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真宗講座末法時代の教と行 5月(中期)

末法の時代

竊(ひそか)におもんみれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道今盛りなり。

『教行信証』の後序冒頭の文です。

ここで親鸞聖人は、浄土の真宗は証道

「今」

盛りなりと言われ、同時に対句的に、聖道の諸行は行証

「久しく」

廃れと述べておられます。

「今」と

「久しく」、

それはどのような

「時」

を指しているのでしょうか。

今日的な立場からすれば、この

「今」

は『教行信証』に記されている承元の法難の時である承元元(1207)年、あるいはこの書の執筆時だとされている元仁元(1224)年といった、親鸞聖人のご生涯のある一点をおさえて、そのいつかを問い特定することが科学的見方であるかのように思われます。

けれども、それは親鸞聖人が説こうとしておられる

「今」

の立場ではありません。

なぜなら、それでは

「久しく」

という言葉が生かされないからです。

むしろこの場合は、そのようなある一点をも含みながら、もう少し広がりをもたせて、親鸞聖人は自身が実存しているこの

「今」

の時代を、どのように捉えておられたのかを尋ねることが重要だといえます。

そうすると、強烈に

「末法の時代」

であることを意識しておられた親鸞聖人の姿が、ここに浮かびあがってくることになります。

さて、親鸞聖人は、なぜあのように厳しく聖道門の教と機を廃除されたのでしょうか。

それに加えて、浄土門の第十九願要門の定散の機と、さらには第二十願真門の機さえをも、

本願の嘉号を以ておのれが善根とするが故に信を生ずることあたはず、仏智を了らず、かの因を建立せることを了知することあたはざる故に報土に入ることなきなり。

と、彼らが仏果に至り得ざることを、このように明確に断言することができたのでしょうか。

それは

「今」

が末法であるという自覚のもとに、末法の世のどうにも出来ない厳然たる事実を見抜かれたからだと思われます。

だからこそ、

信に知んぬ、聖道の諸教は在世・正法のためにして、全く像末・法滅の時機にあらず。

すでに時を失し機に乖けるなり。

浄土真宗は在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萌ひとしく悲引したまふをや。

と、浄土真宗すなわち阿弥陀仏の第十八願の法のみが、末法の愚悪なる一切のものを仏果に至らしめるのだと言明されます。

にもかかわらず、我が国土の現実は、この末代の旨際を知らずして、こともあろうにその浄土の教えに危害を加えています。

ここに憤りをもって

今の時の道俗おのれが分を思量せよ

と、この時代の仏道の求め方を厳しく批判されます。

では、親鸞聖人は

「末法の時代」

を強く意識しつつ、しかも末法の世における仏教の

「証」

を、どのように求められたのでしょうか。

『にげる私を追いかけてついてはなれぬ御仏(おや)がいる』(中期)

