投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

『縁次第で 何が飛び出すか 解らない私』

 以前は「あの人は切れる人だ」という言葉は、一目置かれるような優秀な人のことを言い表す言葉でした。

けれども、いま誰かについてのそのような評価を聞くと「えっ!危ないヤツ」と感じ、なるべくならそのような人とは関わりを持ちたくないと思うものです。

同じ「切れる」でもその意味合いが全く異なっていることは言うまでもありませんが、現在しばしば用いられている「切れる」の意味は「怒りの感情を抑えきれずに、堪忍袋の緒が切れること」を簡略化して「切れる」と言い表されているように思われます。

ところで「堪忍袋の緒が切れる」という場合は、耐えに耐えて、とうとう我慢しきれなくなったことを意味しているのですが、単に「切れる」という場合は深い考えもなくその場の怒りの感情のままに自分自身を見失うさまを言い表していることが多いようです。

「こんなことになるとは思わなかった!」そんなつもりではなかったのに…」自分のしたことに気付いて発せられる言葉です。

私たちは、条件さえ揃えば何をしてしまうかわからない危うさを秘めています。

だからこそ、仏さまの教えをよりどころとして、自分自身を見失わない確かさを持ちたいものです。

正信偈意訳

寿命が無量であり、光明が無限である阿弥陀仏に、私は帰命したてまつります。

阿弥陀仏が未だ法蔵菩薩の因位であられた時、世自在王仏のみもとにましまされ、一切の諸仏の浄土の因と、その国土の人・天の善悪のすべてをみそなわし、一切の諸仏の願に超える、無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発されました。五劫のあいだこの願について思惟し、ついに完全なものに摂受したのです。

この願の根本は、仏の功徳の一切をその名号「南無阿弥陀仏」に成就して十方の世界に響流せしめ、一切の衆生を救うことにあるのですが、願を建立した後、さらにこの点を偈でもって必ずや名号を十方に響流せしめ、一切衆生に聞かしめんと重ねて誓われたのです。

本願を成就された後、あまねく十。方の世界に無量・無辺・無碍・無対・光炎王・清浄・歓喜・智慧・不断・難思・無称・超日月の十二の光明を放って、そのすみずみまで照らしたもうたのです。この故に生きとし生けるもので、この光明を蒙らないものはありません。

まさに本願の名号のはたらきは、一切衆生の往生を正しく定める正定の業です。至心信楽の願に誓われている信楽を、衆生涅槃の真因とします。往生し等覚となって、大涅槃を証することができるのは、必至滅度の願が成就されているからです。

如来がこの世にお生まれになる理由はただ一つ、阿弥陀仏の本願の教えを説かんがためなのです。世が乱れ悪事が満ち満ちている時代の人々よ、だからこそ如来の説かれる、南無阿弥陀仏の如実の法を信ずべきなのです。

もし衆生があって、如来の言葉を信じ、念仏を喜ぶ一念喜愛の心を発すれば、その瞬間、煩悩を断ずることなく涅槃が得られます。凡夫も聖人も逆謗さえも、ただ弥陀の本願海に斉しく迴入すれば、すべての水が海に入りて一味となるがごとく、仏果に至りうるのです。

獲信の念仏者には、摂取の心光が常に照護したもうています。この者の心は、すでによく無明の闇が破せられているのです。だが悲しいことに、そうであるにもかかわらず貪愛瞋憎の雲霧が、常にこの真実信心の天に、覆いかぶさっています。ただしこの者の心は、たとえば日光が雲霧に覆われることはあっても、雲霧の下は明らかであって闇がないのに似ています。

信を獲て弥陀の法が明らかになり、念仏を敬い大いに慶ぶ人は、そのとき即時に迷いの世界である五悪趣を横ざまに超えて断ち截るのです。

一切善悪の凡夫人よ、阿弥陀仏の弘誓の本願を聞信すれば世尊はその人をして広大勝解の者とほめられこの人を分陀利華と名づけられます。

阿弥陀仏の本願念仏の教えは私たち邪見で驕慢な悪衆生には、信楽を受持することはまことにもって困難なことであり、その難しさは難の中の難でありこの難に過ぎるものはないのです。

