投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「ここを去ること遠からず(観経)」(上旬)恵まれた生活の代わりに優しさを失った

ご講師:廣陵兼純さん(節談説教・真宗大谷派満観寺住職)

わが浄土真宗、お念仏門というものをお開きになったのは、ご開山・親鸞さまです。

この方は、4歳と8歳のときにご両親し別れ、9歳の春から比叡山に登って道を求められました。

考えてみると9歳というのは、現代では小学3年生。

それが大人でもやれないような道を求めていかれた訳です。

親鸞さまは非常に聰明で、頭が良かったと言われます。

お経をすぐに理解し、学問に秀で、修行もできたそうです。

親鸞さまは、そんなご自分が素晴らしい道を歩んでいると思われていたでしょうか。

私たちの場合で言えば、いい学校を出て、就職して、お金を儲けて、仕事ができて、身体も健康。

そんなふうになれたら、幸せになれると考えてしまいます。

そういう意味で言えば、現代の日本はまさに幸せだと言えるでしょう。

衣食住に事欠くことはありません。

1年間に亡くなる人のうち、およそ36万人の人は90歳を過ぎて亡くなっているそうですから、長生きもしているし、金銭的にも恵まれています。

では、その結果どうなったかというと、感動を忘れ、有り難さを感じなくなってしまいました。

富山県のある小学校では、給食を食べるとき、笛を合図に食べさせるようにしたそうです。

まるで、動物にエサをやるようなものです。

自分の立場を自覚して、今生かされていることを知らしめられるのが人間です。

地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の六道の中で、人間だけは道を求めることが出来る。

道を求めて幸せになることが出来るのは人間だけなんです。

悲しいかな、人間は苦しい目に遭わなかったら、優しさが起こらんものなんです。

恵まれすぎている今の私たちからは優しさが失われてしまいました。

2012年の秋、中国で2歳くらいの女の子が車に轢かれました。

しかし、そこに通りかかった人は誰も手を出しませんでした。

そして、その子は別の車にも轢かれて死んでしまいました。

このことを知ったとき、人間らしさ、優しさが失われた。

これが本当に人なのか。

幸せを頂けるのか。

もう一度、根本的に洗い直さないとダメだと思いました。

人間は悲しいかな、何不自由ない恵まれた生活の代わりに優しさを失ってしまいました。

そして手を合わすことを忘れてしまったのが私どもの今の姿です。

こういう心の世界の中には、幸せは得られません。

親鸞さまは、9歳のときから20年間、学問修行を積まれました。

学問も修行も出来たけれども、悟りに至る素晴らしい道はいっこうに開けない。

人生が明るくならない。

いのちがけで道を求め、行き詰まった親鸞さまは、29歳のときに和朝念仏の元祖、法然さまの所を訪ねられました。

そんな親鸞さまに、法然さまは

「あなたがやって来たのは、聖道自力の教えだ。

己の力でやる間には仏の世界は展開しない。

どんなことがあっても、人間は人間の境涯を離れ難い。

学問が出来ても、修行が出来てもダメなのだ。

だからこそ、他力本願、如来のみ教えを胸に頂くのだ」

ということを言われました。

人間というものは、持ちものによって変わります。

尊いものに遇うと、人生は尊くなります。

いかに身は罪悪であろうが、尊いもの、浄土真宗のお念仏を胸の中に頂いたとき、私たちの人生は尊く転じ変わるんです。

親鸞・紅玉篇 3月(1) 炎の辻

叡山の騒擾はその後もつづいていた。

院政の威光も、平家の権力も、山門の大衆だけにはおよばない有様なのである。

天台千年の法城は、帝室や、国家からの破格な待遇に狎(な)れて、仏徒は思い上がった。

平家一門が、人臣の分を忘れて、

この世をば我が世とぞ思う――といったような思い上がりと同様に、仏徒もまた、仏弟子の分をわすれて、政治を持ち、武力をすら持って、社会を仏徒の社会と思い違えているかのように傲慢(ごうまん)で、理屈っぽくて、特権意識のみが旺(さかん)だった。

