投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

毎日、犬を散歩に連れて行きます。

毎日、犬を散歩に連れて行きます。

車で通るとなかなか気付かないような四季折々の変化も

犬と一緒に歩いていると日毎に感じられて

私なりにワクワクしながら犬との散歩を楽しんでいます。

そんな中で、一つだけ困ることがあります。

それは、暑くなってくると、蛇と遭遇することがあることです。

私は、蛇を見る度に足がすくみます。

気がつくと、背中がゾワゾワ感に覆われて

息をするのも怖いほどです。

きっと「蛇に睨まれたカエル」も同じ感覚に襲われているのかもしれません。

 以前、足元だけを見て歩いていたところ、

何と踏み出した先に蛇がいたこともありました。

蛇を目にするだけで感じる

恐怖感や圧迫感は「どこからくるんだろう…」と思いながら、

なかなかその出所をつきとめられずにいました。

そんなおりに、『なぜ、人間は蛇が嫌いか』(正高信男著光文社)という本があり、そこには、次のようなことが書いてあると教えてもらいました。

 高等動物がヘビを恐れることは、本能による性質なのか、それとも学習に由来するのかという問題については、十九世紀から激しい論争が繰り広げられてきたそうです。

 以前は、本能派のほうに分があるとされていました。

 それは、動物園で長年飼育されヘビを見たことのない動物も、実験をしてみるとヘビに対して強くヘビを恐れるような態度を示したからです。

 

ところが、実験室で誕生し、ヘビと遭遇した経験が一度もない動物を選んで実験してみると、全然ヘビを怖がらないことが明らかになりました。

 このことから、サルなどの高等哺乳類に限っていえば、ヘビを苦手と感じるのは決して本能によるものではなく、後天的な学習の結果であるらしいことが分かったのです。

 

では、なぜ実験室などで生まれた以外のサルが、すべてヘビににらまれた経験があるとはとても考えにくいにもかかわらず、

 「本能なのではないか」と錯覚されるほどまでにヘビを恐れたのでしょうか。

 そこで、野生のサルがヘビを怖がるシーンを、実験室生まれのヘビを怖がらないサルに見せるという実験が行われました。

 この実験では、それまで全くヘビを怖がらなかったサルが、他のサルがヘビを怖がるのを遠くからほんのちょっと見ただけで、

 「百発百中、ヘビへの恐怖を獲得する」ことが確認されたそうです。

 

つまり、ヘビへの恐怖感(苦手な感覚)は、自らの体験だけに基づくものではなく、その多くは周囲の仲間の体験から学ぶことによって培われたものだったのです。

そういえば、物語や映画、たとえば世界的に大ヒットした

「ハリー・ポッター」でもヘビは「怖い」存在として描かれていました。

きっと、映画を通して初めてヘビを観た子どもたちは、無意識の内にヘビに対する恐ろしさや苦手な感覚を持つようになるのかもれません。

 また、蛇の目には瞼(まぶた)がないため、

目もうろこで覆われて、乾かないようになっているということも教えてもらいました。

「目もうろこ…」と聞いて、びっくりしました。

ヘビの祖先は、地中に潜ったトカゲだといわれています。

地中の生活では目は閉じていたほうが便利なので、上下の瞼がくっついてしまったのだそうです。

「目は口ほどにものを言う」と言われますが、その目に表情がないことも、ヘビに不気味さを感じる理由かもしれません。

今年は「巳年」ということでタイミングが合うのか、一週間で三度も蛇を見かけました。

そのうちの二匹は、

「道端いっぱいあるんじゃないか」と思われるほどの長さでした。

そんな訳で、この時期の散歩は、ワクワクよりもドキドキしながら歩いています。

「音楽のキセキ」(下旬)音楽にも力があるんだ

最後に、東日本大震災の話をしたいと思います。

僕の知り合いに福島カツシゲというWOWOW(ワウワウ)のシナリオ大賞を取ったシナリオライターがいます。

大震災があったのは受賞して少し後のことでした。

彼は5月にボランティアで石巻に行き、その光景を見て帰れなくなりました。

仕事を断り、賞金を使って1年間滞在したんです。

その彼が芝居の本を書きました。

1年間いたボランティアの話です。

僕はその芝居にすごく感動して、鹿児島でも公演してもらうようにしました。

自分も何かしたいと思って、エンディング用の曲を作って鹿児島で演奏したんです。

この芝居はとても好評で、石巻、仙台、そして全国で公演するようになりました。

僕もノーギャラで行っています。

それが僕の後方支援です。

ボランティというは、地元の人の分がなくなってしまわないように、現地では買い物などしません。

食料も持参です。

そういう人たちに精のつく肉などを送って食べてもらうんです。

僕の代わりにボランティアしてくれる人たちを僕が支えたら、最終的には、僕が被災された方がたを応援することになるということに気付いて、今はそういう支援活動をしています。