そこで印度や西天の論家、中国や日本の高僧たちが次々と世にあらわれて、釈尊が説かれた出世本懐の教えのその正意を顕して、阿弥陀仏の本願弘誓の教法がそれぞれの時代・社会の人々に応じることを明らかにされたのです。

釈迦如来が楞迦山にましまされて、大衆のために告げられました。私の法はやがて乱れることになるだろう。けれどもその頃、南天竺に龍樹と呼ばれる菩薩が世に出て、誤って理解された仏法の有無の見をことごとく打ち破られることでしょう。そして阿弥陀仏の大乗無上の法を宣説し、みずから歓喜地を証して、安楽国土に生ぜられることになるでしょう。

この釈尊の予言のごとく龍樹菩薩は難行の陸路の苦しきことと、易行の水道の楽しきことを顕示して、易行の弥陀法を私たちに信楽せしめられたのです。阿弥陀仏の本願を憶念すれば、自然に即のときに必ず正定聚の位に入ることができる。だからこそ衆生は、ただよく阿弥陀仏の名号を称して、大悲弘誓の恩に報ずべきであると教えられたのです。

天親菩薩は浄土論を造って説かれました。私は無碍光如来に帰命したてまつり、無量寿経の教えによりて、弥陀法の真実を顕して、横超の大誓願をひろめ明らかにいたします。すべての衆生は阿弥陀仏の本願力廻向によりてのみ仏果に至りうるのです。そこで自らも群生を度せんがために、一心を彰わし願生したのです。弥陀の功徳の大宝海に帰入すれば、必ず浄土の菩薩の数に入ることを獲ます。浄土の世界に至ることを得れば、すなわち真如法性の身を証することができるのです。証を得れば、再び煩悩の林に遊びて種々の神通力を現し、衆生の迷う生死の園に入ってその者に応じて教化を示されると教えられたのです。

曇鸞大師には、梁の天子が常に曇鸞に向かって菩薩と礼したてまつりました。迷える曇鸞に三蔵流支が浄土の教えを授けたところ、ただちに持っていた仙経を焼き捨てて、浄土の教えに帰依されました。天親菩薩の浄土論を註解して、報土の因果が誓願にあることを顕されました。往相・還相の廻向は、阿弥陀仏の本願力・他力によるのだということと、浄土往生が正しく定まる因はただ信心にあるということを示されたのです。たとえどのような惑染の凡夫であったとしても、ひとたび信心を発すれば、生死がそのまま涅槃であるという仏教の原理が、自ら証知せしめられることになるのです。そして必ず無量光明土に至れば、諸々の迷える衆生を皆あまねく教化する還相の菩薩になるのだと教えられたのです。

道綽禅師は、聖道門の仏道は末法の世では証果に至り難いことを決定付けて、ただ浄土の一門のみが仏果に通入すべきである道であることを明らかにされました。諸善万行の自力の修行は、いかに勤修するとも仏果には至れないとこれを貶め、浄土往生のためには弥陀の功徳円満の名号を専ら称えることを勧められました。疑うことと信じることのその根本をねんごろに教えて、阿弥陀仏の大悲のみが像末法滅、いつの時代であっても信じる衆生を誰でも同じく摂取されると説いたのです。だからこそ、どのように一生悪を造っている衆生であっても、ただ弥陀の弘誓いに値えば安養界に至りて、妙果を証することになると教えられました。

善導大師は、仏教が最も盛んであった唐の時代において、ただ独り仏の根源的な真の願いとは何かを明らかにされました。仏道を一心に行じている定善・散善の行者と、悪道に陥っている逆悪の者とをともに哀れんで、光明と名号の因縁を顕されたのです。衆生はただ弥陀本願の大いなる智慧の海に帰入すれば、阿弥陀仏はこの行者に正しくもはや絶対に破れない真実金剛の信心を受けしめます。念仏者がこの弥陀の本願に相応し、獲信の慶喜の一念を生じた後は、あたかも韋提希が救われたその歓喜と同じ心を獲るのです。すなわち法性の常楽が証せられることになると教えられています。

