投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

親鸞・去来篇1月(7)

くすくすと、そこらで忍びわらいがする。

それを目あてに、範宴は手さぐりをしては、室内をさまよった。

そして、几帳(きちょう)の蔭にかくれていた人をとらえて、

「つかまえました」

と、目かくしをとった。

それは、玉日姫であった。

姫は、

「あら……」

と困った顔をし、範宴は、何かはっとして、捕えていた手を放した。

「さあ、こんどは、お姫さまが鬼にならなければいけません」

と、乳人や女房たちは、彼女の顔をむらさきの布(きれ)で縛ろうとすると、

「嫌っ」

と姫は、うぐいすのように、縁へ、逃げてしまった。

出あいがしらに小侍(こざむらい)が、

「範宴どの、青(しょう)蓮院(れんいん)さまが、お帰りでございますぞ」

と告げた。

範宴はほっとして、

「あ。おもどりですか」

人々へ、あいさつをして、帰りかけると、姫は、急に、さびしそうに、範宴のうしろ姿へ、

「また、おいで遊ばせ」

といった。

振向いて、範宴は、

「はい、ありがとうございます」

しかし――彼は何か重くるしいものの中から遁(のが)れるような心地であった。

こういう豪華な大宮人の生活に触れることは夢のように遠い幼少のころの記憶にかすかにあるだけであって、九歳の時からもう十年以上というもの、いつのまにか、僧門の枯淡と寂寞(せきばく)が身に沁みこんで、かかる絢爛(けんらん)の空気は、そこにいるだにもたえない気がするのであった。

慈円はもう木覆を穿(は)いて、丁子(ちょうじ)の花のにおう前栽(せんざい)をあるいていた。

共をして、外へ出てから、範宴はこういって慈円にたずねた。

「お師さまは、叡山(えいざん)にいれば、叡山の人となり、青蓮院にいらっしゃれば、青蓮院の人となり、俗家へいらっしゃれば、俗家の人となる。

女房たちや、お子たちの中へまじっても、また、それにうち解けているご様子です。

よく、あんな謡(うた)など平気におうたいになれますな」

すると、慈円はこういった。

「そうなれたは、このごろじゃよ。――つまり、いるところに楽しむという境界(きょうがい)にやっと心がおけてきたのじゃ」

「――いるところに楽しむ……」

範宴は、口のうちで、おうむ返しにつぶやきながら考えこんだ。

慈円はまた、

「だが、おもとなどは、そういう逃避を見つけてはいけない。わしなどは、いわゆる和歌詠(うたよ)みの風流僧にとどまるのだから、そうした心境(こころ)に、小さい安住を見つけているのじゃ。やはり、おもとの今のもだえのほうが尊い――」

「でも、私は、真っ暗でございます」

「まいちど、叡山へのぼるがよい。そして、あせらず、逃避せず、そして無明(むみょう)をあゆむことじゃ。歩むだけは歩まねば、彼岸にはいたるまいよ」

どこかの築地(ついじ)の紅梅が、風ともなく春のけはいを仄(ほの)かに陽なたの道に香(にお)わせていた。

親鸞・去来篇1月(6)

