投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

親鸞・登岳篇 鳴らぬ鐘 7月(3)

月も末に近くなる。

範宴少納言の入壇の式は、近くなった。

それが、いよいよ、実現されることが、明確に知れわたると、若い学僧だけの騒ぎでなくなった。

「よし、よし、われらが参って、お若い新座主をたしなめてやろう。……誰でも、一山の司権の座にすわると、一度は、その権力を行使してみたいものだよ。……騒ぐな、必ず説服いたして、思いとどまらせて見せる」

年齢と苔の生えているような長老や、碩学たちが、杖をついて、根本中堂へ上って行った。

そして、座主に、面談を求めて入れかわり立ちかわり、少納言の入壇授戒を、反対した。

今日もである。

静慮院と、四王院の阿闍梨が先に立って、その中には、少壮派の妙光房だの、学識よりは、腕ぶしにおいて自信のありそうな若い法師たちが、中堂の御房の式台へ、汚い足をして、ぞろぞろと、上がり込んで行った。

座主の僧正は、

「おう、おそろいで」

と、にこやかに、書院をひらいて、待っていた。

ひろい部屋の三分の一が、人で埋まった。

みしみしと、荒い跫音(あしおと)で入って来た学僧どもも、ここへ入ると、

「さ、そちらへ」とか、「どうぞ」とか、席をゆずり合って、さすがに、壁ぎわへ、硬くなって坐るのだった。

四王院と、静慮院の二長老が、代表者として、むろん、一同の前へ出て、席を占めた。

毎日のことなので、慈円僧正は、この人々が、何の用事で来たかは、訊くまでもなく、分かっていた。

で、機先を制して、

「二十八日の通牒は、もう、おのおののお手許へも、届いたことと思うが、当日の式事については、諸事、ご遺漏(いろう)のないように頼みますぞ」

「…………」

誰も、答えなかった。

不満と、不平とが、ぴかぴかと眼に反抗をたたえて、そういう座主の面を見つめているだけなのである。

「座主」

四王院の阿闍梨が、老人のくせに、柘榴(ざくろ)のような色をしている口をまずひらいた。

「なにか」

と、慈円の眸(ひとみ)は、静かである。

「今の御意、正気でおわすか」

「ほ……、異(い)なおたずねである。おのおのにも、よろこんで、大戒の席に列していただきたいということが、酒にでも、酔うているように聞えますか」

「酔うているどころか、狂気の沙汰と思う」

相手の冷静な様子は、かえって、彼らの嚇怒(かくど)を熾(さか)んにした。

「よもやと存じて、今日まで、ひかえていたが、座主、御自身のお口から、さよういわるるからには、もう、黙してはおられん」

「何なりとも、仰せられい。叡山は、慈円のものにあらず、また、学僧のものにあらず、長老のものでもない」

「もちろん」

「衆生のものでござる」

「いや、仏のものだ」

「仏は、衆生を利したもうばかりに、下天しておわす。どちらでもよろしい」

親鸞・登岳篇 鳴らぬ鐘 7月(2)