源信和尚は、釈尊が一生涯かけて説かれた仏教を広く学ばれたのですが、その中からことに浄土の教えを選び、ひとえに阿弥陀仏に帰依して浄土の教えを一切の人々に勧められたのです。専ら一心に念仏を修する心と、念仏に余行を雑えて修する心との深と浅を判別して、報土に往生するものと化土にしか生まれられないものとを正しく弁えられたのです。極重の悪人はただ弥陀の名号を称すべきです。このように念仏に生かされている私は、まさしく阿弥陀仏の摂取の中にあるのですが、悲しいことに私の心の煩悩が眼を障えぎって、阿弥陀仏を見たてまつることができません。けれども弥陀の大悲は倦きことなく、常にこの私を照らしつづけていて下さると教えておられます。

本師源空は仏教の真意に明らかであったために、真実、善悪の凡夫人を憐愍されたのです。そして源空上人(法然上人)は真宗の教・証をこの国に興され、阿弥陀仏の選択本願の教えをこの悪世に弘められたのです。生死を繰り返す、流転の迷いの家に還ることはまことに簡単で、ただ阿弥陀仏の本願を疑えばそれですむのです。速やかに、寂静無為の悟りの世界に入るということは、必ず真実の信心を得ることが必要なのですと教えられました。

このようにして、浄土の教えを弘めた菩薩や高僧たちが、具体的に数限りない極重の悪人を救済しされたのです。だからこそ、いまの世の衆生よ、僧侶も俗人もともに同心に、ただこの高僧たちの教説を信ずべきなのです。

(以上、依釈段)

『縁次第で 何が飛び出すか 解らない私』

 事件で犯人が捕まった時、近所の人が「あの人はいい人で、そんな悪いことをするような人には見えなかった」という言葉をよく聞きます。

みんな普段は「いい人」と言われる人でも縁によって何が飛び出すかはわかりません。

また、それは決して他人事ではありません。

仏教では、実際に行う行動だけではなく、口から出る言葉、そして心で思うことも「業」として捉えます。

ですから、実際には人を殺していなくても、心の中で「あんな人はこの世の中にいなければいいのに」と思うことも、ある意味その人を殺していることになると言えます。

ある教会が火事になった時、礼拝者がその犠牲となり、助かった牧師さんが「本当は礼拝者を先に助けてから逃げるべきだったが、その時私は自分だけ真っ先に逃げ出してしまった。

そういう行動に出た自らの姿を嘆き悲しんだ」という趣旨の本を読んだことがあります。

自分は道徳的な人間で悪いことをしないと思っている人も、縁に触れれば何をするかわかりません。

今はただその悪事をはたらくような縁に触れていないだけにすぎないのです。

そういう人間の根底にある危うさを明らかに照らし、見つめさせ、省みさせるところに仏教の意義があります。

『本物を知ると ニセ物がわかる』

私たちの日常生活においては本物かそうでなければ偽物という、真と偽しかありません。

ところが、仏教においては「仮」ということが言われています。

仮とは偽ではないものの真ではなく、真に気付かせるための手段として用いられる具体的あり方のことです。

一般には、ものごとを真と偽だけで判断してしまうために、私達は教えを聞くと無意識の内に自分を絶対化して、真の立場にあると錯覚してしまいがちです。

けれども、念仏の教えが真実であるからといって、直ちに念仏を称える私もまた真実だとは言い得ません。

これと同様の真仮の混乱は社会問題においても見られます。

例えば、人を生まれで差別するのは明らかに間違いです。

したがって、部落差別や男女差別の問題を是正しようと取りくむことは正しい行為だといえます。

ただし、ここで留意しなければならないことは、だからといってその問題に取りくんでいる人が常に正しいとは限らないということです。

差別は間違いだと知っていても、そのことに関心を寄せることで初めて自分の中の差別心に気付くことが出来たりします。

このように、私たちは本物(真実)を求めることで、初めて自分自身が偽物(仮・偽)でしかないことに気付かされるのではないでしょうか?

