投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「教行信証」の行と信(5月後期)

1.蓮如上人の思想と『教行信証』

そうしますと、信心を得た衆生の念仏が次の問題になります。

信心を獲得した念仏者には、称えている南無阿弥陀仏の中に、既に本願力に摂取されているというよろこびが自ずから表れてくることになります。

そうすると、当然、嬉しいとか有り難いという感謝の心が念仏の中で起こります。

この念仏が

「報恩の念仏」

ということになるのだと思われます。

私はすでに阿弥陀仏に摂取されているという喜びの中に、初めて恩を知る心が生まれるのですが、その有り難さの中で称える念仏こそがまさに

「報恩の念仏」

になるのです。

浄土真宗の教えは、信じたその時に往生は定まるのですが、それと同時に報恩の念仏のみの生活が始まることになります。

これが

「信心が正因であって念仏は報恩だ」

とされる

「信心正因・称念報恩」

の意味です。

 この教えが、親鸞聖人から蓮如上人に伝えられることになるのですが、蓮如上人は親鸞聖人の教えを繰り返し読まれることによって、親鸞聖人の教えの全体をこのような

「信心と念仏」

の関係で捉え、『御文章』の中で当時の人々に分かる言葉で語られました。

これがいわゆる蓮如教学と言われるものですが、蓮如上人の教学の特徴は、親鸞聖人の難しい思想、ことに

『教行信証』

を極めて深く読み込まれて、その内容の全体、それを千の言葉と考えればよいのですが、その千の言葉を繰り返し丁寧に読まれ、その要点を先ず百の言葉にまとめ、さらにその百の言葉をより深めて十の言葉にまとめ、最終的には親鸞聖人の根本思想を一つの言葉にまとめて、私たち大衆にも分かるような言葉で親鸞聖人の教えを語ることに努められたことです。

それが『御文章』です。

 そして、その『御文章』の中でも、まさしく一つの言葉で親鸞聖人のお考えが端的に示されているのが

「聖人一流章」

だといえます。

 聖人一流の御勧化のおもむきは信心をもって本とせられ候。

そのゆゑは、もろもろの雑行を投げ捨てて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたまふ。

その位を一念発起入正定之聚とも釈し、そのうへの称名念仏は、如来わが往生を定めたまひし御恩報尽の念仏とこころうべきなり

この中に、まさに親鸞聖人の教えのすべてが一つの言葉で述べられていると言えます。

そして、この言葉をさらに縮めて、蓮如上人が親鸞聖人の教えの根本を

「信心正因・称念報恩」

と言われたのではあれば、それはまさにその通りなのであって、そこに疑問を挟む余地はありません。

 ただし、蓮如上人は『教行信証』を繰り返し読まれたのですが、この書物の一々の文字を逐一解釈されたのではありません。

『教行信証』の思想を文に添って解釈されたのではなく、『教行信証』の全体を読み切って、その教えの根本を自分の言葉で

「ひとつ」

にまとめて、誰にでも分かるように語られたのです。

決して『教行信証』の一行一行を解釈しておられる訳ではないのです。

 ところが、伝統の教学においては、この蓮如上人の

「信心正因・称名報恩」

の教えを絶対に違えてはならないという立場をとっているので、『教行信証』の中に行とか信を表現する文章が出てくると、その文を解釈する時、蓮如上人の

「信心正因・称名報恩」

の義に添った解釈を必然的にしてしまうことになります。

つまり、親鸞聖人の文章を、文に即して解釈するのではなく、その文章がいかに

「信心正因・称名報恩」

を語っているかの説明になってしまうのです。

 したがって『教行信証』の文の流れが大切なのではなくて、『教行信証』の一々の文をいかに

「信心正因・称名報恩」

の義で読むかが、伝統の教学の『教行信証』の解釈のあり方だと考えられます。

そこで、このような『教行信証』の解釈が、今日において成り立つかどうかということを問うことにしたいと思います。

「みえない いのち みえない こころ」(下旬) 心と心を触れ合わすとは「こだま」のようなもの

 ある立派なキリスト教の司教さんが、

「私がなぜ教会の司教になったかというと、兄弟は立派で、家族も名門だった。

自分だけが何もできなかった。

くじけそうになり暗くなっていく。

ある日飼っていた犬に話しかけた。

黙って聞いてくれた。

何を話しても聞いてくれた。

毎日犬と話しているうちに心が晴れてきた。

ただ黙って聞いてくれるだけ、何の返事もないけれど…。

『そうだ、神さまが私の話を黙って聞いて下さるように、私も人の話を聞く人になりたい』

と思い司教になった」

と書かれていました。

 私たちは

「聞法一筋」

と言います。

お聞かせ頂きたい、どんなお話も聞き通していきたい、

「お聴聞」

とも言います。

「きく」

を二つ重ねる。

聞こうとしない私を向こうから聞かせて下さる。

そのうえ

「お」

まで付けるのは、落語じゃないんだよ、漫才じゃないんだよ、仏さまのお話だよとお聞かせ頂けることかと思うのです。

 二十一世紀は、みんなで生きる

「共生」

の時代だと思うのです。

核家族が増えてきて

「幼老共生」

という言葉も使います。

幼い人と年を取った人が、一緒に社会の中心で生きましょうということです。

「一人の人はみな図書館を持っている」

というほどの人生経験豊かな年を重ねた人が、幼い人たちを支えて下さる時代。

また、一方でバーソナル・コンタクトの時代とも言います。

心と心が触れ合う時代ということです。

 最後に、金子みすゞさんの詩をご紹介して終わろうと思います。

「こだまでしょうか」

という詩です。

  

