投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

親鸞・去来篇1月(9)古いもの新しいもの

「範宴が山へもどってきた――」

叡山(えいざん)の人々のあいだに、それは大きな衝動であった。

彼らの頭には、範宴という人物が、いつのまにか大きな存在になっていた。

自分たちに利害があるないにかかわらず、範宴のうごきがたえず気ががりであった。

それというのも、この山の人々の頭には、十歳にみたない少年僧であった時から、授戒登壇をゆるされて、その後も、群をぬいて学識を研(みが)いてきた範宴というものが、近ごろになって何となく自分たちの脅威に感じられてきたからであった。

「一乗院が帰山したというが、いつごろじゃ」

「もう、十日ほど前にもなろう、例の性(しょう)善坊(ぜんぼう)は、それよりもずっと前に戻っていたが、範宴のすがたが見えたは、ついこのごろらしい」

「ちょうど、三年ぶりかの」

「そうさ。範宴が下山(おり)たのは、先(さき)一昨年(おととし)の冬だったから……」

「だいぶ修行もつんだであろう」

「なあに、奈良は女の都だ、若い範宴が何を修行してきたかわかるものか」

「それは、貴僧たちのことだ。範宴がおそろしい信念で勉学しているということは、いつか山へ来た宇治の客僧からも聞いたし、麓(ふもと)でもだいぶうわさが高い」

一人が口をきわめて範宴の学際とその後の真摯(しんし)な態度を褒め賞めたたえると、怠惰な者の常として、かるい嫉妬(しっと)をたたえた顔がちょっと白けてみえた。

「その範宴が、明日から横(よ)川(がわ)の禿(かむろ)谷(だに)で、講義をひらくということだが――」

と思いだしたようにいうと、

「そうそう、小止観(しょうしかん)と往生(おうじょう)要集(ようしゅう)を講義するそうだが、まだ二十二、三の若年者が、山の大徳や碩学(せきがく)をまえにおいて、どんなことをしゃべるか、聞きものだて」

「碩学(せきがく)たちも意地がわるい、ぜひにと、懇望しておいて、実は、あげ足をとって、つッ込もうという肚じゃないかな?」

「そうかもしれん。いや、そうなるとおもしろいが」

惰眠(だみん)の耳もとへ鐘をつかれたように、人々は、範宴を嫉妬した。

禿谷には、その翌日、一山の人々が踵(きびす)をついでぞろぞろと群れてきた。

講堂は立錐(りっすい)の余地もなく人で埋(うま)った。

若い学僧がむろん大部分であったが、中には、一院の主(あるじ)も、一方の雄僧も見えて、白い眉毛(まゆげ)をしかめていた。

やがて、講壇のむしろに、一人の青年が法衣(ほうえ)をさばいて坐った。

色の青じろい肩の尖った姿を、人々はふと見ちがえて、

「ほ……あれが範宴か」

と、その変りように思わず眼をみはった。

「痩せたのう」

「眼ばかりがするどいではないか」

「病気でもしたとみえる」

聴座(ちょうざ)の人々のあいだに、そんな囁(ささや)きがこそこそながれた。

しかし、範宴の唇だけは誰よりも紅かった。

そして一礼すると、その唇をひらいて、おもむろに小止観を講義して行った。

親鸞・去来篇1月(8)

青蓮院の門が見えた。

その門を潜(くぐ)る時、慈円はまた、ことばをくりかえして、

「もいちど叡山へもどったがよいぞ」

と、いった。

「はい」

範宴はそう答えるまでに自分でも心を決めていたらしく、

「明日、お暇(いとま)をいたしまする」

「うむ……」

慈円はうなずいて、木覆の音を房(ぼう)のほうへ運んで行った。

すると、房の式台の下にかがまって、手をついている出迎えの若僧があった。

慈円は、一瞥して、ずっと奥へはいってしまったが、つづいて範宴が上がろうとすると、若僧はふいに彼の法衣(ころも)の袂(たもと)をつかんで、

「兄上」

と、呼んだ。

思いがけないことであった。

それは性善坊と共に、先年、都に帰った弟の朝麿なのである。

常々、心がかりになっていたことでもあるし、この青蓮院へついてもまっ先にその後の消息をたずねたいと思っていたのでもあるが、まさか、髪を剃(お)ろして、ここにいるとは思わなかったし、師の慈円も、そんなことは少しも話に出さなかったので、彼は驚きの眼をみはったまま、

