投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

親鸞・登岳篇 黒白(こくびゃく) 7月(9)

範宴は、うなずきながら、ほろりと涙をこぼした。

小さい手で、その眼を横にこすっているのを見て、慈円は笑った。

「明日から、一カ寺の住職ともなる者が、涙などこぼしてはいけない。……元気で行きなさい」

「はい」

衣の袖で、涙を拭いてしまうと、範宴は、別れ難(がた)ない眸(ひとみ)をあげて、師の顔を仰いだ。

「では、行ってまいります。お師さまの教えを忘れないで、励みまする」

礼をして、立って行くのである。

その姿を廊下の方で待ちうけていたのは、さっきから板縁に坐って、案じ顔に控えていた性善房であった。

すぐ手を取って、堂の階を降りてゆく。

そして、房の方へ歩いてゆくうちに、性善房が明るい顔で、何か訊ねているし、範宴も、今泣いたことなど忘れて、ききとして、彼の手をつかんで振ったり、その肩へ、ぶら下がったりして、戯れながら行くのだった。

(――何といっても、まだ子どもだ)慈円も、欄まで出て、うしろ姿を見送っていた。

だが、どうしてか、慈円には、その子どもである範宴が、巨(おお)きな姿に見えてならなかった。

一代の碩学だの、大徳だのという人に会っても、そう仰ぎ見るような感じは滅多にうけない自分なのに――と、時には冷静に自己の批判を客観してみても、やはり、どこかに範宴には凡(なみ)の人間の子とは、違うところがある。

(どこか?)と人に訊かれたらこれも困る。

どこも違いはない。

十歳の少年は、やはり十歳の少年である。

弘法大師や、古き聖(ひじり)の伝などには、よく、誕生の奇(き)瑞(ずい)があったり、また幼少のうちからあたかも如来の再来のような超人的な奇蹟が必ずあつて、雲を下し、龍を呼ぶようなことが、その御伝記を弥(いや)尊(とうと)く飾ってはいるが、これは慈円僧正も、必ずしも、すべてが然りとは信じていないのである。

むしろそれは、民衆が捧げた花環(はなわ)や背光であって、釈迦も人間、弘法も人間と考えてさしつかえないものと思っている。

近くは、黒谷の法然上人のごときも、民衆の崇拝がたかまるにつれ、

(聖のお眸は二つあって、琥珀色をしていらっしゃる)とか、

(ご誕生の時には、産屋に紫雲がたなびいて天楽が聞えたそうな)とか、

(文殊のご化身だ)とか、また、

(いや、唐の三蔵の再生だとおっしゃった)なと、本人はすこしも知らない沙汰が、まちまちにいいふらされて、それにつられて、

(どんなお方か)と、半ば好奇な気もちで集う信徒すらあるとのことだ。

しかし、その法然房には、慈円は、幾たびか会ってもみたが、いわゆる、異相の人にはちがいないが、決して、如来の再生でもなし、また、眸が二つあるわけのものでもない。

ただ、違うのは、

(どこか、ふつうの人間よりは、一段ほど、高いお方だ)と思うことである。

範宴に対して、慈円の感じていることも、要するにその、

(どこか?)であった。

しかし、慈円のその信念は、決して、あやふやな――らしいの程度ではなく、山の巌(いわ)根(ね)のごとく、範宴の将来に刮目(かつもく)しているのであった。

親鸞・登岳篇 黒白(こくびゃく) 7月(8)