短檠(たんけい)の丁字を剪(き)って、範宴が、ふたたび、机の上の白氏文集へ眼を曝(さら)しはじめると、

「さ……水を汲んできた。足を洗いなさい」

と、入口の方で、また、物音と人の気配がした。

やはり、狐(こ)狸(り)ではなかった。

範宴は、すこし、燭の位置を移して、うしろへ身をのばしながら、

「性善坊か」

すると、はっきり、

「ただ今帰りました」

彼の返辞であった。

すぐ上がってきて、

「範宴さま。ただいま、戻って来る途中で、ふしぎな人に会いました。後ろにつれて参りましたから、お会いして下さいまし」

といって、

「孤雲どの。こちらへ」

と、呼んだ。

怖る怖る、庄司七郎の孤雲は、そこへ来て、うつむきがちに坐った。

範宴は、小首をかしげて、

「はての?」

「おわかりになりませんか」

「知らないお方だ」

孤雲は、その時、しずからに顔を上げて―――

「ああ、よう御成人なさいましたな」

「あ。……七郎か」

「やはり覚えていらっしゃった」

と、孤雲は、ぼうぼうとした髭(ひげ)の中で、うれしげに、微笑した。

「忘れてなろうか、糺の原で、あやういところを、救うてくれた庄司七郎……。あの時、そなたは、なぜ逃げたのか」

「その仔細は――」

と、性善坊がひき取って、

「途々(みちみち)、聞いてきたところでございまする。私から、代わって、お話いたしましょう」

範宴は、眼をつぶらにして、聞いていた。

そして、

「ほう……、では、日野の学舎(まなびや)でこの身と共に机をならべていた寿童丸は、いまでは、行方が知れぬのか」

「里のうわさによると、この叡山に、知人があるゆえ、戦がやむまでその辺りに、隠れているのではないかと申すのだそうで」

「座主に、お願い申して、よう尋ねてあげよう」

「ありがどうぞんじます」

「だが――」

と、性善坊は側から――

「この叡山には、三千の学僧と、なお、僧籍のない荒法師やら堂衆やら、世間を逃げてきた者たちが、随分と、一時の方便で、身を変えているものも多いゆえ、容易には、知れまいと思うが……」

「ま……。いつまでも、おるがよい」

と範宴はなぐさめた。

孤雲は、ともすると、燭に面(おもて)を伏せてしまった。

――もう五、六年も前になるが寿童丸の腕白から、まだ、十八公麿といったころのこの君が、土で作っていた仏像を足蹴にかけたことだの、日野の館へ石を投げこんで罵りちらしたことだの……過去を思い出すと、背なかに、冷たい汗がながれる。

だが、範宴も、性善坊も、そんなことは、さらりと、忘れたように、

「孤雲どの、空腹(すきばら)ではないか」

と、いたわる。

「はい……実は……」

と、ありのままに答えると、

「では、粥(かゆ)でも、煮てあげい」

範宴がいう。

やはり菊の根には菊がさき、蓬(よもぎ)の根には蓬しか出ぬと、孤雲の七郎は、旧主の子と、範宴とを心のうちで較べて、さびしい気がした。

真宗講座末法時代の教と行 阿弥陀仏の大行 7月(前期)

