投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

親鸞・紅玉篇 5月(3)

人々の顔に、喜色が、かがやいた。

「そうか、ではすぐに、得度の式をしてとらそうぞ。衛門、用意を」

僧正の一令に、

「はっ」

と、衛門は立つ。

やがて、どっぷりと墨いろに暮れた御堂の棟木をつたわって、梵鐘(ぼんしょう)の音が、ひびいてくる。

廊には、龕(がん)の灯が、ほのかに点(とも)る。

勤行の僧たちの姿が、かなたの本堂で、赤くやけて見えた。

「どうぞ、こなたへ――」

と一人の僧が、それへ来て、用意のできたことを告げると、範綱は、十八公麿の手をとって、静々と、橋廊下をわたって行った。

供の侍従介も、影に添って、おそるおそる、二人のうしろから従(つ)いてゆく。

伽藍(がらん)には、一山の僧が、居ならんで、粛としていた。

座談の時とはちがって、慈円僧正は、やや恐いような厳かな顔をもって、七条の袈裟を、きちっと裁いて正面に坐っていた。

その前にある経机には香炉と、水瓶(すいびょう)をのせ、やや退がって、阿闍梨性範(あじゃりしょうはん)の席、左右には、式僧が、七名ずつ、これも、眼たたきもせずに、それへ入ってくる九歳の発心者(ほっしんしゃ)を、じっと、見つめていた。

僧が、そっと側(わき)へきて、

「和子、お召し物を、かえられい」

と、教えた。

「はい」

十八公麿は、すらり、と水干を脱いだ。

冷やかな、木綿の素服が、その前へ、与えられる。

――範綱はふと、胸がせまった。

「こちらへ」

僧が手をひいて、壇の前へ、坐らせた。

小さな彼の手は、彼がするともなく、また、人が教えるともなく、ひたと、合掌して、頭をすこし下げた。

流転三界中(るてんさんがいちゅう)

恩愛不能断(おんないふのうだん)

むらさきの糸がのぼるように、縷々(るる)と、香炉の中から、においが立って、同時に、列座の衆僧の声が朗々と、唱和した。

帰依大世尊(きえだいせそん)

能度三有苦(のうどさんうく)

十八公麿のくちびるも、共に、かすかにうごいていた。

彼の姿は、この天井のたかい大伽藍の底にすわると、よけいに、小さく見えるのであった。

「…………」

慈円僧正は、座を立った。

僧が二人、左右から、紙燭(ししょく)を捧げる。

一人の僧はまた、盤のうえに、剃刀(かみそり)をささげ、また、一人は十八公麿のそばに寄って、水瓶を捧げていた。

僧正の法衣の袖が、ふわりと、十八公麿の肩にかぶさった。

その手には、剃刀が執られている。

剃刀は、水瓶の水に濡らされて、きらりと、青く光った。

「…………」

範綱は、思わず、横の方へ、体をまわしてにじり出していた。

【どんな顔して――】と、十八公麿のすがたが、僧正や、他の僧のために見えないのが、もどかしいのであった。

しゃくっ……と、後ろで、誰かしのび泣きをもらした者がある。

はっと思って、範綱はふり返った。

板床の方に離れて控えた侍従介である。

まだ、十八公麿が、乳もふくまないうちから、あやしたり、負ったり、抱いたりしていた介としては、たまらない感情がこみあげていたに違いない。

親鸞・紅玉篇 5月(2)

