投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

親鸞・登岳篇5月(7)

「おお、ほんに」

範宴は、箭四郎の手をとって、

「よいものがある」

「なんでございますか」

「まあ、来てみやい」

自分の居間へつれていった。

「あ……」

箭四郎は、ぺたんと、部屋のまん中に坐って、一隅にある木彫の坐像にまろい眼をみはった。

それは、得度をうける前の十八公麿のすがたそのままであった。

頭には、黒髪まで、ふさふさと植えられてあるのである。

「これは、どうしたものでございますな」

「されば」

と、性善坊は、側から、その坐像のできた由来(わけ)を話すのに、つぶさであった。

光斎と、祥雲の二人の仏師は、十八公麿の面ざしを見て、よほど、心をひかれたらしい。

生ける菩薩のようだといって、慾も得もなく、彫ったのである。

そして、彫りあがると、

【よい勉強をいたしました】と、坐像は礼に置いて行ったのであるという。

「ははあ……」

箭四は、見恍(みと)れて、

「そういわれれば、生きうつしでござりますな。

して、黒髪は」

「和子さまが、得度の時の黒髪を、そっくり、仏師たちが、植えこんでくれたのじゃ」

「道理で……。ウウム、ようできている」

「箭四よ」

「はい」

「これを、お養父君と、弟の朝麿とに、十八公麿のかたみじゃと申して、そなたが、負うて帰ってくれぬか」

「なによりの儀にござります。

これをお館に置き遊ばしたら、すこしは、おさびしさが、紛れましょう」

「もう、二度と、この身にない相(すがた)じゃ。

――御恩のほどは、この像に、たましいをこめて、朝夕に、忘れずにおりますと、よう、お伝え申しての」

「しおらしいこと仰せあそばす……」

箭四郎は、それから、少し話していたが、日が暮れると、近ごろは気味がわるいといって、あわてて、坐像を帯で背に負って、もどって行った。

そしても山門まで送ってくる二人へ、

「ここにいては、町のことは、見も、お聞きも、遊ばしますまいが、いやもう、この夏の旱(ひでり)やら、木曾勢を討つつもりで出かけた宗盛卿が、さんざんに破れて、都へ逃げもどって来るやらで、京は、ひどい騒ぎの渦でござります」

歩きながら、尽きない話を、喋舌(しゃべ)っていた。

「――そんなかのう」

「現世で、地獄の風のふかない所は、まず、御所にもなし、お寺の庭だけでございましょうよ。

――昨夜(ゆうべ)あたり、五条の近くまで、用たしに出ると、磧(かわら)に、斬られたか、飢え死にしている死骸の着ている布を、あさましや、野武士カ、菰僧(こもそう)か、ようわかりませぬが、二、三人して、あばき合って、果ては掴(つか)みかかって争っているではございませんか。

まったく、眼を掩(おお)うてでなければ、町は歩いていられませぬ」

山門には、鴉(からす)が啼いていた。

「ああ、暮れる……」

と、つぶやいて、袖門の潜りを出て、箭四郎は、もいちど、振りかえった。

「では――ごきげんよろしゅう、和子さま、いや範宴様、これから寒くなりますから、おからだをな……介どの、さようなら」

「満中陰(49日)が三カ月にかかるとよくない」と聞きましたが、本当ですか?

お亡くなりになられた日から数えて七日目を初七日(しょなのか)といい、以降七日ごとに勤める法要を中陰法要といいます。

最後の七七日(なななのか)(四十九日(しじゅうくにち))を満中陰法要といいます。

地域によっては命日の前日(逮夜(たいや))から七日ごとに勤めるところもあります。

浄土真宗において中陰法要を勤める意義は追善のためでも冥福を祈るためでもありません。

即得往生、つまり命の縁尽きたと同時に阿弥陀如来のおはたらきによって浄土へ往生させていただく教えですので追善や冥福を祈る必要もないのです。

中陰は大切な方とのお別れを通して、亡き人を静かに偲びつつ、亡き人が命がけでお伝えて下さっている無常の理を他人事ではなく我が事として真摯に受け止めさせて頂き、お念仏のみ教えに出遇わせて頂く尊いご縁としていただきたいものです。

