投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

 暑い時期がやってきますね、いよいよ夏本番です!

 暑い時期がやってきますね、いよいよ夏本番です!

 皆さんは、暑さ対策って何かされてりしますか?

 扇風機やエアコンなどの機器をつかったり、ウチワで扇いだり、薄着にしてみたり、身体に冷たい物をあててみたり、冷たい物を食べてみたり、いろんな方法がありますよね。

 私が最近ハマっている暑さ対策が、『風鈴の音色をきく』です!

これは前述した暑さ対策とは違って、風鈴自体が暑さそのものを変えていこうとするものではないので、効果は弱め?なのかもしれません。

日本では、冷房のない時代に、むしむしとした湿気の多い暑い夏に、それを乗り切るために風鈴の音をきいて、涼しさを感じてきた歴史があります。

そういうことから、風鈴といえば優しい感じのする音をイメージされる方も多いのではないでしょうか?

 皆さんは、風鈴というとどういったものを思い浮かべられますか?

私は最近までは「ガラス製の物」というイメージが強かったのですが、風情を感じるのが『銅製』のもの!

もちろん、感じ方は人それぞれですが、個人的にはオススメです!

 思い返してみると、暑い暑いと愚痴ばかりこぼして、夏そのものの『時間』というのを味わう余裕がなかった気がします。

 風鈴のやわらかく、響きのある、そして私自身に心のゆとりを与えてくれる音に、最近はすっかり虜になってしまい、お店などで風鈴をみかけると、その音をたしかめたくて、ついつい鳴らしてみるクセがついてしまいました。

 時には鳴らしすぎてお店の人にみられてしまったりすることも・・・(笑)

こうしてゆとりができたときに、自分をみつめなおしてみると、案外新しい発見があったりするような気がしますし、夏の感じ方もまた違ってみえて、暑さもかわってくるような気がします。

ぜひ皆さんも、今年の夏は風鈴の音をじっくりきいて、夏の暑さを味わってみてください!

どうしてお念珠は左手に持つのですか?

お念珠は、阿弥陀様をつつしんで敬い、礼拝するときの大切な法具です。

お念珠を掛けないで礼拝するということは、仏さまをわしづかみにするに等しい行為だとたしなめられた先人もおられました。

仏前に座るときや法事やお葬式などに参拝する場合には忘れずに持つようにしましょう。

さて、合掌礼拝の場合にはお念珠は手を合わせた両手に掛けますが、お勤めや合掌の姿勢以外のときは、お念珠は左手に持つのが浄土真宗のお作法です。

お念珠は古代インドの時代に起源を発しますが、左手にお念珠を持つ所以も、インドの伝統的な考え方にその由来の一端があるようです。

インドには、右手は清浄なる手、左手は不浄の手という考え方があります。

インド人の食事のスタイルといえば、お箸やスプーンなどは用いず、右手で食べ物を直接口に運ぶ姿が一般的です。

命の源である食べ物を直接右手でいただく。

これには右手は私の命の支えとして、清浄なる世界のはたらきがあると捉えられています。

ですので、清浄の手である右手は仏さまを表します。

また左手は、少し汚いお話しかもしれませんが、ごく一部の裕福な家庭や大都市で生活する人を除き、インドにはまだまだ身近にトイレットペーパーというものはありません。

多くのインド人は用を足したあと直接左手でお尻を拭きます。

日本という環境に暮らす私たちには信じられないかもしれませんが、これがインドです。

インドではどのトイレに入っても何故こんな位置にと不思議に思うような場所に水道の蛇口がついてますが、それは便を拭いた左手を洗うための蛇口であるそうです。

したがって左手は不浄を表し、どろどろとした感情を持つ私たち人間の世界を表しています。

つまりは仏さまの右手と、そして左手の私(人間)が胸の前で一つになり、仏さまと繋がる姿勢が「合掌」という姿であり、左手にお念珠を持つというのも、不浄な私がお念珠によって導かれ、仏さまと出遇う尊い仏さまの道具(仏具)としての役割がお念珠であります。

「音楽のキセキ」(上旬)口に出して言うことが大事

ご講師:吉俣良さん(作曲・編曲家)