「おお……」

とはいいながらも、しばらく、弟の変わった姿に茫然(ぼうぜん)としていた。

朝麿はまた、兄の痩せ尖った顔に、眼を曇らせながら、

「――ここでお目にかかるも面目ない気がいたしますが、ご覧のとおり、ただ今では、僧正のお得度(とくど)をうけて、名も、尋(じん)有(ゆう)と改めておりまする。……どうか、その後のことは、ご安心くださいますように」

と、さしうつむいていった。

「そうか」

範宴は、大きな息をついて、うなずいた。

それで何か弟の安住が決まったように心がやすらぐと共に、もういっそう深刻な弟の気もちを察しているのでもあった。

「お養父(ちち)君(ぎみ)も、ご得心ですか?」

「わたくしのすべての罪をおゆるしくださいまして、今では、兄上と共に、仏の一弟子として、修行いたしておりまする」

「それはよかった……さだめしお養父君もご安心なされたであろう。おもとも、発心(ほっしん)いたしたうえは、懸命に、勉められい。精進一途(いちず)におのれを研(みが)いているうちには、必ず、仏天のおめぐみがあろう。惑わず、疑わずに……」

範宴は弟にむかって、そう諭(さと)したが、自分でも信念のない声だと思った。

しかし、尋(じん)有(ゆう)は素直であった。

兄のことばを身に沁み受けて、

「はい、きっと、懸命に修行いたしまする」

と、懺悔(さんげ)のいろをあらわしていうのだった。

あくる朝、範宴は、叡山(えいざん)の道をさして、飄然(ひょうぜん)と門を出た。

尋有の顔が、いつまでも、青蓮院の門のそばに立って見送っていた。

どこかで、やぶ鶯(うぐいす)のささ鳴きが、風のやむたびに聞えていた。

『無量寿いのちには限りない願いがある』(後期)

知的障がいのあるしゅう君は、

言葉でのコミュニケーションが苦手でした。

自分の思いを言葉でうまく伝えることができないので

うまくコミュニケーションが取れないと、

お友だちを噛んでしまうこともたびたびありました。

噛むこともまた、

「ぼくのことわかって!ぼくのこと聞いて!」としゅう君が思いを伝えていることなのですが・・。

年中組から幼稚園に入園してきたしゅう君なのですが、

どうしても、はじめのうちは、

「しゅう君は噛むから怖い」

とクラスの子どもたちの中で怖がられていました。

子どもたちの声を聞いたまわりの保護者の中からも

「しゅう君は噛む怖い子」

というレッテルが張られてしまいました。

でも

「しゅう君は噛むから怖い」

ということは、

一緒に生活をしていく中で、子どもたちの中からは

少しずつ消えていきました。

しゅう君は思いが伝わらないとやっぱり噛みます。

でも、なんでしゅう君は噛むのかを、

子どもたちがわかってきたのです。

年長組になり、卒園を間近に控えたある日、

子どもたちの何人かが、集まってしきりに話をしていました。

どうも話題は、しゅう君のことのようです。

また、しゅう君がお友だちを噛んでしまったのです。

噛まれたけんちゃんを真ん中にして、子どもたちが話し合っています。

「ぼくさっき、しゅう君に噛まれたんだけど、しゅう君僕に何を言いたかったのかなあ?」

「それはきっと、けんちゃんがしゅう君がよんでいるのに、気づかなかったからじゃない?」

「だよね、きっととそうだよね。しゅう君ごめんね・・・・」

噛んだしゅう君を責めるのではなく、どうしてわかってあげれなかったのかと

自分たちを問題にしている子どもたちの姿を見ながら

胸が熱くなりました。

別な日、たかし君のお母さんから手紙が来ました。

そのお母さん、園にたかしくんを迎えに来たとき、しゅう君が噛んでしまったのです。

その時に、けっしてきつくはなくですが、

「噛んだら駄目だよ」

としゅう君をしかったのです。

手紙の中には、こう書かれていました。

「たかしからおこられました。たかしは

『おかあさんはしゅう君をおこったでしょ。でもお母さんが悪いんだよ。しゅう君はお母さんを呼んでたのに、お母さんが気付かないからしゅう君は噛んだんだよ。なのにお母さんはしゅう君をしかったでしょ。ほんとに悪いのはお母さんなのに』