この中陰について

「四十九日(しじゅうくにち)が三月(みつき)にかかるとよくない」

ということを聞くことがあります。

みんながそういうからということで亡くなって三ヶ月にかかる前に満中陰(四十九日)の法要をお勤めすることも多いようです。

しかし、冷静に考えて見ますと月末に亡くなられた場合には、満中陰(四十九日)が三月にかかるのは当然のことです。

なぜ

「四十九日が三月にかかるといけない」

といわれるのかというと

「始終(しじゅう)苦(く)(四十九)が身につく(三月)」

からなのです。

これは全くの根拠のない語呂合わせの迷信そのものなのです。

しかしながら、大切な方を亡くされて混乱している時に親戚の人・周りの人からそう言われてしまうとついついそうなのかなあと流されてしまう実情があるようです。

本来は四十九日に満中陰法要をすべきであるけれども、四十九日よりも三十五日目の方が人が多く集まりやすいというのであればそれでもいいと思うのです。

けれども

「始終(しじゅう)苦(く)(四十九(しじゅうく))が身につく(三月(みつき))」

という迷信によって早めるというのは本末顛倒ではないかと思うのです。

迷信によって振り回されない人生をお念仏のみ教えを通して味あわせていただきましょう。

親鸞・登岳篇5月(6)

