投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

『行信』

親鸞聖人の教えを学ぶ人々の間では、

「行信半学」

という言葉が交わされてきました。

行と信の問題がよく分かれば、親鸞聖人の教えの中心問題は、ほぼ学ぶことが出来るという意味ですが、親鸞聖人の教学では、それほどこの

「行信」

の問題が重視されます。

さて、なぜ私たちは、仏教の教えに導かれようとしているのでしょうか。

悲しいことに、私たちは誰もが迷いのみが満ちあふれている人生を歩んでいます。

そして、誰一人として例外なく、つまるところ苦悩と悲嘆のどん底の中で、人生を終えなければなりません。

だからこそ、この愚かなる私の迷いを、根元より断ち切って、たとえ自身の人生がどのように展開しようとも、そこに無限に輝く自己を見いだすために仏道を求めているのだと言えます。

この場合、私が仏になる教えを、その通り信じ行じなければなりません。

そこで、仏教ではこの

「行と信」

をことのほか重視しているのです。

ところで、普通

「行と信」

の関係は、仏教においては

「信行」

と順序されるのですが、親鸞聖人の中心思想では、それが逆転して

「行信」

と順序されています。

そして、この

「行」

について親鸞聖人は、浄土真宗の

「行」

とは、釈迦仏が南無阿弥陀仏を称えて、阿弥陀仏の教えを人々に説法することだと、私たちに教えられます。

これは、親鸞聖人独自の思想であって、仏教一般で

「行」

と言えば、必ず自分自身が一心に仏道を行ずることを指しており、決して釈尊の説法を私が仏となる

「行」

だなどと言ったりすることはありません。

けれども親鸞聖人は、仏道の究極は

「聞法」

にあるのだということを、私たちに繰り返し教えられます。

これは、釈尊と弟子たちの関係をよく見ればよいと思います。

釈尊は、悩み苦しむ者のために、常に教えを説かれのですが、苦悩のどん底に落ち込んでいる者は、釈尊の教えを聞いたその瞬間に完全に苦悩が晴れています。

教えを受ける側の者は、教えを一心に聞くのみで、それ以外の行為は何一つなしていません。

にもかかわらず、釈尊がただ一方的に説法するという行為によって、悩める者の心は完全に打ち砕かれているのです。

このように見れば、仏道の根本、仏教の本質は、本来的には仏陀の

「行」

が、衆生の迷いを破ることになります。

釈尊はこの

「行」

について、無限の時間と空間を覆って、一切の苦悩の衆生を救おうとしておられる無限の大行が、阿弥陀仏の名号、すなわち

「南無阿弥陀仏」

であると私たちに教えられたのです。

そうだとすれば、私たちにとっては、この行の真実、阿弥陀仏の大行とは何か、あるいは阿弥陀仏が衆生を救おうとしておられる大悲心の真実を一心に聞き信じることが最も大切なことになります。

ともすれば、

「行信」

と聞くと、私たちは一生懸命に念仏を称え、その称名を通して自らの心に確固不動の

「信行」

を確立させることのように思いがちですが、浄土真宗の

「行信」

はそのような自身の行為を意味するのではなく、

「阿弥陀仏の大行の真実を私が聞き信じる」

といった意味での

「行信」

であることに、私たちは注意をする必要があります。

私たちの住むこの地球は46億年の歴史があるそうです。

私たちの住むこの地球は46億年の歴史があるそうです。

その地球の誕生から現在までの46億年の歴史を1年365日のカレンダーに表わした、

「地球カレンダー」

というものがインターネット上にありました。

46億年を1年365日のカレンダーに表わしたものですから、1日が約1千2百50万年あることになります。

そこには、1月1日(46億年前)の原始地球の誕生から、2月9日(41億年前)地殻がほぼ固まってきて、陸と海が生まれる。

7月18日(21億年前)大気中に酸素が増えてくる。

12月13日(2.5億年前)恐竜誕生、12月26日恐竜絶滅など、現在おおよその明らかになっている範囲で、1日ごとに記されていました。

ちなみに、私たち現在の人類と遺伝的に同じである現生人類(ホモ・サピエンス)が登場したのは約20万年前の12月31日の午後11時37分頃とされておりましたので、地球46億年の歴史を1年に例えたら、我々、現生人類の歴史は、まだほんの23分程ということになります。

このわずか23分ほどの中で、地球46億年の歴史を明らかにしてきたのですから、人類の文明とは大変優れたものであり、また同時にこれだけの長い時間をかけて形成された地球環境をわずかの時間の中で破壊しようとしているのですから、人類の素晴らしさとおぞましさの両面を垣間見た気持ちになりました。

地球46億年という時間で見ると、私たち一人一人の人生はほんの瞬く間なものですが、その私のいのちは、人類20万年の歴史があって、地球46億年の歴史があって、それよりもっともっと長い宇宙100億年以上の歴史があって、今ここに生かされてあるいのちであります。