と教えてくれました。

噛むから悪い子と決めつけていた私の思い違いと、大人だという思い上がりを、子どもたちから教えてもらいました。

しゅう君や子どもたちに感謝の気持ちでいっぱいです。」

はじめは

「噛まれた」

と泣きながらも、

子どもたちはしゅう君に寄り添おうとしました。

嫌だからあっちに行けとも言えたはずなのに。

そばで一緒に生活しながら、わけもなく噛むのではなく

しゅう君にも思いがあるから、

ぼくたちわたしたちと

「一緒にいたい」

という思いがあるから噛むんだということがわかり、しゅう君の思いを一生懸命受け止めようとしたのです。

その子どもたちの姿に、

「ともに生きていこう」

という深い願いを見る思いがします。

子どもたちの中にある深い願いが、しゅう君の思いに寄り添いたいという姿となり

その姿が、大人のなかにある

「ともに生きよう」

という願いに響き、思い込みや思い上がり心を砕いて行ってくれたのでしょう。

いのちは願いを持っています。

「ともに生きたい」

という願を持っています。

その願いは、嫌なことや、つらいこと、しんどいことを超えて

共に生きていこうという歩みを、私たちにもたらしてくれます。

しゅう君、小学生になった今でも、言葉でのコミュニケーションは得意ではありません。

でも、噛むことはほとんどなくなりました。

きっと、しゅう君の願いと

まわりのお友だちや大人の人たちの願いとが響きあったからなんでしょうね。

「かごしまの『世間遺産』はおもしろい」(下旬)人が見残したものを見るのが「世間遺産」の原点

私がこういうことを始めたのには1つの原点があります。

考古学という学問はみなさんもご存じだと思います。

ところが私がしているのは

「今」というものの在り方、

「今あるものの生かし方」ということになりますので

「考現学」という言い方をさせていただいています。

この考現学を教える先生が、戦前の早稲田大学にいらっしゃいました。

今和次郎(こんわじろう)さんという方です。

この方がなぜ考現学を提唱されたかというと、1つは関東大震災が理由にあります。

大正14年にあった大震災で、東京は焼け野原になりました。

その焼け野原を見たときに、今和次郎さんはふとしたことに気付いたんですね。

それは、街の人びとが崩れたトタン、屋根瓦、壁、そういった物を使って、見よう見まねで家を造り始めたことでした。

それにすごく興味をひかれたんです。

この現象は何だろうかと、今和次郎さんはそり様子をスケッチしました。

そして、普段気付かなかったような、ある意味ではゴミだと思っていたものが、実は生活とか人間の根本にあたるんじゃないかということに気付かれたんです。

それで、この方は考現学を始められたんです。

また、デパートの前に座って、出入りする人たちをスケッチするなど観察したりもしました。

当時の人たちの服装や髪型、履いている靴などのデータを取って、

「今」という時代の流行調査みたいなことをしたんです。

「今」という時代どう見つめるのか、この考現学というのが

「世間遺産」の根本にあるのかなと思っています。

民俗学者の宮本常一さんは、その著書の中で

「人の見残したものを見るようにせよ。そこの中にいつも大事なものがあるはずだ」

という言葉を残されました。

この方は、全国いろんな所を行脚して、それぞれの地域にあるもの、または気付かれなかったものに注目し、本にまとめたりしました。

風景をただ風景として見るのではなく、1つの風景を作り出してきた人びとが自然とどのように関わり合ってきたのかを留めておこうとされたんです。

つまり、どういうことかというと、鹿児島には西郷隆盛、大久保利通などいろんな偉人、有名人がいらっしゃいますが、暮らしていたのは偉人ばかりではなく、庶民もたくさん生きていたということです。

そういう記録にも残らないような人たちの痕跡が、風景や地域の集落など、いろんな所に残っています。

それらを拾い集めることによって、政治の歴史と違った庶民の歴史、文化が見えてきます。

その民衆の歴史を明らかにしていくことこそ、大事なことなのではないでしょうか。

「人が見残したものを見る」

という言葉が、まさしく

「世間遺産」の原点になると私は思っています。

「一秒」

一秒

私が一年で一番

時計を見るのは

12月31日から1月1日にかけてです。

次の年になる

一秒一秒をまだかまだか

と待つ今。

過ぎた一秒。

来る一秒。

現在

過去

未来

一秒一秒。

現在が過去になっていく。

未来は不確定ですが

私にある一秒。

何が出来るか分かりませんが、

過去を悔いることができるだけ少ないように。

今ある

一秒

楽しんでいこうと思います。

往相回向の信と獲信(1月後期)

