投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

お仏壇は、まだ家族に亡くなった人がいなくても購入していいものですか?

「お仏壇は亡くなった人がいなくても購入してもいいものですか?」

という質問は、言い換えると

「お仏壇は死んでから購入するものではないのですか?」

と受け止めることができます。

そういう言葉が出る背景として

「何もないのにお仏壇を購入すると、死人が出る」

という迷信が広く世間一般に流布している現状において、

「お仏壇は死者を祀るところ」

という間違った認識が自然と生まれてきているのです。

つまり、死者を祀るためのお仏壇を安置するわけですから、死者がいなければ困るわけです。

そこで

「お仏壇を先に購入すると入るべき死人が出る」

という短絡的な発想が生まれてきたのでしょう。

お仏壇というのは本来、死者をお祀りするところではありません。

阿弥陀さまをご安置するところなので仏壇というのです。

確かにお亡くなりになった先祖の方々をお仏壇で偲ぶことはあります。

それは、その阿弥陀さまのお浄土へ生まれ往かれたということを偲ぶという意味があるからです。

だからといって死者のためにお仏壇をご安置するわけではありません。

お仏壇をご安置するのは今、生きている私たちの心のよりどころとして常に身近に仰ぐためにご安置するのです。

人生には悲しいこと・辛い事・苦しいこと等様々な出来事が起こります。

しかし、どういう状況になろうともこの私をみまもり、支え続け必ずひかりといのち極みなきお浄土の世界へと導いて下さり、心からの安らぎを与えて下さる阿弥陀さまが私の家にまでお姿をあらわして下さっているのです。

それがお仏壇なのです。

ですから死者が出ていないから購入しないではなく、できれば各ご家庭に心のよりどころとしてお仏壇をご安置していただきたいものです。

拝む対象がなければなかなか掌が合わさらないのが私たちの姿です。

だからこそお仏壇をご安置して家族みんなで朝・夕お参りをして阿弥陀さまを身近に仰ぎながら、心豊かに日々の日暮しをさせていただきたいものです。

『にげる私を追いかけてついてはなれぬ御仏(おや)がいる』(前期)

浄土真宗の本尊は『阿弥陀如来(あみだにょらい)』という仏さまです。

この阿弥陀様を少々変わった呼び方で呼ぶ地域があるんだそうです。

どう呼ぶかといいますと、『親様(おやさま)』と呼ぶそうで、北陸や山陰地方ではこういった呼び方が用いられているんだそうです。

では、

「なぜこういった呼び方をするのか?」

といいますと、いのちの親という意味で呼んでいるんだそうです。

阿弥陀様を親のように思って、他人行儀ではなく、お念仏をおとなえする中で、いつも呼び交わし、仏の子としての自覚をもっているように感じます。

念仏者はみな仏の子。

阿弥陀如来は衆生、つまり私たちのいのちの親と言えますね。

さて、この阿弥陀如来ですが、少しの違いはあるかもしれませんが、どこのお寺の御本尊も、どこの家のご本尊も、木像であれば、少し前に傾いておられるのです。

イタリアにあるピサの斜塔のように、少し前に傾いておられます。

これはけっして、失敗して前に傾けて彫ったのではありません。

この前傾姿勢には理由があります。

南無阿弥陀仏のお念仏は、私たちへの阿弥陀さまからの願いが込められたはたらきですので

「私(阿弥陀仏)に南無(帰命・帰依)しなさい」。

つまり

「教えを聞きなさい」

という呼びかけなのです。

阿弥陀如来様の四十八の後光(四十八の願い)が私に向かって差しています。

これは阿弥陀如来様が私たちに、

「物事の道理や、真実に目覚めよ」

と呼びかけ、願いをかけて来てくださることを表しているのです。

そしていつでも・どこでも・どんな時でも、

「すぐに」

という意味が前傾姿勢となっているのです。

阿弥陀如来様は、私たちが気づかなくても、常に前傾姿勢で待っていて下さり、ついてははなれぬ御仏(おや)としていつもともにあるのですね。

南無阿弥陀仏。

小説 親鸞・花は夜風に乗って 4月(10)

