投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

親鸞・紅玉篇 3月(3) 炎の辻

侍たちが、跳びかかって、彼のきき腕をねじあげると、

「あっ、それがしに、なんのお咎めをっ」

蔵人は、もがいた。

清盛は、答えもしない。

筑後守貞能に向って、何事かいいつけていた。

貞能が去ると、左(さ)馬頭(まのかみ)行(ゆき)盛(もり)が呼ばれ、行盛があわただしく廊を駈けてゆくころには、もう右大将宗盛や、中将重衡などが、庭や、侍部屋に姿をあらわして、何事かさけんでいた。

一瞬のまに、西八条の邸(やしき)は、兵の殺気にみちていた。

甲冑(かっちゅう)、弓箭(きゅうせん)を、身によろって、またたく間に、兵に、兵の数が加わって、殖(ふ)えてゆく。

こういう空気はまた、清盛の最も好むことらしかった。

彼の眼は、別人のように燿(かが)やいて、奥の間を閉じこめた。

そこへ召された安倍資(あべのすけ)成(なり)は、二十騎ばかりを具(つ)れて、仙洞御所へ、急使として駈けて行った。

また、烏丸(からすま)の新大納言の宿所へも、これは、平服を着た身分のひくい者が、書面をもって、使いに行った。

大納言は、何食わぬ顔をして、真夜半の火の手を自身の住居(すまい)から待っていたのである。

そこへ、相国からの使いが来て、

(即刻、お出を乞う)とあるので、

「ははあ、これは、山攻めの結構を聞いて、相国が、法皇を申し宥(なだ)めようとする肚(はら)とみえる」

そうつぶやいたことだった。

行かなければ、疑われる。

大納言は、常のとおり、布衣、冠をたおやかに着なして、鮮やかな輦に乗った。

雑色、牛飼、侍十人以上をつれて、すぐに、西八条へと行った。

「や?」

夜の巷は、真っ赤だった。

諸方に、篝(かがり)火(び)が立っている。

暗い小路(こうじ)には、松明(たいまつ))がいぶっていた。

道に捨てられてある武器や、人間の首や、胴などを、幾つも見た。

「あらわれたか」

と、大納言は、狼狽した。

そして、

「返せっ。輦(くるま)を、もどせっ」

にわかに、さげんだ。

しかし、もうそこは、五条の平家の庁(ちょう)の近くもあったし、いつのまにか、辻々からついてきた甲冑の兵が、道の前後を取り巻いているのであった。

「新大納言の卿(きみ)におわすか」

兵の中から、一人の将が、薙刀(なぎなた)の柄(え)をもって、簾(みす)を刎(は)ねあげた。

大納言は、おののいて、虚勢も張れなかった。

武将は、

「それっ、お迎え申せっ」

「あっ――」

と、兵は、輦にたかって、牛を打ち、轅(ながえ)をつかみ、また輦(くるま)の後を押して、

「牛頭(ごず)、馬頭(めず)だ」

「地獄車だ」

「押せっ」

「曳けっ」

わあっと、声を揚げながら、輦のまま、西八条の邸の中門の際(きわ)まで、ぐわぐわらと引っ張りこんだ。

武者の手が、大納言を地に引き摺り下ろした。

「縄をかけまするかっ」

問うと、廊のうえで、

「縄目には及ぶまい」

清盛の声である。

大納言の顔いろはもう生きた人間のようではなかった。

親鸞・紅玉篇 3月(2) 炎の辻

蔵人は、庭へまわされた。