ところが、念仏する衆生に歓喜の心が起りません。

なぜでしょうか。

衆生には本来的に真実の信楽が存在しないからです。

そこで阿弥陀仏は、正覚の因である信楽を至心の全体で成就され、念仏を通して衆生に、本願の信楽を一心に信ぜよと願われるのです。

ではこの信楽が、どのようにして衆生の心に顕かになるのでしょうか。

この真理が本願成就文で

「その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん」

と説かれます。

名号を通して信楽が、衆生の心を震わせるが故に、やがて衆生はその本願の名号を聞いて、信心歓喜することになるのです。

けれども、もし衆生に浄土に生まれたいと願う心が生じなければ、浄土の存在意義はなくなります。

願生者がなければ、浄土教は成立しないからです。

ところで、愚かな凡夫には真実浄土を願う心など存在していません。

迷いの坩堝の中にあって、悟りへの道を見出すことができないからです。

だからこそ、この

「信心歓喜」

する心は、必然的に一心に浄土に生まれたいと願う心に転じられなければならないのです。

そのため、如来の信楽はそのまま衆生に対する招喚の勅命である欲生の心となるのです。

そこで、信楽した衆生は自ずから彼の安楽浄土に生まれたいと願うようになります。

なぜなら、阿弥陀仏が衆生の願生の心を

「至心に廻向したまへる」

からです。

阿弥陀仏の往相廻向の信は、名号を通して衆生に廻施されることが明らかになったのですが、ではその心がまさしく廻施される、阿弥陀仏と衆生の接点はどのようにして生じるのでしょうか。

ここで本願と成就文との関係が問題になります。

「その名号を聞きて」

という一点で、如来と衆生の接点が問われることになるのです。

衆生の獲信は、阿弥陀仏の信楽の廻施に依ります。

それは、名号を通して衆生に来たります。

しかしながら、どれほど一心に衆生が称名念仏したとしても、単に名号を称えるだけでは阿弥陀仏の信楽の真理は絶対に衆生の心には開かれません。

どうしてもここに、愚かなる衆生に、名号の功徳の一切を信知せしめる、今一つの善巧方便の働きが必要になるのです。

ここに釈尊の説法としての成就文の意義があります。

阿弥陀仏が一切の衆生を摂取する二種の廻向は、至心信楽欲生の三心を成就され、南無阿弥陀仏という乃至十念の念仏となって、衆生に来たります。

それゆえ、衆生はその名号を称える時、弥陀の大悲に摂取されているのです。

ただし、念仏の衆生は既に阿弥陀仏の摂取の中にあるとはいえ、衆生が名号の真実功徳の相を如実に知らない限り、いまだ真の意味でその衆生は阿弥陀仏の救いの中にあるとはいえません。

摂取されていることが信知されなければ、その事態はその衆生にとっては全く無意味なことでしかにないからです。

そこで、念仏している衆生に名号の真実義を知らしめる行為がいま一つ絶対に加わらなければならないことが明らかになります。

何かというと、既に名号の真実功徳を如実に知見している善知識の、未だ阿弥陀仏の大悲を知らない衆生に対する説法がどうしても必要なのです。

未信の衆生は、名号の説法を一心に聴聞することによってのみ、名号の真実がその通りに聞えることになるからです。

「本願」の文は、阿弥陀仏自らの誓いの言葉です。

一方「本願成就文」は、釈尊が阿弥陀仏の真意と本願の成就を私たちに理解させようとして教示される釈尊自身の言葉です。

「その名号を聞きて」とは、弥陀廻向の

「南無阿弥陀仏」を聞くということですが、それと同時に名号の真実功徳を説かれる釈尊の説法を聴聞することです。

この聴聞を通して、初めて衆生に信心歓喜が生じるのです。

「真実信心のおこることは、釈迦・弥陀の二尊の御はからひよりおこりたり…」

と親鸞聖人は手紙で述べておられますが、まさに弥陀・釈迦の方便がなければ、衆生の信心の獲得はありえません。

こうして、往相廻向の本願の行には、阿弥陀仏から廻向される名号と共に、釈尊の説法、名号を讃嘆される釈尊の行為が同時に含まれることになるのです。