そのきっかけを作ったのも、彼でした。

3月に震災があって、僕は8月に石巻に行きました。

ものすごいショックを受けました。

彼に

「ボランティアで現地に入りたい」と言ったら、

「吉俣さんに来られたら、あなたのことが気になって他のことがおろそかになる。ケガでもされたら、こっちは一生負い目になる。来ないでくれ、迷惑です」

と断られました。

そして

「吉俣さん、音楽家でしょ。音楽家として何かできないんですか。それがあなたのやるべきことじゃないですか」

と言われたんです。

自分がピアノを弾いて誰が喜ぶのか、この景色を見て自分は何もできないのかと、すごく悔しい思いでした。

その翌日、仙台でチャリティーコンサートがありました。

行方不明者は何千人。

土地のこともどうすることもできなくて、願うことしかできない。

祈るような気持ちで『願い』という曲を弾きました。

それを聴いていた被災者の方が

「前向きに生きていきたい」

と言われているのを聞いて、音楽にも力があるんだと、自分にできることをやろうと思ったんです。

その後方支援の中で、石巻の被災者の方がたともつながりができました。

一緒にお酒を飲むと、彼らの強さに感動します。

また、今度現地に行って彼らと再会して、一緒にお酒を飲もうと思います。

そうやって、どんどん絆が深まって、僕にとって石巻が特別な場所になったのは間違いありません。

彼らの復興をずっと見届けたいと思います。

真宗講座末法時代の教と行 阿弥陀仏の大行 7月(後期)

このような心に対して、親鸞聖人は『末燈鈔』第二通の中で、次のように述べておられます。

他力は本願を信楽して往生必定なるゆへにさらに義なしとなり、しかれば、わがみのわるければいかでか如来むかえたまはむとおもふべからず。

凡夫はもとより煩悩具足したるゆへに、わるきものとおもふべし。

またわがこころよければ往生すべしとおもふべからず。

自力の御はからいにては真実の報土へむまるべからざるなり。

この文には、念仏する三者の心が説かれています。

第一は本願を信楽する者、第二は我が身をわるしと思う者、第三は我が身をよしと思う者、の心です。

第二者の心から考えてみますと、この者は自身を愚悪なる者ととらえながらも、未だ阿弥陀仏の願意を、真の意味で理解していない者だというべきです。

それゆえに、弥陀は大悲心をもって

「汝こそを救う」と来たっているにもかかわらず、その大悲の勅命に淳一に信順することができず、かえって自身を卑屈なまでにおとしめて、おどおどと諂(へつら)いの心をもって、仏の大悲心にすがりつこうとします。

一心に祈願し称名念仏を廻向して、浄土を願い求める者がこの立場になります。

第三者は、これに対して自身を善人だととらえています。

末法の濁世にあっては、真実清浄の心などありえないにもかかわらず、錯覚に陥り、自身の中に清浄性を認め、自ら功徳を積んで往生しようとします。

それ故にこの者は、一見あたかも一心に善根を積み行道に励んでいるかのように見えても、その内実においては逆に仏陀の誓願を無視して、傲慢にも自身を聖者だと思い込む者です。

菩提心を発して行道にいそしむ者の立場がここに見られます。

では、第一者はどうでしょうか。

「他力」とは、阿弥陀仏より言えば、迷える衆生をどこまでも救いとらずにおかないという本願力のことです。

それと同時に、これを衆生より言えば、この私を救わずにはおかないという弥陀の本願力に、ただひたすら信順し信楽することです。

だからこそ、私の信楽する心には、往生の必定を信知するが故に、一切のはからう心は消えています。

これは弥陀の本願に信順し、真実大悲に摂取されている者の立場だと言えます。

先に「大行」の場においては、『無量寿経』の生因三願の意義は逆転すると述べました。

なぜなら、迷える衆生を救うという弥陀の願意と、迷える衆生の心という関係の中で、生因三願を見つめるならば、第三者の心が第十九願意に、第二者の心が第二十願意に重なることになり、行者がはからえばはからうほど、ますます弥陀の誓願に背を向けることになっているからです。

