投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

親鸞・登岳篇 鳴らぬ鐘 7月(5)

誰も、進んで、応じる者はなかった。

――わずか十歳の童僧と、衆人の中で、法輪をやって、いい破ったところで、誇りにはならないし、敗れたらざまはない。

そういう打算は、すぐ、誰の胸にもうかぶことだし、御連枝(ごれんし)の出で名門の深窓から、青蓮院へ坐ったのみで、世間知らずの若い座主と心であまく見ていた慈円が、白皙(はくせき)な面を、やや紅らめて、きびしい態度に出ので、

(これは……)と少し意外にも思ったことに違いなかった。

慈円は、壁ぎわにいる人々の顔までを、ずっと見わたして、

「誰か、仰せ出られる人はないのか」

「…………」

いつまでも、座はしんとしていた。

二人の長老も、実は、そこまで、争う本心はなかったとみえて、尻押しの学僧たちが、だまってしまうと、立場を失ったように、もじもじしていた。

「そも、おのおのは、入壇とか、授戒ということを、俗人が、位階や出世の階梯(かいてい)でものぼるように、考えていられるのではないか、とんでもない間違いでおざる」

慈円は、そこでもう、常の温柔な面と語気にかえっていた。

濃い眉毛のうえに、ぽつんと、黒豆ぐらいな黒子(ほくろ)がある。

この容貌に、二位の冠を授けたら、どんなに、端麗であろうといつも人は見つつ想像することであった。

「いうまでもなく、入壇と申す儀は菩薩心への、達成でなければならぬ。生きながらすでに菩薩たる心にいたれる人に、仰讃(ぎょうさん)の式を行う、それが、授戒入壇の大会(だいえ)である。なんで、いたずらに、その域へ達せぬものに、この大会大戒の儀をゆるそうか」

「…………」

静かではあるが、慈円の声は、たとえば檜(ひのき)の木陰を深々と行く水のひびきのように、耳に寒かった。

「――また、菩薩心に達したものかは龍女のごとく、八歳にして、もう壇に入ることをゆるされた。後白河法皇の大戒をうけられたのも、たしか、お十歳に満たぬうちであった。おのおののうちで、すでに白(はく)髯(ぜん)をたれ、老眼にもなりながら、まだその心域にいたれぬ方があらば、まず、自身を恥じるがよい――また、若輩な学僧たちは、そんな他人のことに、騒ぎたてて、無益の時間をつぶす間に、なぜ、自身の修行を励まれぬか」

「…………」

「ふたたび申すが、わしは、ふかく範宴少納言の天質を愛しておる、同時におそれておる。師として、指導のよろしきを得ねば、梵天の悪魔に化すかも知れず、その珠たる質のみがきによって、この荒(すさ)び果てた法界の暗流る濁濤(だくとう)をすくう名玉となるかも知れない。その任を重く思うのだ。ひとたび、山を追われて、今の修羅(しゅら)の世に出て、あの雄叫(おたけ)びを聞いたなら、おそらく、彼は、源義朝の嫡男たちと共に、業火の下に、鉄弓もしごく男になろう」

「…………」

黙々と、人々は、慈円の顔をみているばかりだった。

慈円の眉には、弟子として、また一個の人間範宴のゆくすえや、範宴の性格や才や、あらゆる些細なものまでを朝夕の眼にとめて、ふかく、その将来を案じている容子(ようす)が歴々と読めた。