(山門を討て)という声は、その前から北面の侍たちの間に起っていた輿論(よろん)であった。

新大納言や、浄憲法師や、鹿ヶ谷に集まった人々は、その政機を利用して、にわかに、山門討伐の院宣(いんぜん)を名として、軍馬の令をくだした。

物の具を着けた武者たちは、夕方までに、数千騎、御所のまわりに集まった。

武臣のうちでも、重要な数名の将のほかは、院宣のとおりに思って、叡山を攻めるのだとばかり思っていたらしい。

「今宵こそ、山法師ばらに、一泡ふかせてくれねば――」

と、弓(ゆ)弦(づる)を試し、太刀の革を巻いて、夜を待っていた。

だが、院の中枢部の人々の肚は、敵は叡山にはなくて、六波羅にあった。

山法師を討つと見せて、平家一門へ私怨と公憤の火ぶたを切ろうとする蜜策なのであって、刻々と、夜の迫るのを、待っていた。

そこの仙洞御所と、清盛のいる西八条の館とは、目と鼻の先だった。

物々しい弓馬のうごきは、すぐ六波羅の御家人から、

「何事か、院の内外に、侍どもがただならぬ軍(いくさ)支度(じたく)にござりまするぞ」

と注進されたが、すぐ、次々に来る物見からは、

「あれは、先ごろからの強訴一件で、院のおさばきに楯つく山門の衆を捕り抑えよと令せられて、それで御発向の兵馬と申されておりまする」

と、訂正した報告が、一致していた。

清盛は、聞くと、

「さもあるはず」

と、うなずいた。

誰が、自分のすぐ足許(あしもと)から、平家の今の権勢に対して、弓をひくほどな不敵な行動をしようと、安心しきっているのであった。

ところが、

「お取次ぎねがいたい。

折入って、火急、相国へお目どおりの上で、一大事を、お耳に達したいと駆けつけてきた者でござる」

と、息をきって、西八条の邸に訴え出た者があった。

侍たちが、

「名は?」

と問うと、

「院の北面に勤(つか)えまつる多田蔵人行綱でござる」

と、いった。

驚いて、その由を、主目判官盛国まで取次ぐと、

「なに、蔵人が」

不審顔をして、平盛国は、奥から出てきた。

蔵人は、彼を見るとすぐ、

「お人伝(ひとづ)てには、ちと申し兼ねる大事です。

相国へ直々に、お会わせ下さるならば申しのべるべし、さもなくば、このまま立ち戻る所存である」

と、ごう奮(ごうふん)した声でいった。

小説 親鸞・紅玉篇 2月(9)

法皇の行幸はなかったが、すでに、暮れる前から、鹿ヶ谷の俊寛の山荘には、新大納言以下、不平組の文官や武官が、各々、微行(しのび)のすがたで集まっていた。

「六条の範綱めが、いらざるさしで口を――」

と、人々は、空御輦(からみくるま)をながめて口々に怒ったが、

「なに、法皇のお心変わりは、時雨のようなもの、降ると思えば照る、照ると思えば降る――。

明日にてもまた、麿が参内して御心を励ませば、必ず次の集まりには、御参会あるにちがいない」

大納言成親は、自信をもって、席の人々へいった。

浄憲法師も、相槌を打って、

「よう喩(たと)えられた。

まことに、法皇の御気色(みけしき)は、照り降り雨、われらが側近にあれば、また変る。

お案じあるな」

席には、近江入道蓮浄、山城守基兼、平判官康頼、その他の人々がいた。

主の俊寛は、折角すすみかけた平氏顛覆(てんぷく)の相談が、法皇のおすがたの見えないために、やや出鼻の白けたような様子を見て、

「軍(いくさ)立(だて)てのことは、次の会に改めて謀るといたして、今宵は、盟約の酒もりとしよう。

ご異議ないか」

「よかろう」

新大納言は、虚勢を張って、

「祝おうではないか」

と、音頭をとった。

やがて、酒杯(さかずき)がまわされると、

「亭主殿――、ご馳走をなされ」

と、俊寛へ向って、浄憲法師がよびかけた。

「馳走とは?」

「猿楽なと」

「心得申した」

俊寛は立って、おどけた手振りをしながら舞った。

笙(しょう)鼓(こ)を鳴らして、人々は歌う。

住吉四所(すみよししこ)のおん前には

顔よき女体ぞおわします

男は誰ぞとたずぬれば

松ケ崎なるすき男

「ようできた、ようなされた。

――次には、新大納言の君こそ、遊ばされい」

「そのこと、そのこと」

手を引き出されて、

「さらば、舞い申す」

と大納言は床を一つふんで、

「やんや、やんや」

流行るもの――

肩当、腰当、烏帽子(えぼし)とどめ

襟の立つ、片さび烏帽子

布打の下の袴(はかま)

四幅(よの)の指貫(さしぬき)

武者(むさ)の好むもの

紺よ、紅

山吹、濃い蘇芳(すおう)

茜、寄生樹(ほや)の摺(すり)

よき弓、やなぐい、馬(く)鞍(ら)太刀(たち)

