投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

親鸞・登岳篇 鳴らぬ鐘 7月(7)

「どこへ?――」

不敵な眼をしながら、朱王房は鐘楼の柱へ足を踏んばって動かなかった。

「阿闍梨の前へ連れて行くのだ。さ、来い」

「いやだ」

「卑怯者め、承知のうえで、礼鐘を撞かぬといったくせに。――お処罰(しおき)をうけるのが怖いなら、なぜ撞かなかったか」

「ばか、ばかばかしくって……おれには、こんな鐘はつけないんだ……」

と、朱王房は、唇をかんだ。

「貴様、それを本気でいうのか」

「いうとも。――今朝の一山の鐘の音は、虚偽だ、おべっかだ、仏陀は、笑っていなさるだろう」

「…………」

呆れて、友の顔を、見ているのだった。

朱王房は、昂奮した眼で、

「貴公は、そう思わないか」

「朱王房、貴様こそ、気はたしかなのか」

「たしかだから、おれは、この鐘を撞かんだ。いいか、考えてもみろ、まだ十歳を出たばかりの範宴を、座主の依怙贔屓から、輿論(よろん)と、非難を押しきって、今朝の大戒を、強行するのじゃないか。――それが仏陀の御心かっ。一山衆望かっ」

「執念ぶかい奴だ……。まだ貴様は、いつぞやの議論を、固持しているのか」

「あたりまえじゃないか。阿闍梨や碩学たちは、蔭でこそ、とやこういうが、一人として主張を持ち張るものはない。みんな、慈円僧正に、まるめられて、ひっ込んでしまった」

「座主には座主の、ふかい信念があってのことだ」

「見せてもらおうじゃないか、その信念というやつを」

「それは、現在では、水かけ論だ。範宴が、果たしてそういう天稟(てんぴん)の質であったか否かは、彼の成長を見た上でなければ決定ができない」

「それみろ。――神仏にも分からぬことを、どうして、僧正にだけわかるか。

ごまかしだっ、依怙贔屓だっ」

「大きな声をするなっ」

「するッ――おれはするっ――仏法を亡ぼすものは仏弟子どもだっ」

「これっ、若輩のくせに、いいかげんにしろ」

「いってわるいか」

「わるい!」

「じゃあ、貴公も、まやかし者だ、仏陀にそむいて、山の司権者におべッかるまやかし者だ」

「生意気をいうなッ」

朱王房の襟がみをつかんで、そこへ仆(たお)した。

すると、房の人々が、

「どうしたのだ、どうしたのだ……」

と、駆け上がってきて、

「おいっ、離せ」

「いや、縛ってしまえ。そして、阿闍梨のまえに曳いて行って、たった今、この青二才がほざいた言葉を、厳密な掟の下に、裁かなければならない」

「どんな暴言を吐いた」

「仏法を亡ぼすものは仏弟子どもだといいおった」

「こいつが」

と、一人は、彼の横顔を蹴って、

「一体、新参のくせに、初めから口論ずきで、少し自分の才に、思い上がっているんだ。縛れ、縛れ、くせになる」

と、罵った。

だいぶ古いお骨なので、誰のお骨か分かりません。どうしたらよいでしょうか?

現代ではほぼ全てといってもよいぐらい火葬がほとんどですが、数十年前まではまだまだ土葬も多くありました。

また墓地の形態も昨今の納骨堂の普及に伴い、お墓から納骨堂にお骨を移すといった場面も増えてまいりました。

その際に改めてお墓の中を確認してみると、確かめようのないお骨や、また昔土葬した場所を掘り起こし、土と混ざり無造作に壺に入れてあって誰のお骨なのかすら分からないなどといったケースやその処置についての相談をよく聞くようになりました。

お墓を建立したその当時のことを知る方がいらっしゃればその方にお話を伺うのが一番よいのでしょうが、なかなかそれも難しいことですし、お骨がある以上やはり気になるのが人間の心情でしょう。

納骨がされてあるということはやはり当家にとってご縁のある方であったでしょうし、自分たちが知らないからといって無下にしてしまうのもそれは寂しいことです。

可能であればそのまま納骨し、全ての命が繋がって今この私の存在があることを確かめさせていただくご縁に結ぶことが大切な心がけでありましょう。

またこれらのような納骨の問題から自分たちの身の回りに何か災いが起こらないか不安に感じるという方もおられますが、そんなことは決してありませんのでどうぞ心配をなさらないようにしてください。