「いや、ようわかりました」

初めは脱兎のごとく、終わりは処女のように、四王院がそこそこに座をすべると、他の若法師たちも、気まりわるげに、退散してしまった。

※「龍女」=龍宮にいる龍王の娘。おとひめ。とくに沙伽羅龍王の娘。八歳で悟り、釈迦の前で男子に変成して成仏したという。賢い女のことも。

「音楽のキセキ」(中旬)歌詞の意味は全く分からないのに心を揺さぶられた

そして『篤姫』の作曲をすることになりました。

それは良かったのですが、1度に50〜60曲も書かないといけないのは本当に辛かったです。

東京で1人で作っていたら行き詰まってしまい、気分を変えるために、鹿児島に来ました。

桜島でも見ながら作曲しようと思い、当時の東急ホテルに楽器を持ち込んで、1人ホテルに籠もって書いていたんです。

あるとき、ホテルのベランダでCDを聴いていました。

朝崎郁江さんという歌手の島唄です。

それ聴いてをいたら、涙が止まらなくなったんです。

歌詞の意味は全く分からないのに心を揺さぶられました。

すごいと思いました。

それでできたのが『篤姫』の「良し」という曲です。

とても苦しかったのに、この人の曲を聴いていたら10分ほどでインイピレーションをもらったんだと思います。

この「良し」という曲については、実は、篤姫が鶴丸城から出ていくときに、朝崎さんの歌で送り出してもらいたいと思っていたんです。

それで、東京でやっていた朝崎さんのライブに行きました。

そこで朝崎さん唄について説明してくれました。

すると

「奄美は薩摩に虐げられ、書物を全部焼かれ、私たちが口で伝えなければいけないことがたくさんあるんです」

と言われたんです。

篤姫は薩摩の物語なので、これは頼めないと思い、何も言わずに帰りました。

その後、『篤姫』に関連してNHKが朝崎さんを取材したんです。

僕は、朝崎さんは薩摩が嫌いなんだと思い込んでいたんですが、朝崎さんはとても喜んで下さったそうです。

びっくりしました。

それから僕と朝崎さんは、とても仲がいいんです。

朝崎さんが歌うところには、必ず僕がいるというくらい一緒に仕事しています。

朝崎さんは今年で78歳。

だから余生は僕とずっと一緒にやりましょう、辞めるときは僕の手が動かなくなるか、朝崎さんの声が出なくなるかのどっちかですねと言っています。

それもやっぱりご縁だと思います。

ホテルでふと聴いた朝崎さんのCDから「良し」ができて、そこから朝崎さんと仲良くなって、今では大好きなアーティストと一緒に演奏することができている。

ものすごく楽しいです。

やっぱり人生は何が起こるかわからないと感じましたね。

『篤姫』やってよかったなと思います。

音楽を目指してもおらず、ピアノが大嫌いだった僕がプロになり、サントラ業界に入ったのは38歳でした。

それから10年の間に朝ドラと大河ドラマをやったわけです。

僕が出会ってきたいろんな人たちの誰か1人でも欠けていたら今の自分はいない。

そう思うと、超越した何かに、君はこの人と出会いなさいと導かれているように思います。

口に出して言って、そこに誰かとの縁ができて、誰かが自分のことを見ていてくれて、結局そういう風になるんだなとつくづく思います。

『人が私を苦しめるのではない自らの思いで苦しむのだ』(中期)

私たちは、どのような時に

「苦しい」と感じるでしょうか。

少なくとも、物事が自分の思い通りに運んでいる時には、

「楽しい」とは思っても「苦しい」と感じることはありません。

「苦」というのは「自情に逼迫(ひっぱ)している状態」であると言われます。

「自情」というのは自分の感情ということ、

「逼迫」というのは事態がさしせまり、余裕がなくなること」

で、感覚的には胸苦しく圧迫されるような状態ということです。

このことから、

「苦」というのは自分の思いによって余裕をなくし胸苦しく感じている状態だといえます。

これに対して「楽しい」は「自情に適悦」といわれますから、自分の思いにちょうど合致している状態のことだとえます。

このことから、同じ状態であっても、それを自分がどのように感じるかによって、「苦」と「楽」のいずれかに分かれるということになります。

それは、世の中に「苦しい状態」というものがあるのではなく、一定の状態を苦しいと感じる人がいる一方、楽しいと感じる人がいるということです。

このことを踏まえて、源信僧都は『往生要集』の中で「苦といい楽といい、ともに流転を出でず」と述べておられます。

「流転」というのは、言い換えると「自分を見失う」ということです。

私たちは、苦しい状態にあっても愚痴を言うという形で自分を失っていますし、楽しい状態にあってもその楽しみの中に自分を忘れて空しく日々を過ごしてしまうということがあります。

