投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

親鸞・登岳篇5月(5) くろかみ

銀杏が、黄ばんでくる――

秋となると、うるさいほどな鵙(もず)の声であった。

コウン、コウン、コン――青蓮院の山門には、足場がかかっていた。

夏の暴風(あらし)で破損した欄間彫(らんまぼり)へ二人の塗師(ぬりし)と三人の彫刻師(ほりし)とが来て、修繕していた。

「おい、祥雲(しょううん)」

ひとりが、鑿(のみ)を休めていう。

「なんだ」

「可愛らしい子じゃないか」

「ム、あの新発意(しぼち)か」

「どこかで、見たような気がするが……」

「おれも、そう思っている」

塗師が、

「飯にしようぜ」

足場を下りて行った。

「もう、午(ひる)か」

木屑を払いながら、彫刻師たちも、下へ辷(すべ)った。

秋蝉が、啼いている。

石井戸のそばに、坐りこんで、工匠(たくみ)たちは弁当をひらき初めた。

すると、院の廊下を、噂していた小さな新発意が、ちょこちょこと通って行った。

「もし、もし」

光斎(こうさい)という彫刻師がよびとめた廊下のうえで、範宴少納言はにこと笑った。

「なあに、おじさん」

「あなたは、お幾歳(いくつ)」

「九歳(ここのつ)」

「へエ、それでは、お小さいわけだ、いつから、この青蓮院へおいでになりました」

「春ごろから」

「じゃあ、半年にしかなりませんね」

「え、え」

「おっ母さんの乳がのみたいでしょう」

「ううん……」

範宴は、首を振った。

「お邸(やしき)は、どこですか」

「六条」

「では、源氏町のご近所で」

「え」

「ご両親が、戦に出て、討死にでもしたのですか」

「いいえ」

「どうして、お坊さんなぞに、なったんですか」

「知らない…」

「ご存知ない?」

「はい」

「お父様は、どなた」

「六条の朝臣範綱」

「え、六条さま。――道理で」

光斎は、仲間の祥雲と、何かささやき合っていたが、やがて、

「範宴さん」

「はい」

「じゃ、あなたは、日野の里で、お生まれなさったでしょう。

私たちは日野のご実家の方へ、半月ほど、仕事に参ったことがありましたっけ――大きくおなりになった」

「では、日野の館の仏間は、おまえたちがこしらえたの」

「あの中のご仏像を、やはり、修繕(なお)しにゆきました」

「おじさんたちは、仏像を彫るのがお仕事なの」

「そうです」

光斎は、しげしげと、欄にもたれている範宴をながめて、

「そのお顔を、そのまま彫ると、ほんとに、いい作ができるがなあ」

と、つぶやいた。

「じゃあ、彫ってもいいよ」

範宴は、すぐにでもできるように、そういって笑った。

※「新発意」=仏教で、発心して新たに仏門に入った者。出家して間のないもの、しんぽち、しんぼっちとも。

「悲しみの感動よろこびの感動」(中旬)「異星人」と思え

その次、二番目の感動は

「誠なる哉」です。

これは真実ということです。

仏さまのお心ひとつが真実だといわれるのです。

自分が少し気の利いた人間ならいいですよ。

でも、そうじゃない。

どうしようもない私を仏さまの真実が抱いていて下さるという感動です。

仏さまだけですよ。

どんな時でも、私を抱いていて下さるのは。

「有難いな、ナンマンダブ、ナンマンダブ」

という世界です。

子や孫でもね、お小遣いをやる時は

「ばあちゃん」

と言って寄ってきます。

でも叱ったりしたら

「クソババア」

と言うんですから。

一生懸命した揚げ句。

とにかく

「悲しき哉という私が誠なる哉」

という事実に目覚めていく。

この不実なる人生、不実なる私において、仏さまのお心だけが誠であり、真実であるということに出遇えた喜び、それは感動です。

この世の中で、何が頼りになるかというと、それはたったひとつ仏さまの真実心だけではないかということです。

