投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「喪中欠礼」

近年は「いつも会っている人にはメールで済ませる」という人もいたりして、年賀状の枚数を減らす人もいたりするようですが、ご無沙汰している人とは年に一度の近況をやりとりの機会になったりするので、まだまだ「お正月に年賀状は欠かせないもの」という気がします。

年末に「喪中欠礼」の葉書を頂くことがあります。

一般には、その相手には年賀状を出すことを控えたりされるようですが、私は「自分は喪中なので、新年は年賀状での挨拶は控えます」という予告状だと理解して、「喪中欠礼」を頂いた方にも例年通り年賀状を出しています。

それは「喪中欠礼を頂いたからといって何も出さないのは、むしろ失礼だ」と考えているからです。

そういえば「喪中欠礼」を出した人の中には「近親者を亡くした上に年賀状が激減して、いっそう寂しいお正月だった」ということもあったりするようです。

服喪中の方に年賀状を出すのがはばかられるという場合は、「寒中見舞」を出すという方法もあります。

「寒中見舞」は、松の内(1月7日)が明けてから立春までに出すもので、使い方は次のように幅広くあります。

  1. 喪中の方に、年賀状の代わりに出す挨拶状として使う
  2. 喪中と知らずに年賀状を出してしまった相手に、お詫びの手紙として使う
  3. 喪中と知らずに年賀状を下さった相手に、お返事(返信)として使う
  4. 年賀状を出すのが遅くなってしまい、松の内を過ぎてしまった時に使う
  5. 年賀状を頂いた相手へのお返事が遅くなってしまい、松の内を過ぎてしまった時に使う
  6. 年賀状を投函したあとで、年末ギリギリにお歳暮を頂いた時のお礼状を出す時に使う
  7. 寒中見舞いのお返事・返信

ところで「喪中」と「忌中」とは、どう違うのでしょうか。

既に昭和22年に廃止されているのですが、明治7年に出された太政官布告では、忌(忌中)と服(喪中)の期間がこと細かく定められています。

例えば、

父母の場合「忌日数50日・服喪日数13カ月」、

夫は「忌日数50日・服喪日数13カ月」、

妻は「忌日数20日・服喪日数90日」、

祖父母(父方)は「忌日数30日・服喪日数150日」

(母方)は「忌日数30日・服喪日数90日」、

おじ・おばは「忌日数20日・服喪日数90日」

などと定められていました。

このように「忌」と「服(喪)」は謹慎度の深さによって分けられていますが、「忌」は自宅に謹慎する期間、「服(喪)」は喪服を着用する期間と考えてよいようです。

現在でも、慣例としてはこの太政官布告が一つの目安にされていて、父母の死亡に際しては「満中陰(四十九日)」までが「忌中」、「一周忌(一年間)」までが「喪中」とされることが多いようです。

では、改めて「忌」とは何か、「服(喪)」とは何なのでしょうか。

「忌」とは「死を畏れ忌みはばかる」ということで、

「死のけがれのある間は派手なことを控えて身を慎み、死を悼み、御霊をなごめるために避けられない期間。最長50日」

といわれています。

また「服(喪)」とは

「忌中が明けることを“忌明け”といいます。忌が明けたら神棚の白い紙をはがし、普段の神棚への拝礼や神社のお参りなど、忌中には控えていたことができるようになり、日常の生活ができるようになります」

と説明されています。

このことから、いずれも神道の考え方に基づくものであることが知られます。

したがって、太政官布告も既に廃止されていることもあり、死を「遺教」と頂き、「けがれ」とはとらえない仏教徒にとっては、特に気にする必要のない慣習であるように思われます。

また、神道の方でも、忌中の場合は控えるものの忌明け以後であれば「年賀状を出しても差し支えない」としているようです。

今年は、元旦以降に届いた年賀状の中に見知らぬ人の名前がありました。

それは、大学の同窓生の息子さんからのもので「先日、父がお浄土に往生しました」と記載されていました。

彼とは、卒業以来一度も会う機会はなかったのですが、これまで、結婚しました・子どもが生まれました・住職を継ぎましたなど、年に一度のやり取りの中で近況を伝えあっていました。

