投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

『花びらは散っても 花は散らない』

 美しく咲いた花は、たとえ雨にうたれ風に吹かれて花びらは散ったとしても、その花の美しさはいつまでも私たちの心の中に色鮮やかに残っているものです。

また、その花は四季の移り変わりを経て、翌年には再び美しい花を咲かせて、人々の心をなごませてくれます。

 同じく、人はその生命が尽きれば形の上では滅びて行きます。

けれども、縁のあった人々の心の中には、たくさんの思い出と共に生きておられるものです。

大切な人や懐かしい人は、眼を閉じるとその面影が浮かんできますし、まるでその声さえも聞こえてくるかのような気がすることさえあります。

ときに、経典の中に「今現在説法」という言葉があります。

阿弥陀仏は時代と空間を超えて常に「いま」教えを説いておられるという意味です。

親鸞聖人は既に鎌倉時代(1262年)に亡くなっておられますので、当然のことながら私たちは直接お会いしてみ教えを聞くことは出来ません。

 けれども、さまざまな機会を通してそのみ教えに耳を傾けていると、まるでそこに親鸞聖人がいて語りかけて下さるような感動を覚えることがあります。

それは、念仏の教えがいつの世の人々の上にも等しく光を放つ「今現在説法」の教えだからだといえます。

今日の世相

もし、いまあなたが「ただ一つだけ願いを適えてやろう」といわれたら、何を願いますか? 例外なく人は自らの人生を幸福に導くための糧となるものを口にすることと思われます。幸福の条件は種々考えられますが、健康と若さ、明るく豊かで楽しい生活、平和で平等で自由な社会、快適で便利で清潔な生活、その上で和やかに語り愛する人々に囲まれる人生が与えられたら、それこそ言うことはありません。

ではそこに念仏の教えの入る余地があるでしょうか? おそらく、そこに念仏の教えを必要とする人などいないと思われます。何故なら、南無阿弥陀仏を称えたからといって、このような幸福は何一つ適えられることはないからです。そこで、現代の人々の多くは、私の迷いを破るための仏さまの願いのはたらきである南無阿弥陀仏を無視してしまいます。言い換えると、南無阿弥陀仏の喚び声に耳を傾けることなく、それぞれが必死になって幸福の条件を満たすことができるよう、努力を重ね働くのです。

現代人は仏や神の力を借りるのではなくて、人間自らの英知と努力によって、このような幸福は実現できると思っています。実際、人類の歴史を振り返ってみますと、近世から現代にかけて、仏の教えや神の言葉に反逆することによって、まさしく人間にとっての幸福の条件を一つ一つ充たしてきたといえます。健康や若さが保たれるようになり、便利で清潔で快適な暮らしが実現しています。周囲は明るく、豊かで楽しい品々に満ちています。そして、英知を集めて、平和と平等と自由な社会を築くための努力が重ねられています。

ところで、人類全体の流れをそのように規定することが出来たとして、これを環境や個々の生き方に当てはめてみるとどうでしょうか。なるほど、人間の生活面に目を向けると、便利で清潔で快適な暮らしが実現しています。けれども、これを地球全体の規模で眺めると、地球の全体は決して清潔さを保ってはいません。人間が快適で便利な生活を実現させるために、地球の至る所で無残な破壊活動が行われ、廃棄物によって地球の全体が汚染され、他の動植物の全体が大きな危機に瀕していたりします。

次に、人間一人一人の生き方はどうでしょうか。それほど幸福に満ち満ちているとは言えないようです。世の中があまりにも合理化され、機械化が進行したために、人間性が喪失したと叫ばれてから既に久しい時が流れています。このような中で、私たちは情報化によって数多くの知識を持ちながら、あまりにも激しい社会の変化にかえって未来が見通せなくなり、自分自身の人生に漠然とした不安を感じています。例えば、不慮の出来事はどうでしょうか。人生における不条理は、過去も現在もまったく変わりなく起こっています。また最悪の不幸である自分の臨終の姿はどうでしょうか。医学の先端をゆく治療器具に覆われてはいるのですが、その自分はまさしく孤独と苦痛の極限に置かれているといわねばなりません。

この老いと病と死は、どのような人間にも必ず等しくおとずれるのですが、それは何時、どんな形で私におとずれるのか、今日でもやはり誰にもわかりません。そうであれば、たとえ表面上、幸福そうに暮らしていたとしても、お互い心には言い知れぬ不安を宿しているといえます。しかもこの不安は、科学的・合理的な判断のみでは絶対に拭いさることが出来ません。そこで、この不安がはっきりと自らの内に意識された時に、人は神仏にすがりつこうとします。