そこへ、侍女(こしもと)が、菓子をはこんできて、慈円のまえと、範宴のまえにおいた。

慈円は、その菓子を一つたべ、白湯(さゆ)にのどをうるおして、

「えへん」

と咳(せき)ばらいした。

姫も、女房たちも、おのおの、楽器をもって、待っていたが、いつまでも慈円が謡(うた)わないので、

「いやな叔父さま」

と、姫はすこしむずかって、

「はやくお謡いあそばせよ」

あどけなく、鈴のような眼をして、玉日姫が睨むまねをすると、慈円はもう素直に歌っていた。

西寺(さいじ)の、西寺の

老い鼠(ねずみ)、若鼠

おん裳(も)喰(つ)んず

袈裟(けさ)喰んず

法師に申せ

いなとよ、師に申せ

歌い終わるとすぐ、

「兄上、ちと、話したいことがあるが」

と、兼実へいった。

「では、あちらで」

と兼実は、慈円と共に、そこを立って、別室へ行ってしまった。

姫は、つまらなさそうな顔をして、二人の後を追って行ったが、父に何かいわれて、もどってきた。

乳人(めのと)や女房たちは、機嫌をそこねないようにと、

「さあ、お姫(ひい)さま、もう、誰もいませんから、また猿楽あそびか、鬼ごとあそびいたしましょう」

「でも……」

と、玉日は顔を振った。

範宴が、片隅に、ぽつねんと取り残されていた。

女房たちのうちから、一人が、側へ寄って、

「お弟子さま。

あなたも、お入りなさいませ」

「は」

「鬼ごとを、いたしましょう」

「はい……」

範宴は、答えに、窮していた。

「お姫(ひい)さまが、おむずがりになると、困りますから、おめいわくでしょうが」

と手を取った。

そして、

「お姫(ひい)さま、この御房(ごぼう)が、いちばん先に、鬼になってくださるそうですから、よいでしょう」

玉日は、貝のような白い顎(あご)をひいて、にこりとうなずいた。

いうがごとく、迷惑至極なことであったが、拒むまもなく、ひとりの女房が、むらさきの布(ぬの)をもって、範宴のうしろに廻り、眼かくしをしてしまった。

ばたばたと、衣(きぬ)ずれが、四方にわかれて、みんなどこかへ隠れたらしい。

時々、

東寺の鬼は

何さがす――

と歌いつつ、手拍子をならした。

範宴は、つま先でさぐりながら、壁や、柱をなでてあるいた。

そしてふと、眼かくしをされた自分の現身が、自分の今の心をそのままあらわしているような気がして、かなしい皮肉にうたれていた。

「声に出してお念仏することの意味は?」

お念仏とは、

「南無阿弥陀仏」

「なんまんだぶなんまんだぶ」

と声に称えることを言います。

口に称え、声に出してお念仏する姿勢が、浄土真宗の要であります。

親鸞さまは、南無阿弥陀仏とお念仏する姿を、

「阿弥陀仏からの私への呼びかけ」

と味わい、受けとめていかれました。

南無阿弥陀仏は

「名号」

とも言われます。

名号とは、その漢字を一つずつ紐解きますと、まず

「名」とは、「夕暮れ」に「口」と書きます。

この文字には、夕暮れが迫り、次第に暗くなる中を、我が子を心配する親が口に声を出して子どもを呼び続け、

「お父さんがここにおるぞー」

「お母さんがここにおるよ」

と自分の存在を子どもに伝える様子を表し、

「号」の字は、号令や号泣と書くように

「叫ぶ」様子を表しています。

すなわち、阿弥陀仏が私たちのことをまるで我が子のように心配し、自己中心の暗い心の闇を抱える私たちに南無阿弥陀仏の名をもってその存在を示し、私たちを呼び叫び続けてくださる姿がお念仏であります。

その呼びかけに対し、子どもが安心して

「おとうさーん」

「おかあさーん」

と親の名を呼ぶように、

「南無阿弥陀仏」

と私たちが阿弥陀仏の名を呼ぶ声もまたお念仏であります。

このように南無阿弥陀仏のお念仏には、

「われに任せよ、必ず救う」

という阿弥陀仏の私たちへの願いと、

「あなたにお任せします」

という私たちの思いの両方が込められているのです。

このお念仏の声の響きを、

「こだま」や「山びこ」に譬えることがあります。

山に向かって大声を出すと、その声が山々に反射し、こだまとなって帰ってきます。

もっとも、大声で呼ぶ存在があってこそ初めてこだまが響いてきます。

それと同じように、南無阿弥陀仏という私への大きな呼びかけが私に至り届き、それがこだまとなって私の口からまた南無阿弥陀仏と響きを返されていくのがお念仏でありましょう。