大学時代、僕は県庁の職員になるつもりでした。

高校では吹奏楽部ですごく真剣に取り組んだんですが、高校時代のいい思い出のつもりだったんですね。

だから、大学でも4年間楽しもうという気持ちでジャズ研に入ってピアノを弾いていました。

夏休みで東京から鹿児島に帰ってきた際、高校の先輩の縁で、鹿児島大学のジャズ研の人たちと一緒にやるようになりました。

そこから鹿児島や東京のプロミュージシャンの人たちとつながりができていったんです。

当時は、音楽の世界でプロを目指すつもりは全くありませんでした。

それで冷やかしのつもりでその人たちのオーディションに行ってみたら受かってしまったんです。

僕は試験の都合で無理だと断ったんですが、向こうは僕を4カ月も待っていてくれたみたいなんですね。

それで断れなくなって、そのバンドの人たちと一緒に六本木のクラブでピアノを弾くことになりました。

1年くらいはいいかと思っていたら、そのうちプロの人とやるのが楽しくなり、楽器がほしくなりました。

楽器は高額でしたが、たまたま美空ひばりさんのバックバンドのオーディションがあったので、ダメもとで行ってみました。

結果はなんと合格。

それで1年経つころには音楽をやる気になっていましたね。

その後、美空ひばりさんのバックバンドの経験を買われて、いくつも仕事がくるようになりました。

でも演歌ばかりで、それが嫌で、周りの人に

「演歌は嫌だ」

と言っていたんです。

すると、それを聞いていた人がポップスの仕事などを紹介してくれたりして、かつて自分が憧れた仕事もできるようになりました。

不思議なことに、自分がそこに来ると、その先に行きたくなるんですよね。

次はレコーディングがしたいと周りの人に言っていました。

するとやっぱりそういう話をもってきてくれる人がいるんですよ。

僕がサントラ(サウンドトラック)の仕事をするようになったのも不思議なご縁でした。

レコーディングの仕事で知り合った、あるレコード会社のディレクターとの会話の中で

「次は何をしたいですか」

と問われたとき

「サントラやってみたい」

と何気なく答えたんです。

そうしたら、ちょうど『おいしい関係』というドラマの企画があって、彼が僕を推してくれたんです。

それからサントラの仕事をするようになりました。

そのころ作曲した中に『Kiss』という曲があります。

業界の人の信用をつかみ、当時無名だった吉俣良が独り立ちするきっかけになった曲です。

その後NHKの朝ドラ『こころ』や

「Dr.コトー診療所」

などの曲もやらせてもらいました。

話題のサントラ作家として取材がきたとき、僕は

「次は大河ドラマ」

などと記者の人に言っていましたが、それは全く重圧にならないんです。

どうせ話はこないと思っていましたから。

でも、口に出して言えばその話が来るかもしれないと信じているんです。

結局できなかったとしても、誰も何もいいませんよ。

でも実現すれば、有言実行の人になるんです。

だかせ言ってもいいんですよ。

言うことが大事なんですから。

歌手でも俳優でも何でも、自分がなれるわけないと、自分で自分の可能性を否定しないでほしいんです。

そういう有言実行を子どもたちにも伝えています。

『人が私を苦しめるのではない自らの思いで苦しむのだ』(前期)