中務省へ、使に走った者は、省の役人から、むずかしい法規と諮問をうけて、手間どっているのであろうか、なかなか、戻ってこなかった。

青蓮院のひろい内殿は、どこかの筧(かけひ)の水の音が、寒い夕風を生み、塗籠(ぬりごめ)からは、黄昏(たそが)れの色が、湧いてくる。

供の侍従介は、さっきから、廊の端に、坐ったまま、苑面(にわも)にちりしく白い桜花をじっと見入っていた。

「おそいのう」

慈円僧正は、気の毒そうにこうつぶやいた。

ゆらゆらと、短檠(たんけい)の灯が、運ばれてくる。

「官の小役人には、法にしばられて、法の精神を知らぬものがまま多い……。

こう遅うては、みずから参って、説かねばならぬかも知れぬ」

「なんの、待ちどおしいことがございましょうぞ。

お案じなく」

と、範綱はいった。

「したが、あまりにおそい――。こうしてはどうじゃ」

「はい」

「明日か、明後日、まいらば、十八公麿を伴うてござれ。

それまでには、官のこと、一切、御印可をいただいておくが」

「では、そう願いましょうか」

範綱が、答えて、立ちかけると、

「お父さま」

十八公麿が、言う。

「僧正さまの仰せじゃ。帰ろうぞ」

「いいえ」

かぶりを振って――

「いつまでも私は、待っていとうござります」

「わからぬ駄々をいうではない、さ……」

うながすと、十八公麿は、父が、朗詠する時の節をそのまま真似て、

あすありと

おもうこころの

あだざくら

夜半(よわ)にあらしの

ふかぬものかは…

愛らしい唇で、童歌のようにうたった。

「おお」

慈円僧正は、背を寒くしたように、その声に打たれた。

「よういった。……六条どの、待たねばなるまい、夜が明くるとも」

「はい」

ほろりと、範綱はいった。

うれしいのである。

この子の才智のひらめきが。

同時におそろしい。

こんなに光る珠を、なんで、平家の者が、眼をつけずにおくものか。

待とう。

――夜半にあらしのない限りもない。

介は、今の童歌の声に、

「ああ、あのお可愛らしいお姿も、今宵かぎりか」

と、洟(はな)をすすった。

夕闇にちる花は、白い虫のように、美しく、気味わるく、光のように明滅している。

と――そこへ、

「お使いの者、もどりました」

高松衛門が、あわただしく、告げてきた。

待ちかねて、

「どうあった?」

と、僧正がたずねると、使者は、次の間にぬかずいて、

「中務省の御印可、無事、下がりましてござります」

と、復命した。

親鸞・紅玉篇 5月(1)

「衛門――」

ふたたび僧正は呼んだ。

襖(ふすま)のさかいに、

「はいっ」

高松衛門はすぐ手をついて、

「お召しでございますか」

「火急に使いを立ててもらいたい。

中務省(なかさかさしょう)へ」

「畏(かしこ)まりました。

――して御口上は」

「前若狭守範綱どのの御猶子、十八公麿どのが望みにまかせ、今宵、得度の式を当院において仕る由を――」

「え」

衛門は、耳を疑うように、

「まいちど、うかがいまするが、お得度あるおん方は?……」

「ここにおられる、十八公麿どのである」

「や、その和子様が……。

して、お幾歳(いくつ)でござりまする」

「九歳です」

と、範綱が答えた。

「それでは、まだ童形でご修業あるはずの法規(おきて)でございます。

古来からの山門の伝習をお破りあそばしては、恐れながら、一山の衆(もの)が、不法を鳴らして、うるそう騒ぎはいたしませぬか」

「慈円が、身にひきうけたと申せ。

しかし、中務省の役人から、なにかの、諮問(しもん)はあろう」

「その折は、なんと、申したものでございましょうか」

「ただ、こういえ。不肖ながら、天台座主六十二世の座主、覚快法親王より三昧(さんまい)の奥義をうけて、青蓮院の伝燈をあずかり申す慈円が、身にかえての儀と」

「はっ」

「一山三塔の衆へは慈円より、あらためて道理(ことわり)を明白に申し伝えびょうと候と。――わかったか」

「わかりました」

「使者の帰りを、待つのじゃ。いそいで」

「はいっ」

高松衛門は、廊(わたり)を、つつつと小走りに退がった。

範綱は、幾度となく、僧正の好意に、感涙をのんだ。

そして、十八公麿の頭をなでて、

「うれしいか」

「はい」

十八公麿は、無心にいう。

しかし、慈円僧正だか、身にひきうけてとまでいいきって、官へ印可(いんか)をとりにやったのは一朝の決断ではなかった。

先刻からの座談のうちに、炯眼(けいがん)、はやくも、十八公麿の挙止を見て、

【この子、凡にあらず】と見ていたに、ちがいないのである。

これとよく似た話が、後に十八公麿が師とあおいだ黒谷の法然上人にもある。

法然房の君が、まだ勢至丸(せいしまる)といった稚(おさな)いころ、父を亡(うしな)ってひとり故郷(ふるさと)の美作国(みまさかのくに)から京へのぼってくる道すがら、さる貴人が、白馬の上から彼の姿を見かけて、