いわゆる「苦しい時の神頼み」がそれですが、「科学の時代」といわれる一方で、迷信・俗信が横行し、日の吉凶・占いが栄える今日の歪んだ世相がここにあります。けれども、どれほど迷信・俗信にすがりつこうと、究極的に死への不安が消え去ることなどありません。だからこそ、この私を無条件にして救う真実の教えが燦然と光を放つことになるのですが…、先ずは仏さまの教えを繰り返し聞くことを通して、自分自身のあり方を正しく見つめることから始めたいものです。

『花びらは散っても 花は散らない』

 道ばたや野原に咲いている花、花壇に咲いている花、どの花も綺麗に咲いています。

しかし、道ばたや野原の花は、綺麗に咲いて人々の目を楽しませた後は、まるで役割を終えたかのようにその後には散ってしまいます。

また花壇の花も、毎日水をまいて世話をしても、やがて花びらは散り、花そのものも枯れてしまいます。

 ところが、それですべてが消え去ってしまうかというと、野原や道ばたの花は翌年にはまた時期がくれば咲きますし、花壇の花も残った種を植えて育てると美しい花を咲かせます。

タンポポのように、花を咲かせた後は、吹く風に種を飛ばして、翌年には別の場所にも綺麗な花を咲かせるものもあります。

桜も春になると花開き・散るということを毎年繰り返します。

私たちもいい時があれば悪い時もあります。

しかし、どのような場合でも、これで終わりということはありません。

良い時、悪い時、どちらを過ごしても、何かを見つけ出して次に繋げていきたいものです。

その時は気付かなくても、あとになってから気付かされて思いなおすことがあります。

私たちの人生は、花のように咲いては散り、散っては咲くことの繰り返しです。

その繰り返しの中から、新しい何かを見つけたり学んだりしながらまえに進んでいきたいものです。

『深い闇を抱えながら 光を仰いで生きる』

 今、自分のいる部屋が真っ暗になったとすると、そこで私達に出来ることといえば、おそらく手さぐりで部屋を出ていくことだけではないでしょうか。

そのように、光のない時の私たちの生き方は、あちらこちらを手さぐりしながら生きる他に、方法は見当たりません。

 この手さぐりの生活とは、具体的は自分の判断や自分の体験だけを頼りにして生きていくという在り方です。

けれども、自分の判断や体験を唯一の頼りとして生きていくと、私たちは物の見方が一面的になってしまい、物事の本質を見抜けなくなってしまいます。

 また、手さぐりの生活においては、どこまでも自分の体験だけが根拠となるために、何か自分自身を依り処にして生きているような気になります。

しかしながら、手さぐりの生活を続けていく限り、そのような自分自身の姿に目覚めるということは決してありません。

 仏さまの智慧は光で表されますが、それは手さぐりの自分の姿に目覚めさせて下さるからです。

たとえそれが自分にとって不都合なことであっても、それが事実である限り、我が身のこととして受け止め、生きてやく勇気と情熱となってはたらく、そのような「智慧の光」を仰いで行ける人生でありたいものです。

なぜ念仏か

阿弥陀仏は「南無阿弥陀仏」の名号を通して、一切の衆生を摂取(救おう)しようとしておられます。それはなぜでしょうか。諸仏にとっては、迷える衆生を救う慈悲の実践が唯一の仏道です。そのためには、一切の衆生を救いたいという仏の願いが、仏の功徳とともに、その衆生の心に届かなくてはなりません。ところで、願いや心は、本来的には相(すがた)はありえません。

しかし私たちが住むこの人間世界は、いまは無仏であって、私たちが直ちに接することの出来る仏陀は、どこにもいらっしゃらないのです。だとすれば、無限の仏が、この苦悩し迷える私を仏果に導こうと願われているとしても、この私が仏の大悲心に触れないかぎり、私自身仏に救われることは不可能だといわなくてはなりません。もちろん愚かなる私は「すがた」のましまさない仏陀の願いや、大悲心を見ることはできません。

宗祖のお手紙に「自然法爾章(じねんほうにしょう)」と呼ばれている一文があります。その中で宗祖は「自然」という言葉を「おのずからしからしめる」と釈されて、法の道理として、如来が迷える衆生をおのずから無上の仏果に至らしめようとはからわれているのであって、凡夫の計らいによって凡愚が仏になるのではない。如来の法の徳のはたらきによって、凡夫はおのずから仏果に至らしめられるのである。それを「自然法爾」というのだと示しておられます。

そして凡夫が「無上仏」に成ることについて、無上仏とは、かたちのましまさない真如そのものの意味ですが、そのためには真如がまず動いて、凡夫の前にすがたを現し、真如の功徳の全体を凡夫に与えなくてはならない。その真如の法の功徳の全体を出現せしめた「すがた」が「南無阿弥陀仏」だと説いておられます。