我が家では、小学校・保育園に行く子どもたちがいますので、朝食は子どもたちの出発の時間に合わせて別々にいただくのですが、夜は家族みんなが揃って食事をします。

小学生の子どもが最初に食事を終えることが多いです。

食事を終えて、1人で廊下を歩いて部屋に戻ろうとするのですが、廊下の電気がついていないと

「暗くて怖いから一人でいけない」

と言って食事をしていた部屋に戻ってきます。

「自分の家の中なのにどうして怖いの」

とたずねると、

「だって暗いところはオバケがでそうで怖いんだよ」

という返事がかえってきました。

オバケというのはいわゆる幽霊のことだと思います。

暗いところには幽霊が出るかもしれないということをテレビで見たり、友達に聞いたりしていくうちに自然と頭で思い込んでいくのかもしれません。

以前私の友人がご法話の中で、日本人が思い浮かべる幽霊の特徴として次の3つが挙げられると教えてくれました。

1つ目は、手が前のめりになっているという特徴です。

確かに万歳やファティングポーズをとっている幽霊というのは聞いたことはありません。

たいがい手をまえのめりにして

「うらめしや」

と言っている姿を想像します。

私たちは暗いところを歩くとき、ライト等がないときには手を前に伸ばしながら前に障害物がないかと手探りで慎重に歩いていきます。

手を前のめりにしている姿というのは、実は未来にたいする不安を表現しているというのです。

2つ目は、髪の毛が長いという特徴です。

丸刈りの幽霊というのはあまり聞いたことがありません。

たいがい相場は髪が長いことになっているのです。

日本語の表現として

「後ろ髪を引かれる」

というような表現もありますが、髪が長いということは、過去に対する後悔の念を表しているということです。

3つ目は宙に浮いているという特徴です。

スタスタと幽霊が歩く姿よりも宙に浮いている姿を想像します。

宙を浮いているというのは、過去に対する後悔の念を持ちながら、未来に対する不安を抱え、落ち着いて、今・ここという場所にじっくりと立つことのできていない迷いの姿を表しているというのです。

幽霊とはまさに過去に対する後悔の念を持ちながら、未来に対する不安を抱え、落ち着いてしっかりと、今・ここという場所にじっくりと地に足を着けて立つことのできていない迷いの存在なのです。

迷うという表現はどのような時に使われるかを考えた時、我々は先に亡くなられたあのおじいちゃんはあの世で迷っていないだろうかと亡くなった人に対して使うことがあります。

しかし、よくよく考えていくと亡き人は浄土へと生まれ往き、仏とならせていただくのですから、迷っているのは亡くなった人ではなくまさに生きている我々が迷いの存在そのものなのです。

私たち人間の迷いの姿を幽霊は象徴的に表現しているのです。

「人が私を苦しめるのではない自らの思いで苦しむのだ」

とありました。

苦しみというのは、外からやってくるものではなく、自分自身の迷いの心が生み出していたのだということが、仏さまの教えを聞かせていただく中にはっきりと見えてくるのです。

迷っていることさえも気づいていなかったこの私が、仏さまの教えをお聞かせいただく中でいよいよいろんなことに振り回されて苦しみ、迷っている自分の姿に気づかされるのであります。

外の方にだけ向いていた目が、自分の側に向いていくそれが仏さまの教えに出遇うということなのです。

親鸞・登岳篇 鳴らぬ鐘 7月(1)

2013年7月1日

雲がくると、窓の外は、海のように青かった。

霧が去れば、机の上に、仄(ほの)かな峰の月が映す。

範宴は、宿房の一間に、坐っていた。

机の上には、儒学の師、日野民部から学んで白(はく)氏(し)文集(もんじゅう)が載っている。

これは、山へのぼってからも、離さない書物であった。

短檠(たんけい)の灯が、窓をあけておいても、揺れないほどに、夜は静かなのである。

――中堂の大厨(おおくりや)の方では、あしたの朝の僧衆のために、たくさんな豆腐を製(つく)っているとみえて、豆を煮るにおいがどこともなく流れてくる。

「誰です?」

範宴は、机から、板敷の方を振り向いた。

かたんと、音がしたようであったが、返辞がないので、

「栗鼠(りす)か」

と、つぶやいた。

よく、板の間を、栗鼠が後足で踊ってあるく。

時には、巨(おお)きな禽(とり)が来たり、床下から、山猫が琥珀(こはく)色(いろ)の眼で、人の顔を、のぞきあげたりする。

食物が、失くなることは、たびたびであるし、狐の尾に、衣の裾(すそ)を払われることは、夕方などめずらしくない。

(怖い)

山に馴れないうちは、範宴は、恐ろしくて幾たびも、都の灯が恋しかった。

座主から、

(そんなことでは)

と、笑われても、本能的に、恐かった。

座主はまた、

(世に、恐いものがあるとすれば、それは人間だ。人間に、恐いものがあるとすれば、それは自分だ。――自分の中に棲(す)む狐や、鷲や、栗鼠は、ほんとに恐い)

と、いわれた。

範宴にも、すこし、その意味がわかる気がした。

稚(おさな)い者に話す時には、稚い者にもわかるように、よく噛んで話してくれるのが、慈円座主の偉さであった。

都という話が出た時に、

(範宴――、よう見えるか)

と、ある時、比叡の峰から、京都の町を指していう。

範宴が、うなずいて、

(見えまする)と答えると、

(何が)と、訊ねた。

(町が、加茂川が、御所が。――それから、いろんなものが)

(もっと、よく見よ)

(遠いから、人は見えません)

(その人間の、生きる相(すがた)、亡びる相、争う相、泣く相、栄える相、血みどろな相――。見えるか)