そこに、苦しみといっても楽しみといっても、常に自分を忘れたあり方を出ていないのが、私たちの姿だといわれるのです。

日頃、私たちは無意識の内に「世の中は自分の思い通りになるはずだ」と思っています。

たとえそこまで思っていないとしても、少なくとも自分の思い通りになることを漠然と期待しています。

反対に、病気をしたり、事故に遭ったりすることなど、不都合なことは自分の身だけには「起きない」ことにしています。

しかし、現実はなかなか私の思うようにはなりません。

仏教では「因果の道理」を説きます。

物事の結果には必ず原因があることを明らかにする教えですが、これに基づけば「思い通りにならない」という結果には

「思い通りになるはずだ」と決めつけている私の身勝手な思いという原因があるといえます。

したがって、予期していたことと結果が異なってしまったとしても、その原因は私にあるのですが、私たちの目はいつも外を向いてものを見ています。

そのため、物事が上手くいかなかったことの原因を自分の中にではなく、自分の外に、具体的には他の人の上に求めようとしてしまいます。

これがいわゆる「責任転嫁」ということですが、物事が思った通りにならないと

「あの人のせいで…」とか「この人のせいで…」などと愚痴をこぼしてしまうものですが、実は他人が私を苦しめているのではなく、自らの思いによって苦しんでいるだけなのです。

世の中には、同じ環境であっても、そこに意義を見出して生きがいを感じて生きている人もいれば、愚痴ばかりをこぼして世の中を呪っている人もいたりします。

私たちの周囲には、苦しい世界とか楽しい世界が色分けされて存在している訳ではありません。

ただ、与えられている状況を、自分の思いよって楽しいものとか苦しいものと受けとめている事実があるだけなのです。

ところが、このような自分のあり方に、自ら気付くことはなかなか難しいものです。

なぜなら、苦楽ともにそれによって自分を見失っていくのがこの私たちの迷いの世界だからです。

一方、苦といい楽といい、そのいずれをもあるがままに受け止めていける世界が、阿弥陀仏の浄土です。

私たちは、仏法に耳を傾けることによって初めて、自らの思いによって苦しむことなく、苦楽いずれにあっても、そのことによって自分というものを受け止め、自分というものを本当に生きていける私になれるのだと思います。

私は、子どもの頃から歴史、特に日本史が好きで

 私は、子どもの頃から歴史、特に日本史が好きで、中学や高校の歴史の授業はとても楽しみでした。

 また「好きこそ物の上手なれ」という諺がありますが、その言葉通り得意科目でもあったことから、高校時代の同級生の中には、私が大学の歴史学科に進学すると思っている人もいたほどです。

 そのようなこともあり、今に至るまで歴史関連の本をよく手にしているのですが、『学校では教えてくれない日本史の授業』(PHP文庫・井沢元彦著)という本を読むと、学校の授業では習わなかったことが多く書かれていて、教科書を通して学んだことがいわゆる