真宗の先祖供養

しばしば仏教あるいは寺院に対する批判として「葬儀や法事(先祖供養)しかしない」といったことが言われます。けれども、「葬儀をしない」といえば批判よりも非難をされるのではなかろうかと思われますし、また法事にしても先祖供養はとても大切なことだと思います。ただし、それが「本当の」先祖供養であればという条件付きですが…。

そこで、以下どうすることが本当の先祖供養なのかを考えてみたいと思います。

先ず供養というのは、仏教においては基本的には讃嘆供養です。「讃嘆」を抜きにした供養ということは決してあり得ないのです。繰り返しますと、仏教で供養というときは、常に讃嘆供養なのです。では、その讃嘆とは何かといいますと、それこそ宇宙共同体というような言葉もありますが、祖先ということに限っていいましても『歎異抄』の第五条の「一切の有情は、世々生々の父母兄弟なり」という、そういう感覚において自分のいのちが受け止められるとき、その自分のいのちというものに限りない歴史を、あるいはそういういのちの歴史をこの身に賜っているということを本当に知るということだといえます。

そのことを抜きにしてしまいますと、供養ということはただの相互間の供与ということにしかすぎなくなります。つまり、これだけ供養したから、これだけ御利益を下さいということでしかなくなってしまうのです。ところが、今日の先祖供養という場合、つねに私たちの目は一方的に先祖の方しか見ていないようです。けれども、大事なことは、先祖の目を通して自分を、いわゆる自分の人生を受け止め直させられるということです。そこに互換性が確保されるのです。

いまは、先祖に向かって「これだけ差し上げますから、これだけ御利益を下さい」という形でしか先祖供養がなされていない場合がほとんどのようです。そうではなくて、先祖供養の場というのは、そういう先祖、あるいはいのちの歴史の前に身を据えるということであり、そのようないのちの歴史を賜ったものとして、いまの自分の人生を喜び、いまの自分の人生をほんとうに大事に受け止めていける、そのことを抜きにして供養ということはないのです。

このような意味で、本当の供養ということは、私の人生をいただき直すということであるべきなのです。報徳の前には必ず知恩があります。ところが、今日の供養の在り方には、知恩という営みが全く欠落してしまっているかの感を否めません。そしてそのときには、供養というものも、ただこれで気持ちが安らぎましたというようなことで終わってしまうのです。したがって、先祖供養ということでいえば、どこまで私たち一人一人が自分の存在に知恩ということを自覚していけるかということが課題になると思われます。

ただし、ここで確認しておきたいのは、親鸞聖人の書かれたものの中には先祖という言葉はないということです。もちろん、先祖という言葉がありませんので、ましてや先祖供養という言葉もありません。では、親鸞聖人においては、先祖ということはまったく問題にならなかったのかというと、どうもそうでもないようです。決して亡くなったものは関係ないということではないようです。

実は、親鸞聖人においては諸仏という言葉が先祖を語っておられる言葉のように思われます。先祖のことを諸仏という言葉で語っておられるのはどのようような意味においてなのでしょうか。言い換えると、亡き人が諸仏となる、私に先立った人が諸仏となるということはいったいどういうことなのでしょうか。

浄土真宗におきましては、亡くなった人の魂がうろうろとどこか次の世に生まれるまでさ迷っていて、そういう魂がどこか良いところへ生まれることが出来るようにと願って供養することは一切ありません。浄土真宗においては、亡くなられた人は仏であると教えています。では、その仏になっているということはどういうことなのでしょうか。

今日、一般に行われます仏事というものをみますと、仏事が受け入れられている感情として、一つには気晴らしということがあるのではないでしょうか。よくご法事を勤め終わったあとに「これで気持ちが晴れました」と言われる方があります。「今回のご法事はカラオケなどと同様に、気晴らしの一つとして営まれたのですか?」と茶化してみたい気持ちが起きないでもありませんが、その根底にあるのは「安らかに眠って下さい」という言葉と重なる感情のようです。つまり、亡くなった人が迷うことなく安らかに眠って下さることで、自分の気持ちも晴れるということなのです。

しかも、その上に私たちの生活をどうか守って下さいということが付いてくるのです。その意味では、気晴らしの宗教、安眠の宗教の上に、おねだり宗教というものが乗っかる形でいまの先祖供養は成り立っているようなのです。