常に私を呼び続けてくださる阿弥陀仏の呼びかけに、しっかり声に出してお念仏の響きを返していくことが私たち念仏者の大切な姿勢です。

親鸞・去来篇1月(5)

「姫、ごあいさつをせぬか、叔父さまに――」

兼(かね)実(ざね)がいうと、まだどっかこうあどけ(、、、)ない姫は、笑ってばかりいて、

「後で」

と、女房たちの後ろにかくれた。

慈円には姪(めい)にあたる姫であって、兼実にとっては、この世にまたとなき一人(ひとり)息女(むすめ)の玉(たま)日(ひ)姫(ひめ)である。

「玉日――」

慈円は呼んで、

「あいさつは、あずけておこうほどに、猿楽の真似(まね)を一つ見せい」

すると、また、玉日も、女房たちも、何がおかしいのか、いよいよ笑って、返辞をしない。

「せっかく、面白う遊戯していたに、この慈円が来たために、やめさせては悪い。舞わねば、わしは帰るほかあるまい」

すると、玉日は、父のそばへ小走りに寄ってきて、その膝に甘えながら、

「叔父さまを、帰しては嫌(いや)です」

「それでは、管弦を始めたがよい」

「叔父さまも、なされば――」

「するともよ」

慈円は、わざと興めいて、

「わしは、歌を朗詠しよう」

「ほんとに?」

姫は、念を押して、女房たちへ向いながら、

「叔父さまが、朗詠をあそばすと仰っしゃった。そなた達も、聞いていらっしゃい」

「はい、はい、僧正さまのお謡(うた)など、めったにはうかがえませぬから、ちゃんと、聞いておりまする」

「そのかわりに、姫も、舞うのじゃぞ」

「いや」

玉日は、慈円のうしろをちらと見た。

そこに、青白い顔をして梅の幹のように痩せてはいるが凛(りん)としてひとりの青年がさっきからひかえている、その範宴をながめて、はにかむのであった。

慈円は気がついて、

「そうそう、姫はまだこのお人を知るまい」

「………」

玉日は、あどけなく、うなずいて見せた。

父の兼(かね)実(ざね)が、

「叔父さまの御弟子(みでし)で、範宴少納言という秀才じゃ。そなたがまだ、乳人(めのと)のふところに抱かれて青(しょう)蓮院(れんいん)へ詣(もう)でたころには、たしか、範宴も愛くるしい稚(ち)子(ご)僧でいたはずじゃが、どちらも、おぼえてはいまい」

「そんな遠い幼子(おさなご)のころのことなど、覚えているはずはありませんわ」

「だから、恥らうことはないのじゃ」

「恥らってなどおりません」

姫も、いつか、馴れていう。

「じゃあ、舞うて見せい」

「舞うのは嫌、胡弓か、箏(こと)なら弾(ひ)いてもよいけれど」

「それもよかろう」

「おじさま、謡(うた)うんですよ、きっと」

「おう、謡うとも」

慈円が、まじめくさって、胸をのばすと、兼実も、女房たちも、笑いをこらえている。

範宴は、ほほ笑みもせず、黙然(もくねん)としたきりで、澄んだ眸をうごかしもしない。

往相回向の信と獲信(1月中期)

親鸞聖人は、手紙の中で

「念仏往生の願は如来の往相廻向の正業・正因なりとみえてさふらふ」

と語っておられます。

念仏往生の願とは第十八願であり、この願文で

「正業・正因」

を示す言葉と言えば、至心・信楽・欲生の三心と十念を指すことは明らかです。

そして、この三心と十念の語について、親鸞聖人は『尊号真像銘文』で次のように解釈しておられます。

至心信楽といふは、至心は真実とまふすなり、真実とまふすは如来の御ちかひの真実なるを至心とまふすなり。

煩悩具足の衆生はもとより真実の心なし、清浄の心なし、濁悪邪見のゆへなり。

信楽といふは、如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じてうたがはざれば信楽とまふすなり。

この至心信楽はすなはち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひの至心信楽なり。

凡夫自力のこころにはあらず。

欲生我国といふは、他力の至心信楽をもて安楽浄土にむまれむとおもへとなり。

乃至十念とまふすは、如来のちかひの名号をとなえむことをすすめたまふに、偏数のさだまりなきほどをあらわし、時節をさだめざることを衆生にしらせむとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそえてちかひたまへるなり。