私は、家族も大事だと思うんですよ。

家族も大事、お金も大事ですよ。

お金とういうものは大事なものですが、また恐ろしいものです。

本当、私はそう思います。

お金だけではないですよ。

人生は。

健康だけでもないですよ。

健康もまたうろついていく。

子や孫だってそうです。

私達はお金に心を奪われ、人からどう思われるからとか、つまらないことで肩に力をいれて居ます。

だから、真実は仏さましかいないんです。

最後に、これがまたいい言葉です。

「慶ばしい哉」といわれます。

これは「悲しき哉」という私が

「誠なる哉」という仏さまに出遇わせて頂いた、

「悲しき哉」

というこの不実な、浅ましい私が尊い仏さまの誠に抱かれているという慶びなんです。

慶ばしい、これに出遇わないと。

人生というのは、この世の中にこのことを聞きに来たんです。

私は今、九十四歳の母と暮らしています。

母は、とても元気でしっかりしています。

ただ、この会場においでの肩で介護の経験もある肩もいらっしゃるかもしれませんが、この十五年くらい夜がとても困るんです。

夜になると、急に気分が悪くなるんです。

そういうことは精神科のお医者さんにきくと、よくあることなのだそうです。

もう毎晩、困り果てています。

でも、昼はとてもいいばあちゃんです。

もし皆さんが、昼間に私を訪ねて来られたら、そら見事にいい挨拶をすると思いますよ。

もうピシャとします。

それが夜になると、どうしていうぐらい凄まじく怒ります。

人間が生きているということは大変なことですよ。

私に甘えているんだと思います。

十五分母の部屋にいないと大変ですから。

「まさふみさん」

と私を呼びます。

「お母さん、なんね」

と言いますと、

「おったかな」と…。

私は本の原稿を書いたり、いろいろと仕事がありますが、なかなか出来ません。

そこで、母の前で仕事をすると、また怒るんです。

だから、母の腰かけている椅子の横に何もせず腰かけていないといけない。

今日はどうしても原稿の締め切りがあると思って自分の部屋で原稿を書いていても、ものすごく怒ります。

「私ば好かんとだろう。

芯から好かんとだろう。

さっきから、いっちょん来ん」

といって怒ります。

そしてね、あれは多分どっかで計算しているんだろうと思いますけど、私が嫌だなと思うことを言いつのりますよ。

例えば

「早う死なんかって思うとっとだろう」

って言います。

皆さん、笑われますけどね。

人間はどうなるか分らんのです。

今笑った人が、そういうおばあちゃんになるかもしれないんです。

いや、本当にそうです。

親鸞聖人は、

「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」

とおっしゃっておられます。

人ごとじゃないんです。

友人の精神科医師のお医者さんに聞くと

「おふくろさんと思うけん、お前がくたびれとったい。

もう違う人格に変っているんだから異星人と思え」

と言います。

でも

「別の星から来た人」

思えますか。

皆さん。

思えないです僕には。

自分の母親をよその星から来た人だなんて、冗談じゃない。

私にとっては、おふくろですよ。

大切なおふくろなんです。

ただ…、やっぱりね、いいおふくろであって欲しいという思いはあるんです。

「隠れ念仏回覧文発見−禁制下、薩摩12講へ」

4月4日の南日本新聞に

「隠れ念仏回覧文発見−禁制下、薩摩12講へ」

という記事が掲載されました。

「隠れ念仏」

というのは、浄土真宗を信じることが禁じられた薩摩藩や人吉藩で、浄土真宗の門徒がひそかに続けた信仰形態のことです。

薩摩藩の治世下では、島津義弘が16世紀末に禁教令を出し、信教の自由が認められた1876年(明治9年9月5日)まで280年近くにわたって浄土真宗門徒へ取り締まりや弾圧が続きました。