座主の室で、銅鈴が鳴った。

役僧のひとりが、執務所の机を離れて、

「お召しですか」

ひざまずくと、帳(とばり)の蔭で、

「範宴をよべ」

と、いった。

「はっ」

「―――ここではなく、表の方へ」

「かしこまりました」

座主の慈円僧正は、そういってから後も、しばらく帳の蔭の机に凭(よ)って、紙屋紙(かみやがみ)を五、六枚綴じてある和歌の草稿に眼をとおしていた。

 それが済むと、何やら消息を書いて、

 「待たせたの」

 と、縁の方へ、眼をやった。

京から使いにきた小侍がひとり板縁に、畏(かしこ)まっていたが、

「どう仕りまして」

と、頭を下げた。

「では、これは月輪殿へおわたしいたして、よろしくと、伝えてください。

――慈円も、登岳の後、このとおり、つつがのう暮らしているとな」

「はい」

草稿と、消息をいただいて、京の使いは帰って行った。

月輪の関白兼実は、すなわち座主の、血を分けた兄であった。

で、時折に便りをよこして、便りを求めるのである。

慈円も、関白も、この兄弟は共に和歌の道に長けている。

ことに、僧門にあって貴人の血と才分にゆたかな慈円の歌は、当代の名手といわれて、その道の人々から尊敬に値するものという評であった。

座主は、使いを返すと、そこを立って、中堂の表書院へ出て行った。

居間々呼ばれるなら常のことであるが、表の間に待てとは、何事であろうかと、範宴は、ひろい大書院の中ほどに、小さい法体を、畏まらせて、待っていた。

「近う」

と、慈円はいう。

畏(おそ)る畏る、範宴、前に出る。

そのすがたを、慈円は、眼の中へ入れてしまいたいように、微笑で見て、

「入壇のことも、まず、済んだの」

「はい」

「うれしいか」

「わかりません」

「苦しいか」

「いいえ」

「無か」

「有です」

「では、どういう気がする」

「この山へ、初めて、生れ出たような…」

「む。……しかし、入壇の戒を授けたからには、おもともすでに、一個の僧として、一山の大徳や碩学と、伍して行かねばならぬ」

「はい……」

「白髪の僧も、十歳の童僧も、仏のおん目からながめれば、ひとしく、同じ御弟子(みでし)であり、同じ迷路の人間である」

「はい……」

「わが身を、珠とするか、瓦とするか、修行はこれからじゃ。

いつまで、わしの側にいては、その尊い苦しみをなめることができぬ。

わしに、少しでも、いたわりが出てはおもとのためにならぬ。

――師を離れて、真の師に就け。

真の師とは、いうまでもなく、仏陀でおわす。

――ちょうど東塔の無動寺に人がない。

枇杷(びわ)大納言どののおられた由緒ある寺。

そこへ、今日からおもとを、住持として遣(つか)わすことにする。

よろしいか、支度をいたして、明日からは、そこに住んで、ひとりで修行するのですぞ」

『人が私を苦しめるのではない自らの思いで苦しむのだ』(後期)

いろんな講座でお話をさせていただくときに資料に、『生老病死=()=()=()』と書いておいて

「では、空白を埋めてみてください」

とお願いします。

ある程度講話が進んだ後だと、結構書いていただけますが、講話の最初に書いていただこうとすると、みなさんかなり悩んでおられる様子がうかがえます。

生老病死と書いて、「しょうろうびょうし」と読みます。

生老病死とは、字の通り生まれて、年を重ね、病になり、そして死を迎えていくということです。

それは間違いない「命」の姿ですから、=の最初の()は、「命」という文字を入れていただきます。

これはよろしいですね。

では次の=()は何でしょうか。

「他人事」

という言葉がありますが、結構私たちは、自分自身のことなのに

「他人事」としてしまっていることが多いようです。

死ということもそうではないでしょうか。

私も必ず死んでいく存在なのに、ついついそのことを忘れがちになってしまいます。

あらためて、生老病死という言葉をじっと見て下さい。

生まれ、老い、病み、死んでいく存在、それは他の誰でもない、私自身のことではないですか?

ということで、二番目の()には「私」と書いていただきます。

さて、問題は三番目です。

ある人は言います。

必ず年齢をとっていくのに、

「年だけは取りたくない、いつまでも若く」と。

またある人は、

必ず病んでいくのに、「健康でなければ意味がない」といいます。

そして、またある人は

必ず死んでいくのに、「死んだら何にもならない」といっています。

私の身体は生老病死していくのに、そしてそれが「かけがえのない存在」であるということなのに、私の思いは生老病死を否定し、避けられないのに、どうしてでも避けようとしています。

ある人とは、だれのことでしょうか。

もしかしたら私のことではありませんか?

仏教では「苦」とは「思い通りにならないこと」と言います。

私たちが生きるということは「思い通りにならない」ということです。

さあ、そろそろ三番目の()が埋められそうですね。

そうです、

生老病死=(命)=(私)=(苦)。

これで完成です。

私たちが生きることは苦しいことなのです。

でも、その苦しみの多くが、人から与えられるものというよりも、自分自身の思いで苦しんでいるのかもしれません。

この自分の思いを整えられたら苦はなくなるのですが、私たちは死んでいくその時まで、自分の思いを整えることができない存在だと、あみだ様は見抜いてくださいました。

そして、あみだ様は、私たちが生老病死=(命)=(私)=(苦)という存在であるからこそ、決して見捨てることができないと、仏さまになって、私に寄り添っていてくださっているのです。