庭には、侍たちが、きびしい眼をして、彼の姿を、一歩一歩監視していた。

「坐れっ!」

大喝(だいかつ)されて、蔵人は、

「はっ」

思わず、敷物も求めずに、大地へひざまずいしまった。

ふと見ると、相国清盛は、中門の廊(ろう)まで出て、立っていたのである。

五尺二、三寸の中背な人物で、体も肥満質なほうではない、むしろ肩が尖っているし、頬骨は高く痩せているといったが近いであろう。

それでいて、廊の天井へいっぱいになるほど、偉(おお)きく見えるのであった。

左右の足もとに、ずらりと並んだ近侍たちの頭(ず)が低いためもあるし、また、彼の一身にかがやいている勢威というものが、そう見せるのでもあろう。

色は白く鼻ばしらが鋭いほど通っている。

平家一門の多くの者がそうであるように、彼もどこか貴族的な美男型の容貌をそなえているが、きかない気性は大きな唇元(くちもと)にあらわれているし、武士らしい睨みは、やや窪んでいる眼と、毛のこわい眉毛にあり余っていた。

「蔵人行綱というか」

清盛はいった。

「はっ」

「――めずらしい者が舞い込む……」

と、これは独り語(ごと)のように笑いながらつぶやいて、

「院に仕える武将が、忍びやかに、この西八条へは、何しに来たか」

「されば……」

蔵人の声は渇いていた。

「きょうの昼中より、あわただしゅう、院の内外に軍兵を催されておる仙洞のさまを、相国には、なんと御覧(ごろう)ぜられまするか」

清盛は事もなげに、

「山攻めと聞くが」

といった。

「滅相もない偽りざたです」

「なに、嘘じゃと」

「まことは、真(ま)夜半(よなか)のころを計って、この西八条の邸を取り巻かんとする軍(いくさ)の催しでござる」

「わはははは」

清盛は、扇子で膝を打ちながら肩を揺すぶって、哄笑(こうしょう)した。

「こやつ、なにを賢(さか)しげに、訴えるかと思えば、夢でも見てきたような戯言(たわごと)。

この清盛に弓ひく者はおろか、西八条の邸に小石一つ投げつけ得るほどの者が、天下にあろうか」

「その油断こそ、院中の不平もの輩(ばら)が窺う隙でござります」

「院中の不平者とは、誰をさしていうか」

「新大納言を初め、浄憲法師、その他、北面の侍ども、挙(こぞ)って、世を不平といたし、相国の御一門をば、呪っております」

「まったくか」

「なんで、かような大事に、虚言(きょげん)を構えましょうや。

山攻めとは、怖れながら、間近の敵を詐(いつわ)る詭計(きけい)にござりまする」

「法皇は、それを、ご存じが」

「俊寛法師の鹿ヶ谷山荘にも、ひそかに、行幸(みゆき)ましまして、このたびの盟約には、ひとしお、お力を入れているように承りまする」

清盛は、入道頭を、ついと横へ向けた。

そして眼下の蔵人はもうその眼の隅にもないように、侍部屋の廊へ向って、

「筑後っ。筑後やあるっ」

と、呶鳴った。

その声に威圧されて、蔵人は、白州に居たたまれなくなった。

思わず腰をうかして、挨拶もせずに、こそこそと中門の方へ走って消えようとすると、清盛が手の扇子を上げて、背後(うしろ)から叱咤した。

「しゃつ!捕らえて置けっ」

『支え会おう敬いあおうみんな同朋(なかま)だ』(前期)