一般に、私たちが宗教的な救いを求めようとするのは、大きな悩みや苦しみを抱えて自分の力ではどうにもならなくなり、その苦悩を神仏の力によって解決しようとする時です。

その場合、一心に拝んだり、何らかの行に励むことが求められたりします。

ところが、阿弥陀如来という仏さまは、私に何の条件をつけることなく、しかも私が願うに先立って、私を願い、私に

「まかせよ、必ず救う!」

とよびかけていてくださいます。

親鸞聖人は、この阿弥陀如来のこころを

「摂取不捨の救い」

と説いておられます。

そして、そのこころを

「摂はものの逃ぐるを追はへ取るなり、摂はをさめとる、取は迎へとる」

と記しておられます。

「ものの逃ぐるを」の

「もの」とは

「衆生」

つまり生きとし生けるもののことで、

「阿弥陀如来という仏さまは、逃げてゆくものをおいかけて、迎えとってくださる仏さまである」

と述べておられる訳です。

ところで、浄土真宗では昔から説法の中で、阿弥陀如来のことをしばしば

「おやさま」

という言葉で言い表してきました。

その際

『「親」という文字は、

「木」+「立」+「見」

から成り立っていることから分かるように、木の上に立って(子どもを)見ている姿に由来している』

と説明される方もいらっしゃいます。

話としては大変味わい深いのですが、実はこの説明の仕方は間違いです。

「親」という字に

「立(りつ)」は含まれていません。

「親」という字は、右旁の

「見」が文字の意味を示し、左旁の[辛+木]は

「シン」

という字音を表す発音記号です。

したがって、もともとの意味は

「対象に近付いて見る」です。

そこから

「近付く」「近い」

さらに

「親しむ」「親しい」

という意味になり、さらに

「他人に任せず、自分で対象に近付いて処理する」

ということから

「みずから」

という意味に使われるようになりました。

「あて名の人自身が開封し読んでほしいことを示す脇付け」

である「親展」の

「親」はこの意味です。

また、自分に

「近い」

ものは親類であることから、親類のことを

「親(しん)」

と言うようになり、やがて

「父親」「母親」

をという使い方が生じました。

これらの経緯から窺うと、

「親」

という文字が出来たときには

「おや」

という意味はなかったのですから、当然

「木の上に立って…」

という説明には、無理があると言わざるを得ません。

さて、ではなぜ浄土真宗では阿弥陀如来のことを

「おやさま」とか

「真実のおや」

などと言うのでしょうか。

それは

「おや」とは

「いつも子どもから目を離すことなく心を寄せている存在」

だからです。

「親」という文字が

「木の上に立って…」

と説かれることになったのも、文字の成り立ちよりも先に子どもを見守るという親の本質があり、たまたまそのこととが文字を一見したとき、まさにそのことを物語っているように思われたからかもしれません。

そして、そのことが人々に共感を持って受け入れられたからこそ、

「木の上に…」

ということが文字の成り立ちとして語り継がれてきたように推し量られます。

「子をもって知る親の恩」

という言葉があります。

子どものときには

「親の恩や有り難さを知れ」

と言われても、なかなかそのことを実感することはできないものです。

ところが、いざ自分が親になり、しかも子どもが夜中に熱を出したとか、けがをしたとか、嬉しいことよりもむしろ困ったり悩んだりしたときに、ふと

「ああ、自分もこんなふうに親に心配をかけていたんだな」

ということを子どもに教えられるものです。

振り返ってみますと、日頃私たちは自分勝手なことばかりをあれこれ願い、なかなか仏さまの教えに耳を傾けようとしないばかりか、願うに先立って自身が願われていることにさえ気付き得ないでいます。

それはまるで、仏さまの願い、よびかけから逃げ回っているかのようなありさまです。

そのような私を決して見捨てることなく、私の称える

「南無阿弥陀仏」

の声にまでなって呼びかけてくださる事実を、親鸞聖人は

「逃ぐるを追はへ取る」

という実感を持って述べられたように思われます。

親鸞・紅玉篇 5月(4)

【不作法者め!】声には、出さなかったが、範綱は、はたと、睨みつけた。

はっと、介は、自分の腕くびに、かみついて、顔をうつ伏せた。

介を、叱りはしたものの範綱自身こそ、瞼(まぶた)のものが、あやうく、こぼれそうだった。

【凡夫――】われを嘲(あざけ)りつつ、彼は、つい眼をそらしていた。

あの、小さい頭がと想像すると、たまらないのである。

――見たら、泣けてしまうだろうと思った。

すると、

「ご得度の式、すみました」

と、式僧がいった。

見ると、十八公麿の頭は、もう、あのふさふさしている若木の黒髪を剃り落して、瓜のように、愛らしい青さになっていた。

「もしっ……僧正様ッ、おねがいでござりますっ」

突然、一人の男が壇の前へ飛びだしてきて、べたっと、手をつかえた。

「あっ」

範綱は、驚いた。

僧正の足もとへ来て、泣いているのは、介であった。

「ぶしつけなっ、退がれっ」

範綱が、叱りつけると、

「あ、いや」

やさしく、僧正はささえて、

「なんじゃ」

と、介へたずねた。

介は、肩をふるわせて、

「お願いの儀、ほかではござりませぬが、永年、お乳の香のするころより、お傳(もり)の役、いたしました私、今、その和子様が、御得度あそばしますのを、なんで、このままよそにながめて、俗界にもどられましょう。

……どうぞ、いやしい雑人ではござりますが、この私も今宵の式のおついでに、お剃刀をいただかせて、くださいませ」

「ふーむ、そちも主に従って僧籍に入りたいというのか」

「はい」

「しおらしいことを」

僧正は、にこと、うなずいて、

「主従の情、そうもあろう――六条どの、この者の望み、かなえて取らせたいが、おもとには」

「さしつかえござりませぬ」

「では」

と、僧正は、ふたたび剃刀を執った。

花は、夜の風にのって、御堂の廊に、雪のように吹きこむ。

音誦朗々(おんずろうろう)――衆僧の読経もまたつづく。

【主従は三世――】と、介はうれしかった。

十八公麿は、もう、成りすました道心のように、彼の、剃られてゆく、頭をながめていた。

いっしゅ、またいっしゅ。

香は、春の夜を、現世を、夢ぞと教えるように立ちのぼる。

式は、済んだ。

白衣円顱(びゃくええんろ)のふたりのために、僧正は、法名をつけてくれた。

十八公麿は、範宴少納言。

介は性善坊。

「ありがどうぞんじまする」

二人は、手をつかえて、寒々とした頭を下げた。

その夜――更けてから。

キリ、キリ、と牛車の轍(わだち)は、ただひとり、黙然と、袖をかきあわせてさし俯向いた六条の範綱をのせて、青蓮院から粟田口の、さびしい、花吹雪の中を、帰ってゆくのであった。