 すでに見てきたように、末法の世では衆生から仏へという仏道は断ち切られています。

 つまり

 「証」への行道は既に閉ざされているということです。

 それは往生浄土の道でも同じで、清浄なる心が求められれば、迷える凡愚は一声の念仏も称えることはできません。

 このように

 「教」のみしか残っていないのが末法の世だとすれば、この

 「今」を生きる衆生においては、ただ仏の

 「教」のみを限りなく深く問うことが、そこに残された唯一の仏道となるのではないでしょうか。

 では、仏教は末法の衆生にいったい何を教えようとしているのでしょうか。

 ここで先に示した

 「教」の特性を振り返ると、

 「教」は仏から衆生へというはたらきを持っていたことが思い起こされます。

 「衆生から仏へ」という方向ではなく、

 「仏から衆生へ」という方向で

 「教」は私たちの方にはたらいて来るのです。

 そこで、

 「行」の場ではなく、

 「教」の場でこの仏教の究極を見つめると、何が明らかになるでしょうか。

 阿弥陀仏および釈迦仏は衆生に対し、何を願い、何を教えようとしているのでしょうか。

 また、その教えの中心は何でしょうか。

 仏陀とはいうまでもなく

 「完全なる智慧と慈悲の成就者」です。

 世の中の真実を見る智慧と、迷える一切のものを救済する慈悲、無碍の光明と無量の寿命とが仏の心のすべてです。

 そして、真にこの心を成就した仏こそ、阿弥陀仏−光寿二無量の仏−と呼ばれる仏にほかなりません。

 そうすると、阿弥陀仏の心はただ一つ、迷える一切の衆生を必ず救わずにはおかないという願いのみであり、この救いのはたらきが仏の本願力なのです。

 いうなれば、阿弥陀仏は、一片の清浄心もなく、一善さえなしえない邪悪なる凡愚を救うために、仏の宝蔵を開いて教えの真髄を衆生に与えているのです。

 これは、まさしく阿弥陀仏の教法が動き、衆生を仏果に至らしめるためにはたらいている相、すなわち行業だといえます。

 まさに

 「教」がそのまま

 「行」として躍動しているのです。

 「教」がそのまま

 「行」として動き、十方世界の迷える一切の衆生を救済する。

 ここに阿弥陀仏大悲の相があるが故に、十方世界の諸仏は、それぞれ己が国土の迷妄の衆生のために、阿弥陀仏のこの大悲の真相を説示します。

 ここに、諸仏の大悲のはたらきがあります。

 十方世界の迷える衆生には、直接阿弥陀仏の言葉を理解する能力がありません。

 そのため、衆生は諸仏の大悲によってのみ、阿弥陀仏の教法に出遇うことができるのです。

 これを私たちの娑婆国土に重ねると、この国土の仏である釈迦仏の本質はあくまでも人間であり、身体面では人間としての資質しか持ち合わせていません。

 たとえ、無限の智慧を開いて仏陀になられたのだとしても、その寿命に限りがあるならば、いかに無限の大悲を有しているといっても、その実践には限度があります。

 もしこの釈迦仏に無限の大悲の実践を可能にする道があるとすれば、真実躍動する無限の大悲の法を、この釈迦仏の国土に残すことのみです。

 したがって、阿弥陀仏の大悲の法の真実を説くことこそが、釈迦仏の大悲の真の成就であったということになります。

 

 

 暑い時期がやってきますね、いよいよ夏本番です!

 暑い時期がやってきますね、いよいよ夏本番です!

 皆さんは、暑さ対策って何かされてりしますか?

 扇風機やエアコンなどの機器をつかったり、ウチワで扇いだり、薄着にしてみたり、身体に冷たい物をあててみたり、冷たい物を食べてみたり、いろんな方法がありますよね。

 私が最近ハマっている暑さ対策が、『風鈴の音色をきく』です!

これは前述した暑さ対策とは違って、風鈴自体が暑さそのものを変えていこうとするものではないので、効果は弱め?なのかもしれません。

日本では、冷房のない時代に、むしむしとした湿気の多い暑い夏に、それを乗り切るために風鈴の音をきいて、涼しさを感じてきた歴史があります。

そういうことから、風鈴といえば優しい感じのする音をイメージされる方も多いのではないでしょうか?

 皆さんは、風鈴というとどういったものを思い浮かべられますか?

私は最近までは「ガラス製の物」というイメージが強かったのですが、風情を感じるのが『銅製』のもの!

もちろん、感じ方は人それぞれですが、個人的にはオススメです!

 思い返してみると、暑い暑いと愚痴ばかりこぼして、夏そのものの『時間』というのを味わう余裕がなかった気がします。

 風鈴のやわらかく、響きのある、そして私自身に心のゆとりを与えてくれる音に、最近はすっかり虜になってしまい、お店などで風鈴をみかけると、その音をたしかめたくて、ついつい鳴らしてみるクセがついてしまいました。

 時には鳴らしすぎてお店の人にみられてしまったりすることも・・・(笑)

こうしてゆとりができたときに、自分をみつめなおしてみると、案外新しい発見があったりするような気がしますし、夏の感じ方もまた違ってみえて、暑さもかわってくるような気がします。

ぜひ皆さんも、今年の夏は風鈴の音をじっくりきいて、夏の暑さを味わってみてください!

どうしてお念珠は左手に持つのですか?