仏教を旗印とする多くの教団、宗派が、国を問わず共通して最も大切にしているものがあります。

それは「三帰依」と呼ばれるもので、仏道を歩むものにとって一番初めに習う仏教の根幹となるものです。

南無帰依「仏」

私は仏さまを大切にします。

南無帰依「法」

私は仏さまの教え(法)を大切にします。

南無帰依「僧」

私は仏さまの教えに生きる仲間を大切にします。

この「仏・法・僧」に帰依すること、自分の人生の依りどころとすることを仏道の第一歩として、自ら声に出して誓います。

またこの三つは

「三宝」とも呼ばれ、私たち仏教徒の宝として、お釈迦さまの時代からずっと大切に受け継がれてきています。

その三つ目に、「仏さまの教えに生きる仲間を大切にする」とあります。

「僧」とは「僧伽(サンガ)」

を意味し、僧侶だけではなく、教えのもとに集まった全ての人々と考えてもよいかもしれません。

親鸞さまは、お念仏(南無阿弥陀仏)の教えをよろこぶ人、その教えを聞き、行ずる人々のことを同朋(とも)と呼び、なかまであると讃えられました。

そこには生まれや育ち、老いも若きも男性も女性も一切の分別を超え、皆等しく仏の子という世界です。

現在のカンボジア仏教の僧王、ボンキリ僧王は、仏教を一本の木に譬えられました。

世界中には多くの仏教宗派があります。

それは譬えるならば、太い幹から伸びる木の枝や葉っぱでありましょう。

けれども、その葉も枝も大きな幹を基とし、広大な大地に支えられています。

容姿の違い、教義の違いはあっても根幹は同じ、みんな繋がっています。

私はこの僧王の言葉に接し、仏教のダイナミックさを感じました。

そしていかに狭い視野で、常識に固執している自分であったかを思い知らされるようでした。

バックパッカー旅行者の間で、まことしやかに語り継がれている言葉があります。

「インドに帰れ」

これは仏教を学ぶ中でよく耳にする言葉で、それがどのようにして旅行者の間に伝わったのかは分かりませんが、私も大好きな言葉の一つです。

インドは仏教のふるさとです。

人も動物も、生も死も、豊かさも貧しさも、全てが混在しています。

インドを旅したある作家は、

たった1ブロック歩くだけで何十年たっても味わえないような、言いようのない感覚が襲ってくる。

と表現しています。

旅人たちもまた、世界各地を歩く中でいろいろなものを目にし、違いや矛盾を感じながら

「生きる」

ということの原点に立ち返ったとき、最後は

「インドに呼ばれる」

ようにインドを訪ねるのかもしれません。

今からおよそ2500年前の昔と今もさほど変わらないと言われるインドのその光景をお釈迦さまもきっと目にしておられたことでしょう。

人が生きる、そこに仏教がある。

やはりインドには、何か大きなものがあるように思います。

仏教の根幹はまさに三帰依、ここに収まるのではないでしょうか。

多方向に伸びる枝葉のように、私たちも生きる場所や環境はそれぞれ違います。

枝が揺れ、葉と葉が重なり、風という

「縁」

に吹かれながら、時には激しく、また柔らかく、お互いに相和して葉音を奏でながら生きるのが私たちでありましょう。

その枝葉の私たちも、三帰依を太い幹とし、そして仏さま、仏陀という大地に包まれています。

ともに仏教徒。

みんな、この地球に生きる同朋(なかま)なのです。

仏壇の仏具の置き場所や数に決まりはありますか?

1.仏具の配置

浄土真宗で用いる仏壇仏具には、主に蝋燭(ロウソク)立・香炉(こうろ)・花瓶(かひん)を用います。

置く順番としては、私たちから仏壇にむかって、右から蝋燭(ロウソク)立・香炉(こうろ)・花瓶(かひん)の順番で置きます。

この3つを三具足(みつぐそく)といって、平時に用いる仏具として配置します。

大きな法要(報恩講や年回法要)などの際には、右から花瓶・蝋燭立・香炉・蝋燭立・花瓶の順で配置します。

これを五具足(ごぐそく)といいます。

なお、具足(ぐそく)とは、完全に備わっていて、欠けているものがない、という意味があります。

2.「キン」・鈴(リン)について。

直径が六寸(18cm)以上の大型の物は、寺院用仏具として扱われます。

寺院用の物は、「鈴」(りん)とは呼ばずに「キン」と呼び、御経を読む際または終わりの合図に使いますので、普段はならしません。

3.仏飯(ぶっぱん)の置き場所について。

仏壇の大きさによって少々異なりますが、ご本尊を安置してある上段に仏供台をすえて、その上に備えます。

大きな仏壇ですと、上卓(うわじょく)という小型の机を1つ置き。

その上には、花瓶1対、香炉1個、蝋燭立1本、仏飯1個をのせます。

4.打敷(うちしき)