にもかかわらず、浄土真宗の門徒は講という組織を作り、洞窟などに隠れてひそかに念仏を称えました。

特に江戸後期以降に強まった弾圧は指導者や武士階層に対して厳しく行われ、10万人以上の念仏者が摘発されたとも伝えられています。

そのため

「廻章」

を次に回すだけでも、おそらく命懸けのことだったと思われます。

今回発見されたのは、門徒が極秘に回覧した文書

「廻章(かいしょう)」

の写しで、南さつま市加世田の個人宅に保管されていたものです。

これには、門徒の組織である「講」を単位に情報を回覧した様子や文書の回収手順が記されているとのことで、当時の情報伝達の実態を知ることが出来る極めて貴重なものです。

今回見つかった

「廻章」は、1805(文化2)年に僧「全水」が書いたものとみられ、京都の本山(西本願寺)についての情報を薩摩の門徒に知らせることが目的だと明記してあるそうです。

さらに、回覧後は、薩摩藩内に潜伏中の僧

「令終」

が回収して持ち帰る手はずだとし、もしそれが難しい場合は

「火中に投じ」

て処分するように指示してあったとのことです。

また、同時に見つかった関連文書には、江戸時代後期、浄土真宗本願寺派内で起きた教義の正当性をめぐる紛争(三業惑乱)についても書かれていたとのことから、当時の薩摩の門徒は、最新の中央の情報に強い関心を寄せていたことが窺えます。

今回見つかったのは写しであったことから、原本は回収されたのか、あるいはなぜ摘発されれば証拠となる写しを、危険を顧みず作成したのかなど、

「廻章」

をめぐる調査は今も続いているそうです。

坊津歴史資料センター輝津館で、年内に企画展が開かれるそうなので、機会があれば一度見てみたいものです。

ところで、念仏禁制が解かれてから既に140年近くともなると、鹿児島県内においても、江戸時代全国的にキリスト教が幕府によって禁止弾圧されたことは学校の授業などを通して知ってはいても、それに輪をかけて自分たちの住んでいる鹿児島県で浄土真宗が禁止弾圧されたことを知っている人は極めて少なく、浄土真宗のご門徒の方でもそのことをご存知ない方の方が多いような状況です。

今回の貴重な資料の発見がひとつの契機となって、浄土真宗にご縁のある方々が、自分たちの先祖が命がけで守り伝えてきた念仏の教えとはいったいどのような教えなのか、そのことに強く関心を寄せるきっかけとなれば、大変有り難いご縁だと思うことです。

真宗講座末法時代の教と行 5月(中期)

末法の時代

竊(ひそか)におもんみれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道今盛りなり。

『教行信証』の後序冒頭の文です。

ここで親鸞聖人は、浄土の真宗は証道

「今」

盛りなりと言われ、同時に対句的に、聖道の諸行は行証

「久しく」

廃れと述べておられます。

「今」と

「久しく」、

それはどのような

「時」

を指しているのでしょうか。

今日的な立場からすれば、この

「今」

は『教行信証』に記されている承元の法難の時である承元元(1207)年、あるいはこの書の執筆時だとされている元仁元(1224)年といった、親鸞聖人のご生涯のある一点をおさえて、そのいつかを問い特定することが科学的見方であるかのように思われます。

