投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

私は、子どもの頃から歴史、特に日本史が好きで

 私は、子どもの頃から歴史、特に日本史が好きで、中学や高校の歴史の授業はとても楽しみでした。

 また「好きこそ物の上手なれ」という諺がありますが、その言葉通り得意科目でもあったことから、高校時代の同級生の中には、私が大学の歴史学科に進学すると思っている人もいたほどです。

 そのようなこともあり、今に至るまで歴史関連の本をよく手にしているのですが、『学校では教えてくれない日本史の授業』(PHP文庫・井沢元彦著)という本を読むと、学校の授業では習わなかったことが多く書かれていて、教科書を通して学んだことがいわゆる

 「建前」の部分だとすると、この本は

 「本音」の部分を学ぶことが出来るような感じがしています。

 この本の著者である井沢氏には

 「逆説の日本史」という日本通史の著作があり、この本も全巻愛読しているのですが、

 「学生時代、日本史が苦手だった」という人も、井沢氏の本に書かれているようなことが教科書に書かれていると、

 「歴史は面白い」と思うのではないかという気がしています。

 何が面白いのかというと、

 「目から鱗(うろこ)が落ちる」という諺があります。

 これは

 「鱗で目をふさがれた状態のように、よく見えなかったものが急にその鱗が落ちて鮮明に見えるようになったということ」

 ですが、まさにこの本を読むとこの言葉を随所で実感することが出来るのです。

 そこで、今回はその中の一つを紹介することにします。

 まず「可楽」という言葉があるのですが、どのように読まれますか。

 おそらく、多くの方は「からく」と読まれるのではないかと思います。

 では、「可口可楽」はどのように読まれるでしょうか。

 「かくからく」でしょうか。

 あるいは、勘の鋭い人だと、『中国語で「コカコーラ」と読むのでは…』と、気づかれたかもしれませんね。

 そうです。

 これは、中国語表記で「コカコーラ」と読みます。

 そうすると「可楽」は「からく」と「コーラ」の二つの読みを持っていて、日本では「からく」

 でも中国に行くと「コーラ」と読むことが知られます。

 実は、日本史を学ぶ上で、このことはとても大切なことなのです。

 なぜかというと、このことを見過ごしてしまうと、見えるはずのことが見えなくなってしまうからです。

 では

 「邪馬台国」をどのように読まれますか。

 これは、誰もが

 「学校では“やまたいこく”と習ったけど…」

 と言われるに相違ありません。

 でも、これは本当にそのように読むのが正しいのでしょうか。

 学生時代を思い出していただくとよいのですが、

 「邪馬台国」の記録が残っているのは日本の書物ではなく、中国の『魏志』倭人伝という文献です。

 これは日本ではあまり知られていないことですが、中国は時代によって漢字の発音が違います。

 日本では「漢字」というように、基本的には漢王朝時代の発音がベースになっています。

 ところが、日本に伝わってきた時代が異なる言葉の中には、読みの違うものが少なからずあります。

 例えば、

 「行」という字は、

 「行動」と書くと「こう」と読みますが、

 「行灯」と書くと「あん」と読みます。

 「こう」は漢時代の読みで、「あん」は宋時代の読み方です。

 『魏志』倭人伝が著された時代の中国人は、日本のことを

 「倭(わ)」、日本人のことを「倭人」と呼んでいました。

 その倭人の住む国についての記述の中に

 「卑弥呼」という字を書く女王がいたこと、その国が「邪馬台国」という字を書く国であったと記されています。

 ただし、著者の陳寿は直接倭国に行った訳ではなく、関係者から聞いたことを書いたのだと思われます。

 したがって、これは

 「聞き書き」ということになります。

 そうすると、当然「邪馬台国」も出典文献である『魏志』倭人伝が書かれた三世紀末の西晋時代の発音で読むのが正しい読み方だといえます。

 実は、この時代の発音はどういうものだったのかということについてきちんと研究をする人がいて、当時の読み方が分かっているのだそうです。

 そこで、井沢氏が中国に行ってその研究者に

 「邪馬台」という字を見せ、

 「この字を三世紀の発音で読むと、どういう発音になりますか」

 と尋ねたところ、中国語は日本語より母音の数が多いので、その音をカタカナで正確に書くのは難しいらしいのですが、耳で聞いた音をできるだけ日本語に近い音で表記すると、それは