(そんなのは、見えるわけはありません)

(いけない。……それでは、何も見えることになりはしない。おまえは、世間にいれば、世間が見えてると思っているだろう)

(ええ)

(大違いだ。――魚は河に棲んでいるけれど、河の大きな相は見えないのだ。悠久な、大河の源と、果てとを見極めるには、魚の眼ではいけない)

(では、何の眼ですか)

(仏の眼)

(ここは、河の中ではありません)

(叡山は、河の外だよ)

範宴は、なにか、うっすらと、教えをうけた。

それからは、都の灯を見ても、恋しいと思わなかった。

※「白氏文集」=中国・唐の白居易の詩文集で七十一巻。有名な「長恨歌」もこれに含まれる。平安時代に渡来した。

小説 親鸞・大衆(だいしゅ)6月(10)

「どうしたのじゃ、七郎どの。――いや孤雲どの」

「まあ、聞いて下さい」

庄司七郎の孤雲は、岩に腰をおろした。

性善坊も、草むらへ坐った。

憮然(ぶぜん)として、孤雲は、宵の月をながめていた。

何か、回顧しているように。

やがて、そっと、瞼をふいて、

「――もう、何年前になるか、あの六条様のお館へ、間者(かんじゃ)に入って、捕まった年からのことです」

「うむ……」

「主人の成田兵衛から、不首尾のかどで、暇(いとま)を出されたので、家にある老母や妻子にはすぐ飢えが見舞います。

そのうちに、京の大火の晩に、足弱な老母は、煙にまかれて死ぬし、妻は病気になる、子は、流行病(はやりやまい)にかかるという始末。

とやこうと、悪いことつづきのうちに、この身一人、生きながらえて後の家族どもは、皆、あの世の者となってしまい申した」

「それは、御不運な……」

性善坊は、慰めようのない気がした。

あの、平家の郎党としての兵(つわもの)ぶりは、今の孤雲の影のどこにも見あたらない。

「一時は、死のうかと、思いましたが、戦ならば、死ねもするが、武家の飯をたべた人間が、飢えや、不運に負けて、路傍で死ぬのも、残念でなりません。

――そのうちに不幸は、私のみでなく、旧(もと)の主人、成田兵衛さまも、宇治川の戦で、何かまずいことがあってから、御一門の覚えもよからず、また、御子息の寿童丸様は、次の、源氏討伐の軍(いくさ)に、元服してから初陣したはいいが、人にそそのかされたか、臆病風にふかれたか、陣の中から、脱走して、お行方知れずになってしまいなされた」

「おお、あの、日野塾でも、範宴さまとご一緒に、机をならべていた若殿でざったな」

「そうです。……ために、父の兵衛様は、人に顔向けできないといって、門を閉じておられましたが、近ごろ、沙汰するところによると、宗盛公から、死を賜って、自害されたという話……」

「ああ、悲惨。――誰に会っても、そんな話ばかりが多い」

「ふりかえってみると、十幾歳のお年まで、お傳役(もりやく)として、寿童丸様のおそばに仕えていたこの私にも大きな責任がございます。

――自体、わがままいっぱいに、お育てしたのが、悪かったのです。

ひとり、寿童丸さまばかりでなく、平家の公達(きんだち)

のうちには、戦を怖がって、出陣の途中から、逃げてしまうような柔弱者が、かなり多いのではございますが、全く、私のお傳(もり)をいたした方には、多大な過ちがありました」

「しかし、そのもとばかりの罪ではない。ご両親の罪――また平家自身のつくった世間の罪――。何ごとも、時勢ですから」

「でも、どうかして、いちど、故主の霊をなぐさめるために、寿童丸さまの行方をさがして、意見もし、また、微力をつくして、一人前の人間におさせ申さなければ、済まないと思うのです」

「よういわれた。暇を出された故主のために、そこまで、義をわすれぬ心がけは、見あげたものだ。――して、範宴さまを、訪ねてきた御用は」

「人のうわさによると、戦ぎらいの公達は、よく、三井や、叡山や、根来などの、学僧のあだに、姿を変えて匿(かく)れこむよしです。御像にすがって、中堂の座主から、もしや寿童丸さまに似た者が、山らに登っているか、いないか、お調べねがいたいと思って、やって参ったのでございます」

話し終わって、孤雲は、首を垂れた。

足もともつかれているらしい、胃も渇いているらしかった。