「彫らしてくれますか」

光斎と、祥雲の二人は、顔を見あわせた。

【彫りたい】

【彫ろう】という創作慾にそそられて、

「じゃあ、明日から、飯やすみのたびに、ここへ来てください」

と、約束した。

午(ひる)になると、二人は、足場を下りてきた。

範宴は、欄の上に立った。

材は、かなり大きな木を用いた。

三尺ぐらいな坐像に仕上げるつもりらしい。

二人の仏師は、飯をかみながら毎日、鑿(のみ)を持って、範宴の輪郭を少しずつ写して行った。

介の性善坊は、それを知ってから、毎日、側へ来て見ていた。

山門の足場に、白い霜が下りるころになると、その足場はわされて、仏師や塗師たちも来なくなった。

すると、初冬のある日、

「ごめん下さい」

範宴のいる僧院の外で、聞き馴れない声がした。

次の間にいた性善坊が、

「どなた?」

障子をあけると、

「おお!介じゃないか」

「箭四郎か」

「変ったのう」

「まあ、上がれ」

「山門のうちも、なかなか広くて、諸所に、僧坊があるので、さんざん迷うた」

「達者か」

「おぬしも」

「六条のお館は、和子様が、青蓮院にお入りあそばしてから、まるで、冬枯れの家のようにおさびしくてな」

「そうだろう。――し、お館様にも、おかわりないか」

「む……まず、ご無事と申そうか」

「して、今日は」

「この近くまで、お使いに来たので、そっと立ち寄って、和子様のご様子を聞いて返ろうかと……」

「そうか、よく寄ってくれた。

世間を去ると、世間が恋しい」

ふたりは、手をとり合ってて、涙ぐんでいた。

性善坊は、やがて立って、

「範宴さま」

「はい」

範宴は、書を読んでいた。

「――誰が見えたの」

「箭四が、参りました」

「おお」

と、さすがに、なつかしそうに、縁のほうへ走ってきた。

「和子様か」

変った彼のすがたにに、箭四郎は、洟をすすった。

「お養父(とう)様は」

「おかわりもございませぬ」

「朝麿は」

「お元気で、日にまして、ご成人でございまする」

「わしのこと、問うか」

「はい……。

このごろは、やっとすこし、お忘れのようでございますが」

「さびしがっておろうのう」

範宴は、庭へ下りて、籬(まがき)に咲いていた白菊を剪(き)った。

「これ、朝麿に、持って行って賜(た)も。――わしの土産に」

そういうと、性善坊が、

「よい土産がある。範宴さま、あれを箭四に持たせておつかわしなされてはいがかですか」

親鸞・登岳篇5月(5) くろかみ

銀杏が、黄ばんでくる――

秋となると、うるさいほどな鵙(もず)の声であった。

コウン、コウン、コン――青蓮院の山門には、足場がかかっていた。

夏の暴風(あらし)で破損した欄間彫(らんまぼり)へ二人の塗師(ぬりし)と三人の彫刻師(ほりし)とが来て、修繕していた。

「おい、祥雲(しょううん)」

ひとりが、鑿(のみ)を休めていう。

「なんだ」

「可愛らしい子じゃないか」

「ム、あの新発意(しぼち)か」

「どこかで、見たような気がするが……」

「おれも、そう思っている」

塗師が、

「飯にしようぜ」

足場を下りて行った。

「もう、午(ひる)か」

木屑を払いながら、彫刻師たちも、下へ辷(すべ)った。

秋蝉が、啼いている。

石井戸のそばに、坐りこんで、工匠(たくみ)たちは弁当をひらき初めた。

すると、院の廊下を、噂していた小さな新発意が、ちょこちょこと通って行った。

「もし、もし」

光斎(こうさい)という彫刻師がよびとめた廊下のうえで、範宴少納言はにこと笑った。

「なあに、おじさん」

「あなたは、お幾歳(いくつ)」

「九歳(ここのつ)」

「へエ、それでは、お小さいわけだ、いつから、この青蓮院へおいでになりました」

「春ごろから」

「じゃあ、半年にしかなりませんね」

「え、え」

「おっ母さんの乳がのみたいでしょう」

「ううん……」

範宴は、首を振った。

「お邸(やしき)は、どこですか」

「六条」

「では、源氏町のご近所で」

「え」

「ご両親が、戦に出て、討死にでもしたのですか」

「いいえ」

「どうして、お坊さんなぞに、なったんですか」

「知らない…」

「ご存知ない?」

「はい」

「お父様は、どなた」

「六条の朝臣範綱」

「え、六条さま。――道理で」

光斎は、仲間の祥雲と、何かささやき合っていたが、やがて、

「範宴さん」

「はい」

「じゃ、あなたは、日野の里で、お生まれなさったでしょう。

私たちは日野のご実家の方へ、半月ほど、仕事に参ったことがありましたっけ――大きくおなりになった」

「では、日野の館の仏間は、おまえたちがこしらえたの」

「あの中のご仏像を、やはり、修繕(なお)しにゆきました」

「おじさんたちは、仏像を彫るのがお仕事なの」

「そうです」

光斎は、しげしげと、欄にもたれている範宴をながめて、

「そのお顔を、そのまま彫ると、ほんとに、いい作ができるがなあ」

と、つぶやいた。

「じゃあ、彫ってもいいよ」

範宴は、すぐにでもできるように、そういって笑った。

※「新発意」=仏教で、発心して新たに仏門に入った者。出家して間のないもの、しんぽち、しんぼっちとも。

「悲しみの感動よろこびの感動」(中旬)「異星人」と思え

その次、二番目の感動は

「誠なる哉」です。

これは真実ということです。

仏さまのお心ひとつが真実だといわれるのです。

自分が少し気の利いた人間ならいいですよ。

でも、そうじゃない。

どうしようもない私を仏さまの真実が抱いていて下さるという感動です。

仏さまだけですよ。

どんな時でも、私を抱いていて下さるのは。

「有難いな、ナンマンダブ、ナンマンダブ」

という世界です。

子や孫でもね、お小遣いをやる時は

「ばあちゃん」

と言って寄ってきます。

でも叱ったりしたら

「クソババア」

と言うんですから。

一生懸命した揚げ句。

とにかく

「悲しき哉という私が誠なる哉」

という事実に目覚めていく。

この不実なる人生、不実なる私において、仏さまのお心だけが誠であり、真実であるということに出遇えた喜び、それは感動です。

この世の中で、何が頼りになるかというと、それはたったひとつ仏さまの真実心だけではないかということです。

私は、家族も大事だと思うんですよ。