打敷(うちしき)とは、上卓(うわじょく)・前卓(まえじょく)にかける三角形の布のことをいいます。

正式なものは正方形または菱形となっております。

浄土真宗本願寺派の葬儀や中陰?3回忌までの法要には、白地に銀欄または金襴の打敷をかけます。

この際、ロウソクなどの仏具も白を用います。

つい最近、小・中学校の同窓会が行われました。

つい最近、小・中学校の同窓会が行われました。

3人の幹事さんが1人でも多くの人に参加してもらいたいという思いで、1年前から同窓会開催の案内をされ、さらに案内状だけでなく1人ひとりに電話で連絡をとって下さいました。

そういう働きかけが実り、7割以上の方が出席されました。

これまでの歴代の小・中学校の同窓会の中でも、特に参加率が高かったようです。

3人の幹事さんには本当に頭がさがる思いです。

今年は、私の年代の男性は世間一般で言われる厄年にあたりますので、例年であれば男性は神社で厄払いをしてから母校を見学し、同窓会に参加するというのが慣例になっていたようです。

しかし、幹事さんから

「お寺でも厄払いはできるの?」

と聞かれたので、少し考えて私は

「厄払い的な法要はできるよ」

と答えました。

すると

「そしたら、厄払いの後のお話もお願いしていい?」

と言われ、引き受けることにしました。

その幹事さんは、

「せっかくだから、今年は男子も女子も一緒にお寺にお参りした後に、同窓会を開催するように案内をするからね」

と言ってくれました。

当日は、同級生と先生にもお参り頂き、読経の後お話を致しました。

そこで私は、冒頭

「厳密に言うと、浄土真宗では厄を払うという考え方はありません。

しかしながら、今日は厄ということをご縁として、今こうして賜っている我がいのちの尊さ・有り難さを今一度見つめていく、尊いご縁として受け止めていただければと思います」

と述べたあと、次のようなことを思いながら話をしました。

浄土真宗の教えには

「厄払い」

をするという考えはありません。

確かに、教義を世の人びとに正しく伝えることはとても大切なことだと思います。

しかしながら、浄土真宗の教えにまだ触れたこともない人、具体的には迷信・俗信的なことを漠然と信じている人に対して、教えを聞こうとする気持ちになる前から、

「これはいけない」

「あれはいけない」

と切り捨ててしてしまうと、その人は教えを聞くご縁さえも結べなくなってしまいます。

私は、たとえそれが浄土真宗では否定していることであっても、今回

「厄払い」

ということをご縁として、同級生が本堂に足を運び、浄土真宗の教えに触れる機会を持ってくれたことを有り難く思いました。

人生という道を歩いていく中で、縁がととのえば病気に罹ったり、いつどこで事故に遭うかもしれない私たちです。

そして、いつか必ずこの娑婆世界を離れていかねばならない時が、必ずやってきます。

その時、その苦難を真正面から受け止め、引き受けていく智慧と勇気とを与えてくれるものがお念仏の教えです。

目の前の苦しみや悲しみを避けたり、ごまかしたりして進んで行っても、また必ず別の苦しみ悲しみにぶつかります。

目の前の現実から目を背けようとしたり、ごまかしながら生きていく人生ではなく、その現実をしっかりと見つめ、良いご縁も悪いご縁も、

「全てのご縁が、自分の人生を深めてくださる尊いご縁であったとなあ」

と言い切れるような人生を、お念仏申す日暮しの中に味わっていきたいと思うことです。

親鸞聖人の十念思想 3月(1)