日頃は、なかなか思い出すことのない相手であっても、元旦に年賀状を見ると、その度に大学時代の記憶が新たに蘇ってきたりしていました。

ですから、こうして年に一度年賀状を交わすことによってお互いの絆を確かめ合っていると、もし数十年ぶりに会ったとしても普通に話ができるような気がしていました。

実は、仕事の関係で、今年その同窓生の住む街に行く機会があったので、「大学時代以来の旧交をあたためよう」と考えていただけに、急逝を驚き悼むと共に再会の機会を逸したことをとても残念に思ったことでした。

「喪中欠礼」をもらったからといって、何も出さないでいると、相手にとってはまる2年「音信不通」になることさえあります。

今回の訃報を通して、なかなか会えない県外に住む人には、

「年賀状だけではなく暑中見舞いも加えて、年2回くらいのやりとりをした方が良いかな…」

と思ったお正月でした。

親鸞・去来篇1月(10)

その日の範宴の講義は、あくまで範宴自身の苦悩から生れた独自の新解釈の信念に基づいたものであって、従来の型にばかり囚(とら)われた仏法のための仏法であったり、学問のための学問であったりするものとは、大いに趣(おもむき)が変っていた。

従って、今までの碩学(せきがく)や大徳の説いた教えに養われてきた人々には、耳馴れない範宴の講義が、いちいち異端者の声のように聞えてならなかったし、新しい学説を取って、若い範宴の衒学(げんがく)だと思う者が多かった。

「ふふん……」

という態度なのである。

中には明らかに反感を示して、

「若いものが、すこし遊学でもしてくると、あれだから困るのじゃよ」

と、嘲(あざ)むようにいう長老もあった。

ただ、終始、熱心に聞いていたのは、権(ごん)智房(ちぼう)ひとりであった。

権智房は、青(しょう)蓮院(れんいん)の慈円僧正から、きょうの講義の首尾を案じて、麓(ふもと)からわざわざ様子を見によこした僧である。

それと、もうひとり、どこの房に僧籍をおいているのかわからないが、おそろしい武骨な逞しい体躯を持った法師が、最も前の方に坐りこんで、睨むような眼(まな)ざしで、範宴の講義が終るまで身うごきもせずに聞き入っていたのが目立っていた。

長い日も暮れて、禿(かむろ)谷(だに)の講堂にも霧のようなものが流れこんできた。

講堂の三方から壁のように見える山の襞(ひだ)には、たそがれの陰影が紫ばんで陽は舂(うすず)きかけている。

範宴は、およそ半日にわたる講義を閉じて、

「短い一日では、到底、小止観の真髄(しんずい)まで、お話はできかねる。きょうは、法(ほう)筵(えん)を閉じて、また明日(あす)、究めたいと思います」

礼をして、壇を下りた。

大勢のなかには、彼の新しい解義に共鳴したものも何人かあったとみえて、

「範宴御房!夜に入っても苦しゅうない。ねがわくは、小止観の結論まで、講じていただきたいが」

という者もあるし、また、

「きょうのお説は、われらが今まで聴聞(ちょうもん)いたしてきた先覚の解釈とは、はなはだ異なっている。われわれ後輩のものは、従来の説を信じていいか、御房の学説に拠(よ)っていいか、迷わざるを得ません」

と訴える人々もあるし、

「学問には、長老や先覚にも、遠慮はいらぬはずだ。どうか、もっと話してもらいたい。堂衆たち!明りを点(つ)けろ」

立ちわさぐものもあったが、範宴は、もう席を去って、いかにもつかれたような面もちを、夕方の山影に向けながら、縁に立って、呼吸をしていた。

すると、そこへもまた、若い学徒がすぐ行って、彼を取り巻きながら、

「きょうのご講義のうちに、ちと腑(ふ)に落ちない所があるのですが」

とか、

「あすこのおことばは、いかなる意味か、とくともう一度、ご説明をねがいたい」

とかいって、容易に、彼を離さなかった。

席をあらためて、範宴は、その人々の質疑へ、いちいち流れるような回答をあたえていたが、そのうちに、互いの顔が見えないほど、講堂のうちはとっぷりと暮れてしまった。

親鸞・去来篇1月(9)古いもの新しいもの

「範宴が山へもどってきた――」

叡山(えいざん)の人々のあいだに、それは大きな衝動であった。

彼らの頭には、範宴という人物が、いつのまにか大きな存在になっていた。

自分たちに利害があるないにかかわらず、範宴のうごきがたえず気ががりであった。

それというのも、この山の人々の頭には、十歳にみたない少年僧であった時から、授戒登壇をゆるされて、その後も、群をぬいて学識を研(みが)いてきた範宴というものが、近ごろになって何となく自分たちの脅威に感じられてきたからであった。

