名に支えられています。良い人生を送るということは、つまるところ財を蓄え名をあげることになるといえます。ところが仏教では、このような人生の見方そのものを、はからいであり、迷いだとしてその執着を絶つことを教えています。

生きるという面を中心に考えますと、人々にとって財と名と命が特に重要であることに異論はないと思われます。けれどもそれにこだわりますと、その人の人生が悲劇になることもまた事実だといわなくてはなりません。今日の経済中心主義が地球そのものを破綻に陥れようとしていますし、名へのこだわりが人との生活の中で多く摩擦を起こす原因となっています。そして幸福を求める命への執着が、その臨終において悲惨な姿をもたらすことになります。

しかしながら、どうしても財と名と命に執着をせざるを得ない私たち凡愚にとっては、その執着を断てといわれても、自らの力では断ちようがありません。このような、痛ましいほど愚かな人間の姿を仏教では「煩悩具足(すべての迷いを具えている)の凡夫」と呼んでいます。

仏教は本来、その煩悩をいかにして断ち切るかを教えます。執着することの醜さを、さまざまな比喩・事例を通して明らかにします。けれども多くの仏道者たちは、その執着を断ち切るために、懸命に行道に励みながら、我が身の事実を直視すると、執着を断ち切れない自身の姿が顕かに知られるばかりで、さらなる苦悩に陥っていくことになります。

そのような者のために浄土の教えが開かれています。ここでは『阿弥陀仏の本願を信じ、自らの愚悪性を恥じらい懺悔し、浄土への往生を願って念仏しなさい。そうすると、たとえ煩悩を断じなくても、阿弥陀仏の浄土に生まれ、悟りを開くことができる。』と教えられています。

この教えの中から、多くの浄土教者が生まれています。その人々は、自らの愚かさを恥じらい、懺悔する人生を歩んでいますので、煩悩を断ち切れていないとはいえ、財と名への執着は薄れ、しかも阿弥陀仏の本願を信じてるいるので、永遠の命もたまわっています。実に、我が命を超える、すばらしい人生が実現しているのです。そこで善導大師は、この念仏者を「妙好人(みょうこうにん)」と讃えられ、阿弥陀仏の本願を信じる念仏者こそ、真の仏弟子だとされます。

ところが、親鸞聖人はこの念仏を信じる真仏弟子の道を前にしながら

『誠に知んぬ。悲しい哉、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し名利の太山に迷惑して、定聚の数に入るこを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまず。恥ずべし傷むべし。』

と自分の心を吐露されます。どこまでいっても、私たちは財と名と命の執着を断ち切ることができない迷いの深い存在であることが思い知られます。けれども、だからこそ、そのような私が身の事実をごまかさないで見つめよと、親鸞聖人は教えておられるのです。

今日の日は再び来ぬ 尊き一日

 六曜という曜日があります。

よく知られているのは友引・仏滅・大安の三つです。

もともとは中国から伝わってきたものですが、今でも日の善し悪しを言うときの根拠として根強いものがあります。

あなたも、そのようなことが気になったりすることはありませんか?