仏教は、

「あなたのいのちは、宇宙的なすごいいのちをいただいているのですよ」

と、私たちに教えてくれます。

お釈迦さまご在世の2600年前には、地球46億年の歴史など科学的に明らかになっていなくとも、お釈迦さまは直感的にすべてのいのちは数限りないご縁と、始めの解らない程の長い時間をかけて成り立っていることを覚っておられた方です。

一方、これほど科学や文明も発達した世の中で、

「子どもつくる」

などと一般的に使われたり、いのちを粗末にする有り様は、科学や文明のそれとは逆に、こころが置き去りにされて来たのかもしれません。

私たちがいのちを考える時、このような仏教的な見方は、これからの時代にますます大切になってくるのではないかと思うことです。

『煩悩無尽と雨が降る』

 身を煩い心を悩ます

「煩悩」

は、梅雨の雨の如く尽きることがありません。

浄土真宗の宗祖、親鸞聖人は

「凡夫(ぼんぶ)というは、無明煩悩(むみょうぼんのう)われらが身にみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおくひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」

と示しておられます。

命、終わるその瞬間まで煩悩から離れることのできないのが私であります。

また、お念仏の教えを喜ばれ、念仏詩人ともいわれる木村無相さんの著書には、

「降るわ 降るわ 煩悩無尽と雪が降る  

 降るわ 降るわ 大悲無倦と雪が降る」

という詩があります。

冬の降り続く雪の如く、梅雨の降り止まない雨の如く煩悩と共にあるのが私の姿と知らされます。

その私を救いの目当てとし、大悲の心で常に私を照らすはたらきが阿弥陀さまのはたらきであると木村さんの詩から感じることができます。

煩悩と共にある私であったと知らされ、その私を常に案じるはたらきがあると、気づかされるとき自分自身を見つめ、生き方を考えさせられることであります。

「教行信証」の行と信(6月前期)

