投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

『人生は「あっ」という間だから』 

よく知られているように、セミは夏に成虫となってからわずか二週間足らずの間に死んでしまいます。

夏に生まれて夏に死んで行くのですから夏の専門家みたいですが、実は夏しか知らないセミにはおそらく今が夏だということはわからないのではないでしようか?

なぜなら、春夏秋冬、一年の四季を全て知っているものだけが、今は夏だとか秋だとかを知り分けることができると思われからです。

そうすると、夏しか知らないセミにとっては、夏だけがその生涯の全てなのですから、夏を夏と知ることは不可能だといえます。

これと同じように、生まれ死にを繰り返す「流転」といわれるような迷いのいのちのただ中にあるものは自分が迷っていることに気付くことさえ簡単ではありません。

まず、迷いとは何かを知らなければ迷っていることにさえも気付き得ないからです。

あなたはいま何歳ですか? 子どもの頃その年齢はずい分と「大人」に見えたのではありませんか? 気がつけば年齢だけが重なり「あっ」という間にここまで来たというのが実感かと思われます。

そのような人生をこのまま繰り返して終えられますか?それとも…?

よく「人生はひと時ひと時の積み重ね」といわれますが、慌ただしい毎日を生きる私達は

よく「人生はひと時ひと時の積み重ね」といわれますが、慌ただしい毎日を生きる私達は、様々な物事に追われるうちに、いつしか大切なことを見失い、気がつけば「今日という一日を何となく過ごしてしまっているのでは?」という気持ちになることがあります。

 日々の生活を振り返ると、予定を立てる場合、一カ月やニカ月どころか一年先のことまで計画を立てることがあります。

そのようなことが日常化していくと、いつの間にか「明日」という日が来るのは「当然のこと」という錯覚に陥ってしまうような感じがします。

 本願寺第八世門主・蓮如上人は、お手紙の中で「私たちの人生は稲妻のようにあっという間に過ぎ去り、いつどのような形で終わるかわからない」と述べられます。

それは「一度きりの尊い道を歩いていることに目覚めなさい」とのお諭しだと思われます。

 あなたは「昨日を生きた」「今日を生きた」という実感を持って生きていますか?

また「死んでも死に切れない」という言葉を耳にすることがありますが、必ず終わる命なのですから、むしろ「死に切れるような今」を生きることが大切なのではないでしょうか?

 いつ終わるかわからない人生だからこそ「明日」ではなく「今日」という一日を大切に生きることが大事なのだと思います。

そして、そのような生き方に目覚める時、それまでのありふれた一日が、かけがえのない一日として輝き始めるのではないでしょうか?

『人生は「あっ」という間だから』

よく知られているように、セミは夏に成虫となってからわずか二週間足らずの間に死んでしまいます。

夏に生まれて夏に死んでいくのですから、夏の専門家のようですが、実は夏しか知らないセミにはおそらく今が夏だということは分からないのではないでしょうか?

何故なら、春夏秋冬、一年の四季全てを知っているものだけが、今は夏だとか秋だとかを知り分けることが出来ると思われるからです。

そうすると、夏しか知らないセミにとっては、夏だけがその生涯の全てなのですから、夏を夏と知ることは不可能だといえます。

これと同じように、生まれ死にを繰り返す「流転」といわれるような迷いのいのちのただ中にあるものは、自分が送っていることに気付くことさえ簡単ではありません。

まず、迷いとは何かということを知らなければ、迷っていることにさえも気付き得ないからです。

ところで、あなたはいま何歳ですか? 子どもの頃、その年齢の人はずいぶんと「大人」に見えたのではありませんか? 気が付けば年齢だけが重なり「あっ」という間なここまで来たというのが実感かと思われます。

そのような人生をこのまま繰り返して終えますか? それとも…?