けれども、それは親鸞聖人が説こうとしておられる

「今」

の立場ではありません。

なぜなら、それでは

「久しく」

という言葉が生かされないからです。

むしろこの場合は、そのようなある一点をも含みながら、もう少し広がりをもたせて、親鸞聖人は自身が実存しているこの

「今」

の時代を、どのように捉えておられたのかを尋ねることが重要だといえます。

そうすると、強烈に

「末法の時代」

であることを意識しておられた親鸞聖人の姿が、ここに浮かびあがってくることになります。

さて、親鸞聖人は、なぜあのように厳しく聖道門の教と機を廃除されたのでしょうか。

それに加えて、浄土門の第十九願要門の定散の機と、さらには第二十願真門の機さえをも、

本願の嘉号を以ておのれが善根とするが故に信を生ずることあたはず、仏智を了らず、かの因を建立せることを了知することあたはざる故に報土に入ることなきなり。

と、彼らが仏果に至り得ざることを、このように明確に断言することができたのでしょうか。

それは

「今」

が末法であるという自覚のもとに、末法の世のどうにも出来ない厳然たる事実を見抜かれたからだと思われます。

だからこそ、

信に知んぬ、聖道の諸教は在世・正法のためにして、全く像末・法滅の時機にあらず。

すでに時を失し機に乖けるなり。

浄土真宗は在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萌ひとしく悲引したまふをや。

と、浄土真宗すなわち阿弥陀仏の第十八願の法のみが、末法の愚悪なる一切のものを仏果に至らしめるのだと言明されます。

にもかかわらず、我が国土の現実は、この末代の旨際を知らずして、こともあろうにその浄土の教えに危害を加えています。

ここに憤りをもって

今の時の道俗おのれが分を思量せよ

と、この時代の仏道の求め方を厳しく批判されます。

では、親鸞聖人は

「末法の時代」

を強く意識しつつ、しかも末法の世における仏教の

「証」

を、どのように求められたのでしょうか。

『にげる私を追いかけてついてはなれぬ御仏(おや)がいる』(中期)

一般に、私たちが宗教的な救いを求めようとするのは、大きな悩みや苦しみを抱えて自分の力ではどうにもならなくなり、その苦悩を神仏の力によって解決しようとする時です。

その場合、一心に拝んだり、何らかの行に励むことが求められたりします。

ところが、阿弥陀如来という仏さまは、私に何の条件をつけることなく、しかも私が願うに先立って、私を願い、私に

「まかせよ、必ず救う!」

とよびかけていてくださいます。

親鸞聖人は、この阿弥陀如来のこころを

「摂取不捨の救い」

と説いておられます。

そして、そのこころを

「摂はものの逃ぐるを追はへ取るなり、摂はをさめとる、取は迎へとる」

と記しておられます。

「ものの逃ぐるを」の

「もの」とは

「衆生」

つまり生きとし生けるもののことで、

「阿弥陀如来という仏さまは、逃げてゆくものをおいかけて、迎えとってくださる仏さまである」

と述べておられる訳です。

ところで、浄土真宗では昔から説法の中で、阿弥陀如来のことをしばしば

「おやさま」

という言葉で言い表してきました。

その際

『「親」という文字は、

「木」+「立」+「見」

から成り立っていることから分かるように、木の上に立って(子どもを)見ている姿に由来している』

と説明される方もいらっしゃいます。

話としては大変味わい深いのですが、実はこの説明の仕方は間違いです。

「親」という字に

「立(りつ)」は含まれていません。

「親」という字は、右旁の

「見」が文字の意味を示し、左旁の[辛+木]は

「シン」

という字音を表す発音記号です。

したがって、もともとの意味は

「対象に近付いて見る」です。

そこから

「近付く」「近い」

さらに

「親しむ」「親しい」

という意味になり、さらに

「他人に任せず、自分で対象に近付いて処理する」

ということから

「みずから」

という意味に使われるようになりました。

「あて名の人自身が開封し読んでほしいことを示す脇付け」

である「親展」の

「親」はこの意味です。

また、自分に

「近い」

ものは親類であることから、親類のことを

「親(しん)」

と言うようになり、やがて

「父親」「母親」

をという使い方が生じました。

これらの経緯から窺うと、

「親」

という文字が出来たときには

「おや」

という意味はなかったのですから、当然

「木の上に立って…」

という説明には、無理があると言わざるを得ません。

さて、ではなぜ浄土真宗では阿弥陀如来のことを

「おやさま」とか

「真実のおや」

などと言うのでしょうか。

それは

「おや」とは

「いつも子どもから目を離すことなく心を寄せている存在」

だからです。

「親」という文字が

「木の上に立って…」

と説かれることになったのも、文字の成り立ちよりも先に子どもを見守るという親の本質があり、たまたまそのこととが文字を一見したとき、まさにそのことを物語っているように思われたからかもしれません。