 「ヤマド」となるのだそうです。

 「ヤマド」というのは、日本史に照らして考えるとすぐに

 「大和(ヤマト)」の名が想起されます。

 よく知られているように、大和朝廷の始祖は、アマテラスという女神です。

 これは、邪馬台国の統治者が女王・卑弥呼であるという内容とも一致しています。

 このことから、『魏志』倭人伝が書かれた時代の発音から考えていくと、邪馬台国と大和朝廷は同じであることが窺い知られます。

 ところが、

 「邪馬台国」を「ヤマド」ではなく従来通り「やまたいこく」

 と日本式の発音で呼んでいたのでは、いつまでも「邪馬台国」と「大和朝廷」は関係があるのかないのかということにばかり関心が向いて、その本質的なところをとらえられないことになってしまう訳です。

 このように、それまで「常識だ」と思っていたようなことであっても、新たな視点からとらえ直すと、そうではないことが分かったり、見えなかったことが見えるようになったりします。

 そしてこれは、歴史だけに限ったことではなく、いろいろな分野においてもいえることだと思います。

 ともすれば、私たちは自分の経験してきたことや積み重ねてきた知識を絶対的なものとして、いつのまにかそこからだけしか物事を見たり考えたりすることが出来なくなっていたりします。

 ところが「邪馬台国」は、当時の中国の読み方に依れば「ヤマド」だということが分かると、そこからまた新たな事実が浮かび上がってくるように、常に自分自身のあり方やものの見方、考え方を見直していくことに留意していると、そこから新たなことに目が開かれてくるのではないかと思っています。

 のことから、に照らして考えると「大和(ヤマト)」が想起されまか

真宗講座末法時代の教と行 阿弥陀仏の大行 7月(中期)

 「教」を中心として、阿弥陀仏と釈迦仏の願い、大悲の躍動を求めるならば、ただ一方的に仏から衆生へのはたらきのみとなります。

 末法時代の仏法には、この

 「教」のみしか存在しないのですから、

 「教」が衆生に対してはたらくということは、末法時代における仏教の行道は、行道自体が逆の方向においてのみ成り立つということを意味しています。

 すなわち、末法時代における仏と衆生の関係は、衆生から仏へ救いを求めて願いをかけるのではありません。

 また、衆生が仏に対しその仏を念じ名を称するのでもなく、衆生が仏の方向に向かって行道するのでもありません。

 全く逆であって、仏がただ一方的に衆生の救済を願われるのです。

 それは、仏が衆生に対して、一心に自らの大悲が衆生によって信じられることを念じ、名号を通して

 「我が仏国土に来たれ!」

 と呼びかけてくださるということです。

 まさに、仏が衆生の方向に至り来たって、あたかも

 「逃ぐる者を追わえとる」かのように

 「摂取(救済)」してくださるのです。

 これが

 「教」のみしかない、末法時代の仏教の真相だといえます。

 そうすると

 「念仏」の意義もまた、それまでとは逆になります。

 末法の世の念仏とは、仏からの願いであり、言葉であり、はたらきであり、行業です。

 ここに念仏について、異質の二種の行法が顕かになります。

 一は、衆生が仏を念ずるという立場の念仏義です。

 この場合の念仏は、衆生の行として、凡夫から仏果へという行道を意味します。

 二は、仏が衆生を念ずるという立場の念仏義です。

 この場合の念仏は、念仏が救いの法として凡夫のもとに来たるというもので、仏から衆生へ、仏の教えがそのまま仏行となって衆生にはたらいていることを意味します。

 末法時代の念仏は、言うまでもなくただ第二の場においてのみ意義があるのであって、救いの法として、一切衆生を救うために念仏が仏の行となってあらわれ来っているのです。

 しかもこの念仏行においてのみ、

 「行」なき末法時代に、真の仏道としての行が成り立ち、同時に凡愚の証果への道が開かれます。

 この点を親鸞聖人は『教行信証』の結びで

 「聖道の諸教は行証久しく廃れ浄土の真宗は証道今盛りなり」

 と述べて、ここに今までの仏教には見ることの出来なかった、阿弥陀仏の本願の

 「行」という、全く新しい行道を展開されることになります。

 そして、この行道、すなわち阿弥陀仏の救済の法としての念仏を、親鸞聖人は

 「大行」と名付けられます。

 ここにおいて『無量寿経』の生因三願の意義は、それまでと逆転することになります。

 従来のように、衆生から仏へという行道の方向で生因三願の

 「行」を見る限り、第十八願の行道は劣悪愚鈍なる者に対して開かれている道であるため、第十九・二十の両願に比べると決して優れているとは言えないばかりか、行者(例えば聖道の諸師)の目から見ると、第十八願そのものが価値の低い願だと受けとられていました。