【あの童子は、凡者(ただもの)ともおぼえない。

どこへ参るのか、身の上を聞いてやれ】

と、従者にいった。

従者がなぜですかと、問うと、白馬の貴人は、こういった。

【おまえ達には、わからぬか。

あの童子の眸は、褐色をおびて、陽に向うと、さながら瑪瑙(めのう)のように光る。

なんで、凡人の子であろうぞ】

と、いったという。

果たせるかな、勢至丸は、やがて後の法然上人となった。

その時の白馬の貴人は、苦情関白忠通公で、縁といおうか、不思議といおうか、慈円僧正の父君であった。

「悲しみの感動よろこびの感動」(上旬)本当の悲しみは

ご講師:高千穂正史さん(仏厳寺住職)

人生で一番大切なのは

「健康」

という人が多いです。

何と言うても健康だ、お金じゃないぞ。

確かにそれもそうでしょうね。

健康は大事、どんなに長生きしても病気は辛いですし。

しかし

「健康第一」

というのは間違いですよ。

健康第一というなら、その健康が壊れた、病気になったらその人の人生は真っ暗闇ということです。

私は、健康がつまらんと言うているのじゃない、健康は大事なんです。

健康第一、お金第一、趣味第一、それぞれ大事だけど第一じゃない。

「第一」なのは何だろう。

それは

「いのちの感動」です。

それは今、日本人全部忘れている。

感動というのは、魂が揺すぶられるような感動です。

「ああ!」

という感動です。

今日は

「悲しみの感動よろこびの感動」

というテーマをあげてみました。

私が長い間、親鸞聖人から教えて頂いた感動。

それを皆さま方と味合わせて頂きます。

親鸞聖人の宗教、信仰というものは非常にきちっとした論理的なものです。

しかし、裏から見ますと、非常に大きな感動というものがあった、こういうふうに味わっています。

親鸞聖人のお書きになった中心的なお書物を『教行信証』と言います。

その中で、親鸞聖人は三つの感動を語っておられます。

最初は「悲しき哉」です。

この「哉(かな)」というのは感動の言葉です。

「悲しき哉、愚禿鸞」

で始まり、実に名文なんです。

「悲しい」

悲しみは感動でしょうね。

人生というのは、浮かれて便利で贅沢して生きていますけど、ある意味では悲しい面がありますよね。

私は結婚して男の子を三人亡くしているんです。

生まれては死に、生れては死にました。

どうしても生きていくことが出来ない。

そりゃ悲しいです。

その頃、昭和三十年頃は、まだ子ども用のお棺がないんです、だから、お菓子箱に錦を敷いて、小さい子どもを入れました。

まだ妻は入院しておりますし、一人で火葬場に行くんです。

今は火葬場もきれいですけど、昔は汚くてね。

小さい箱を持ってしゃがんで順番を待つんです。

生きることの出来なかった小さな子どもを抱えて。

ああいう悲しみというのは辛いですね。

人間というのは、そうそう良かこつばかりないですな。

悲しいもんですよ。

私のように、冗談ばっかり言っている男にもね。

「君見よ双眼の色語らざれば憂いなきに似たり」。

これは

「あの人の目をじっと見てご覧なさい。冗談ばっかり言っているけれども、目の奥に深い悲しみがありますよ」

という意味です。

私の好きな言葉で、良寛さんがきれいな字で書いています。

ところがね、親鸞聖人がおっしゃった悲しみというのはちょっと違います。

そういう世の中のいろいろなことと違います。

ご自分を痛まれたのです。

私ぐらい愚かな者はいない。

私ぐらい浅ましい者はいない。

私は仏さまになるどころか、仏さまから一番遠い所にいる生き物だ。

このようにご自分を

「悲しき哉」

と痛まれたのです。

これは大事なところです。

親鸞聖人は自分が悲しいとおっしゃった。

本当の悲しみの感動を味合われたのです。

真宗講座末法時代の教と行 5月(前期)

はじめに

煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのことみなもて、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします。