「至心」というのは真実の心のことです。

煩悩具足の凡夫は、濁悪邪見なのですから、本来的に真実の心も清浄の心も存在していません。

そこで阿弥陀仏は、その凡夫を救うために、真実心である至心の成就を本願に誓われます。

では、この誓願には何が願われているのでしょうか。

衆生を浄土に往生せしめるための

「わが真実なる誓願を信楽すべし」

というのがその願いです。

そこで、この本願の真実を疑いなく一心に信じることを、また

「信楽」といいます。

ただしここで誤ってはならないのは、この信楽は

「ふたごころなくふかく信じてうたがはざれば」

と、一見阿弥陀仏を一心に信じている衆生の心のように表現されているのですが、それは決して凡夫自力の心を意味しているのではないということです。

「信楽すべし」という阿弥陀仏の誓願をふたごころなく信じているが故に、この心もまた信楽と呼ばれているに過ぎないのであって、誓願の信楽こそ衆生を摂取される如来の真実心だと見なければなりません。

「欲生」もまた、阿弥陀仏自身が衆生に

「如来の至心信楽を獲得して、わが安楽浄土に生まれよ」

と一心に願われている心だとされます。

では、その阿弥陀仏の願いは、どのようにして衆生の心に来たるのでしょうか。

ここで、親鸞聖人は

「乃至十念」の誓いにその動態を見られます。

乃至十念について、

「如来のちかひの名号をとなえむことをすすめたまふ」

と解されているのがそれで、衆生が称える

「南無阿弥陀仏」

の称名念仏こそ、阿弥陀仏が衆生に対して

「称名せよ」

と勧められる阿弥陀仏の言葉だと解されます。

では「乃至」は何を意味するのでしょうか。

阿弥陀仏は私たちに対して、称名について

「偏数のさだまりなきほどをあらはし、時節のさだめざること」

を衆生に知らしめようと願われています。

それが「乃至」の誓いだとすれば、私たちの称名念仏には、称え方が一切求められていないことになります。

具体的には、称える数も場所も時間も、声の大小さえ何ら問題にはされていません。

まさに、私の口より出でている南無阿弥陀仏こそ、如来より来たる音声にほかならないのです。

こうして

「乃至十念」の南無阿弥陀仏が、如来が衆生を浄土に往生せしめる

「往相廻向の正業」となり、

「至心信楽欲生」の三心がまさしく衆生往生の

「往相廻向の正因」となるのです。

この点が、『教行信証』「信巻」の本願の三心の解釈においてより詳細に論理的に解明されます。

阿弥陀仏は、なぜ愚悪の衆生を救うために本願に三心を誓われたのでしょうか。

その仏意は測りがたいのですが、ひそかに仏の心を推し量ってみますと、衆生の側には往生の正因となるべき真実の至心信楽欲生が全く存在していないことが知られます。

そこで親鸞聖人は、この阿弥陀仏の救いの構造を名号と三心の関係の中で

「至心は則ち是れ至徳の尊号をその体とせるなり」

「則ち利他回向の至心を以て、信楽の体とするなり」

「則ち真実の信楽を以て、欲生の体とするなり」

と捉え、阿弥陀仏は名号を通して、疑蓋雑わることなき真実の至心信楽欲生の三心を衆生に廻施されたとみられたのです。

迷える衆生の一切は、無始以来、今日今時に至るまで、穢悪汚染のみで清浄の心がなく、虚仮諂偽で真実の心はありません。

だからこそ、法蔵菩薩はその一切の衆生を悲憫し摂取するために