そうすると、親鸞聖人は

「行巻」で何を語られ、

「信巻」では何を語っておられるのでしょうか。

その内容を私たちは明確に理解する必要があります。

例えば、ある先学はこの

「行巻」の称名について

「大行というのは自分の念仏ではない。

阿弥陀仏から来るのだから、称えている念仏は自分のものではなく、向こうから来るという意味で“聞き側にまわる念仏”である」

と表現をしておられます。

南無阿弥陀仏、この声は阿弥陀仏の方から来ている。

その阿弥陀仏から来る念仏の心を聞くことが重要だといわれる訳ですが、本来

「聞く」という行為は、信一念(「信巻」)の問題であって、

「行巻」の行の問題ではありません。

「聞く」ということは、親鸞聖人においては

「信巻」の信一念のところで問題になるのです。

では、なぜ信一念の時に

「聞く」ということが成り立つのでしょうか。

ここで『教行信証』の信一念までの思想の流れに注目する必要があります。

親鸞聖人は、

「行巻」でまず

「大行とは何か」ということを説明して、それが七高僧によってどのように伝えられたかという、思想の展開を明らかにされます。

その中で、殊に六字の名号の意義を、さらに一声の称名の無限の功徳などを説かれます。

続いて

「信巻」においては

「至心・信楽・欲生」を本願の心だと見て、その阿弥陀仏の大悲心の内実が、非常に深い理念を通して詳述されます。

その一切を聞くことが

「仏願の生起本末を聞く」ことであり、その聞いた瞬間が信一念になるのです。

そうだとしますと、本願の真実が本当に分かった者が、念仏の真実を聞いたということになります。

したがって

「聞き側にまわる」としても、自分にとって『観無量寿経』が一番正しいと思っている者は、いかにその名号を一心に聞いたとしても、それは『観無量寿経』の教えとしてしか聞こえてはきません。

『阿弥陀経』の教えが一番良いと思っている人にとっては、やはり南無阿弥陀仏は『阿弥陀経』に説かれている念仏としてしか聞こえてこないのです。

このため聖道門の人は、南無阿弥陀仏をこの世における悟りのための道であると聞くことになるのです。

したがって、聞き側にまわるその

「聞」は、その人それぞれの立場でしか聞けないのだとすると、聞き側にまわる人の全てに、第十八願の名号が聞こえてくるとは言えなくなります。

そのため、念仏の真実を

「聞く」ということは、第十八願の名号を聞くことが出来る状態の中でしか聞くことが出来ないということになります。

まさに、心が聞くことの出来る状態になって、初めて聞くことが出来るのだということを、親鸞聖人は

「信巻」信一念釈の中で説かれ、

「信心正因」の義をここで明かされることになるのです。

そうだとすると、この信一念釈までは

「信心正因・称名報恩」ということを語る必要はありません。

獲信のときまでは、南無阿弥陀仏は報恩の念仏ではなく、あくまでも大行の念仏なのであって、その念仏の真実義が明らかにされているのです。

その一つのよい例が

(15)信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし。

行の一念をはなれたる信の一念もなし。

そのゆへは、行と申は本願の名号をひとこゑとなえて、わうじやうすと申ことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。

この御ちかそをききて、うたがふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききてうたがはねば、行をはなれたる信なしとききて候。

又信はなれたる行もなしとおぼしめすべし。

これみなみだの御ちかひと申ことをこころうべし。

行と信とは御ちかひを申なり。(「末燈鈔」)

に見られる、

「信の一念」と

「行の一念」の関係です。

信の一念と行の一念は、二つの事柄を指していますが、

「信をはなれたる行もなし。行の一念をはなれたる信の一念もなし」

ということで、ここではまさに信の一念と行の一念がどのように関わるかということが問題になっています。

そこで、信の一念と行の一念の関係になるのですが、ここではその両者がいかに離れないかということが説明されています。

まず

「そのゆへは」ということで、以下が、行の一念と信の一念とが離れて存在しない理由の説明になります。

そこで、次の言葉の

「行と申すは」に注目すると

「行と申すは」という文は、この行の終わりの

「十念をもせんは行なり」までかかるので、

「行と申すは」から

「行なり」までが行の説明、そしてこの全体が行だということになります。