「一乗院が帰山したというが、いつごろじゃ」

「もう、十日ほど前にもなろう、例の性(しょう)善坊(ぜんぼう)は、それよりもずっと前に戻っていたが、範宴のすがたが見えたは、ついこのごろらしい」

「ちょうど、三年ぶりかの」

「そうさ。範宴が下山(おり)たのは、先(さき)一昨年(おととし)の冬だったから……」

「だいぶ修行もつんだであろう」

「なあに、奈良は女の都だ、若い範宴が何を修行してきたかわかるものか」

「それは、貴僧たちのことだ。範宴がおそろしい信念で勉学しているということは、いつか山へ来た宇治の客僧からも聞いたし、麓(ふもと)でもだいぶうわさが高い」

一人が口をきわめて範宴の学際とその後の真摯(しんし)な態度を褒め賞めたたえると、怠惰な者の常として、かるい嫉妬(しっと)をたたえた顔がちょっと白けてみえた。

「その範宴が、明日から横(よ)川(がわ)の禿(かむろ)谷(だに)で、講義をひらくということだが――」

と思いだしたようにいうと、

「そうそう、小止観(しょうしかん)と往生(おうじょう)要集(ようしゅう)を講義するそうだが、まだ二十二、三の若年者が、山の大徳や碩学(せきがく)をまえにおいて、どんなことをしゃべるか、聞きものだて」

「碩学(せきがく)たちも意地がわるい、ぜひにと、懇望しておいて、実は、あげ足をとって、つッ込もうという肚じゃないかな?」

「そうかもしれん。いや、そうなるとおもしろいが」

惰眠(だみん)の耳もとへ鐘をつかれたように、人々は、範宴を嫉妬した。

禿谷には、その翌日、一山の人々が踵(きびす)をついでぞろぞろと群れてきた。

講堂は立錐(りっすい)の余地もなく人で埋(うま)った。

若い学僧がむろん大部分であったが、中には、一院の主(あるじ)も、一方の雄僧も見えて、白い眉毛(まゆげ)をしかめていた。

やがて、講壇のむしろに、一人の青年が法衣(ほうえ)をさばいて坐った。

色の青じろい肩の尖った姿を、人々はふと見ちがえて、

「ほ……あれが範宴か」

と、その変りように思わず眼をみはった。

「痩せたのう」

「眼ばかりがするどいではないか」

「病気でもしたとみえる」

聴座(ちょうざ)の人々のあいだに、そんな囁(ささや)きがこそこそながれた。

しかし、範宴の唇だけは誰よりも紅かった。

そして一礼すると、その唇をひらいて、おもむろに小止観を講義して行った。

親鸞・去来篇1月(8)

青蓮院の門が見えた。

その門を潜(くぐ)る時、慈円はまた、ことばをくりかえして、

「もいちど叡山へもどったがよいぞ」

と、いった。

「はい」

範宴はそう答えるまでに自分でも心を決めていたらしく、

「明日、お暇(いとま)をいたしまする」

「うむ……」

慈円はうなずいて、木覆の音を房(ぼう)のほうへ運んで行った。

すると、房の式台の下にかがまって、手をついている出迎えの若僧があった。

慈円は、一瞥して、ずっと奥へはいってしまったが、つづいて範宴が上がろうとすると、若僧はふいに彼の法衣(ころも)の袂(たもと)をつかんで、

「兄上」

と、呼んだ。

思いがけないことであった。

それは性善坊と共に、先年、都に帰った弟の朝麿なのである。

常々、心がかりになっていたことでもあるし、この青蓮院へついてもまっ先にその後の消息をたずねたいと思っていたのでもあるが、まさか、髪を剃(お)ろして、ここにいるとは思わなかったし、師の慈円も、そんなことは少しも話に出さなかったので、彼は驚きの眼をみはったまま、

