投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「悲しみの感動よろこびの感動」(下旬)涙が溢れ出て…

元気がいいですからね、十二時半ぐらいまで起きています。

やっと母を寝かしつけて、それから原稿を書いたり、いろいろな仕事をします。

そして寝て二時間ぐらいしたら、また母が私を呼びます。

「私が死んだら、どぎゃんするかな」

って言います。

そんな時ですね、爆発するんですよ。

もう押さえていたものが。

「お母さん違うよ、しっかり長生きせないかんたい」

と言うて、自分の部屋に帰って、たまに机を叩くことがあります。

バーンと爆発するんでしょうね。

もちろん、私は母に荒い言葉を言うたり、手をあげたりすることは絶対にありませんけど、もうたまらんようになるんです。

机を叩いた後、涙が噴き出るように出る。

なんという自分だろうか。

たった一人の母親、金持ちの家から貧乏な寺に嫁いで、私を産み、私の父は二十六年間も声が出なかったんですから、そりゃ苦労した母ですよ。

全部分かっとる、理屈ではね。

分かっていながら

「ああ」

と言って机を叩いてしまう。

自分、もう涙が溢れ出ます。

その時に、お念仏が出るんです。

ナンマンダブ、ナンマンダブ…。

悲しい哉というそんな浅ましい私が、仏さまに許されている、抱かれている。

私は走ってご本堂に行きます。

そして、仏さまの前に座って、小さな声でお勤めをします。

こういうことを考えますとね、えらい自分のことばかり申しましたが、この人生の中でずいぶん世の中のも便利になり、豊かになり、贅沢になりましたが、

「悲しみの感動」、つまり私を見つめて、仏さまの光に照らされて、

「ああ、この愚かな浅ましい私」

と気付かせて頂く。

そうして、その浅ましい私が仏さまに抱かれている慶び。

「慶ばしい哉」

という喜びの感動。

これに出遇わせて頂くということが、非常に大事なことなのではないでしょうか。

『にげる私を追いかけてついてはなれぬ御仏(おや)がいる』(後期)

  苦悩、絶望の中だからおかげさまと出会えるどんなに小さくても

  どんなにかくれられてもチラッと足元が見えるだけで

  あなたと出会えます

(鈴木章子『癌告知のあとで』探究社刊)

これは、鈴木章子さんという、北海道の西念寺の坊守さん(お寺の奥さん)が、乳がんの告知を受け、47歳で亡くなるまでの3年間、病床において書かれた手記の中にある

「おかげさま」

という詩です。

私たちは、楽しいことや得した時、自分の都合のいい目に遭うと

「おかげさま」

と喜ぶけれど、苦悩や絶望の淵にあって、本当に

「おかげさま」

なんて言えるのでしょうか、私はそれは強がりではないのかと最初は素直に受け取ることが出来ませんでした。

しかし本を読み進めて行くうちに、章子さんが阿弥陀さまとの出会いのなかで、苦悩、絶望の私が、そのまんま受け取られ、不安のまま安心となる世界があるのかなと思えるようになりました。

親鸞聖人の和讃の中に

     『十方微塵世界の念仏の衆生をみそなわし

     摂取してすてざれば阿弥陀となづけたてまつる』

とあります。

私のあらゆる苦悩、絶望を見通して(真実の私)、それに気付かぬ私を追いかけ、けっして離れることなく私を救うと、働き続ける親がいるそれは阿弥陀さまという御仏(おや)であると訳せるでしょうか。