親鸞・登岳篇 鳴らぬ鐘 7月(6)

朝はまだ早かった。

霧に濡れている一山の峰や谷々で、寺の鐘が、刻(とき)をあわせて、一斉に鳴りだした。

揺するように、横川(よかわ)で鳴ると、西塔や、東塔の谷でも、ごうん、ごうん……と鐘の音が答え合った。

「おや、当院の鐘は、どうしたのじゃ」

西塔の如法堂で、学頭の中年僧が、方丈(ほうじょう)から首を出した。

「鐘楼(しょうろう)へは、誰も行っていないのか」

「けさの番は、朱王房です、たしか参っているはずです」

と、中庭を隔てた学僧の房で、多勢(おおぜい)の学僧たちが、新しい袈裟をつけながら返辞した。

「耳のせいか、わしには、聞えんが……」

「そういえば、鳴らんようです」

「困るではないか。今日は、根本中堂で、範宴少納言の授戒入壇式が、おごそかに上げられる日だ」

「吾々も、これから、阿闍梨について、参列することになっています」

「それよりも、一山同鐘の礼を欠いては、当院だけが、中堂の令に叛(そむ)く意志を示すわけになる。

台教興隆のよろこびの鐘だ。

――誰か、見てこい」

「はっ」

学僧の一人が、駈けて行った。

鐘楼の下から仰ぐと、誰かそこに立っている。

腕ぐみをして、ぼんやりと、鐘楼の柱に凭(もた)れているのである。

つい一昨年(おととし)ごろ、坂本から上って来た若者で、はじめは、房の厨(くりや)中間(ちゅうげん)として働いていたが、なかなか、学才があるし、賤しくないし、少し才気走った嫌いはあるが、感情家で負け嫌いなところから、堂衆に取り立てられて、今では学僧の中に伍している朱王房だった。

今朝は、彼が鐘楼役なのに、そこへ上ったまま、腑抜(ふぬ)けのように腕ぐみをしているので、見に来た彼の友は、

「おいっ、朱王房じゃないか」

下から怒鳴った。

朱王房は、上から、なやりと笑った。

しかし、元気がないので、

「どうしたっ」

と訊ねると、にべもない顔つきで、

「どうもしやしない……」

「なぜ、礼鐘を撞(つ)かん?」

「…………」

「知らぬはずはあるまい。――今朝の一山同鐘を」

「知ってる」

「横着なやつだ」

とととと、石段を駈け上がって行って、

「退(ど)けっ、俺が撞く」

と、朱王房の肩を押しのけた。

「よし給え」

「なんだと」

「いまから撞いたって、間に合いはしない」

「じゃ、貴様は、故意に撞かなかったのだな」

「そうだ」

はっきり、朱王房はいった。

持ちかけた撞木(しゅもく)の網を離して、気色(けしき)ばんだ彼の友は、朱王房の胸ぐらをつかんで睨みつけた。

「不届きな奴だ、承知して怠ったのだ聞いては許されんっ、さっ、来いっ」

ずるずると、段の方へ、引きずった。

親鸞・登岳篇 鳴らぬ鐘 7月(5)

誰も、進んで、応じる者はなかった。

――わずか十歳の童僧と、衆人の中で、法輪をやって、いい破ったところで、誇りにはならないし、敗れたらざまはない。

そういう打算は、すぐ、誰の胸にもうかぶことだし、御連枝(ごれんし)の出で名門の深窓から、青蓮院へ坐ったのみで、世間知らずの若い座主と心であまく見ていた慈円が、白皙(はくせき)な面を、やや紅らめて、きびしい態度に出ので、

(これは……)と少し意外にも思ったことに違いなかった。

慈円は、壁ぎわにいる人々の顔までを、ずっと見わたして、

「誰か、仰せ出られる人はないのか」

「…………」

いつまでも、座はしんとしていた。

二人の長老も、実は、そこまで、争う本心はなかったとみえて、尻押しの学僧たちが、だまってしまうと、立場を失ったように、もじもじしていた。

「そも、おのおのは、入壇とか、授戒ということを、俗人が、位階や出世の階梯(かいてい)でものぼるように、考えていられるのではないか、とんでもない間違いでおざる」

慈円は、そこでもう、常の温柔な面と語気にかえっていた。

濃い眉毛のうえに、ぽつんと、黒豆ぐらいな黒子(ほくろ)がある。

この容貌に、二位の冠を授けたら、どんなに、端麗であろうといつも人は見つつ想像することであった。

「いうまでもなく、入壇と申す儀は菩薩心への、達成でなければならぬ。生きながらすでに菩薩たる心にいたれる人に、仰讃(ぎょうさん)の式を行う、それが、授戒入壇の大会(だいえ)である。なんで、いたずらに、その域へ達せぬものに、この大会大戒の儀をゆるそうか」