 「建前」の部分だとすると、この本は

 「本音」の部分を学ぶことが出来るような感じがしています。

 この本の著者である井沢氏には

 「逆説の日本史」という日本通史の著作があり、この本も全巻愛読しているのですが、

 「学生時代、日本史が苦手だった」という人も、井沢氏の本に書かれているようなことが教科書に書かれていると、

 「歴史は面白い」と思うのではないかという気がしています。

 何が面白いのかというと、

 「目から鱗(うろこ)が落ちる」という諺があります。

 これは

 「鱗で目をふさがれた状態のように、よく見えなかったものが急にその鱗が落ちて鮮明に見えるようになったということ」

 ですが、まさにこの本を読むとこの言葉を随所で実感することが出来るのです。

 そこで、今回はその中の一つを紹介することにします。

 まず「可楽」という言葉があるのですが、どのように読まれますか。

 おそらく、多くの方は「からく」と読まれるのではないかと思います。

 では、「可口可楽」はどのように読まれるでしょうか。

 「かくからく」でしょうか。

 あるいは、勘の鋭い人だと、『中国語で「コカコーラ」と読むのでは…』と、気づかれたかもしれませんね。

 そうです。

 これは、中国語表記で「コカコーラ」と読みます。

 そうすると「可楽」は「からく」と「コーラ」の二つの読みを持っていて、日本では「からく」

 でも中国に行くと「コーラ」と読むことが知られます。

 実は、日本史を学ぶ上で、このことはとても大切なことなのです。

 なぜかというと、このことを見過ごしてしまうと、見えるはずのことが見えなくなってしまうからです。

 では

 「邪馬台国」をどのように読まれますか。

 これは、誰もが

 「学校では“やまたいこく”と習ったけど…」

 と言われるに相違ありません。

 でも、これは本当にそのように読むのが正しいのでしょうか。

 学生時代を思い出していただくとよいのですが、

 「邪馬台国」の記録が残っているのは日本の書物ではなく、中国の『魏志』倭人伝という文献です。

 これは日本ではあまり知られていないことですが、中国は時代によって漢字の発音が違います。

 日本では「漢字」というように、基本的には漢王朝時代の発音がベースになっています。

 ところが、日本に伝わってきた時代が異なる言葉の中には、読みの違うものが少なからずあります。

 例えば、

 「行」という字は、

 「行動」と書くと「こう」と読みますが、

 「行灯」と書くと「あん」と読みます。

 「こう」は漢時代の読みで、「あん」は宋時代の読み方です。

 『魏志』倭人伝が著された時代の中国人は、日本のことを

 「倭(わ)」、日本人のことを「倭人」と呼んでいました。

 その倭人の住む国についての記述の中に

 「卑弥呼」という字を書く女王がいたこと、その国が「邪馬台国」という字を書く国であったと記されています。

 ただし、著者の陳寿は直接倭国に行った訳ではなく、関係者から聞いたことを書いたのだと思われます。

 したがって、これは

 「聞き書き」ということになります。

 そうすると、当然「邪馬台国」も出典文献である『魏志』倭人伝が書かれた三世紀末の西晋時代の発音で読むのが正しい読み方だといえます。

 実は、この時代の発音はどういうものだったのかということについてきちんと研究をする人がいて、当時の読み方が分かっているのだそうです。

 そこで、井沢氏が中国に行ってその研究者に

 「邪馬台」という字を見せ、

 「この字を三世紀の発音で読むと、どういう発音になりますか」

 と尋ねたところ、中国語は日本語より母音の数が多いので、その音をカタカナで正確に書くのは難しいらしいのですが、耳で聞いた音をできるだけ日本語に近い音で表記すると、それは

 「ヤマド」となるのだそうです。

 「ヤマド」というのは、日本史に照らして考えるとすぐに

 「大和(ヤマト)」の名が想起されます。

 よく知られているように、大和朝廷の始祖は、アマテラスという女神です。

 これは、邪馬台国の統治者が女王・卑弥呼であるという内容とも一致しています。

 このことから、『魏志』倭人伝が書かれた時代の発音から考えていくと、邪馬台国と大和朝廷は同じであることが窺い知られます。

 ところが、

 「邪馬台国」を「ヤマド」ではなく従来通り「やまたいこく」

 と日本式の発音で呼んでいたのでは、いつまでも「邪馬台国」と「大和朝廷」は関係があるのかないのかということにばかり関心が向いて、その本質的なところをとらえられないことになってしまう訳です。