「いうてみい」

慈円はいった。

「――身にかなうことならば、ほかならぬ六条どのの頼み。――してどういうことな?」

「……実は、この十八公麿に、お得度を賜りまわして末ながくお弟子の端にお加えくださるわけには、参りますまいか」

「ほ……」

慈円は、眼をみはって、

「この端麗に童形を、あたら、剃りこぼちて、僧院々入れたいと、仰せらるるか」

「されば、幼少からの仏心の性(さが)とみえて、常に、御寺(みてら)を慕うています」

「さあ、それだけでは」

「ことに、母を亡(うしの)うてから、なおさらに…」

「あいや、六条どの、それは稚(おさ)な心というものではないか。

母に仏心あれば、子に仏心のうつること当然、家に仏音あれば、この声に仏韻(ぶついん)の生じることまた当然。――すべて稚な子は、澄んだ水でござる。

それを、奇瑞(きずい)の、奇童のと、見るのはすでにわれら凡俗の眼があやまっている。

――あらゆる童心はすべて仏性(ぶっしょう)でござろうぞよ、おわかりか」

「は……」

「それを、老成の者が、この子、仏者の縁がふかいなどと思いすごして、僧院の沙弥(しゃみ)になされたら、成人の後、どう恨めしく思うやも知れぬ」

「御意に相違ありませぬ」

「せめて、自身を自身で考えられる年ごろまでお待ちなされ。得度と申しても、まだ九歳では」

「――御訓誡、ありがとう存じまする。

……にも拘(かか)わらず、慈悲の御袖(みそで)にすがって、おねがい申さねばならぬ儀は」

ここならば、どんなことを口外しても大事はないと思いながらも、範綱は、あたりを、つい見て、

「十八公麿の一身、仏陀のお膝のほかには、置きようがないのでござります」

「なぜ」

「源氏の人々、諸国に興って、平家をそう滅(そうめつ)せよの声、巷を、おののかせておりまする……。

血まようた平家の衆は、源氏のもの憎しの一図(いちず)で、およそ、源家の係累(けいるい)のものと聞けば、婦女子でも、引っ縛(から)げて、なにかと口実をとって必ず斬りまする」

「……」

だまって、慈円僧正はうなずきを見せる。

「すでに、お聞き及びでもござりましょうが、この子の生みの母は、源系(げんけい)源義家の孫、義朝の従兄妹にてさいつころから、大軍を糾合して、関東より攻めのぼるであろうと怖れられている頼朝、義経は、この十八公麿には復従兄弟(またいとこ)にあたるのでございます」

「ム。なるほど」

「母はみまかりました。

子はまだ九歳、ことに、私の猶子となって下りますゆえ、いかな平家のあらくれ武士も、よもやと思ってはおりますが、私に、恨みをふくむ者もあって、十八公麿の実父有範こそは、源三位頼政公の謀叛に加担して、宇治川のいくさの折に、討死にしたものであるなどと、あらぬ沙汰(さた)も撒(ま)きちらされ、ゆく末、怖ろしい気がいたすのでございます」

じっと、僧正は、考えこむのであったが、ややあって、

「いさい、わかった。頼みのこと、諾(き)いてとらそう」

意を決めて、きっぱり答えた。

小説 親鸞・花は夜風に乗って 4月(9)