 その中でもよくいわれるのは、慶び事は仏滅を避ける、そして出来れば大安にするのが良いとか、葬儀を友引にしてはならないとか、そういった冠婚葬祭にかかるもものです。

したがって、特に人生の節目となる結婚や、葬儀などの日取りには、この六曜にこだわる人が多いようです。

 ここで六曜の由来を訪ねてみますと、仏滅は決して不吉な日ではありませんし、友引にも本来「友を引く」という意味もありません。

また本来は物滅・共引と表記していました。

そもそも、明日どころか、少し先のことさえ、この命がどうなるか分からない私たちに、日の善し悪しを言っている余裕などあるのでしょうか。

 「日々是好日」という言葉があります。

自分に許された大切な一日を精一杯生きることが大切であるという心の言葉です。

また来ない明日に心を奪われ、目先の損得に一喜一憂する私たちに、仏教は「何気ない一日が、本当は尊いものだ」と教えてくれています。

『人はなぜ生きるのでしょう その答えを探すために 生きるのです』

 「あなたは何故生きているのですか?」と問われても、私は気が付いた時にはすでに今のこの私として生まれていましたので、すぐに答は出せないような気がします。

また、その答えも簡単にひと言で答えられるような正解は見つからないのではないでしょうか。

 けれども、もしあえて言うとするならば「人間はその答えを探すために生まれてきた」としか言いようがないと思います。

そのような意味で、私たちがこの人生を「生きる」ということは、常に自らの誕生の意義を問われ続けているということになりはしないでしょうか。

 思えば、人間にとって一番つらいことは、自分の人生がただ空しく過ぎていくことです。

たとえすぐにはその答えが見つからなくても、なぜ生きるのかと悩み、生きる目的を考えることは、決して無駄にはならないと思います。

それだけではなく、むしろ生きる力を生み出すはずです。

 人生には、嬉しいことや楽しいこと、面白いことがある一方で、つらいことや苦しいこと、悲しいこともあります。

もしかすると、それらの一つひとつの出来事が、私が自らの人生について、そして何よりも生きることの意味について考える機会を与えてくれているのではないでしょうか。

聞法の意義

日頃熱心に仏教の話を聞き、自分でも一生懸命仏教を学ばれている方から、次のような質問をお受けすることがあります。「書物を読み、お話を聞いている時は、なるほどそうだと思うのですが、それはほんの一時で、少しも身についていません。お話を聞いて外に出ると、もう以前の自分とまったく同じなのです。死に対しての不安を持ちながら、一方では世俗的な欲望に興味が傾いて、どちらかといえば何とか豊かで快適な生活をすることの方に関心が向きがちです。仏法を本当に聞くためにはどうすればよいのでしょうか。」というお尋ねです。

七高僧の一人、曇鸞大師は

「非常の言は常人の耳に入らず」

と述べておられます。「非常の言」とは、日常生活の中で必要とする言葉ではなく、生死を超える言葉、言い換えると、今まさに死のうとする者を永遠に生かす言葉だといえます。そうだとしますと、その言葉は世俗の欲望を満たすためのものではなくなります。それが自分の生活をよくするためのどのように素晴らしい教えであっても、また日常生活の上では、人の心を魅惑する甘い言葉であっても、死にゆく人にはそれらは全く必要とはならないからです。けれども、明日をよりよい一日にしたいと願っている一般の人々にとって、反対にその「非常の言」は必要な言とはなり得ないのです。

なぜなら、豊かで便利で快適な生活こそが願われているからです。したがって、それを否定するような「非常の言」は、日常生活に熱中している人々の耳にはなかなか響きません。ところが、死を目の前にした人の心はその逆で、幸福な日常生活を送るために必要な言葉など、全く耳には入らなくなるといえます。

仏教の教えの中心は、どこまでも生死を超えることです。それに対して、私たちが普通求めているのは、日常生活をよりよく生きるために必要な教えです。そうすると、仏教の教えをいかに一心に聞いたとしても、そしてその教えにどのように感激しても、結局その教えがいま必要なのではありませんから、どうしても疎かになるのは当然なのです。生死を超える教えを何度聞いても、やはり関心事は世俗の問題になってしまいます。

『観無量経』という経典は、釈尊がマガタ国の后であるイダイケ夫人に説かれた教えです。釈尊在世の頃、マガタ国の王舎城で悲劇が起こりました。アジャセという太子が王位を欲して、父のビンバシャラ王を幽閉して殺害しようとしたのです。さすがに直ちに殺すことは出来ず、餓死をさせようと試みました。そこでイダイケ夫人は、夫ビンバシャラ王をを何とか救おうと懸命に働いたのですが、その行為がアジャセに発覚してイダイケ夫人自身も幽閉され、殺されるかもしれないという危機的状況に陥ってしまったのです。この窮地の中で、イダイケ夫人が釈尊に、我が身を救って下さいと願われ、その願いに応えて説かれた教えが「観無量寿経」です。

