親鸞・紅玉篇 3月(1) 炎の辻

叡山の騒擾はその後もつづいていた。

院政の威光も、平家の権力も、山門の大衆だけにはおよばない有様なのである。

天台千年の法城は、帝室や、国家からの破格な待遇に狎(な)れて、仏徒は思い上がった。

平家一門が、人臣の分を忘れて、

この世をば我が世とぞ思う――といったような思い上がりと同様に、仏徒もまた、仏弟子の分をわすれて、政治を持ち、武力をすら持って、社会を仏徒の社会と思い違えているかのように傲慢(ごうまん)で、理屈っぽくて、特権意識のみが旺(さかん)だった。

(山門を討て)という声は、その前から北面の侍たちの間に起っていた輿論(よろん)であった。

新大納言や、浄憲法師や、鹿ヶ谷に集まった人々は、その政機を利用して、にわかに、山門討伐の院宣(いんぜん)を名として、軍馬の令をくだした。

物の具を着けた武者たちは、夕方までに、数千騎、御所のまわりに集まった。

武臣のうちでも、重要な数名の将のほかは、院宣のとおりに思って、叡山を攻めるのだとばかり思っていたらしい。

「今宵こそ、山法師ばらに、一泡ふかせてくれねば――」

と、弓(ゆ)弦(づる)を試し、太刀の革を巻いて、夜を待っていた。

だが、院の中枢部の人々の肚は、敵は叡山にはなくて、六波羅にあった。

山法師を討つと見せて、平家一門へ私怨と公憤の火ぶたを切ろうとする蜜策なのであって、刻々と、夜の迫るのを、待っていた。

そこの仙洞御所と、清盛のいる西八条の館とは、目と鼻の先だった。

物々しい弓馬のうごきは、すぐ六波羅の御家人から、

「何事か、院の内外に、侍どもがただならぬ軍(いくさ)支度(じたく)にござりまするぞ」

と注進されたが、すぐ、次々に来る物見からは、

「あれは、先ごろからの強訴一件で、院のおさばきに楯つく山門の衆を捕り抑えよと令せられて、それで御発向の兵馬と申されておりまする」

と、訂正した報告が、一致していた。

清盛は、聞くと、

「さもあるはず」

と、うなずいた。

誰が、自分のすぐ足許(あしもと)から、平家の今の権勢に対して、弓をひくほどな不敵な行動をしようと、安心しきっているのであった。

ところが、

「お取次ぎねがいたい。

折入って、火急、相国へお目どおりの上で、一大事を、お耳に達したいと駆けつけてきた者でござる」

と、息をきって、西八条の邸に訴え出た者があった。

侍たちが、

「名は?」

と問うと、

「院の北面に勤(つか)えまつる多田蔵人行綱でござる」

と、いった。

驚いて、その由を、主目判官盛国まで取次ぐと、

「なに、蔵人が」

不審顔をして、平盛国は、奥から出てきた。

蔵人は、彼を見るとすぐ、

「お人伝(ひとづ)てには、ちと申し兼ねる大事です。

相国へ直々に、お会わせ下さるならば申しのべるべし、さもなくば、このまま立ち戻る所存である」

と、ごう奮(ごうふん)した声でいった。