「よい、童形じゃ」

慈円僧正は、しげしげと見入っていたが、卓に手をのばして、そこにある銅鈴を、しずかに振った。

鈴の音を聞くと、

「お召しでございますか」

執事の高松衛門が、次の間まで来て、手をつかえた。

「衛門か。この和子に点心(菓子)を与えてください」

慈円がいうと、

「かしこまりました」

衛門は、やがて、高盆に白紙を敷き、その上に、紅白の花形をした捻頭(むぎかた)や餅餤(べいだん)とよぶ菓子をたくさん盛ってきて、

「よい和子、僧正さまの賜り物、召し上がれ」

と、十八公麿にすすめた。

そして、範綱には、古雅な器に汲んだ緑色の飲みものを供えた。

器からのぼる香りに、範綱は、渇(かつ)をおぼえて、喫してみようかと思ったが、どうして飲む物かがわからなかった。

青蓮院を訪れると、時々、こういう目馴れない食味や、什器を見せられて、僧正の知識に驚かされるのであった。

「ぶしつけなことをうかがいまするが、この、緑いろの湯は、何というものでございますか。

――よい香りがいたしますが」

範綱が、問うと、僧正はわらって、

「茶とうものだ」

と、教えた。

「ははあ」

これも唐から舶載(はくさい)してきたものにちがいないと範綱は器を手にとって、

「このまま、いただくのでございますか」

「そうじゃ」

「頂戴いたしまする」

辞儀をして、範綱はひとくち、口へ含んで、

【苦い……】と思ったが、かろい甘味が、舌頭にわいてくると、何か、爽やかな気分をおぼえた。

「どうじゃ、味は」

「けっこうに存じまする」

「うまくは、なかろう」

【はい】ともいえないので、範綱は、なにか、爽やかになると答えた。

慈円は笑いながら、

「近ごろ、仏書と共に、わずかばかり手に入れたので、試みておるが、なかなか捨てがたい風味がある。

聞けば、茶の木の胚子(たね)は、夙(はや)くから舶載されて、日本にも来ているそうな。

どんな花か、花が見たいと思う…」

などと、かたり出で、中華では魏晋(ぎしん)のこころから紳士のあいだで愛飲されだして、唐の陸羽(りくう)は、茶経(さきょう)という書物さえあらわしている。

また、鬱気(うつき)を散じるに慾、血滞(けったい)を解くによろしい。

医家でも、用いているし、栽培もすすんでいる。

日本でもぜひ胚子を植えて、上下の民衆に、用いさせてみたいものだ――などと若い知識をもつ僧正の話はなかなか該博(がいはく)で、経世的(けいせいてき)であった。

ことにまた、慈円は、僧院の奥ふかい所にいるが、政治にも、社会のうごきにも、なかなか達眼があって、時事にも、通じている。

それとなく、世間ばなしのようにする話のうちには、熱があった。

「それについて、今日、折入って、僧正にお願いの儀があって、うかがいました」

と、範綱は、やっと話のすきを見つけて、いいだした。

十八公麿をつけてきたことや、衣服の改まって見えることや、座談のあいだに、慈円も、今日の彼の訪問が、いつもの和歌の遊びや、閑談でないことは、察していた。

小説 親鸞・花は夜風に乗って 4月(8)