 このように、それまで「常識だ」と思っていたようなことであっても、新たな視点からとらえ直すと、そうではないことが分かったり、見えなかったことが見えるようになったりします。

 そしてこれは、歴史だけに限ったことではなく、いろいろな分野においてもいえることだと思います。

 ともすれば、私たちは自分の経験してきたことや積み重ねてきた知識を絶対的なものとして、いつのまにかそこからだけしか物事を見たり考えたりすることが出来なくなっていたりします。

 ところが「邪馬台国」は、当時の中国の読み方に依れば「ヤマド」だということが分かると、そこからまた新たな事実が浮かび上がってくるように、常に自分自身のあり方やものの見方、考え方を見直していくことに留意していると、そこから新たなことに目が開かれてくるのではないかと思っています。

 のことから、に照らして考えると「大和(ヤマト)」が想起されまか

真宗講座末法時代の教と行 阿弥陀仏の大行 7月(中期)

 「教」を中心として、阿弥陀仏と釈迦仏の願い、大悲の躍動を求めるならば、ただ一方的に仏から衆生へのはたらきのみとなります。

 末法時代の仏法には、この

 「教」のみしか存在しないのですから、

 「教」が衆生に対してはたらくということは、末法時代における仏教の行道は、行道自体が逆の方向においてのみ成り立つということを意味しています。

 すなわち、末法時代における仏と衆生の関係は、衆生から仏へ救いを求めて願いをかけるのではありません。

 また、衆生が仏に対しその仏を念じ名を称するのでもなく、衆生が仏の方向に向かって行道するのでもありません。

 全く逆であって、仏がただ一方的に衆生の救済を願われるのです。

 それは、仏が衆生に対して、一心に自らの大悲が衆生によって信じられることを念じ、名号を通して

 「我が仏国土に来たれ!」

 と呼びかけてくださるということです。

 まさに、仏が衆生の方向に至り来たって、あたかも

 「逃ぐる者を追わえとる」かのように

 「摂取(救済)」してくださるのです。

 これが

 「教」のみしかない、末法時代の仏教の真相だといえます。

 そうすると

 「念仏」の意義もまた、それまでとは逆になります。

 末法の世の念仏とは、仏からの願いであり、言葉であり、はたらきであり、行業です。

 ここに念仏について、異質の二種の行法が顕かになります。

 一は、衆生が仏を念ずるという立場の念仏義です。

 この場合の念仏は、衆生の行として、凡夫から仏果へという行道を意味します。

 二は、仏が衆生を念ずるという立場の念仏義です。

 この場合の念仏は、念仏が救いの法として凡夫のもとに来たるというもので、仏から衆生へ、仏の教えがそのまま仏行となって衆生にはたらいていることを意味します。

 末法時代の念仏は、言うまでもなくただ第二の場においてのみ意義があるのであって、救いの法として、一切衆生を救うために念仏が仏の行となってあらわれ来っているのです。

 しかもこの念仏行においてのみ、

 「行」なき末法時代に、真の仏道としての行が成り立ち、同時に凡愚の証果への道が開かれます。

 この点を親鸞聖人は『教行信証』の結びで

 「聖道の諸教は行証久しく廃れ浄土の真宗は証道今盛りなり」

 と述べて、ここに今までの仏教には見ることの出来なかった、阿弥陀仏の本願の

 「行」という、全く新しい行道を展開されることになります。

 そして、この行道、すなわち阿弥陀仏の救済の法としての念仏を、親鸞聖人は

 「大行」と名付けられます。

 ここにおいて『無量寿経』の生因三願の意義は、それまでと逆転することになります。

 従来のように、衆生から仏へという行道の方向で生因三願の

 「行」を見る限り、第十八願の行道は劣悪愚鈍なる者に対して開かれている道であるため、第十九・二十の両願に比べると決して優れているとは言えないばかりか、行者(例えば聖道の諸師)の目から見ると、第十八願そのものが価値の低い願だと受けとられていました。