今までの自分は、本当の自分の姿に気付かないまま、あれが得,あれが損と目先の出来事に囚われ、全てが当り前と思っていた。

でもある日突然病気という苦悩・絶望の中に突き落とされ、悩み苦しむ中で、阿弥陀さまの

「必ず救う」

という願いに出会われた。

その中で、真実の命(諸行無常:自分の思うようにはならない)の姿に気付かされ、

「そんな苦悩を抱えるお前だからこそ離れないぞ、必ず仏となる

「いのち」

と生まれさせる」

と働き続けていてくれた御仏(おや)がいたと頂かれたのではないでしょうか。

どんな時でも、願われながら輝く命を今生きている。

それが真実の私であり

「おかげさま」

と喜んでおられるのでしょう。

そして気付かぬ私にその事を教えてくれたのが、苦悩、絶望という縁であったと頂かれたと思うのです。

合掌

かなり私事ですが…最近、引っ越しました。

かなり私事ですが…最近、引っ越しました。

引っ越し業者には頼まず家族だけで行ったのですが、荷造り〜搬送〜荷解き〜の連続で本当に大変でした・・・(>_<) 荷物の多さにビックリ!!! 「こんなにあったんだっ!!」 と感心しつつ!?(笑)、新しい居宅に移りました。 引っ越しもひと段落して主人の荷物を整理していると、『育児日記』と書いてある厚い本を発見!! 「なに?なに?…」 と思い開けてみると、主人のお母さんが書いていた育児日記でした。 母乳をどれくらい飲んで、何時に寝て、夜泣きを何回した・・・などなど... 毎日の赤ちゃんの様子や生活がこと細かく記録されていました。 日々の生活以外にも、お母さんになった喜びや不安、自分の両親(主人の祖父・祖母)への感謝の気持ちも書かれており、読み進めるうちにそこにお母さんがいるような気がして温かい気持ちになり、自然と涙が出てきました。 私も7月に出産を控えており、 「母親としてこんな良い教材は他にはないなっ」 と感じました。 愛情たっぷりなお母さんの育児日記を見ながら、初めての出産、育児を楽しんで頑張ります!!

親鸞・登岳篇5月(7)

「おお、ほんに」

範宴は、箭四郎の手をとって、

「よいものがある」

「なんでございますか」

「まあ、来てみやい」

自分の居間へつれていった。

「あ……」

箭四郎は、ぺたんと、部屋のまん中に坐って、一隅にある木彫の坐像にまろい眼をみはった。

それは、得度をうける前の十八公麿のすがたそのままであった。

頭には、黒髪まで、ふさふさと植えられてあるのである。

「これは、どうしたものでございますな」

「されば」

と、性善坊は、側から、その坐像のできた由来(わけ)を話すのに、つぶさであった。

光斎と、祥雲の二人の仏師は、十八公麿の面ざしを見て、よほど、心をひかれたらしい。

生ける菩薩のようだといって、慾も得もなく、彫ったのである。

そして、彫りあがると、

【よい勉強をいたしました】と、坐像は礼に置いて行ったのであるという。

「ははあ……」

箭四は、見恍(みと)れて、

「そういわれれば、生きうつしでござりますな。

して、黒髪は」

「和子さまが、得度の時の黒髪を、そっくり、仏師たちが、植えこんでくれたのじゃ」

「道理で……。ウウム、ようできている」

「箭四よ」

「はい」

「これを、お養父君と、弟の朝麿とに、十八公麿のかたみじゃと申して、そなたが、負うて帰ってくれぬか」

「なによりの儀にござります。

これをお館に置き遊ばしたら、すこしは、おさびしさが、紛れましょう」

「もう、二度と、この身にない相(すがた)じゃ。

――御恩のほどは、この像に、たましいをこめて、朝夕に、忘れずにおりますと、よう、お伝え申しての」

「しおらしいこと仰せあそばす……」

箭四郎は、それから、少し話していたが、日が暮れると、近ごろは気味がわるいといって、あわてて、坐像を帯で背に負って、もどって行った。

そしても山門まで送ってくる二人へ、

「ここにいては、町のことは、見も、お聞きも、遊ばしますまいが、いやもう、この夏の旱(ひでり)やら、木曾勢を討つつもりで出かけた宗盛卿が、さんざんに破れて、都へ逃げもどって来るやらで、京は、ひどい騒ぎの渦でござります」

歩きながら、尽きない話を、喋舌(しゃべ)っていた。

「――そんなかのう」

「現世で、地獄の風のふかない所は、まず、御所にもなし、お寺の庭だけでございましょうよ。

――昨夜(ゆうべ)あたり、五条の近くまで、用たしに出ると、磧(かわら)に、斬られたか、飢え死にしている死骸の着ている布を、あさましや、野武士カ、菰僧(こもそう)か、ようわかりませぬが、二、三人して、あばき合って、果ては掴(つか)みかかって争っているではございませんか。

まったく、眼を掩(おお)うてでなければ、町は歩いていられませぬ」

山門には、鴉(からす)が啼いていた。

「ああ、暮れる……」

と、つぶやいて、袖門の潜りを出て、箭四郎は、もいちど、振りかえった。

「では――ごきげんよろしゅう、和子さま、いや範宴様、これから寒くなりますから、おからだをな……介どの、さようなら」

「満中陰(49日)が三カ月にかかるとよくない」と聞きましたが、本当ですか?