「…………」

静かではあるが、慈円の声は、たとえば檜(ひのき)の木陰を深々と行く水のひびきのように、耳に寒かった。

「――また、菩薩心に達したものかは龍女のごとく、八歳にして、もう壇に入ることをゆるされた。後白河法皇の大戒をうけられたのも、たしか、お十歳に満たぬうちであった。おのおののうちで、すでに白(はく)髯(ぜん)をたれ、老眼にもなりながら、まだその心域にいたれぬ方があらば、まず、自身を恥じるがよい――また、若輩な学僧たちは、そんな他人のことに、騒ぎたてて、無益の時間をつぶす間に、なぜ、自身の修行を励まれぬか」

「…………」

「ふたたび申すが、わしは、ふかく範宴少納言の天質を愛しておる、同時におそれておる。師として、指導のよろしきを得ねば、梵天の悪魔に化すかも知れず、その珠たる質のみがきによって、この荒(すさ)び果てた法界の暗流る濁濤(だくとう)をすくう名玉となるかも知れない。その任を重く思うのだ。ひとたび、山を追われて、今の修羅(しゅら)の世に出て、あの雄叫(おたけ)びを聞いたなら、おそらく、彼は、源義朝の嫡男たちと共に、業火の下に、鉄弓もしごく男になろう」

「…………」

黙々と、人々は、慈円の顔をみているばかりだった。

慈円の眉には、弟子として、また一個の人間範宴のゆくすえや、範宴の性格や才や、あらゆる些細なものまでを朝夕の眼にとめて、ふかく、その将来を案じている容子(ようす)が歴々と読めた。