 たしかに、たとえどのような劣悪な者を救済するという弥陀の大悲、弘願意が示されているとしても、第十八願は決して他の二願に対して、超越した願とはなっていません。

 しかも愚鈍なる念仏者とは、自身の心に次のような二種のはからいを抱く者でしかありません。

 一は、果たして自分のように愚悪なる者でも、弥陀は救ってくださるのかというはからいであり、二は、自分はこのように一心に念仏に励んでいるのだから、救われて当然であるというはからいです。

 

 

親鸞・登岳篇 鳴らぬ鐘 7月(4)

後ろでひしめいている学僧たちの中で、

「阿闍梨、よけいなことは仰せられずに、一同の疑問について、疾く、糺されい」

と、誰かがどなった。

四王院は、うなずいて、

「座主!」

と膝をすすめた。

「――今日、吾々が推参いたしたのは、二十八日の大戒について、ちと、解せん儀があって参ったのでおざる」

「ご不審とな、何なりと、問われい」

「ほかではない」

静慮院も、共々に、詰問の膝を向けて、

「当、叡山はおろか、日本四カ所の戒壇においても、まだかつて、範宴のごとき童僧が、伝法授戒をうけた例(ため)しは耳にいたさぬが、そも、座主には何の見どころがあって、敢て、法城の鉄則を破ってまで、あの稚僧に、戒を授けらるるのか……。それが解せんことの第一義でござる」

慈円は、ほほ笑んで、

「はてさて、仏徒のまじわりもひろい。一院一寺をもあずかるおのおののことゆえ、それくらいなことは、ようご会得と存じていたが」

「山の鉄則を紊(みだ)すような、さような心得は、相持たん」

「ははは、余りにも、お考えが狭い。いわゆる、法を作るもの法に縛らるの喩(たと)え。そもそも、授戒のことは、必ずしも、年齢を標準にはせぬものじゃ。年さえ、加えれば、誰でも、大戒をゆるさるるとあっては、刻苦する者がなくなるであろう」

「詭弁(きべん)っ」

と、またうしろの法師頭の中から強くいう者があった。

四王院は、それら激励されて、

「――あいや、おことばには候が、十年二十年、この叡山に、苦行を積んでも、なおかつ、入壇はおろか、伝法のことすら受けぬものが、どれほどあるか」

「それは、ひとの人の天稟(てんぴん)がないか、あるいは、勉学が足らぬかの、ふたつでおざろう。――容(かたち)のみ、相(すがた)のみ、いかにも、荒かに、苦行精進いたすようになっても、秋栗の皮ほども、心のはじけぬ者もある。生れながらの団(どん)栗(ぐり)であればせひなき儀と思うよりほかはない」

「いや!谷の者らが、専ら取り沙汰するところによると、座主の僧正には、少納言に対して、依怙(えこ)を持たれると承る」

「それは、問わるるまでもなかろう」

「何ですと――では、明らかに、依怙贔屓(えこひいき)だと仰せられるか。――何とおのおの、そう聞いては、もう議論のほかじゃないか。座主は範宴を盲愛していられるのだ。私情のために、大法を蹂躙(ふみにじ)らるるとの自白だ」

喚き立てると、

「ひかえなされい!」

若い座主の面に、初めて、青年らしい血しおが、漲(みなぎ)った。

「わしは、範宴の天稟を愛す。わしは、範宴のすぐれた気質を愛す。見よ、彼は将来の法燈を、亡すか、興隆するか、いずれかの人間になろう。叡山人多しといえど誰か、十歳を出たばかりの範宴にすら勝る法師やある。

――その才において、その克己(こっき)おいて、その聡明において、その強情我慢なことにおいて。……嘘と思わるる方あらば、彼をここへ呼んで、まず、法論を闘わせてみられるがよい。和歌といわば和歌、儒学とあらば儒学、おそらく少納言は否むまい。望みの者は、仰せ出られい」