末法の時代、濁世の世においては、衆生には仏道を修する力はありません。

その衆生にとって残された真の仏道は、ただ仏の教法を信じることのみです。

そして、その「信」において、信じる衆生に仏果が開かれる仏法はただ一つ、阿弥陀仏の第十八願の教えだけです。

それは、ここには仏の心が大行となって十方一切の衆生の心に至り来たることが誓われているからです。

この第十八願の教えに信順する者こそ、第一の場に立つ者であり、ここに第十八願の教えが、他の二願に比べて殊に超えて優れた願となる義が確立されることになります。

さらに、この願を信楽する衆生が、末法における最も尊く優れた仏道者、すなわち真の仏弟子ということになります。

親鸞・登岳篇 鳴らぬ鐘 7月(7)

「どこへ?――」

不敵な眼をしながら、朱王房は鐘楼の柱へ足を踏んばって動かなかった。

「阿闍梨の前へ連れて行くのだ。さ、来い」

「いやだ」

「卑怯者め、承知のうえで、礼鐘を撞かぬといったくせに。――お処罰(しおき)をうけるのが怖いなら、なぜ撞かなかったか」

「ばか、ばかばかしくって……おれには、こんな鐘はつけないんだ……」

と、朱王房は、唇をかんだ。

「貴様、それを本気でいうのか」

「いうとも。――今朝の一山の鐘の音は、虚偽だ、おべっかだ、仏陀は、笑っていなさるだろう」

「…………」

呆れて、友の顔を、見ているのだった。

朱王房は、昂奮した眼で、

「貴公は、そう思わないか」

「朱王房、貴様こそ、気はたしかなのか」

「たしかだから、おれは、この鐘を撞かんだ。いいか、考えてもみろ、まだ十歳を出たばかりの範宴を、座主の依怙贔屓から、輿論(よろん)と、非難を押しきって、今朝の大戒を、強行するのじゃないか。――それが仏陀の御心かっ。一山衆望かっ」

「執念ぶかい奴だ……。まだ貴様は、いつぞやの議論を、固持しているのか」

「あたりまえじゃないか。阿闍梨や碩学たちは、蔭でこそ、とやこういうが、一人として主張を持ち張るものはない。みんな、慈円僧正に、まるめられて、ひっ込んでしまった」

「座主には座主の、ふかい信念があってのことだ」

「見せてもらおうじゃないか、その信念というやつを」

「それは、現在では、水かけ論だ。範宴が、果たしてそういう天稟(てんぴん)の質であったか否かは、彼の成長を見た上でなければ決定ができない」

「それみろ。――神仏にも分からぬことを、どうして、僧正にだけわかるか。

ごまかしだっ、依怙贔屓だっ」

「大きな声をするなっ」

「するッ――おれはするっ――仏法を亡ぼすものは仏弟子どもだっ」

「これっ、若輩のくせに、いいかげんにしろ」

「いってわるいか」

「わるい!」

「じゃあ、貴公も、まやかし者だ、仏陀にそむいて、山の司権者におべッかるまやかし者だ」

「生意気をいうなッ」

朱王房の襟がみをつかんで、そこへ仆(たお)した。

すると、房の人々が、

「どうしたのだ、どうしたのだ……」

と、駆け上がってきて、

「おいっ、離せ」

「いや、縛ってしまえ。そして、阿闍梨のまえに曳いて行って、たった今、この青二才がほざいた言葉を、厳密な掟の下に、裁かなければならない」

「どんな暴言を吐いた」

「仏法を亡ぼすものは仏弟子どもだといいおった」

「こいつが」

と、一人は、彼の横顔を蹴って、

「一体、新参のくせに、初めから口論ずきで、少し自分の才に、思い上がっているんだ。縛れ、縛れ、くせになる」

と、罵った。

だいぶ古いお骨なので、誰のお骨か分かりません。どうしたらよいでしょうか?