 たしかに、たとえどのような劣悪な者を救済するという弥陀の大悲、弘願意が示されているとしても、第十八願は決して他の二願に対して、超越した願とはなっていません。

 しかも愚鈍なる念仏者とは、自身の心に次のような二種のはからいを抱く者でしかありません。

 一は、果たして自分のように愚悪なる者でも、弥陀は救ってくださるのかというはからいであり、二は、自分はこのように一心に念仏に励んでいるのだから、救われて当然であるというはからいです。

 

 

親鸞・登岳篇 鳴らぬ鐘 7月(4)

後ろでひしめいている学僧たちの中で、

「阿闍梨、よけいなことは仰せられずに、一同の疑問について、疾く、糺されい」

と、誰かがどなった。

四王院は、うなずいて、

「座主!」

と膝をすすめた。

「――今日、吾々が推参いたしたのは、二十八日の大戒について、ちと、解せん儀があって参ったのでおざる」

「ご不審とな、何なりと、問われい」

「ほかではない」

静慮院も、共々に、詰問の膝を向けて、

「当、叡山はおろか、日本四カ所の戒壇においても、まだかつて、範宴のごとき童僧が、伝法授戒をうけた例(ため)しは耳にいたさぬが、そも、座主には何の見どころがあって、敢て、法城の鉄則を破ってまで、あの稚僧に、戒を授けらるるのか……。それが解せんことの第一義でござる」

慈円は、ほほ笑んで、

「はてさて、仏徒のまじわりもひろい。一院一寺をもあずかるおのおののことゆえ、それくらいなことは、ようご会得と存じていたが」

「山の鉄則を紊(みだ)すような、さような心得は、相持たん」

「ははは、余りにも、お考えが狭い。いわゆる、法を作るもの法に縛らるの喩(たと)え。そもそも、授戒のことは、必ずしも、年齢を標準にはせぬものじゃ。年さえ、加えれば、誰でも、大戒をゆるさるるとあっては、刻苦する者がなくなるであろう」

「詭弁(きべん)っ」

と、またうしろの法師頭の中から強くいう者があった。

四王院は、それら激励されて、

「――あいや、おことばには候が、十年二十年、この叡山に、苦行を積んでも、なおかつ、入壇はおろか、伝法のことすら受けぬものが、どれほどあるか」

「それは、ひとの人の天稟(てんぴん)がないか、あるいは、勉学が足らぬかの、ふたつでおざろう。――容(かたち)のみ、相(すがた)のみ、いかにも、荒かに、苦行精進いたすようになっても、秋栗の皮ほども、心のはじけぬ者もある。生れながらの団(どん)栗(ぐり)であればせひなき儀と思うよりほかはない」

「いや!谷の者らが、専ら取り沙汰するところによると、座主の僧正には、少納言に対して、依怙(えこ)を持たれると承る」

「それは、問わるるまでもなかろう」

「何ですと――では、明らかに、依怙贔屓(えこひいき)だと仰せられるか。――何とおのおの、そう聞いては、もう議論のほかじゃないか。座主は範宴を盲愛していられるのだ。私情のために、大法を蹂躙(ふみにじ)らるるとの自白だ」

喚き立てると、

「ひかえなされい!」

若い座主の面に、初めて、青年らしい血しおが、漲(みなぎ)った。

「わしは、範宴の天稟を愛す。わしは、範宴のすぐれた気質を愛す。見よ、彼は将来の法燈を、亡すか、興隆するか、いずれかの人間になろう。叡山人多しといえど誰か、十歳を出たばかりの範宴にすら勝る法師やある。

――その才において、その克己(こっき)おいて、その聡明において、その強情我慢なことにおいて。……嘘と思わるる方あらば、彼をここへ呼んで、まず、法論を闘わせてみられるがよい。和歌といわば和歌、儒学とあらば儒学、おそらく少納言は否むまい。望みの者は、仰せ出られい」

親鸞・登岳篇 鳴らぬ鐘 7月(3)

月も末に近くなる。

範宴少納言の入壇の式は、近くなった。

それが、いよいよ、実現されることが、明確に知れわたると、若い学僧だけの騒ぎでなくなった。

「よし、よし、われらが参って、お若い新座主をたしなめてやろう。……誰でも、一山の司権の座にすわると、一度は、その権力を行使してみたいものだよ。……騒ぐな、必ず説服いたして、思いとどまらせて見せる」