遊女(あそびめ)の好むもの

雑芸、つづみ、小端(こはし)舟(ぶね)

大笠かざして

艫(とも)取り女(め)

「あっ!」

 酒の瓶子(へいし)を踏んで大納言がよろめくと、人々は、歌の調子をそのままつづけて、

 「たおれた!たおれた!」

 「瓶子がわれた」

 「瓶子がたおれた」

 「わはははは」

 「はははは」

 そして、めでたいと、はしゃいでいい合った。

 

小説 親鸞・紅玉篇 2月(8)

藍草の汁をしぼったように、水っぽい夕闇が四囲(あたり)をこめてきた。

燭の影が、深殿の奥から揺れてきた。

法皇のお姿らしい影が、側近の人々の黒い影にかこまれて、お沓(くつ)へ御足をかけている。

「しばらくっ――」

そんな大きな声を出すつもりはなかったが、範綱は思わず大声でさけびながら、驚く人々を割って、法皇のまえに、平伏した。

「誰ぞ」

法皇は、いちど、お沓へかけられた足を引いて、廻廊の上へ、立たれた。

「六条の朝臣らしゅうございます」

側近がささやくと、

「範綱か」

「はっ」

「病気と聞いていたが……」

「仮病でござりました。

上(かみ)を、偽りました罪、いくえにも、お罰し下さりませ」

範綱は、そういって、さらに、語気をあらためて諫奏した。

「きょうは、六月二日とあれば、さだめし、鹿ヶ谷の俊寛僧都の庵に衆会のお催しあることと存じまするが、院の御深くに在(お)わしてすら、道聴途説、とかく、世上のうるさい折から、さような集まりの席へ、しかも夜中(やちゅう)のお出ましはいかがなものかと存ぜられまする。

――それについて、折り入っておん耳に入れたいこともござりますゆえ、しばらく、お見あわせ遊ばして、お人ばらいの儀願わしゅう存じまする」

法皇は、黙っておられた。

先に、範綱へ仰せられた言質もあるので、やや気まわり悪く思われたようなお顔いろでもあった。

新大納言に同心の側近の者や、侍所の人々は、一文官の、しかも歌よみの範綱が、何を、かような大事に、嘴(くちばし)をだすかと、憎むように、睨(ね)めつけていた。

法皇は、板ばさみになったお顔つきで、ちょっと、当惑していられたが、範綱が沓のまえに死を賭して坐りこんでいる姿をみると、むげに、退けられなかった。

「しばしの間、遠慮せい」

側近は、お声の下に、無言の頭(かしら)を下げて、去るよりほかなかった。

範綱は、その人々が去るのを待ってかせら、すでに、新大納言の謀叛の下ごころがあることを、平家方では、察知しているということを、今日の庄司七郎の言葉を例証して、つぶさに、内奏した。

法皇は、さすがに、顔いろを変えられた。

御自身が、謀主になっても亡ぼしたいほど憎悪する平家ではあるが、それほどにまた、怖ろしい平家でもあるのだった。

わけて、法皇は清盛入道が感情的に激発したらどんなことでもやりかねない男であるということを、幾つもの実例で骨身にこたえて御承知なのであった。

「やめよう」

すぐ、こういわれた。

たちまち、鹿ヶ谷への行幸(みゆき)は、沙汰やめとなった。

武者所の人々は、

「いらざる諫言だてをする歌よみめ」

と、範綱を憎み、

「このままでは、味方の気勢にかかわるといって、調えた御輦(みくるま)を、空のまますすめて、松明(たいまつ)をともし、暗い道を鹿ヶ谷の集まりへと急いで行った。

だが、その列の中にいた多田蔵人だけは、途中から闇にまぎれてただ一人どこかへ姿を消してしまった。

※「道聴途説」=道で聞いたことを、すぐ道で話すの意で、人の善言を心にとめないこと。聞きかじりのあさはかなおしゃべり。受け売り。

『本当の豊かさとは足るを知ること』(後期)