毎日、犬を散歩に連れて行きます。

毎日、犬を散歩に連れて行きます。

車で通るとなかなか気付かないような四季折々の変化も

犬と一緒に歩いていると日毎に感じられて

私なりにワクワクしながら犬との散歩を楽しんでいます。

そんな中で、一つだけ困ることがあります。

それは、暑くなってくると、蛇と遭遇することがあることです。

私は、蛇を見る度に足がすくみます。

気がつくと、背中がゾワゾワ感に覆われて

息をするのも怖いほどです。

きっと「蛇に睨まれたカエル」も同じ感覚に襲われているのかもしれません。

 以前、足元だけを見て歩いていたところ、

何と踏み出した先に蛇がいたこともありました。

蛇を目にするだけで感じる

恐怖感や圧迫感は「どこからくるんだろう…」と思いながら、

なかなかその出所をつきとめられずにいました。

そんなおりに、『なぜ、人間は蛇が嫌いか』(正高信男著光文社)という本があり、そこには、次のようなことが書いてあると教えてもらいました。

 高等動物がヘビを恐れることは、本能による性質なのか、それとも学習に由来するのかという問題については、十九世紀から激しい論争が繰り広げられてきたそうです。

 以前は、本能派のほうに分があるとされていました。

 それは、動物園で長年飼育されヘビを見たことのない動物も、実験をしてみるとヘビに対して強くヘビを恐れるような態度を示したからです。

 

ところが、実験室で誕生し、ヘビと遭遇した経験が一度もない動物を選んで実験してみると、全然ヘビを怖がらないことが明らかになりました。

 このことから、サルなどの高等哺乳類に限っていえば、ヘビを苦手と感じるのは決して本能によるものではなく、後天的な学習の結果であるらしいことが分かったのです。

 

では、なぜ実験室などで生まれた以外のサルが、すべてヘビににらまれた経験があるとはとても考えにくいにもかかわらず、

 「本能なのではないか」と錯覚されるほどまでにヘビを恐れたのでしょうか。

 そこで、野生のサルがヘビを怖がるシーンを、実験室生まれのヘビを怖がらないサルに見せるという実験が行われました。

 この実験では、それまで全くヘビを怖がらなかったサルが、他のサルがヘビを怖がるのを遠くからほんのちょっと見ただけで、

 「百発百中、ヘビへの恐怖を獲得する」ことが確認されたそうです。

 

つまり、ヘビへの恐怖感(苦手な感覚)は、自らの体験だけに基づくものではなく、その多くは周囲の仲間の体験から学ぶことによって培われたものだったのです。

そういえば、物語や映画、たとえば世界的に大ヒットした

「ハリー・ポッター」でもヘビは「怖い」存在として描かれていました。

きっと、映画を通して初めてヘビを観た子どもたちは、無意識の内にヘビに対する恐ろしさや苦手な感覚を持つようになるのかもれません。

 また、蛇の目には瞼(まぶた)がないため、

目もうろこで覆われて、乾かないようになっているということも教えてもらいました。

「目もうろこ…」と聞いて、びっくりしました。

ヘビの祖先は、地中に潜ったトカゲだといわれています。

地中の生活では目は閉じていたほうが便利なので、上下の瞼がくっついてしまったのだそうです。

「目は口ほどにものを言う」と言われますが、その目に表情がないことも、ヘビに不気味さを感じる理由かもしれません。

今年は「巳年」ということでタイミングが合うのか、一週間で三度も蛇を見かけました。

そのうちの二匹は、

「道端いっぱいあるんじゃないか」と思われるほどの長さでした。

そんな訳で、この時期の散歩は、ワクワクよりもドキドキしながら歩いています。

「音楽のキセキ」(下旬)音楽にも力があるんだ

最後に、東日本大震災の話をしたいと思います。

僕の知り合いに福島カツシゲというWOWOW(ワウワウ)のシナリオ大賞を取ったシナリオライターがいます。

大震災があったのは受賞して少し後のことでした。

彼は5月にボランティアで石巻に行き、その光景を見て帰れなくなりました。

仕事を断り、賞金を使って1年間滞在したんです。

その彼が芝居の本を書きました。

1年間いたボランティアの話です。

僕はその芝居にすごく感動して、鹿児島でも公演してもらうようにしました。

自分も何かしたいと思って、エンディング用の曲を作って鹿児島で演奏したんです。

この芝居はとても好評で、石巻、仙台、そして全国で公演するようになりました。

僕もノーギャラで行っています。

それが僕の後方支援です。

ボランティというは、地元の人の分がなくなってしまわないように、現地では買い物などしません。

食料も持参です。

そういう人たちに精のつく肉などを送って食べてもらうんです。

僕の代わりにボランティアしてくれる人たちを僕が支えたら、最終的には、僕が被災された方がたを応援することになるということに気付いて、今はそういう支援活動をしています。