お念珠は、阿弥陀様をつつしんで敬い、礼拝するときの大切な法具です。

お念珠を掛けないで礼拝するということは、仏さまをわしづかみにするに等しい行為だとたしなめられた先人もおられました。

仏前に座るときや法事やお葬式などに参拝する場合には忘れずに持つようにしましょう。

さて、合掌礼拝の場合にはお念珠は手を合わせた両手に掛けますが、お勤めや合掌の姿勢以外のときは、お念珠は左手に持つのが浄土真宗のお作法です。

お念珠は古代インドの時代に起源を発しますが、左手にお念珠を持つ所以も、インドの伝統的な考え方にその由来の一端があるようです。

インドには、右手は清浄なる手、左手は不浄の手という考え方があります。

インド人の食事のスタイルといえば、お箸やスプーンなどは用いず、右手で食べ物を直接口に運ぶ姿が一般的です。

命の源である食べ物を直接右手でいただく。

これには右手は私の命の支えとして、清浄なる世界のはたらきがあると捉えられています。

ですので、清浄の手である右手は仏さまを表します。

また左手は、少し汚いお話しかもしれませんが、ごく一部の裕福な家庭や大都市で生活する人を除き、インドにはまだまだ身近にトイレットペーパーというものはありません。

多くのインド人は用を足したあと直接左手でお尻を拭きます。

日本という環境に暮らす私たちには信じられないかもしれませんが、これがインドです。

インドではどのトイレに入っても何故こんな位置にと不思議に思うような場所に水道の蛇口がついてますが、それは便を拭いた左手を洗うための蛇口であるそうです。

したがって左手は不浄を表し、どろどろとした感情を持つ私たち人間の世界を表しています。

つまりは仏さまの右手と、そして左手の私(人間)が胸の前で一つになり、仏さまと繋がる姿勢が「合掌」という姿であり、左手にお念珠を持つというのも、不浄な私がお念珠によって導かれ、仏さまと出遇う尊い仏さまの道具(仏具)としての役割がお念珠であります。

「音楽のキセキ」(上旬)口に出して言うことが大事

ご講師:吉俣良さん(作曲・編曲家)

大学時代、僕は県庁の職員になるつもりでした。

高校では吹奏楽部ですごく真剣に取り組んだんですが、高校時代のいい思い出のつもりだったんですね。

だから、大学でも4年間楽しもうという気持ちでジャズ研に入ってピアノを弾いていました。

夏休みで東京から鹿児島に帰ってきた際、高校の先輩の縁で、鹿児島大学のジャズ研の人たちと一緒にやるようになりました。

そこから鹿児島や東京のプロミュージシャンの人たちとつながりができていったんです。

当時は、音楽の世界でプロを目指すつもりは全くありませんでした。

それで冷やかしのつもりでその人たちのオーディションに行ってみたら受かってしまったんです。

僕は試験の都合で無理だと断ったんですが、向こうは僕を4カ月も待っていてくれたみたいなんですね。

それで断れなくなって、そのバンドの人たちと一緒に六本木のクラブでピアノを弾くことになりました。

1年くらいはいいかと思っていたら、そのうちプロの人とやるのが楽しくなり、楽器がほしくなりました。

楽器は高額でしたが、たまたま美空ひばりさんのバックバンドのオーディションがあったので、ダメもとで行ってみました。

結果はなんと合格。

それで1年経つころには音楽をやる気になっていましたね。

その後、美空ひばりさんのバックバンドの経験を買われて、いくつも仕事がくるようになりました。

でも演歌ばかりで、それが嫌で、周りの人に

「演歌は嫌だ」

と言っていたんです。

すると、それを聞いていた人がポップスの仕事などを紹介してくれたりして、かつて自分が憧れた仕事もできるようになりました。

不思議なことに、自分がそこに来ると、その先に行きたくなるんですよね。

次はレコーディングがしたいと周りの人に言っていました。

するとやっぱりそういう話をもってきてくれる人がいるんですよ。

僕がサントラ(サウンドトラック)の仕事をするようになったのも不思議なご縁でした。

レコーディングの仕事で知り合った、あるレコード会社のディレクターとの会話の中で

「次は何をしたいですか」

と問われたとき

「サントラやってみたい」

と何気なく答えたんです。

そうしたら、ちょうど『おいしい関係』というドラマの企画があって、彼が僕を推してくれたんです。

それからサントラの仕事をするようになりました。

そのころ作曲した中に『Kiss』という曲があります。

業界の人の信用をつかみ、当時無名だった吉俣良が独り立ちするきっかけになった曲です。

その後NHKの朝ドラ『こころ』や

「Dr.コトー診療所」

などの曲もやらせてもらいました。

話題のサントラ作家として取材がきたとき、僕は

「次は大河ドラマ」

などと記者の人に言っていましたが、それは全く重圧にならないんです。

どうせ話はこないと思っていましたから。

でも、口に出して言えばその話が来るかもしれないと信じているんです。

結局できなかったとしても、誰も何もいいませんよ。

でも実現すれば、有言実行の人になるんです。

だかせ言ってもいいんですよ。

言うことが大事なんですから。

歌手でも俳優でも何でも、自分がなれるわけないと、自分で自分の可能性を否定しないでほしいんです。

そういう有言実行を子どもたちにも伝えています。