叡山の騒擾はその後もつづいていた。
院政の威光も、平家の権力も、山門の大衆だけにはおよばない有様なのである。
天台千年の法城は、帝室や、国家からの破格な待遇に狎(な)れて、仏徒は思い上がった。
平家一門が、人臣の分を忘れて、
この世をば我が世とぞ思う――といったような思い上がりと同様に、仏徒もまた、仏弟子の分をわすれて、政治を持ち、武力をすら持って、社会を仏徒の社会と思い違えているかのように傲慢(ごうまん)で、理屈っぽくて、特権意識のみが旺(さかん)だった。
(山門を討て)という声は、その前から北面の侍たちの間に起っていた輿論(よろん)であった。
新大納言や、浄憲法師や、鹿ヶ谷に集まった人々は、その政機を利用して、にわかに、山門討伐の院宣(いんぜん)を名として、軍馬の令をくだした。
物の具を着けた武者たちは、夕方までに、数千騎、御所のまわりに集まった。
武臣のうちでも、重要な数名の将のほかは、院宣のとおりに思って、叡山を攻めるのだとばかり思っていたらしい。
「今宵こそ、山法師ばらに、一泡ふかせてくれねば――」
と、弓(ゆ)弦(づる)を試し、太刀の革を巻いて、夜を待っていた。
だが、院の中枢部の人々の肚は、敵は叡山にはなくて、六波羅にあった。
山法師を討つと見せて、平家一門へ私怨と公憤の火ぶたを切ろうとする蜜策なのであって、刻々と、夜の迫るのを、待っていた。
そこの仙洞御所と、清盛のいる西八条の館とは、目と鼻の先だった。
物々しい弓馬のうごきは、すぐ六波羅の御家人から、
「何事か、院の内外に、侍どもがただならぬ軍(いくさ)支度(じたく)にござりまするぞ」
と注進されたが、すぐ、次々に来る物見からは、
「あれは、先ごろからの強訴一件で、院のおさばきに楯つく山門の衆を捕り抑えよと令せられて、それで御発向の兵馬と申されておりまする」
と、訂正した報告が、一致していた。
清盛は、聞くと、
「さもあるはず」
と、うなずいた。
誰が、自分のすぐ足許(あしもと)から、平家の今の権勢に対して、弓をひくほどな不敵な行動をしようと、安心しきっているのであった。
ところが、
「お取次ぎねがいたい。
折入って、火急、相国へお目どおりの上で、一大事を、お耳に達したいと駆けつけてきた者でござる」
と、息をきって、西八条の邸に訴え出た者があった。
侍たちが、
「名は?」
と問うと、
「院の北面に勤(つか)えまつる多田蔵人行綱でござる」
と、いった。
驚いて、その由を、主目判官盛国まで取次ぐと、
「なに、蔵人が」
不審顔をして、平盛国は、奥から出てきた。
蔵人は、彼を見るとすぐ、
「お人伝(ひとづ)てには、ちと申し兼ねる大事です。
相国へ直々に、お会わせ下さるならば申しのべるべし、さもなくば、このまま立ち戻る所存である」
と、ごう奮(ごうふん)した声でいった。