無上仏である真如が、一切の凡夫を無上仏に至らしめるために阿弥陀仏に成られ、凡夫の心に響く言葉が名号として凡夫に来る。それは凡夫を南無阿弥陀仏と一体になさしめて、凡夫を真如に至らしめようとする如来のはからいであって、それが自然法爾と呼ばれる法の道理だと明らかにされるのです。このような道理を踏まえて宗祖は、南無阿弥陀仏の六字を次のように解釈されます。

『阿弥陀仏は一切の衆生を救おうという本願を成就され、無限の智慧と慈悲の功徳の一切を衆生に廻向しようと発願されました。その発願こそ阿弥陀仏自身が名号という言葉となって衆生の心に来り、衆生を歓喜せしめ信ぜしめて、浄土に往生せしめる業力なのです。そうすると発願のすがたが「南無」ということになります。この意味からして南無阿弥陀仏とは、本来的には阿弥陀仏が衆生に向かって南無する心です。』

と宗祖は私たちに教えて下さいます。こうして、私たちが称えている一声一声の称名念仏、その「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀仏ご自身がこの私を摂取(救う)ために、私に向かって躍動している、仏の本願力そのものになります。私が称える一声の念仏は、私を仏果に至らしめようとする、阿弥陀仏の躍動のすがたなのです。そうだとすれば、現に迷える私の悟りへの道は、この名号に導かれるのみということになります。

ときに宗祖は

「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのことみなもてそらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」

という言葉を残しておられます。私たちの人間の姿を「煩悩具足の凡夫」と捉え、この人間の住む世界は、我が家が不慮の災難に出会うように、まさに無常そのものであって、この世の一切の出来事は、そらごとたわごとで、真なるものは何一つ存在しないと示しておられのです。この言葉をいま一度かみしめて、味わってみたいと思います。今日の私たちは、自らの正しさの上に人間社会を築いていると自負しています。人間の英知を表に出して、個人も社会も国家も、自らの正しさを主張することを何よりも先としています。それは、人生における確かさや正しさのみが尊ばれているあり方だといえます。

けれども、それは当然のことであって、人間社会に不正や悪事が横行することは、絶対にあってはなりません。したがて、故意に行う不正や悪事は、常に厳しく罰せられるべきです。ところで、いまここで着目したいのは正しさを主張しているその心であり、正義のもとに行われるその行為性についてなのです。人々の英知を集めてなされているその行為が、果たしてそれほど正しく確かで善きことであるのかを問うてみたいのです。

宗祖の教えにしたがえば、人間の行為性、それはたとえ理性のもとで英知を集め、いかに正義と善意でもってなされたとしても、その行為はそらごとたわごとでしかなく、雑毒の善・虚仮の行としか呼び得ないとされます。人間の歴史を振り返ればこのことは容易に知ることができます。まさしく人々は、不確かなことしかしていないのですから。その人間性の本質を、宗祖はごまかすことなく私たちに教えておられるのです。それはつまるところ、人間とは究極的に煩悩具足の凡夫でしかないということです。そうすると、私たちはこの一点を常に慙愧の眼で見つめることが必要になります。自らの正しさを不動のものと確信している自分に恥じらいの心を持つことが求められるのです。

凡夫であれば確固不動の清浄真実の心は作り得ないというべきです。たとえ一時的に無の心を作り得ても、命を脅かす不慮の出来事が起これば、その静寂さは一瞬に消え去り心は動転します。私たちは究極的に死への不安は消えません。もちろん、たとえ迷信にすがりついても、何の効果も現れません。だからこそ、この私を無条件で救う仏がましますのです。真如の動くすがた、南無阿弥陀仏がそれですが、だからこそまさに「念仏」なのです。

『深い闇を抱えながら 光を仰いで生きる』

 太陽の光は誰の上にも平等に降り注ぎます。

どんなに厚い雲の層であっても、私たちの身の回りが暗闇になることはありません。

電気の明かりもローソクの灯りでも、全てのものはまず光によって照らし出されることで、初めて私たちの眼で見ることが出来ます。

 一方では、船乗りさん達は、月明かりや灯台の灯りを頼りとし、目当てとします。

暗闇の大海原の中では、灯りこそがただ一つの進むべき道となるのです。

私たちの生活においても、人生の「道しるべ」となるべき光を仰ぐということは大切なことだといえます。

 カーテンの隙間から差し込む一筋の光の帯の中に、無数のチリやホコリがくっきりと照らし出される光景をご覧になったことがあると思います。

普段は、チリ・ホコリにはなかなか気付き得ないものですが、一筋の光によってその存在を知らされるのです。

 今もちょうど、太陽の光が世の中を照らしだすように、仏さまの光は私の心を明るくなるように照らしていて下さいます。

けれども、私たちは闇を闇とはなかなか気付くことが出来ません。

まず闇を知るところに、光を仰ぐ生き方の第一歩があるように思われます。