「至心」の誓願を建てられ、不可思議兆載永劫において清浄真心なる菩薩の行を行じ、ついに如来の円融至徳の名号を成就されたのです。

衆生の称名は、この阿弥陀仏より廻施された名号を称えているのであり、それ故に念仏する衆生は、無条件で阿弥陀仏の真実心に摂取されていることになるのです。

『無量寿いのちには限りない願いがある』(中期)

「無量寿」

という言葉は、文字の上から窺うと

「寿命が限りなく続いていく」

という意味に理解することができます。

そうしますと、私たちは自分の人生が八十年とか、あるいは百年というような限られたものではなく、いつまでもいのちが限りなく続いていくことを思い浮かべます。

それを別の言葉で言い表すと、いわゆる

「不老長寿」

といったような受け止め方になるのではないでしょうか。

実際、現代の科学技術の力をもってすれば、肉体的な長生不死は理論的には既に実現可能なのだそうです。

具体的には、赤ちゃんときの細胞が一番増殖力が活発であることから、用いるのは生まれてすぐに亡くなった赤ちゃんの細胞ということになるのでしょうが、老化した細胞と赤ちゃんの細胞を次第に取り替えていけば、いつまでも若々しさを保つことができるようなのです。

けれども、はたして不老長寿とか長生不死とか、そういう意味での死なないということが、果たして人間として生きているということになるのかどうか、やはりこれは大きな問題だと思います。

「寿命」の「寿」という字には、「ことぶき」つまり「よろこぶ」という意味があります。

それは、「生きている」というときには、その「生きていること」に喜びが伴わなければ、生きていることにはならないということを物語っています。

私たちは、生きていることが苦しくて辛いと、

「死んでしまいたい」

と思ったりすることがありますが、それではたとえ息をしていても、本当に生きているとは言い難いのです。

仏教では、私たちの欲望をいろいろと説き明かしていますが、その一つに

「三愛」

ということがあります。

三愛の中の第一は「欲愛」です。

これは、いろいろなものや事柄に対する愛着です。

物質だけでなく、地位とか名誉とかにも対して持つ欲、これらをすべて

「欲愛」

という言葉で言い表します。

したがって、これは言い換えると

「所有欲」

だと言えます。

つまり、自分のものとして所有したい、自分のものにしたいという欲です。

この愛欲のもとには、自分が存在していることに対する欲、つまり、自分がいつまでも生き続けられるようにという欲があります。

これが、第二の「有愛」です。

これは、生存への欲、生存への愛着心です。

それと同時に、人間には第三に「非有愛」ということがあります。

「非有愛」というのは少し理解し辛いのですが、自分が存在しなくなることへの愛着で、自分がこの世に生き続けることを拒否したい欲です。

仏教では自殺ということを、この「非有愛」という言葉で押さえます。

自殺は、自己放棄ではないのです。

もし、自分を放棄したのであれば、死ぬ必要もありません。

ただ成り行きにまかせ、環境に流されて生きていけばよいのです。

けれども、自殺するということは、逆の自己主張です。

好ましくない今の状態に自分を追いこんでいるものや、そういう社会に対する抗議・怒りといったような、この世に対する否定の感情が、自分がこのままの境遇や状態で生き続けていくことを拒否するのです。