2.阿弥陀仏とその浄土

 そこで具体的に『教行信証』の内容に入っていきます。

最初に『教行信証』はどのような構造を持っているかということについて少し考えてみます。

『教行信証』は、最初が

「総序」で、

次が

「教巻」

です。

その

「教巻」

の冒頭は

 つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の廻向あり。

一つには往相、二つには還相なり。

往相の廻向について真実の教行信証あり。

という言葉で始まります。

ここに

「浄土真宗」

の教えの根本が述べられているのですが、ではいったい浄土真宗の教えとは何なのでしょうか。

ここにいわれている浄土真宗とは、阿弥陀仏の教えだと考えることができます。

阿弥陀仏の教えが浄土真宗だと見ればよいのです。

では、阿弥陀仏の教えとは何でしょうか。

この教えは、二つの部分から成り立っています。

一つが往相(おうそう)の廻向で、他は還相(げんそう)の廻向という二つの部分から阿弥陀仏の教えが出来上がっているのです。

 ここで、往相ということと還相ということ、そして廻向とは何かが問題になります。

往相とは、私が往生するすがたです。

この私の往生については、既に蓮如上人の思想で明らかなように、私が往生するのは、私の力ではなくて阿弥陀仏の力によって往生するということでした。

これが、浄土真宗の考え方の基本です。

そうしますと、往相の廻向の

「廻向」

は、阿弥陀仏が私たち衆生を往生せしめるはたらきということになります。

このことは還相も同じで、衆生を還相せしめる阿弥陀仏のはたらきということになるのです。

阿弥陀仏の大悲心とは、つまるところ衆生を浄土に往生せしめ、また穢土に還相せしめる

「廻向の働き」

ということになり、これが浄土真宗の教えのすべてになるのです。

 そしてこの往生廻向の中に、教・行・信・証があるといわれるのです。

つまり、真実の教・行・信・証がこの弥陀の廻向の中に見られるのです。

そこでまず問題になるのは、ではその阿弥陀仏とはどのような仏なのかということです。

また、阿弥陀仏の浄土とはどのような浄土か、ということになります。

 阿弥陀仏とその浄土について、親鸞聖人が書かれているのは

『教行信証』

の中では

「真仏土巻」

です。

「真仏土巻」

は漢文で書かれていますが、その他に和文で書かれた和語の聖教の中にも阿弥陀仏とその浄土について説明しておられるところがあります。

浄土については

『唯信鈔文意』

の善導大師の

「極楽無為涅槃界」

という言葉を解釈する中で、阿弥陀仏の浄土とは何かが説かれています。

また阿弥陀仏については、お手紙の

「自然法爾章」

の中で端的に示されています。

 親鸞聖人の浄土についてのお考えですが、

「浄土真宗」

という仏教が意味する浄土とは

「真仏真土」

ということで、

『教行信証』の

「真仏土巻」

では、その冒頭で阿弥陀仏とその浄土を光明無量であり、寿命無量であると述べておられます。

したがって、親鸞聖人がとらえておられた真仏真土とは、光明が無量であり、寿命が無量である仏身・仏土だということになります。

「ご縁の世界」(上旬) 自分勝手な物差しでお祈りしている

======ご講師紹介======

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私は、お願い事をする祈りのことを

「請求書の祈り」

と名付けたんです。

神さまや仏さまに請求書を突きつけて

「ああして下さい」

「こうして下さい」

と、そんな請求書のような祈りは良くない祈りなんだと…。

私たちが本当に仏さまに祈るときは、どう祈るかというと、

「有り難うございました」

という

「領収書の祈り」

これが正しい祈りなんです。

では、なぜ請求書の祈りが良くないのか、なんで領収書の祈りをするべきなのかということを、みなさんと考えてみたいと思います。

例えば、みなさんが

「どうか私を大学に合格させてください」

と、お祈りをしたとします。

これは

「請求書の祈り」

ですね。

しかし、今大学に入るためには、試験がある訳です。

そういう競争のある社会の中で、

「どうか大学に入れてください」

とお祈りすればどういうことになるか。

私が大学に合格すれば、確実に誰か一人大学に落ちる訳です。

だけど、試験を受けるなと言っている訳ではないんですよ。

そうすると、みなさんが仏さまに

「どうか私を合格させてください」

と祈ることは

「誰か落してください」

と祈っていることになるんです。

もしも、仏さまがその願いに応えて

「分かった。

お前の代わりに誰か落してやるからな」

と言われたとしたら、そんな仏さまを私たちは信じられるでしょうか。

希望する大学に、あるいは会社に入れた。

その時には、誰か一人入れなかった人がいるんです。

私たちは自分が入学、入社できたことを喜んでいますが、そのとき誰か入れなかった人がいるという事実。

そこに私たちは、目が行っていないんです。

自分一人さえ良ければいい、結局他人が落ちることを願っている訳です。

実はこの世の中、そういう意味で悲しい世界なんです。

私が合格すれば、誰かが落ちるという世の中なんです。

その世の中で悲しみを持って生きずに、自分だけが得をしようと思う心が浅ましすぎませんか。

仏さまは、そんな心でお祈りして、それが果たして宗教なのか。

ちょっと考えて頂きたい訳です。

私たち、何か競争に勝つことばっかり考えているんですね。

自分が勝てばいいんだ、でも自分が勝ったら相手は負けるんですね。

その負けたものの痛みを思いやらずに自分が勝つことばかり考えている。

「請求書の祈り」

というのは、自分を勝たせてくださいということです。

そんな祈り、仏さまが

「よし分った」

と言われるかどうか、ちょっと考えみてもお分かりになることだと思います。

仏さまは、みんなを救ってやりたいんですね。

一人を救って一人を落ちこぼれにする。

そんな仏さまじゃないんです。

勝った者も負けた者も、みんな救われる、それが本当の救いなんです。

ところが

「請求書の祈り」

というのは、勝った者しか救われないんです。

「請求書の祈り」

の良くない面は、もう一つある。

それは人間が勝手な物差しで物を測っているということです。

私たちは、合格できることが幸せで、落ちることが不幸せと思っています。

だけど、一年落っこちて一年遅れていれば、素晴らしい恋人に出会うかもしれない。

いったい、何が良いことなのか、人間には分からないんです。

それを私たちは勝手に、これが良いことでこっちが悪いことなんだ、合格できることが良いことで、不合格が悪いことなんだ、だから

「仏さま俺を通せ」

と自分勝手な物差しでお祈りをしてる訳ですね。

『智慧 自分の弱さと向かい合う勇気』

食品会社が、生産地や賞味期限などを偽って出荷していたという報道が、後を絶たないようです。

それは何も、食品会社だけに限ったことだけではありませんが、このような問題が頻発するようになると、消費者はいったい何を信じていいのかわからない現状に苦慮せざるを得なくなってしまいます。

「会社の体質に起因する」

と言ってしまえばそれまでのことかも知れませんが、それでは何の解決にもならないでしょう。

むしろそのことは「よくないことだ」とわかっていても、そこで踏みとどまって止めようとしないあり方に問題があるように思います。

おそらく、偽装工作を始めるときには、何らかのうしろめたさを感じる心のくもりはなかったとは言えないでしょう。

けれども、自分かわいさのあまり、利益優先を考えているうちにその感覚も麻痺して、社会的に大きな罪を

犯しているという意識もなくなっていくところに、怖さを感じます。

しかしながら、

「どんなことがあっても道を踏み外さず、常に自分をコントロールできる」

という人は、そんなにいるものではないでしょう。

私自身の胸に手を当てて、振り返ってみても、そのようなことを口に出来る自信はありません。

その一方で、

「どうせ凡夫だから…」

と開き直っている自分に恥ずかしさも覚えます。

「法句経」に

”数千の敵に勝つよりも、自己に勝つ者こそ最上の戦士也”

という言葉があります

智慧という言葉の意味を端的に教えていてくれるような気がします。