果てしなく貪り求める心は、満足できないということですから、そのような心からき

「足るを知る」

という思いは出てきません。

現代という物が豊かで、便利で、快適な時代に身を置いて生きている私たちの心の中は、果たして

「足るを知る」

という生活につながっているでしょうか。

563年前、室町幕府の管領として権勢を振るい、応仁の乱の東軍総大将でもあった細川勝元が建てた禅寺の

「石庭」

で有名な京都竜安寺があります。

15個の石を無造作に5カ所に配置した枯山水の庭です。

石は15個置かれているのですが、どの角度から庭を眺めても14個しか見えないように設計されていることで有名です。

ただし、一箇所だけ15個すべてが見渡せる場所があるのだそうです。

その竜安寺の茶室の入り口に

「知足(ちそく)の蹲踞(つくばい)」

と言って、手や口を清めるための手水(ちょうず)をはっておく石があります。

丸石の中央に水を溜める口の字があり、

「吾唯知足(われ・ただ・足るを・知る)」

の4文字が刻まれています。

これは、たとえ石庭の石が14個しか見えなくても、不満に思わず足る心を持ちなさいという仏教の教えを、水戸光圀公(水戸黄門)が石に刻んで寄進したと伝えられています。

物の氾濫する時代を生きる私たちですが、果たして満ち足りた思いの中で生活しているでしょうか。

もしかすると、まだ足りないと言いながら、不足の思いの中で日々の生活を繰り返して生きてはいないでしょうか。

冷蔵庫の中はどうなっていますか。

最小限必要なものがあれば、それで良いですか。

それとも、せめて半分くらいは埋まっていないと不満ですか。

あるいは、冷蔵庫の中は、常に物が満ちていっぱいでないと安心できませんか。

冷蔵庫の中が常にぎっしりと詰まっていると、いったい何を入れたのか忘れてしまうということがあります。

しかも、その揚げ句に食材を腐らせてしまうようでは

「不足の生活(足るを知らない)」

になっていると言われても返す言葉もありません。

「足ることを知る生活こそ、本当の心豊かな生活と言えるのではないでしょうか。

5回目の・・・

5回目の・・・

いい加減…と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが^^;

今回も東北ボランティア報告をさせていただきます。

まず始めに、以前より公言しておりました

「寿司リベンジ」

ですが、やっと!!やっと!!成功しました。

3月に東北を訪れた際、どうしても行きたかった宮城県名取市の仮設商店街

「さいかい市」

に開店したばかりのお寿司屋さん。

昼食にと、3日間訪れましたがランチタイム終了、シャリ切れ、店休日という理由で3回ともフラれてしまったという悲しい思い出のあるお寿司屋さん。

6月に訪れた際は、名取市方面への活動に参加することがなく行けず仕舞いでした。

今回はどうかな…と思って東北へ向かったところ!!

東北へ着いた翌日に行くことができました。

さいかい市は、名取市閖上(ゆりあげ)で事業をされていた方々の店舗の入っている仮設商店街です。

閖上地区は質・量ともに

「日本一」

と称されている赤貝が水揚げされている地域ですが、甚大な被害を受けた地域でもあります。

しかし現在は、赤貝の漁も再開されており、再び

「日本一」

の赤貝を食することができます。

もちろん私も

「赤貝を食べたい!」

という思いで向かいました。

メニューを見ると、握りの松・竹・梅。

そして海鮮丼の文字が…どちらも気になる!!

「どっちにしよう」

と考えていると

「海鮮丼の方がお得だよ!!」

と大将の声。

当然のことながら海鮮丼にしました。

海鮮丼に、お味噌汁に、

「サービス!!」

と赤貝のひもまで。

じっくり味わっていただくつもりだったのですが、あまりのおいしさと、念願のお寿司屋さんに行けた嬉しさで、勢いよくいただいてしまいました…(>_<)

今回は、写真や賞状等の洗浄を行っている団体でのお手伝いもしてきました。

津波にのまれたアルバムを、地域ごとに分け、一枚一枚アルバムから写真をはがしていく。

写真を傷めないよう、砂やヘドロ等を落とす。

その後は、専門の方々により写真の復元を行う。

そして復元された写真を被災された方々にお返ししていく。

写真を扱う作業ですから、当然写真の光景を目にします。

結婚式での写真、幼稚園入園式の写真、飲み会の写真等々…一枚でも多く持ち主の元に戻ってほしい…とただただ願うばかりです。

閖上さいかい市場

http://natori.in-shoko.com/saikai_ichiba/

行ったことのあるお店

  • 若草寿司(今回訪れたお寿司屋さんです)
  • 鮮魚とみ田(鮮魚がズラリ!!たくさん購入しても結構リーズナブル)
  • 匠や(お総菜屋さん。しらす丼と、はんぺんツナフライおすすめです)
  • 佐々木酒造店(震災復興酒「閖」を以前購入し、祖母の法事のお供物にしたことがあります^^; 法事のあとは、皆でおいしくいただきました)

震災復興ボランティア団体「おもいでかえる」

http://www.omoide-kaeru.com/

津波復興支援センター(旧:岡田サテライト)

http://flat.kahoku.co.jp/u/volunteer16/