親鸞・紅玉篇 5月(3)

人々の顔に、喜色が、かがやいた。

「そうか、ではすぐに、得度の式をしてとらそうぞ。衛門、用意を」

僧正の一令に、

「はっ」

と、衛門は立つ。

やがて、どっぷりと墨いろに暮れた御堂の棟木をつたわって、梵鐘(ぼんしょう)の音が、ひびいてくる。

廊には、龕(がん)の灯が、ほのかに点(とも)る。

勤行の僧たちの姿が、かなたの本堂で、赤くやけて見えた。

「どうぞ、こなたへ――」

と一人の僧が、それへ来て、用意のできたことを告げると、範綱は、十八公麿の手をとって、静々と、橋廊下をわたって行った。

供の侍従介も、影に添って、おそるおそる、二人のうしろから従(つ)いてゆく。

伽藍(がらん)には、一山の僧が、居ならんで、粛としていた。

座談の時とはちがって、慈円僧正は、やや恐いような厳かな顔をもって、七条の袈裟を、きちっと裁いて正面に坐っていた。

その前にある経机には香炉と、水瓶(すいびょう)をのせ、やや退がって、阿闍梨性範(あじゃりしょうはん)の席、左右には、式僧が、七名ずつ、これも、眼たたきもせずに、それへ入ってくる九歳の発心者(ほっしんしゃ)を、じっと、見つめていた。

僧が、そっと側(わき)へきて、

「和子、お召し物を、かえられい」

と、教えた。

「はい」

十八公麿は、すらり、と水干を脱いだ。

冷やかな、木綿の素服が、その前へ、与えられる。

――範綱はふと、胸がせまった。

「こちらへ」

僧が手をひいて、壇の前へ、坐らせた。

小さな彼の手は、彼がするともなく、また、人が教えるともなく、ひたと、合掌して、頭をすこし下げた。

流転三界中(るてんさんがいちゅう)

恩愛不能断(おんないふのうだん)

むらさきの糸がのぼるように、縷々(るる)と、香炉の中から、においが立って、同時に、列座の衆僧の声が朗々と、唱和した。

帰依大世尊(きえだいせそん)

能度三有苦(のうどさんうく)

十八公麿のくちびるも、共に、かすかにうごいていた。

彼の姿は、この天井のたかい大伽藍の底にすわると、よけいに、小さく見えるのであった。

「…………」

慈円僧正は、座を立った。

僧が二人、左右から、紙燭(ししょく)を捧げる。

一人の僧はまた、盤のうえに、剃刀(かみそり)をささげ、また、一人は十八公麿のそばに寄って、水瓶を捧げていた。

僧正の法衣の袖が、ふわりと、十八公麿の肩にかぶさった。

その手には、剃刀が執られている。

剃刀は、水瓶の水に濡らされて、きらりと、青く光った。

「…………」

範綱は、思わず、横の方へ、体をまわしてにじり出していた。

【どんな顔して――】と、十八公麿のすがたが、僧正や、他の僧のために見えないのが、もどかしいのであった。

しゃくっ……と、後ろで、誰かしのび泣きをもらした者がある。

はっと思って、範綱はふり返った。

板床の方に離れて控えた侍従介である。

まだ、十八公麿が、乳もふくまないうちから、あやしたり、負ったり、抱いたりしていた介としては、たまらない感情がこみあげていたに違いない。

親鸞・紅玉篇 5月(2)