『歎異抄』の結びに記されている親鸞聖人の言葉です。

親鸞聖人は、私たち一人ひとりが織りなす行為の一切を

「そらごとたわごと、まことあることなし」

としながら、その中にあってただ一つ例外的に

「念仏」

のみを真実(まこと)と捉えておられます。

人間社会の出来事の全てを不実とおさえながら、なぜ親鸞聖人は念仏の中にのみ真実を見出されたのでしょうか。

その理由は簡単であって、この念仏を仏のはたらきだと見られたからに他なりません。

ここに親鸞聖人の

「念仏思想」

の独自性があり、他の仏教者には見ることのできない、おそらく親鸞聖人ただ一人の思想の特殊性が窺えます。

親鸞聖人のこの念仏思想は、『無量寿経』に説かれる第十八願の

「十念」

の教えを根源的な根拠にしておられることはいうまでもありません。

ところで、この

「十念」

とは、本来は阿弥陀仏を信じ一心にその浄土に往生したいと願う

「願生心」

の相続を意味する言葉でした。

ところが、中国浄土教においては、念仏思想の範疇の中で論ぜられることになり、さらに善導大師に至って

「南無阿弥陀仏」

の六字の名号を十度称える

「十声の称名」

の義に解されるようになりました。

そこで、善導大師の思想を承け継いでいる日本浄土教においては、

「十念」

といえば直ちに

「十声の称名」

念仏の意に解されている訳です。

こうして、親鸞聖人の

「念仏」

義は、名号・信心・称名といった意のすべてが有せられることになり、いわばそれらの義の総称が

「念仏」

という言葉で語られていると見られます。

ここに、親鸞聖人の念仏思想の今一つの特徴があると言えます。

けれども、仏教思想の常識から言えば

「念仏」

とは迷える衆生が、悟りを得るために修する行業の一つです。

念仏とは、どこまでも衆生の修すべき行業の一つなのであって、念仏が

「仏の行為」

だというような意味は、仏教思想のどこにも見出すことはできません。

にもかかわらず、なぜ親鸞聖人においては、

「大行」

という阿弥陀仏の廻向行の意が念仏義に成立し得たのでしょうか。

そこで、親鸞聖人にとって、念仏道とは何であったのかを求めてみたいと思います。

ビルマ(ミャンマー)のアウンサンスーチーさん来日の様子を・・・

先月(4月)中旬、ビルマ(ミャンマー)のアウンサンスーチーさん来日の様子を、多くのメディアが報道していました。

滞在中は政府要人との会見を初め、数カ所の大学を訪問して講演をされるなど、精力的に活動し、大勢の人々とのふれあいを大切にされるお姿がとても印象的でした。

私の母校でもある、浄土真宗の教えを建学の精神とする京都の龍谷大学での講演は、仏教徒としてその教えに沿って生きるスーチーさんの思いが特に深く込められたものであったようで、その講演の要旨が毎日新聞に掲載されておりました。

半世紀にわたる軍事政権下のビルマでは、怒りや争いが途絶えたことがなく、常にどこかに武器があり、未だに暴力での解決を望む人も少なくないそうです。

そのような状況の中でも、仏教徒は常に

「非暴力」

を貫き、復讐や権力を求めるということではなく、真の平和、平等の世の中を目指し、対話を持って問題の解決にとり組んできました。

仏教の実践とは、

「相手を慈しみ、大切にすること」。

相手が仏教徒であろうとなかろうと、どんな宗教であるかは関係なく、宗教で人々を隔てたり軽視したりすることがあってはならない。

それは真の仏教の道ではない。

たとえ自分と信じる宗教は違っても、全ての人々に対して平等に敬意を表し、同じように愛し慈しみ合うことが必要であるとお話しになっておられました。

また一方で、人々が慈しんでくれることを当たり前と考えてはいけない。

慈しみや優しさは要求したり、あるいは強制したりするものではない。

それは、自発的に与えられるものでなければならないともおっしゃっておられます。

記事の中で私が最も心動かされたのは、

「人間は最善のことができるのと同時に、最悪のこともできる」

という言葉でした。

まさに縁に触れれば何をしでかすか分からない私たち人間の持つ怖さを、体験をもとに実感を込めて述べておられるような気がいたします。

ほんの今まで平穏な心であったとしても、ちょっとした出来事や言葉がきっかけとなり、一瞬にして怒りや腹立ちの心に気持ちが入れ替わることは、往々にしてよくあることではないでしょうか。

スーチーさんの言葉の数々から

「仏教の実践」

ということの難しさを改めて問い質されたような気がしたことです。