そのきっかけを作ったのも、彼でした。

3月に震災があって、僕は8月に石巻に行きました。

ものすごいショックを受けました。

彼に

「ボランティアで現地に入りたい」と言ったら、

「吉俣さんに来られたら、あなたのことが気になって他のことがおろそかになる。ケガでもされたら、こっちは一生負い目になる。来ないでくれ、迷惑です」

と断られました。

そして

「吉俣さん、音楽家でしょ。音楽家として何かできないんですか。それがあなたのやるべきことじゃないですか」

と言われたんです。

自分がピアノを弾いて誰が喜ぶのか、この景色を見て自分は何もできないのかと、すごく悔しい思いでした。

その翌日、仙台でチャリティーコンサートがありました。

行方不明者は何千人。

土地のこともどうすることもできなくて、願うことしかできない。

祈るような気持ちで『願い』という曲を弾きました。

それを聴いていた被災者の方が

「前向きに生きていきたい」

と言われているのを聞いて、音楽にも力があるんだと、自分にできることをやろうと思ったんです。

その後方支援の中で、石巻の被災者の方がたともつながりができました。

一緒にお酒を飲むと、彼らの強さに感動します。

また、今度現地に行って彼らと再会して、一緒にお酒を飲もうと思います。

そうやって、どんどん絆が深まって、僕にとって石巻が特別な場所になったのは間違いありません。

彼らの復興をずっと見届けたいと思います。

真宗講座末法時代の教と行 阿弥陀仏の大行 7月(後期)

このような心に対して、親鸞聖人は『末燈鈔』第二通の中で、次のように述べておられます。

他力は本願を信楽して往生必定なるゆへにさらに義なしとなり、しかれば、わがみのわるければいかでか如来むかえたまはむとおもふべからず。

凡夫はもとより煩悩具足したるゆへに、わるきものとおもふべし。

またわがこころよければ往生すべしとおもふべからず。

自力の御はからいにては真実の報土へむまるべからざるなり。

この文には、念仏する三者の心が説かれています。

第一は本願を信楽する者、第二は我が身をわるしと思う者、第三は我が身をよしと思う者、の心です。

第二者の心から考えてみますと、この者は自身を愚悪なる者ととらえながらも、未だ阿弥陀仏の願意を、真の意味で理解していない者だというべきです。

それゆえに、弥陀は大悲心をもって

「汝こそを救う」と来たっているにもかかわらず、その大悲の勅命に淳一に信順することができず、かえって自身を卑屈なまでにおとしめて、おどおどと諂(へつら)いの心をもって、仏の大悲心にすがりつこうとします。

一心に祈願し称名念仏を廻向して、浄土を願い求める者がこの立場になります。

第三者は、これに対して自身を善人だととらえています。

末法の濁世にあっては、真実清浄の心などありえないにもかかわらず、錯覚に陥り、自身の中に清浄性を認め、自ら功徳を積んで往生しようとします。

それ故にこの者は、一見あたかも一心に善根を積み行道に励んでいるかのように見えても、その内実においては逆に仏陀の誓願を無視して、傲慢にも自身を聖者だと思い込む者です。

菩提心を発して行道にいそしむ者の立場がここに見られます。

では、第一者はどうでしょうか。

「他力」とは、阿弥陀仏より言えば、迷える衆生をどこまでも救いとらずにおかないという本願力のことです。

それと同時に、これを衆生より言えば、この私を救わずにはおかないという弥陀の本願力に、ただひたすら信順し信楽することです。

だからこそ、私の信楽する心には、往生の必定を信知するが故に、一切のはからう心は消えています。

これは弥陀の本願に信順し、真実大悲に摂取されている者の立場だと言えます。

先に「大行」の場においては、『無量寿経』の生因三願の意義は逆転すると述べました。

なぜなら、迷える衆生を救うという弥陀の願意と、迷える衆生の心という関係の中で、生因三願を見つめるならば、第三者の心が第十九願意に、第二者の心が第二十願意に重なることになり、行者がはからえばはからうほど、ますます弥陀の誓願に背を向けることになっているからです。

末法の時代、濁世の世においては、衆生には仏道を修する力はありません。

その衆生にとって残された真の仏道は、ただ仏の教法を信じることのみです。

そして、その「信」において、信じる衆生に仏果が開かれる仏法はただ一つ、阿弥陀仏の第十八願の教えだけです。

それは、ここには仏の心が大行となって十方一切の衆生の心に至り来たることが誓われているからです。

この第十八願の教えに信順する者こそ、第一の場に立つ者であり、ここに第十八願の教えが、他の二願に比べて殊に超えて優れた願となる義が確立されることになります。

さらに、この願を信楽する衆生が、末法における最も尊く優れた仏道者、すなわち真の仏弟子ということになります。