家族も大事、お金も大事ですよ。

お金とういうものは大事なものですが、また恐ろしいものです。

本当、私はそう思います。

お金だけではないですよ。

人生は。

健康だけでもないですよ。

健康もまたうろついていく。

子や孫だってそうです。

私達はお金に心を奪われ、人からどう思われるからとか、つまらないことで肩に力をいれて居ます。

だから、真実は仏さましかいないんです。

最後に、これがまたいい言葉です。

「慶ばしい哉」といわれます。

これは「悲しき哉」という私が

「誠なる哉」という仏さまに出遇わせて頂いた、

「悲しき哉」

というこの不実な、浅ましい私が尊い仏さまの誠に抱かれているという慶びなんです。

慶ばしい、これに出遇わないと。

人生というのは、この世の中にこのことを聞きに来たんです。

私は今、九十四歳の母と暮らしています。

母は、とても元気でしっかりしています。

ただ、この会場においでの肩で介護の経験もある肩もいらっしゃるかもしれませんが、この十五年くらい夜がとても困るんです。

夜になると、急に気分が悪くなるんです。

そういうことは精神科のお医者さんにきくと、よくあることなのだそうです。

もう毎晩、困り果てています。

でも、昼はとてもいいばあちゃんです。

もし皆さんが、昼間に私を訪ねて来られたら、そら見事にいい挨拶をすると思いますよ。

もうピシャとします。

それが夜になると、どうしていうぐらい凄まじく怒ります。

人間が生きているということは大変なことですよ。

私に甘えているんだと思います。

十五分母の部屋にいないと大変ですから。

「まさふみさん」

と私を呼びます。

「お母さん、なんね」

と言いますと、

「おったかな」と…。

私は本の原稿を書いたり、いろいろと仕事がありますが、なかなか出来ません。

そこで、母の前で仕事をすると、また怒るんです。

だから、母の腰かけている椅子の横に何もせず腰かけていないといけない。

今日はどうしても原稿の締め切りがあると思って自分の部屋で原稿を書いていても、ものすごく怒ります。

「私ば好かんとだろう。

芯から好かんとだろう。

さっきから、いっちょん来ん」

といって怒ります。

そしてね、あれは多分どっかで計算しているんだろうと思いますけど、私が嫌だなと思うことを言いつのりますよ。

例えば

「早う死なんかって思うとっとだろう」

って言います。

皆さん、笑われますけどね。

人間はどうなるか分らんのです。

今笑った人が、そういうおばあちゃんになるかもしれないんです。

いや、本当にそうです。

親鸞聖人は、

「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」

とおっしゃっておられます。

人ごとじゃないんです。

友人の精神科医師のお医者さんに聞くと

「おふくろさんと思うけん、お前がくたびれとったい。

もう違う人格に変っているんだから異星人と思え」

と言います。

でも

「別の星から来た人」

思えますか。

皆さん。

思えないです僕には。

自分の母親をよその星から来た人だなんて、冗談じゃない。

私にとっては、おふくろですよ。

大切なおふくろなんです。

ただ…、やっぱりね、いいおふくろであって欲しいという思いはあるんです。

「隠れ念仏回覧文発見−禁制下、薩摩12講へ」

4月4日の南日本新聞に

「隠れ念仏回覧文発見−禁制下、薩摩12講へ」

という記事が掲載されました。

「隠れ念仏」

というのは、浄土真宗を信じることが禁じられた薩摩藩や人吉藩で、浄土真宗の門徒がひそかに続けた信仰形態のことです。

薩摩藩の治世下では、島津義弘が16世紀末に禁教令を出し、信教の自由が認められた1876年(明治9年9月5日)まで280年近くにわたって浄土真宗門徒へ取り締まりや弾圧が続きました。

にもかかわらず、浄土真宗の門徒は講という組織を作り、洞窟などに隠れてひそかに念仏を称えました。

特に江戸後期以降に強まった弾圧は指導者や武士階層に対して厳しく行われ、10万人以上の念仏者が摘発されたとも伝えられています。

そのため

「廻章」

を次に回すだけでも、おそらく命懸けのことだったと思われます。

今回発見されたのは、門徒が極秘に回覧した文書

「廻章(かいしょう)」

の写しで、南さつま市加世田の個人宅に保管されていたものです。

これには、門徒の組織である「講」を単位に情報を回覧した様子や文書の回収手順が記されているとのことで、当時の情報伝達の実態を知ることが出来る極めて貴重なものです。

今回見つかった

「廻章」は、1805(文化2)年に僧「全水」が書いたものとみられ、京都の本山(西本願寺)についての情報を薩摩の門徒に知らせることが目的だと明記してあるそうです。

さらに、回覧後は、薩摩藩内に潜伏中の僧

「令終」

が回収して持ち帰る手はずだとし、もしそれが難しい場合は

「火中に投じ」

て処分するように指示してあったとのことです。

また、同時に見つかった関連文書には、江戸時代後期、浄土真宗本願寺派内で起きた教義の正当性をめぐる紛争(三業惑乱)についても書かれていたとのことから、当時の薩摩の門徒は、最新の中央の情報に強い関心を寄せていたことが窺えます。

今回見つかったのは写しであったことから、原本は回収されたのか、あるいはなぜ摘発されれば証拠となる写しを、危険を顧みず作成したのかなど、

「廻章」

をめぐる調査は今も続いているそうです。

坊津歴史資料センター輝津館で、年内に企画展が開かれるそうなので、機会があれば一度見てみたいものです。

ところで、念仏禁制が解かれてから既に140年近くともなると、鹿児島県内においても、江戸時代全国的にキリスト教が幕府によって禁止弾圧されたことは学校の授業などを通して知ってはいても、それに輪をかけて自分たちの住んでいる鹿児島県で浄土真宗が禁止弾圧されたことを知っている人は極めて少なく、浄土真宗のご門徒の方でもそのことをご存知ない方の方が多いような状況です。

今回の貴重な資料の発見がひとつの契機となって、浄土真宗にご縁のある方々が、自分たちの先祖が命がけで守り伝えてきた念仏の教えとはいったいどのような教えなのか、そのことに強く関心を寄せるきっかけとなれば、大変有り難いご縁だと思うことです。