現代ではほぼ全てといってもよいぐらい火葬がほとんどですが、数十年前まではまだまだ土葬も多くありました。

また墓地の形態も昨今の納骨堂の普及に伴い、お墓から納骨堂にお骨を移すといった場面も増えてまいりました。

その際に改めてお墓の中を確認してみると、確かめようのないお骨や、また昔土葬した場所を掘り起こし、土と混ざり無造作に壺に入れてあって誰のお骨なのかすら分からないなどといったケースやその処置についての相談をよく聞くようになりました。

お墓を建立したその当時のことを知る方がいらっしゃればその方にお話を伺うのが一番よいのでしょうが、なかなかそれも難しいことですし、お骨がある以上やはり気になるのが人間の心情でしょう。

納骨がされてあるということはやはり当家にとってご縁のある方であったでしょうし、自分たちが知らないからといって無下にしてしまうのもそれは寂しいことです。

可能であればそのまま納骨し、全ての命が繋がって今この私の存在があることを確かめさせていただくご縁に結ぶことが大切な心がけでありましょう。

またこれらのような納骨の問題から自分たちの身の回りに何か災いが起こらないか不安に感じるという方もおられますが、そんなことは決してありませんのでどうぞ心配をなさらないようにしてください。

親鸞・登岳篇 鳴らぬ鐘 7月(6)

朝はまだ早かった。

霧に濡れている一山の峰や谷々で、寺の鐘が、刻(とき)をあわせて、一斉に鳴りだした。

揺するように、横川(よかわ)で鳴ると、西塔や、東塔の谷でも、ごうん、ごうん……と鐘の音が答え合った。

「おや、当院の鐘は、どうしたのじゃ」

西塔の如法堂で、学頭の中年僧が、方丈(ほうじょう)から首を出した。

「鐘楼(しょうろう)へは、誰も行っていないのか」

「けさの番は、朱王房です、たしか参っているはずです」

と、中庭を隔てた学僧の房で、多勢(おおぜい)の学僧たちが、新しい袈裟をつけながら返辞した。

「耳のせいか、わしには、聞えんが……」

「そういえば、鳴らんようです」

「困るではないか。今日は、根本中堂で、範宴少納言の授戒入壇式が、おごそかに上げられる日だ」

「吾々も、これから、阿闍梨について、参列することになっています」

「それよりも、一山同鐘の礼を欠いては、当院だけが、中堂の令に叛(そむ)く意志を示すわけになる。

台教興隆のよろこびの鐘だ。

――誰か、見てこい」

「はっ」

学僧の一人が、駈けて行った。

鐘楼の下から仰ぐと、誰かそこに立っている。

腕ぐみをして、ぼんやりと、鐘楼の柱に凭(もた)れているのである。

つい一昨年(おととし)ごろ、坂本から上って来た若者で、はじめは、房の厨(くりや)中間(ちゅうげん)として働いていたが、なかなか、学才があるし、賤しくないし、少し才気走った嫌いはあるが、感情家で負け嫌いなところから、堂衆に取り立てられて、今では学僧の中に伍している朱王房だった。

今朝は、彼が鐘楼役なのに、そこへ上ったまま、腑抜(ふぬ)けのように腕ぐみをしているので、見に来た彼の友は、

「おいっ、朱王房じゃないか」

下から怒鳴った。

朱王房は、上から、なやりと笑った。

しかし、元気がないので、

「どうしたっ」

と訊ねると、にべもない顔つきで、

「どうもしやしない……」

「なぜ、礼鐘を撞(つ)かん?」

「…………」

「知らぬはずはあるまい。――今朝の一山同鐘を」

「知ってる」

「横着なやつだ」

とととと、石段を駈け上がって行って、

「退(ど)けっ、俺が撞く」

と、朱王房の肩を押しのけた。

「よし給え」

「なんだと」

「いまから撞いたって、間に合いはしない」

「じゃ、貴様は、故意に撞かなかったのだな」

「そうだ」

はっきり、朱王房はいった。

持ちかけた撞木(しゅもく)の網を離して、気色(けしき)ばんだ彼の友は、朱王房の胸ぐらをつかんで睨みつけた。

「不届きな奴だ、承知して怠ったのだ聞いては許されんっ、さっ、来いっ」

ずるずると、段の方へ、引きずった。