「おお……」

とはいいながらも、しばらく、弟の変わった姿に茫然(ぼうぜん)としていた。

朝麿はまた、兄の痩せ尖った顔に、眼を曇らせながら、

「――ここでお目にかかるも面目ない気がいたしますが、ご覧のとおり、ただ今では、僧正のお得度(とくど)をうけて、名も、尋(じん)有(ゆう)と改めておりまする。……どうか、その後のことは、ご安心くださいますように」

と、さしうつむいていった。

「そうか」

範宴は、大きな息をついて、うなずいた。

それで何か弟の安住が決まったように心がやすらぐと共に、もういっそう深刻な弟の気もちを察しているのでもあった。

「お養父(ちち)君(ぎみ)も、ご得心ですか?」

「わたくしのすべての罪をおゆるしくださいまして、今では、兄上と共に、仏の一弟子として、修行いたしておりまする」

「それはよかった……さだめしお養父君もご安心なされたであろう。おもとも、発心(ほっしん)いたしたうえは、懸命に、勉められい。精進一途(いちず)におのれを研(みが)いているうちには、必ず、仏天のおめぐみがあろう。惑わず、疑わずに……」

範宴は弟にむかって、そう諭(さと)したが、自分でも信念のない声だと思った。

しかし、尋(じん)有(ゆう)は素直であった。

兄のことばを身に沁み受けて、

「はい、きっと、懸命に修行いたしまする」

と、懺悔(さんげ)のいろをあらわしていうのだった。

あくる朝、範宴は、叡山(えいざん)の道をさして、飄然(ひょうぜん)と門を出た。

尋有の顔が、いつまでも、青蓮院の門のそばに立って見送っていた。

どこかで、やぶ鶯(うぐいす)のささ鳴きが、風のやむたびに聞えていた。

『無量寿いのちには限りない願いがある』(後期)

知的障がいのあるしゅう君は、

言葉でのコミュニケーションが苦手でした。

自分の思いを言葉でうまく伝えることができないので

うまくコミュニケーションが取れないと、

お友だちを噛んでしまうこともたびたびありました。

噛むこともまた、

「ぼくのことわかって!ぼくのこと聞いて!」としゅう君が思いを伝えていることなのですが・・。

年中組から幼稚園に入園してきたしゅう君なのですが、

どうしても、はじめのうちは、

「しゅう君は噛むから怖い」

とクラスの子どもたちの中で怖がられていました。

子どもたちの声を聞いたまわりの保護者の中からも

「しゅう君は噛む怖い子」

というレッテルが張られてしまいました。

でも

「しゅう君は噛むから怖い」

ということは、

一緒に生活をしていく中で、子どもたちの中からは

少しずつ消えていきました。

しゅう君は思いが伝わらないとやっぱり噛みます。

でも、なんでしゅう君は噛むのかを、

子どもたちがわかってきたのです。

年長組になり、卒園を間近に控えたある日、

子どもたちの何人かが、集まってしきりに話をしていました。

どうも話題は、しゅう君のことのようです。

また、しゅう君がお友だちを噛んでしまったのです。

噛まれたけんちゃんを真ん中にして、子どもたちが話し合っています。

「ぼくさっき、しゅう君に噛まれたんだけど、しゅう君僕に何を言いたかったのかなあ?」

「それはきっと、けんちゃんがしゅう君がよんでいるのに、気づかなかったからじゃない?」

「だよね、きっととそうだよね。しゅう君ごめんね・・・・」

噛んだしゅう君を責めるのではなく、どうしてわかってあげれなかったのかと

自分たちを問題にしている子どもたちの姿を見ながら

胸が熱くなりました。

別な日、たかし君のお母さんから手紙が来ました。

そのお母さん、園にたかしくんを迎えに来たとき、しゅう君が噛んでしまったのです。

その時に、けっしてきつくはなくですが、

「噛んだら駄目だよ」

としゅう君をしかったのです。

手紙の中には、こう書かれていました。

「たかしからおこられました。たかしは

『おかあさんはしゅう君をおこったでしょ。でもお母さんが悪いんだよ。しゅう君はお母さんを呼んでたのに、お母さんが気付かないからしゅう君は噛んだんだよ。なのにお母さんはしゅう君をしかったでしょ。ほんとに悪いのはお母さんなのに』