古びた青銅瓦の山門を仰いで、

「ここでよい」

介は、牛飼に、車を止めさせた。

そして、間近う、

「お館さま。青蓮院でございまする」

と、箱の廉(す)にささやいた。

轅(ながえ)には、鷺脚(きざあし)の榻(とう)を据え、前すだれの下には、沓台(くつだい)を置く。

「先へ」

「はい」

と、十八公麿が、片脚をそっと下ろした。

藤むらさきの袴に、うす紅梅の袖を垂れる。

介は、抱き下ろして、美しい塗靴をその足にはかせた。

家計のくるしい養父の範綱が、きょうばかりは、車も飾らせ、十八公麿の小袖も沓も何から何まで、清浄で新しいものを身につけさせた。

【きょうが、この子の俗世最後の日――】と思うてのことである。

介が、門を訪れて、僧正の在否を問うと、

「おいで遊ばします」

と、寺侍が、山門から、内玄関へと、走ってゆく。

「よいお寺――」

と、十八公麿は、しきりと、そこらを見まわして、他愛がない。

「よかろう、僧院は」

「ええ」

うなずいて、佇んでいるそばへ、鶺鴒(せきれい)が下りて、花の散っている泥土の水に戯れている。

「六条どの、お通りあれ」

廻廊の階(きざはし)に、寺僧や、侍たちが、立迎える。

誰も彼も、十八公麿の愛くるしさに、微笑をもった。

「おいくつ?」

と、ささやく者がある。

「九歳です」

青蓮院の廻廊は長かった。

そこからまた、橋廊下をこえると、さらに寂とした僧正の院住がある。

むら竹の葉がどこからか欄や蔀(しとみ)に青い光を投げている。

鶯(うぐいす)がしきりと啼く野である。

せんかんと泉声(せんせい)が聞えて、床をふむ足の裏が冷々とする。

僧正とは、天台座主六十二世の座主、慈円和尚のことである。

月輪関白の御子であり、また連枝(れんし)であった。

介は、廊下の端に座る。

範綱と、十八公麿とは、大柱の客間をもう一間こえて、東向きのいつも、拝謁(はいえつ)する小間まで通って平伏していた。

粟田山の春は、その部屋いっぱいに香(にお)って、微風が、龕(がん)か、瓔珞(ようらく)か、どこかの鈴(れい)をかすかに鳴らした。

「六条どのか」

声に、おそるおそる、頭を上げると、慈円僧正は、そこの襖(ふすま)を払っていた。

若い、まだ二十七歳の座主であった。

あいさつをのべると、

「ほ……」

すぐに、眼をみはっていうのである。

「きょうは、お子連れか」

「お見知りおき下さいませ。

猶子、十八公麿と申しまする」

「ふーム」

にこやかに、唇(くち)で笑う。

範綱は、十八公麿の水干(すいかん)の袖をそっとひいて、

「僧正さまですぞ。ごあいさつを申しあげなさい」

「はい」

十八公麿は手をついて、貝のような白い顔をあげた。

慈円と彼と、師弟の縁をむすんだ初めての眸(ひとみ)である。

「宗教をどう教えるか」(下旬)この世のために

私は、基本的には宗教というのは、信じるものだというふうには思っていないんです。

では宗教とは何かというと

「信じるもの」

じゃなくて

「気付くもの」だと。

そして、了解することだと考えているんです。

もし

「ガンで、余命半年ですよ」

と言われたときを考えてみてください。

誰でもそういわれると、がっくりきますよね。

泣きわめいたり、人によっては祈とうをしてもらったりと、いろいろなことをします。

しかし、しばらくたつと

「まあしょうがないなあ」

という気持ちになってくると思うんですね。

このように静かに受け入れると、野望や野心、金儲けとか争いとかいうものはどうでもいいやという気になると思うんです。

この状態が、私は浄土に近いんじゃないかと思うんです。

親鸞さんの言葉でいうと

「色もない、形もない、薄墨色の世界」

というようなものではないかと思うんですね。

そして、しばらくたつと

「せっかくだから、この世のために何かしておきたい」

と考えるようになると思うんです。

孫のため、息子のため、さらには隣近所のためとか。

これが大事じゃないかと思います。

浄土真宗には往相と還相という言葉があります。

私は、ガンを静かに受け入れるというのが往相だと思うんです。

つまり、浄土のような気分になる。

その気分を忘れないで、欲も争いも空しいということを知った上で、現世の社会に何かを尽くそうということ還相ではないかと思っているんです。

この還相ということを土台に教育というものを考えられないかということなんです。

実際ガンにはなっていなくても、そういうことを想像して、このよのなか思うと、教育というのもずいぶん違ってくるんじゃないでしょうか。

そして、絶望とか死ということについて、学校でもっと教えるべきだと思うんです。

学校では希望とか未来というものはばかりを教えて、絶望や死、つまり人間は必ず死ぬんだということを教えることがほとんどありません。

これからの学校は、若いときから死ということを自分のこととして考えることのできる人間を育てて行かなければならないと思います。