お亡くなりになられた日から数えて七日目を初七日(しょなのか)といい、以降七日ごとに勤める法要を中陰法要といいます。

最後の七七日(なななのか)(四十九日(しじゅうくにち))を満中陰法要といいます。

地域によっては命日の前日(逮夜(たいや))から七日ごとに勤めるところもあります。

浄土真宗において中陰法要を勤める意義は追善のためでも冥福を祈るためでもありません。

即得往生、つまり命の縁尽きたと同時に阿弥陀如来のおはたらきによって浄土へ往生させていただく教えですので追善や冥福を祈る必要もないのです。

中陰は大切な方とのお別れを通して、亡き人を静かに偲びつつ、亡き人が命がけでお伝えて下さっている無常の理を他人事ではなく我が事として真摯に受け止めさせて頂き、お念仏のみ教えに出遇わせて頂く尊いご縁としていただきたいものです。

この中陰について

「四十九日(しじゅうくにち)が三月(みつき)にかかるとよくない」

ということを聞くことがあります。

みんながそういうからということで亡くなって三ヶ月にかかる前に満中陰(四十九日)の法要をお勤めすることも多いようです。

しかし、冷静に考えて見ますと月末に亡くなられた場合には、満中陰(四十九日)が三月にかかるのは当然のことです。

なぜ

「四十九日が三月にかかるといけない」

といわれるのかというと

「始終(しじゅう)苦(く)(四十九)が身につく(三月)」

からなのです。

これは全くの根拠のない語呂合わせの迷信そのものなのです。

しかしながら、大切な方を亡くされて混乱している時に親戚の人・周りの人からそう言われてしまうとついついそうなのかなあと流されてしまう実情があるようです。

本来は四十九日に満中陰法要をすべきであるけれども、四十九日よりも三十五日目の方が人が多く集まりやすいというのであればそれでもいいと思うのです。

けれども

「始終(しじゅう)苦(く)(四十九(しじゅうく))が身につく(三月(みつき))」

という迷信によって早めるというのは本末顛倒ではないかと思うのです。

迷信によって振り回されない人生をお念仏のみ教えを通して味あわせていただきましょう。

親鸞・登岳篇5月(6)

「彫らしてくれますか」

光斎と、祥雲の二人は、顔を見あわせた。

【彫りたい】

【彫ろう】という創作慾にそそられて、

「じゃあ、明日から、飯やすみのたびに、ここへ来てください」

と、約束した。

午(ひる)になると、二人は、足場を下りてきた。

範宴は、欄の上に立った。

材は、かなり大きな木を用いた。

三尺ぐらいな坐像に仕上げるつもりらしい。

二人の仏師は、飯をかみながら毎日、鑿(のみ)を持って、範宴の輪郭を少しずつ写して行った。

介の性善坊は、それを知ってから、毎日、側へ来て見ていた。

山門の足場に、白い霜が下りるころになると、その足場はわされて、仏師や塗師たちも来なくなった。

すると、初冬のある日、

「ごめん下さい」

範宴のいる僧院の外で、聞き馴れない声がした。

次の間にいた性善坊が、

「どなた?」

障子をあけると、

「おお!介じゃないか」

「箭四郎か」

「変ったのう」

「まあ、上がれ」

「山門のうちも、なかなか広くて、諸所に、僧坊があるので、さんざん迷うた」

「達者か」

「おぬしも」

「六条のお館は、和子様が、青蓮院にお入りあそばしてから、まるで、冬枯れの家のようにおさびしくてな」

「そうだろう。――し、お館様にも、おかわりないか」

「む……まず、ご無事と申そうか」

「して、今日は」

「この近くまで、お使いに来たので、そっと立ち寄って、和子様のご様子を聞いて返ろうかと……」

「そうか、よく寄ってくれた。

世間を去ると、世間が恋しい」

ふたりは、手をとり合ってて、涙ぐんでいた。

性善坊は、やがて立って、

「範宴さま」

「はい」

範宴は、書を読んでいた。

「――誰が見えたの」

「箭四が、参りました」

「おお」

と、さすがに、なつかしそうに、縁のほうへ走ってきた。

「和子様か」

変った彼のすがたにに、箭四郎は、洟をすすった。

「お養父(とう)様は」

「おかわりもございませぬ」

「朝麿は」

「お元気で、日にまして、ご成人でございまする」

「わしのこと、問うか」

「はい……。

このごろは、やっとすこし、お忘れのようでございますが」

「さびしがっておろうのう」

範宴は、庭へ下りて、籬(まがき)に咲いていた白菊を剪(き)った。

「これ、朝麿に、持って行って賜(た)も。――わしの土産に」

そういうと、性善坊が、

「よい土産がある。範宴さま、あれを箭四に持たせておつかわしなされてはいがかですか」