年齢と苔の生えているような長老や、碩学たちが、杖をついて、根本中堂へ上って行った。

そして、座主に、面談を求めて入れかわり立ちかわり、少納言の入壇授戒を、反対した。

今日もである。

静慮院と、四王院の阿闍梨が先に立って、その中には、少壮派の妙光房だの、学識よりは、腕ぶしにおいて自信のありそうな若い法師たちが、中堂の御房の式台へ、汚い足をして、ぞろぞろと、上がり込んで行った。

座主の僧正は、

「おう、おそろいで」

と、にこやかに、書院をひらいて、待っていた。

ひろい部屋の三分の一が、人で埋まった。

みしみしと、荒い跫音(あしおと)で入って来た学僧どもも、ここへ入ると、

「さ、そちらへ」とか、「どうぞ」とか、席をゆずり合って、さすがに、壁ぎわへ、硬くなって坐るのだった。

四王院と、静慮院の二長老が、代表者として、むろん、一同の前へ出て、席を占めた。

毎日のことなので、慈円僧正は、この人々が、何の用事で来たかは、訊くまでもなく、分かっていた。

で、機先を制して、

「二十八日の通牒は、もう、おのおののお手許へも、届いたことと思うが、当日の式事については、諸事、ご遺漏(いろう)のないように頼みますぞ」

「…………」

誰も、答えなかった。

不満と、不平とが、ぴかぴかと眼に反抗をたたえて、そういう座主の面を見つめているだけなのである。

「座主」

四王院の阿闍梨が、老人のくせに、柘榴(ざくろ)のような色をしている口をまずひらいた。

「なにか」

と、慈円の眸(ひとみ)は、静かである。

「今の御意、正気でおわすか」

「ほ……、異(い)なおたずねである。おのおのにも、よろこんで、大戒の席に列していただきたいということが、酒にでも、酔うているように聞えますか」

「酔うているどころか、狂気の沙汰と思う」

相手の冷静な様子は、かえって、彼らの嚇怒(かくど)を熾(さか)んにした。

「よもやと存じて、今日まで、ひかえていたが、座主、御自身のお口から、さよういわるるからには、もう、黙してはおられん」

「何なりとも、仰せられい。叡山は、慈円のものにあらず、また、学僧のものにあらず、長老のものでもない」

「もちろん」

「衆生のものでござる」

「いや、仏のものだ」

「仏は、衆生を利したもうばかりに、下天しておわす。どちらでもよろしい」

親鸞・登岳篇 鳴らぬ鐘 7月(2)

短檠(たんけい)の丁字を剪(き)って、範宴が、ふたたび、机の上の白氏文集へ眼を曝(さら)しはじめると、

「さ……水を汲んできた。足を洗いなさい」

と、入口の方で、また、物音と人の気配がした。

やはり、狐(こ)狸(り)ではなかった。

範宴は、すこし、燭の位置を移して、うしろへ身をのばしながら、

「性善坊か」

すると、はっきり、

「ただ今帰りました」

彼の返辞であった。

すぐ上がってきて、

「範宴さま。ただいま、戻って来る途中で、ふしぎな人に会いました。後ろにつれて参りましたから、お会いして下さいまし」

といって、

「孤雲どの。こちらへ」

と、呼んだ。

怖る怖る、庄司七郎の孤雲は、そこへ来て、うつむきがちに坐った。

範宴は、小首をかしげて、

「はての?」

「おわかりになりませんか」

「知らないお方だ」

孤雲は、その時、しずからに顔を上げて―――

「ああ、よう御成人なさいましたな」

「あ。……七郎か」

「やはり覚えていらっしゃった」

と、孤雲は、ぼうぼうとした髭(ひげ)の中で、うれしげに、微笑した。

「忘れてなろうか、糺の原で、あやういところを、救うてくれた庄司七郎……。あの時、そなたは、なぜ逃げたのか」

「その仔細は――」

と、性善坊がひき取って、

「途々(みちみち)、聞いてきたところでございまする。私から、代わって、お話いたしましょう」

範宴は、眼をつぶらにして、聞いていた。

そして、

「ほう……、では、日野の学舎(まなびや)でこの身と共に机をならべていた寿童丸は、いまでは、行方が知れぬのか」

「里のうわさによると、この叡山に、知人があるゆえ、戦がやむまでその辺りに、隠れているのではないかと申すのだそうで」

「座主に、お願い申して、よう尋ねてあげよう」

「ありがどうぞんじます」

「だが――」

と、性善坊は側から――

「この叡山には、三千の学僧と、なお、僧籍のない荒法師やら堂衆やら、世間を逃げてきた者たちが、随分と、一時の方便で、身を変えているものも多いゆえ、容易には、知れまいと思うが……」