けれども、親鸞聖人における諸仏とは、私をして本願に出会わしめた人々のことです。私をして、真実の教えに出会わせてくださった縁ある人々が諸仏なのです。それ故に、亡くなった人が仏であるということは、私の生き方を離れて仏であるということではないのです。単に浄土真宗では、亡くなったらその人は仏になることになっているということではありません。ましてや、他宗で亡くなったら亡者であって、浄土真宗で亡くなったら仏であるというようなことでもありません。

そうではなくて、亡くなった人が私にとって諸仏だということは、亡くなった人から私の生の全体が問い詰められて、そのことが私をして本願に出会わしめる縁となる、そういう縁となったときに亡くなった人が諸仏となるのです。

ですから親鸞聖人においては、自らが本願に帰したという一点において一切の人々を諸仏と仰いでいかれたのです。特に先祖ということも、単なる自分の肉親という意味ではなくて、その人々が私をして本願に出会わしめた縁、そういう縁として仰がれているのです。

だからこそ、浄土真宗においては追善供養ではなくて、どこまでも知恩報徳であり、報恩の仏事なのです。私をして本願に目覚ましめた、その諸仏としての恩を知り、その恩に報いる。そのように浄土真宗の仏事を貫く精神は、知恩報徳ということなのです。

浄土真宗の仏事が追善供養ではないということは『歎異抄』の第五条に端的に示されています。

親鸞は父母孝養(ぶもきょうよう)のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。

この孝養というのは、追善供養です。コウヨウではなくキョウヨウと読むときは追善供養なのです。ですから父母の追善供養のためには、一返も念仏したことはないと言われるのです。念仏は報恩の念仏だというのが親鸞聖人においては一貫した姿勢だからです。

時として「亡くなった人はどうなっているのか」と問われることがありますが、私を離して「亡くなった人は」と言っても意味がありません。私というものを、私の生きるということ離れて、魂があるのかないのか、死後の世界があるのかないのかと考えても意味がないのです。そのような問いに対して釈尊は、「それは戯れの論議だ」として、一切お答えにはならなかったと伝えられています。

私というものを離れて、亡くなった人がどうなっているか。第三者的に亡くなった人がどうなっているかをいくら詮索してみてもそれは戯れの論議にすぎないのです。戯れの論議ということは、端的にいえば、私がこの人生を生きるということとはなんのかかわりもない論議だということです。

ですから問題はなのは、私にとって亡くなった人がどうなっているのかということです。私にとって、亡くなった人がどういう意味を持っているのかを考えてみて、私にとって亡くなった人が愚痴の種でしかなければ、やはりこれは仏というわけにはいかないと思います。亡くなった人を縁として、私が念仏申す身になるというときに、亡くなった人が諸仏になるからです。

まさに、私にとって亡くなった方がどうなっているか、私において亡くなった人がどう生きているのか、それこそが浄土真宗の問いであり、仏教の問いであると思います。

私がどう生きるのかということを抜きにしては、一切が戯れの論議でしかないのです。親鸞聖人が先祖という言葉を一切用いられないで、諸仏としておられることがそのことを物語っているわけです。

これらのことを踏まえた上で、現代における本当の意味の先祖供養とは何か、ということを改めて考えていくことが大切だといえます。

『本物を知ると ニセ物がわかる』

テレビで自分のお宝を専門家が鑑定してくれる番組を見ていると、思いがけなく高値がついたり、依頼人が本物だと思って大切にしていたものが、全くの偽物だったり…ということがよくあります。

意外な鑑定結果は、見ていてなかなか面白いものです。

私たちの身の回り にもそういうことは往々にしてよくあるのではないでしょうか。

その道の専門家は「本物に出会った時に初めて今まで本物と思っていたものが偽物だとわかる。

数多くの本物に出会うことが、眼を養うことになる」と言っています。

現代人は「宗教」というと何かと敬遠しがちです。

それは、宗教を利用した犯罪や人心を惑わして、家族不和や社会生活を崩壊させるような宗教が、立て続けに問題になったこともその一因でしょう。

親鸞聖人はそのような教えを「偽の宗教」と示しておられます。

真の宗教に出会うということは、今まで「宗教」だと思っていたものがそうでないとわかるということです。

「一切の衆生を救いたい」と誓いを建てられた阿弥陀さまのはたらきに包まれた「私」に出会える教え、真の宗教との出会いはまさに「お宝」なのではないでしょうか。