と教えてくれました。

噛むから悪い子と決めつけていた私の思い違いと、大人だという思い上がりを、子どもたちから教えてもらいました。

しゅう君や子どもたちに感謝の気持ちでいっぱいです。」

はじめは

「噛まれた」

と泣きながらも、

子どもたちはしゅう君に寄り添おうとしました。

嫌だからあっちに行けとも言えたはずなのに。

そばで一緒に生活しながら、わけもなく噛むのではなく

しゅう君にも思いがあるから、

ぼくたちわたしたちと

「一緒にいたい」

という思いがあるから噛むんだということがわかり、しゅう君の思いを一生懸命受け止めようとしたのです。

その子どもたちの姿に、

「ともに生きていこう」

という深い願いを見る思いがします。

子どもたちの中にある深い願いが、しゅう君の思いに寄り添いたいという姿となり

その姿が、大人のなかにある

「ともに生きよう」

という願いに響き、思い込みや思い上がり心を砕いて行ってくれたのでしょう。

いのちは願いを持っています。

「ともに生きたい」

という願を持っています。

その願いは、嫌なことや、つらいこと、しんどいことを超えて

共に生きていこうという歩みを、私たちにもたらしてくれます。

しゅう君、小学生になった今でも、言葉でのコミュニケーションは得意ではありません。

でも、噛むことはほとんどなくなりました。

きっと、しゅう君の願いと

まわりのお友だちや大人の人たちの願いとが響きあったからなんでしょうね。

「かごしまの『世間遺産』はおもしろい」(下旬)人が見残したものを見るのが「世間遺産」の原点

私がこういうことを始めたのには1つの原点があります。

考古学という学問はみなさんもご存じだと思います。

ところが私がしているのは

「今」というものの在り方、

「今あるものの生かし方」ということになりますので

「考現学」という言い方をさせていただいています。

この考現学を教える先生が、戦前の早稲田大学にいらっしゃいました。

今和次郎(こんわじろう)さんという方です。

この方がなぜ考現学を提唱されたかというと、1つは関東大震災が理由にあります。

大正14年にあった大震災で、東京は焼け野原になりました。

その焼け野原を見たときに、今和次郎さんはふとしたことに気付いたんですね。

それは、街の人びとが崩れたトタン、屋根瓦、壁、そういった物を使って、見よう見まねで家を造り始めたことでした。

それにすごく興味をひかれたんです。

この現象は何だろうかと、今和次郎さんはそり様子をスケッチしました。

そして、普段気付かなかったような、ある意味ではゴミだと思っていたものが、実は生活とか人間の根本にあたるんじゃないかということに気付かれたんです。

それで、この方は考現学を始められたんです。

また、デパートの前に座って、出入りする人たちをスケッチするなど観察したりもしました。

当時の人たちの服装や髪型、履いている靴などのデータを取って、

「今」という時代の流行調査みたいなことをしたんです。

「今」という時代どう見つめるのか、この考現学というのが

「世間遺産」の根本にあるのかなと思っています。

民俗学者の宮本常一さんは、その著書の中で

「人の見残したものを見るようにせよ。そこの中にいつも大事なものがあるはずだ」

という言葉を残されました。

この方は、全国いろんな所を行脚して、それぞれの地域にあるもの、または気付かれなかったものに注目し、本にまとめたりしました。

風景をただ風景として見るのではなく、1つの風景を作り出してきた人びとが自然とどのように関わり合ってきたのかを留めておこうとされたんです。

つまり、どういうことかというと、鹿児島には西郷隆盛、大久保利通などいろんな偉人、有名人がいらっしゃいますが、暮らしていたのは偉人ばかりではなく、庶民もたくさん生きていたということです。

そういう記録にも残らないような人たちの痕跡が、風景や地域の集落など、いろんな所に残っています。

それらを拾い集めることによって、政治の歴史と違った庶民の歴史、文化が見えてきます。

その民衆の歴史を明らかにしていくことこそ、大事なことなのではないでしょうか。

「人が見残したものを見る」

という言葉が、まさしく

「世間遺産」の原点になると私は思っています。