「いや、ようわかりました」

初めは脱兎のごとく、終わりは処女のように、四王院がそこそこに座をすべると、他の若法師たちも、気まりわるげに、退散してしまった。

※「龍女」=龍宮にいる龍王の娘。おとひめ。とくに沙伽羅龍王の娘。八歳で悟り、釈迦の前で男子に変成して成仏したという。賢い女のことも。

「音楽のキセキ」(中旬)歌詞の意味は全く分からないのに心を揺さぶられた

そして『篤姫』の作曲をすることになりました。

それは良かったのですが、1度に50〜60曲も書かないといけないのは本当に辛かったです。

東京で1人で作っていたら行き詰まってしまい、気分を変えるために、鹿児島に来ました。

桜島でも見ながら作曲しようと思い、当時の東急ホテルに楽器を持ち込んで、1人ホテルに籠もって書いていたんです。

あるとき、ホテルのベランダでCDを聴いていました。

朝崎郁江さんという歌手の島唄です。

それ聴いてをいたら、涙が止まらなくなったんです。

歌詞の意味は全く分からないのに心を揺さぶられました。

すごいと思いました。

それでできたのが『篤姫』の「良し」という曲です。

とても苦しかったのに、この人の曲を聴いていたら10分ほどでインイピレーションをもらったんだと思います。

この「良し」という曲については、実は、篤姫が鶴丸城から出ていくときに、朝崎さんの歌で送り出してもらいたいと思っていたんです。

それで、東京でやっていた朝崎さんのライブに行きました。

そこで朝崎さん唄について説明してくれました。

すると

「奄美は薩摩に虐げられ、書物を全部焼かれ、私たちが口で伝えなければいけないことがたくさんあるんです」

と言われたんです。

篤姫は薩摩の物語なので、これは頼めないと思い、何も言わずに帰りました。

その後、『篤姫』に関連してNHKが朝崎さんを取材したんです。

僕は、朝崎さんは薩摩が嫌いなんだと思い込んでいたんですが、朝崎さんはとても喜んで下さったそうです。

びっくりしました。

それから僕と朝崎さんは、とても仲がいいんです。

朝崎さんが歌うところには、必ず僕がいるというくらい一緒に仕事しています。

朝崎さんは今年で78歳。

だから余生は僕とずっと一緒にやりましょう、辞めるときは僕の手が動かなくなるか、朝崎さんの声が出なくなるかのどっちかですねと言っています。

それもやっぱりご縁だと思います。

ホテルでふと聴いた朝崎さんのCDから「良し」ができて、そこから朝崎さんと仲良くなって、今では大好きなアーティストと一緒に演奏することができている。

ものすごく楽しいです。

やっぱり人生は何が起こるかわからないと感じましたね。

『篤姫』やってよかったなと思います。

音楽を目指してもおらず、ピアノが大嫌いだった僕がプロになり、サントラ業界に入ったのは38歳でした。

それから10年の間に朝ドラと大河ドラマをやったわけです。

僕が出会ってきたいろんな人たちの誰か1人でも欠けていたら今の自分はいない。

そう思うと、超越した何かに、君はこの人と出会いなさいと導かれているように思います。

口に出して言って、そこに誰かとの縁ができて、誰かが自分のことを見ていてくれて、結局そういう風になるんだなとつくづく思います。

『人が私を苦しめるのではない自らの思いで苦しむのだ』(中期)

私たちは、どのような時に

「苦しい」と感じるでしょうか。

少なくとも、物事が自分の思い通りに運んでいる時には、

「楽しい」とは思っても「苦しい」と感じることはありません。

「苦」というのは「自情に逼迫(ひっぱ)している状態」であると言われます。

「自情」というのは自分の感情ということ、

「逼迫」というのは事態がさしせまり、余裕がなくなること」

で、感覚的には胸苦しく圧迫されるような状態ということです。

このことから、

「苦」というのは自分の思いによって余裕をなくし胸苦しく感じている状態だといえます。

これに対して「楽しい」は「自情に適悦」といわれますから、自分の思いにちょうど合致している状態のことだとえます。

このことから、同じ状態であっても、それを自分がどのように感じるかによって、「苦」と「楽」のいずれかに分かれるということになります。

それは、世の中に「苦しい状態」というものがあるのではなく、一定の状態を苦しいと感じる人がいる一方、楽しいと感じる人がいるということです。

このことを踏まえて、源信僧都は『往生要集』の中で「苦といい楽といい、ともに流転を出でず」と述べておられます。

「流転」というのは、言い換えると「自分を見失う」ということです。

私たちは、苦しい状態にあっても愚痴を言うという形で自分を失っていますし、楽しい状態にあってもその楽しみの中に自分を忘れて空しく日々を過ごしてしまうということがあります。

そこに、苦しみといっても楽しみといっても、常に自分を忘れたあり方を出ていないのが、私たちの姿だといわれるのです。

日頃、私たちは無意識の内に「世の中は自分の思い通りになるはずだ」と思っています。

たとえそこまで思っていないとしても、少なくとも自分の思い通りになることを漠然と期待しています。

反対に、病気をしたり、事故に遭ったりすることなど、不都合なことは自分の身だけには「起きない」ことにしています。

しかし、現実はなかなか私の思うようにはなりません。

仏教では「因果の道理」を説きます。

物事の結果には必ず原因があることを明らかにする教えですが、これに基づけば「思い通りにならない」という結果には

「思い通りになるはずだ」と決めつけている私の身勝手な思いという原因があるといえます。

したがって、予期していたことと結果が異なってしまったとしても、その原因は私にあるのですが、私たちの目はいつも外を向いてものを見ています。

そのため、物事が上手くいかなかったことの原因を自分の中にではなく、自分の外に、具体的には他の人の上に求めようとしてしまいます。

これがいわゆる「責任転嫁」ということですが、物事が思った通りにならないと

「あの人のせいで…」とか「この人のせいで…」などと愚痴をこぼしてしまうものですが、実は他人が私を苦しめているのではなく、自らの思いによって苦しんでいるだけなのです。

世の中には、同じ環境であっても、そこに意義を見出して生きがいを感じて生きている人もいれば、愚痴ばかりをこぼして世の中を呪っている人もいたりします。

私たちの周囲には、苦しい世界とか楽しい世界が色分けされて存在している訳ではありません。

ただ、与えられている状況を、自分の思いよって楽しいものとか苦しいものと受けとめている事実があるだけなのです。

ところが、このような自分のあり方に、自ら気付くことはなかなか難しいものです。

なぜなら、苦楽ともにそれによって自分を見失っていくのがこの私たちの迷いの世界だからです。

一方、苦といい楽といい、そのいずれをもあるがままに受け止めていける世界が、阿弥陀仏の浄土です。

私たちは、仏法に耳を傾けることによって初めて、自らの思いによって苦しむことなく、苦楽いずれにあっても、そのことによって自分というものを受け止め、自分というものを本当に生きていける私になれるのだと思います。