「ま……。いつまでも、おるがよい」

と範宴はなぐさめた。

孤雲は、ともすると、燭に面(おもて)を伏せてしまった。

――もう五、六年も前になるが寿童丸の腕白から、まだ、十八公麿といったころのこの君が、土で作っていた仏像を足蹴にかけたことだの、日野の館へ石を投げこんで罵りちらしたことだの……過去を思い出すと、背なかに、冷たい汗がながれる。

だが、範宴も、性善坊も、そんなことは、さらりと、忘れたように、

「孤雲どの、空腹(すきばら)ではないか」

と、いたわる。

「はい……実は……」

と、ありのままに答えると、

「では、粥(かゆ)でも、煮てあげい」

範宴がいう。

やはり菊の根には菊がさき、蓬(よもぎ)の根には蓬しか出ぬと、孤雲の七郎は、旧主の子と、範宴とを心のうちで較べて、さびしい気がした。

真宗講座末法時代の教と行 阿弥陀仏の大行 7月(前期)

 すでに見てきたように、末法の世では衆生から仏へという仏道は断ち切られています。

 つまり

 「証」への行道は既に閉ざされているということです。

 それは往生浄土の道でも同じで、清浄なる心が求められれば、迷える凡愚は一声の念仏も称えることはできません。

 このように

 「教」のみしか残っていないのが末法の世だとすれば、この

 「今」を生きる衆生においては、ただ仏の

 「教」のみを限りなく深く問うことが、そこに残された唯一の仏道となるのではないでしょうか。

 では、仏教は末法の衆生にいったい何を教えようとしているのでしょうか。

 ここで先に示した

 「教」の特性を振り返ると、

 「教」は仏から衆生へというはたらきを持っていたことが思い起こされます。

 「衆生から仏へ」という方向ではなく、

 「仏から衆生へ」という方向で

 「教」は私たちの方にはたらいて来るのです。

 そこで、

 「行」の場ではなく、

 「教」の場でこの仏教の究極を見つめると、何が明らかになるでしょうか。

 阿弥陀仏および釈迦仏は衆生に対し、何を願い、何を教えようとしているのでしょうか。

 また、その教えの中心は何でしょうか。

 仏陀とはいうまでもなく

 「完全なる智慧と慈悲の成就者」です。

 世の中の真実を見る智慧と、迷える一切のものを救済する慈悲、無碍の光明と無量の寿命とが仏の心のすべてです。

 そして、真にこの心を成就した仏こそ、阿弥陀仏−光寿二無量の仏−と呼ばれる仏にほかなりません。

 そうすると、阿弥陀仏の心はただ一つ、迷える一切の衆生を必ず救わずにはおかないという願いのみであり、この救いのはたらきが仏の本願力なのです。

 いうなれば、阿弥陀仏は、一片の清浄心もなく、一善さえなしえない邪悪なる凡愚を救うために、仏の宝蔵を開いて教えの真髄を衆生に与えているのです。

 これは、まさしく阿弥陀仏の教法が動き、衆生を仏果に至らしめるためにはたらいている相、すなわち行業だといえます。

 まさに

 「教」がそのまま

 「行」として躍動しているのです。

 「教」がそのまま

 「行」として動き、十方世界の迷える一切の衆生を救済する。

 ここに阿弥陀仏大悲の相があるが故に、十方世界の諸仏は、それぞれ己が国土の迷妄の衆生のために、阿弥陀仏のこの大悲の真相を説示します。

 ここに、諸仏の大悲のはたらきがあります。

 十方世界の迷える衆生には、直接阿弥陀仏の言葉を理解する能力がありません。

 そのため、衆生は諸仏の大悲によってのみ、阿弥陀仏の教法に出遇うことができるのです。

 これを私たちの娑婆国土に重ねると、この国土の仏である釈迦仏の本質はあくまでも人間であり、身体面では人間としての資質しか持ち合わせていません。

 たとえ、無限の智慧を開いて仏陀になられたのだとしても、その寿命に限りがあるならば、いかに無限の大悲を有しているといっても、その実践には限度があります。

 もしこの釈迦仏に無限の大悲の実践を可能にする道があるとすれば、真実躍動する無限の大悲の法を、この釈迦仏の国土に残すことのみです。

 したがって、阿弥陀仏の大悲の法の真実を説くことこそが、釈迦仏の大悲の真の成就であったということになります。