『仏さまの心とは3』

 「仏さまの心とは大慈悲心である」といわれます。

ではその大慈悲心とは、どのような心なのでしょうか。

小悲とは我が子のみですが、その愛の心が自分に縁があるものに対してだけではなく、自分にとって全く無関係な人々に対しても広く与えられる心だといえます。

 また、その人の悩みがまるで自分の悩みであるかのように寄り添われ、その人の楽しみを自らの楽しみとし、その人を守り育て、共に喜び、その人を正しい方向に導かれる。

それが仏さまの大慈悲心だといえます。

 『観無量寿経』に「仏心とは大慈悲心である。

無縁の慈悲をもって一切の衆生を摂取するからである」と述べられて、「阿弥陀仏の無限の光明は、遍く十方の世界をお照らしになり、念仏の衆生を摂め取って、決してお見捨てにならない」と説かれています。

 「無縁の慈悲」とは、どのような人であっても、その人がもし苦しみ悩み、ただひたすら仏さまに救いを求めれば、仏さまはその人を全く差別しないで、ただちにお救いになる心です。

では、阿弥陀仏が念仏の衆生を摂め取るとは、どのような意味でしょうか。

 ここで私たちは、仏の慈悲の実践とは何かをはっきりと理解しておく必要があろうかと思います。

大慈悲心とは苦悩するその人を救われるはたらきですが、その「救い」とは苦悩する人を正しく仏果(さとり)に導く働きを意味します。

(以下、続く)

『自我(エゴ)が生む 迷いと苦しみの悪循環』

死後のことについては、昔から有と無の見方かなされてきました。

有は死後に霊魂が残り、無は死後に何も残らないとする考え方です。

仏教は有無の立場をとらず、お釈迦さまはお弟子の質問に対して「自らが言い・思い・行った三つの行為に因るのだ」と説かれました。

私の成した行為が、私の未来を作る「自業自得」という言葉がそれです。

結果から見ると、物事には必ず原因があります。

また、原因から結果に至る間には様々な条件が加わります。

この条件のことを「縁」といいます。

因縁・因果・縁起とはこれらのことを述べた言葉です。

よく知られている「地獄」とは、私が現在作っている業を、お釈迦さまが真実の眼によってご覧になられて、やがて受けるであろう結果として説き明かされた、いわば私の未来のことです。

つまり、地獄というのは、どこかにそのような世界があるとして作られた世界お伽話ではなく、日々私が作っている業の結果を比喩的に言い表されたものなのです。

ところで、あなたはこれまでに「殺した」ことはありませんか? また、その数を覚えていますか? 殺してきたいのちの数を、さらには諸々の罪業の数を教え、その報いを受けさせるのが地獄だという訳です。

仏教では、悪業の根本原因を自我といいますが、まさに私たちが生きて行く中で迷い苦しむのは、決して外に原因があるのではなく、この私自身の中にあるのです。

だからこそ、仏教で教えを聞くということはどこかの誰かのことを聞くのではなく、この私自身について深く聞くことであると言われるのです。

『自我(エゴ)が生む 迷いと苦しみの悪循環』

以前「仏教を聞くということは、自我の心が崩壊していくこと」と聞かせてもらったことがあります。

それまで自分が培ってきた自信や誇りといったものが、ことごとく砕かれていく世界…。

それが聞法にわって出現するという訳ですが、そのような体験をされたこと、ありますか?

私達がいつも心に思い描いているのは、物事が何でも自分の都合の良いように運ぶ人生です。

ところが、現実は私の思いとは無関係に、しかも意に反することも多々起きます。

それでも夏になると「冬が良い」といい、冬になると「夏が良い」といったことを口にすることがあります。

自己中心的な思いに固執するあまり、不都合なことはなかなか受け入れようとしないばかりか、責任転嫁する愚かさを愚痴(ぐち)といいます。

そんな自分の姿に自分では気付くことが出来ないために、私たちは多くのことに迷い苦しむあり方に陥ってしまうのです。

苦しみ悩むということは、誰もが避けたいものですが、苦労と向き合って行く中で初めて見えてくる世界があります。

「そうじゃなかった!」と気付かされていく中に『俺が、俺がの「我」を捨てて、お蔭お蔭の「げ」で生きる』道が開かれてくるように思われます。