そして、そのことが人々に共感を持って受け入れられたからこそ、

「木の上に…」

ということが文字の成り立ちとして語り継がれてきたように推し量られます。

「子をもって知る親の恩」

という言葉があります。

子どものときには

「親の恩や有り難さを知れ」

と言われても、なかなかそのことを実感することはできないものです。

ところが、いざ自分が親になり、しかも子どもが夜中に熱を出したとか、けがをしたとか、嬉しいことよりもむしろ困ったり悩んだりしたときに、ふと

「ああ、自分もこんなふうに親に心配をかけていたんだな」

ということを子どもに教えられるものです。

振り返ってみますと、日頃私たちは自分勝手なことばかりをあれこれ願い、なかなか仏さまの教えに耳を傾けようとしないばかりか、願うに先立って自身が願われていることにさえ気付き得ないでいます。

それはまるで、仏さまの願い、よびかけから逃げ回っているかのようなありさまです。

そのような私を決して見捨てることなく、私の称える

「南無阿弥陀仏」

の声にまでなって呼びかけてくださる事実を、親鸞聖人は

「逃ぐるを追はへ取る」

という実感を持って述べられたように思われます。

親鸞・紅玉篇 5月(4)

【不作法者め!】声には、出さなかったが、範綱は、はたと、睨みつけた。

はっと、介は、自分の腕くびに、かみついて、顔をうつ伏せた。

介を、叱りはしたものの範綱自身こそ、瞼(まぶた)のものが、あやうく、こぼれそうだった。

【凡夫――】われを嘲(あざけ)りつつ、彼は、つい眼をそらしていた。

あの、小さい頭がと想像すると、たまらないのである。

――見たら、泣けてしまうだろうと思った。

すると、

「ご得度の式、すみました」

と、式僧がいった。

見ると、十八公麿の頭は、もう、あのふさふさしている若木の黒髪を剃り落して、瓜のように、愛らしい青さになっていた。

「もしっ……僧正様ッ、おねがいでござりますっ」

突然、一人の男が壇の前へ飛びだしてきて、べたっと、手をつかえた。

「あっ」

範綱は、驚いた。

僧正の足もとへ来て、泣いているのは、介であった。

「ぶしつけなっ、退がれっ」

範綱が、叱りつけると、

「あ、いや」

やさしく、僧正はささえて、

「なんじゃ」

と、介へたずねた。

介は、肩をふるわせて、

「お願いの儀、ほかではござりませぬが、永年、お乳の香のするころより、お傳(もり)の役、いたしました私、今、その和子様が、御得度あそばしますのを、なんで、このままよそにながめて、俗界にもどられましょう。

……どうぞ、いやしい雑人ではござりますが、この私も今宵の式のおついでに、お剃刀をいただかせて、くださいませ」

「ふーむ、そちも主に従って僧籍に入りたいというのか」

「はい」

「しおらしいことを」

僧正は、にこと、うなずいて、

「主従の情、そうもあろう――六条どの、この者の望み、かなえて取らせたいが、おもとには」

「さしつかえござりませぬ」

「では」

と、僧正は、ふたたび剃刀を執った。

花は、夜の風にのって、御堂の廊に、雪のように吹きこむ。

音誦朗々(おんずろうろう)――衆僧の読経もまたつづく。

【主従は三世――】と、介はうれしかった。

十八公麿は、もう、成りすました道心のように、彼の、剃られてゆく、頭をながめていた。

いっしゅ、またいっしゅ。

香は、春の夜を、現世を、夢ぞと教えるように立ちのぼる。

式は、済んだ。

白衣円顱(びゃくええんろ)のふたりのために、僧正は、法名をつけてくれた。

十八公麿は、範宴少納言。

介は性善坊。

「ありがどうぞんじまする」

二人は、手をつかえて、寒々とした頭を下げた。

その夜――更けてから。

キリ、キリ、と牛車の轍(わだち)は、ただひとり、黙然と、袖をかきあわせてさし俯向いた六条の範綱をのせて、青蓮院から粟田口の、さびしい、花吹雪の中を、帰ってゆくのであった。