そのような意味で、自殺も自己愛なのです。

それは、人間には

「死ぬ」

という形で生きるということがあるということです。

虚しさとか苦しさのあまり、そのような自らの人生そのものを否定する。

そういう形で、自分を確保したいという心を持っているのが人間であり、それを仏教では

「非有愛」

と押さえているのです。

ですから、長生不死がそのまま人間としての喜びになるかというと、そうはなりません。

しかも、生きていることに喜びが伴わなければ、むしろ長生不死は苦痛になってしまいます。

まさに、死ねないということは苦痛なのです。

なぜなら、長生不死ということは終りがないということだからです。

私たちは、どんな苦しみにも終りがあるということで安堵する面がありますが、もしこの苦しみに終りがなくなれば、それはとても耐えられたものではありません。

実は、地獄こそが長生不死の世界なのです。

地獄は、限りなく苦痛を受け続ける世界としと説かれています。

ですから、長生不死とか不老長寿ということが、そのままただちに人間としての満足を生み出すのかというと、そこに生きていることの喜びを伴わなければ、けっして喜ばしいものとはならないのです。

考えてみますと、生きていることの喜びは、一人、つまり孤独では出てきません。

生きていることの喜びには、必ずそこに

「共に喜ぶ」

ということがあるはずです。

源信僧都は地獄について

「われいま帰るところなし。孤独にして無同伴なり」

と述べておられますが、これが苦悩のいちばん深い姿です。

そうすると、生きていることの喜びは、けっして孤独というところにはないということになります。

孤独を破って信じられる人間関係、あるいは社会との関係が開かれなければ、私のいのちがどれだけ長く続いたとしても、それは

「無量寿」

にはならないのです。

自分の周りの人が信じられ、そして心から語り合える人がいるとき、人はどんな悲しみにも耐えられますし、心から喜ぶことができるのだと思います。

また、どれほど嬉しいことがあったとしても、その喜びを共にしてくれる人がいなければ、むなしいだけです。

したがって、どれほど多の人びとからうらやましがられるようなことが起こったとしても、その喜びを一緒に、まるで自分のことのように喜んでくれる人がいなければ、寂しい思いをしたり、孤独であることを強く感じたりすることさえあります。

このような意味で、

「寿命」とは

「関わりとしてある」

ということなのです。

したがって、仏の寿命が無量だということは、その仏の上において言うのではなく、その仏によって生み出され人びとの上で仏のいのちは無量だということを意味しているのです。

つまり仏のいのちが無量だということは、仏のいのちが限りなく働いていくということにほかなりません。

本当に人間としてそのいのちを生きた人のいのちというものは、周りの人びとに時代を超え、地域や国境を超えて限りなく感動を与え、多くの人びとに生きる勇気を与えます。

そして、それによってその人の徳が受け継がれていくことになります。

ですから、仏の寿命が無量だということは、そのような限りなく人を生み出し、その生み出す働きに限りがないということなのです。

そして、おおくの人びとに生きる勇気を与え、生きる喜びを与え続けて、その働きの波及していくことに限りがないということです。

ですから

「無量寿仏」

という仏は、どこかにそのような仏がおられ、その仏がいつまでも生きておられるということを物語っているのではありません。

もしそれだけのことなら、私にとっては無関係です。

「無量寿」は慈悲を意味する言葉でもありまずか、仏がいつまでも生きておられるということから慈悲という意味を見出せません。

「無量寿」が慈悲だということの意味は、無量寿とは願の限りなさであり、その願とはこの私のために仏が起こされた願いであり、この私のために、私がその願いに目覚めるまで働きをやめることができない、そういう働きを感じたときに無量寿が慈悲として感じられるのです。

つまり、私の上に働いているものを感じなくては無量寿ではないのです。

そして少なくとも、いのちとは願いだということです。

まだ死なずにいるということと、生きているということの決定的な違いは、願いがあるかどうかということです。

一般に、何か願いを持って生きているときには、たとえ病床に臥していても、そのいのちは生き生きと働いているのです。

反対に、たとえ元気であっても、いのちをかけて願うべきものが全く見出せずにいるときは、そのいのちは本当に生きているとは言い難いのです。

ですから、そのいのちの内容は願いなのです。

そして、その願いが限りないということが、無量寿という言葉で讃えられている意味なのです。

このような意味で、いのちには限りない願いがあるのです。