イダイケ夫人が釈尊に礼拝して救いを求めた時、釈尊は霊鷲山にいらっしゃったのですが、イダイケ夫人が頭をあげると、そこに釈尊の姿がありました。するとイダイケ夫人は自らの飾りのすべてを投げ捨て、釈尊に向かって「自分はなぜこのような悲しみを味わわなければならないのですか。もはや私はこの世の楽しみなど求めません。悪のない永遠の喜びに満ちた世界に生まれさせて下さい」と願います。そこで、釈尊は阿弥陀仏の浄土を説かれました。

ここで、イダイケ夫人の仏法の聞き方について考えてみたいと思います。ビンバシャラ王とイダイケ夫人は、アジャセが生まれる以前から釈尊に帰依していました。したがって釈尊の説法はすでに数多く聞いていたはずです。ただし釈尊は世俗の欲望を満たす教えなどは説かれません。常に生死を超える道、あるいは無常のことわりについて説法されます。その教えをイダイケ夫人は幾度となく夫と共に熱心に聴聞していました。そうすると、イダイケ夫人は縁起の道理についても、この世の無常についても、十分に理解していたと考えることが出来ます。それ故、王舎城の悲劇に際して、イダイケ夫人は改めて釈尊に救いを求める必要などなかったはずなのです。ところが、実際は決してそうではありませんでした。

王舎城の后として、イダイケ夫人は釈尊の尊い教えを聞き、仏法に導かれて幸福な生活を喜ばれました。ただしその喜びは、つまるところ生活のレベルにおける喜びでしかなかったのです。世俗の喜びを否定する仏法を聞きながら、内実としては世俗の欲望の中でしかその仏法を聞くことが出来なかったのです。しかしながら、悲しいことにまさにこれが私たちの日常における仏法の聞き方に他なりません。とはいえ、この事実を自覚した上で、日頃から縁あるたびごとに繰り返し教えを聞き続けることが大切です。なぜなら、イダイケ夫人は、日頃から釈尊の教えに耳を傾けていたからこそ、非常の時、自然と真の仏教が耳に入ってきたからです。

なお平和や差別、あるいは環境、男女共同参画その他、現代社会における様々な問題について積極的に取り組むことが、あたかも真宗者の責務であり、そこにこそ真の「すくい」があるかのような主張を見聞することがあります。けれども、そのことを中心的課題に据えていこうとすると奇妙なことに宗祖の根本思想である真宗教義の特色が消えて、その主張がなぜ親鸞思想なのかという疑問が生じてしまうことが多々あります。私たちは釈尊や宗祖の関心はどこにあったのか。宗祖が「すくい」ということを問題にされる場合は、必ず阿弥陀仏の本願を指されるのであって、そこでは常に宗教的真実、永遠の問題が問われています。端的には、真宗における「真実信心」はこの一点にのみかかわっています。このことを見失うことなく、まずはその語りかけに素直に耳を傾けることが大切だと思います。

『人はなぜ生きるのでしょう その答えを探すために 生きるのです』

 今、あなたはどのようにして毎日の生活を送っていますか? おそらく、みんなが同じ生活ではないはずです。

私たち一人ひとり、誰もがそれぞれに毎日いろいろな思いや生活のスタイルで、日々の生活を送っていることと思います。

 でも、その中でふと「自分はなぜ生きるのか」と考えたことはありませんか? これは誰もが一度は考えたことがあるはずの問いです。

おそらく「なぜ生きるのか」という問いに対しては、人それぞれに様々な答えがあり、みんなそれぞれにその思いを胸に抱いて生きています。

 もちろん「なぜ生きるのか」という問いに対する答えは個々に違っているのですが、その答えの一つひとつは、それぞれが自分の人生という道を歩いて行く中で見つけだした答ですから、どれが正しくて、どれが間違いだとは簡単には言い得ません。

時には、正しいと思っていた答えが覆ってしまうこともあります。

 けれども、だからこそ私たちは「生きる」のではないでしょうか? 一つの答えを見つけて、また新たしい答えを見つけ出して行く。

私たちは人生という道を歩き続けて行く中で、私なりに納得することの出来る答えをみつけるために、今を生きているのではないでしょうか?