中務省へ、使に走った者は、省の役人から、むずかしい法規と諮問をうけて、手間どっているのであろうか、なかなか、戻ってこなかった。

青蓮院のひろい内殿は、どこかの筧(かけひ)の水の音が、寒い夕風を生み、塗籠(ぬりごめ)からは、黄昏(たそが)れの色が、湧いてくる。

供の侍従介は、さっきから、廊の端に、坐ったまま、苑面(にわも)にちりしく白い桜花をじっと見入っていた。

「おそいのう」

慈円僧正は、気の毒そうにこうつぶやいた。

ゆらゆらと、短檠(たんけい)の灯が、運ばれてくる。

「官の小役人には、法にしばられて、法の精神を知らぬものがまま多い……。

こう遅うては、みずから参って、説かねばならぬかも知れぬ」

「なんの、待ちどおしいことがございましょうぞ。

お案じなく」

と、範綱はいった。

「したが、あまりにおそい――。こうしてはどうじゃ」

「はい」

「明日か、明後日、まいらば、十八公麿を伴うてござれ。

それまでには、官のこと、一切、御印可をいただいておくが」

「では、そう願いましょうか」

範綱が、答えて、立ちかけると、

「お父さま」

十八公麿が、言う。

「僧正さまの仰せじゃ。帰ろうぞ」

「いいえ」

かぶりを振って――

「いつまでも私は、待っていとうござります」

「わからぬ駄々をいうではない、さ……」

うながすと、十八公麿は、父が、朗詠する時の節をそのまま真似て、

あすありと

おもうこころの

あだざくら

夜半(よわ)にあらしの

ふかぬものかは…

愛らしい唇で、童歌のようにうたった。

「おお」

慈円僧正は、背を寒くしたように、その声に打たれた。

「よういった。……六条どの、待たねばなるまい、夜が明くるとも」

「はい」

ほろりと、範綱はいった。

うれしいのである。

この子の才智のひらめきが。

同時におそろしい。

こんなに光る珠を、なんで、平家の者が、眼をつけずにおくものか。

待とう。

――夜半にあらしのない限りもない。

介は、今の童歌の声に、

「ああ、あのお可愛らしいお姿も、今宵かぎりか」

と、洟(はな)をすすった。

夕闇にちる花は、白い虫のように、美しく、気味わるく、光のように明滅している。

と――そこへ、

「お使いの者、もどりました」

高松衛門が、あわただしく、告げてきた。

待ちかねて、

「どうあった?」

と、僧正がたずねると、使者は、次の間にぬかずいて、

「中務省の御印可、無事、下がりましてござります」

と、復命した。

親鸞・紅玉篇 5月(1)

「衛門――」

ふたたび僧正は呼んだ。

襖(ふすま)のさかいに、

「はいっ」

高松衛門はすぐ手をついて、

「お召しでございますか」

「火急に使いを立ててもらいたい。

中務省(なかさかさしょう)へ」

「畏(かしこ)まりました。

――して御口上は」

「前若狭守範綱どのの御猶子、十八公麿どのが望みにまかせ、今宵、得度の式を当院において仕る由を――」

「え」

衛門は、耳を疑うように、

「まいちど、うかがいまするが、お得度あるおん方は?……」

「ここにおられる、十八公麿どのである」

「や、その和子様が……。

して、お幾歳(いくつ)でござりまする」

「九歳です」

と、範綱が答えた。

「それでは、まだ童形でご修業あるはずの法規(おきて)でございます。

古来からの山門の伝習をお破りあそばしては、恐れながら、一山の衆(もの)が、不法を鳴らして、うるそう騒ぎはいたしませぬか」

「慈円が、身にひきうけたと申せ。

しかし、中務省の役人から、なにかの、諮問(しもん)はあろう」

「その折は、なんと、申したものでございましょうか」

「ただ、こういえ。不肖ながら、天台座主六十二世の座主、覚快法親王より三昧(さんまい)の奥義をうけて、青蓮院の伝燈をあずかり申す慈円が、身にかえての儀と」

「はっ」

「一山三塔の衆へは慈円より、あらためて道理(ことわり)を明白に申し伝えびょうと候と。――わかったか」

「わかりました」

「使者の帰りを、待つのじゃ。いそいで」

「はいっ」

高松衛門は、廊(わたり)を、つつつと小走りに退がった。

範綱は、幾度となく、僧正の好意に、感涙をのんだ。

そして、十八公麿の頭をなでて、

「うれしいか」

「はい」

十八公麿は、無心にいう。

しかし、慈円僧正だか、身にひきうけてとまでいいきって、官へ印可(いんか)をとりにやったのは一朝の決断ではなかった。

先刻からの座談のうちに、炯眼(けいがん)、はやくも、十八公麿の挙止を見て、

【この子、凡にあらず】と見ていたに、ちがいないのである。

これとよく似た話が、後に十八公麿が師とあおいだ黒谷の法然上人にもある。

法然房の君が、まだ勢至丸(せいしまる)といった稚(おさな)いころ、父を亡(うしな)ってひとり故郷(ふるさと)の美作国(みまさかのくに)から京へのぼってくる道すがら、さる貴人が、白馬の上から彼の姿を見かけて、

【あの童子は、凡者(ただもの)ともおぼえない。

どこへ参るのか、身の上を聞いてやれ】

と、従者にいった。

従者がなぜですかと、問うと、白馬の貴人は、こういった。

【おまえ達には、わからぬか。

あの童子の眸は、褐色をおびて、陽に向うと、さながら瑪瑙(めのう)のように光る。

なんで、凡人の子であろうぞ】

と、いったという。

果たせるかな、勢至丸は、やがて後の法然上人となった。

その時の白馬の貴人は、苦情関白忠通公で、縁といおうか、不思議といおうか、慈円僧正の父君であった。