「遊ぼう」っていうと

「遊ぼう」っていう。

  

「馬鹿」っていうと

「馬鹿」っていう

  

「もう遊ばない」っていうと

「遊ばない」っていう。

  そうして、あとで

  さみしくなって、

  

「ごめんね」

「ごめんね」っていう。

  こだまでしょうか、

  いいえ、誰でも。

 私たちはお互いが、心と心を触れ合わすというのは

「こだま」

のようなものかなと思います。

 

「情動は伝染する」、

私がうれしくニコニコしたらみんなに伝わります。

いやだいやだと怒った顔が家族に一人いるなら、みんなもそうなるでしょう。

家族や社会から、たくさんの方々から情動を伝染する

「こだま」

のように、お互いが私の姿を相手に見る、私の声を相手に聞く、そんな時代をと思っています。

先日、中学校の同窓会がありました。

先日、中学校の同窓会がありました。

久しぶりに会う友人達に、心がウキウキ★ 話も弾みました。

見た目が変わらない友達もいれば・・・

“誰!?”って思う友達も・・・(笑)

っでも話せば、あっという間に中学時代にタイムスリップしたようでした...

私の中学校時代は、いわゆる“荒れた中学校”と言われ、先生方にもかなり迷惑をかけた世代でした・・・

今思えば、思春期とはいえ、その当時は

「楽しければ何でもアリっ!!」

っと、自分勝手な考えでした。

先生にお会いした時、その当時の事を謝りました。

“先生、本当にすみませんでした・・・”

先生は

“大人になったなぁ〜元気そうだな!!”

“お前たちは、本当に手がかかったぞ〜”

“っでも、悪い事と良い事の区別がついて、もし、悪い事をしたと思うんだったら、素直に謝ることは大切なことだ。

“年を重ねても、その素直に謝ることは忘れてはダメだぞ”

っと話して頂きました。

「本当にそうだな!!」

っと、改めて感じました。

自分の間違いに気付いたら『素直に謝る!!』とても大切な事ですね。

先生に言われた大切な言葉を忘れずに、これからも一社会人として、

「恥ずかしくないように!?」

過ごしていきたいです。

『智慧 自分の弱さと向かい合う勇気』

『正信偈』の中に

「与韋提等獲三忍(韋提と等しく三忍を獲)」

という言葉があります。

韋提(いだい)というのは、『仏説観無量寿経』に登場するマガダ国の王、頻婆裟羅(びんばしゃら)の妃、韋提希(いだいけ)のことです。

経典の説くところによれば、お釈迦さまの説法によって、凡夫である韋提希が三忍を得たと述べられています。

ここで韋提希が得たという

「三忍」とは

「智慧」

のことで、

「喜・悟・信」

の三つの忍です。

また、この場合の忍は

「確認する」

という意味だともいわれています。

最初の

「喜忍」

というのは、信心にそなわる喜びの心です。

次の

「悟忍」

というのは、仏智をさとり迷いの夢からさめた心です。

最後の

「信忍」

というのは、本願を信じて疑いのない心です。

このことから三忍とは、

「他力の信の上に得られた三種の智慧」

という意味に理解されています。

ところで、忍は確認するという意味であり、その確認というのは、認可決定ということで

「はっきり見定める、認める」

という意味だといわれます。

そのため、この忍という字は、認めるという字の意味と同じだといわれています。

けれども、そうであるのなら、喜・悟・信の

「三認」

というように、

「忍」

という字ではなく、初めから

「認」

の字を使えばよさそうなものです。

何もわざわざ

「忍」

という字を使って、この

「忍」

の意味は

「認」

だなどと、面倒なことを言う必要はないように思われます。

にもかかわらず、

「認」

ではなくあえて

「忍」

が用いられているということは、やはりここはこの

「忍」

という字でなければ表すことの出来ない深い意味が押さえられているのだということが窺われます。

ドイツの哲学者ハイデッガーは、

「ギリシア人は知恵を情熱と呼んだ」

と述べています。

人間としての情熱を知恵と呼んだというのです。

この情熱というのは、ドイツ語ではライデンスシャフトと言うそうですが、その元の語源のライデンとは

「耐え忍ぶ」

という意味なのだそうです。

つまり知恵としての情熱というのは、耐え忍ぶ情熱ということだと言うのです。

したがって、情熱というのは、何でも向こう見ずに振る舞うといったことではないのです。

その内実は、耐え忍ぶ力であり、それがたとえ自分にとってどんなに都合が悪いこと、つらいことであったとしても、それが事実である限りどこまでも我が身の事実として引き受けていく勇気。

そういう、事実に立つ勇気というものを知恵といい、情熱というのだと言うのです。

同様に、仏法によって与えられる智慧も、そういう事実に立つ勇気を賜ることだと言えます。

それに対して、事実に立てない弱さを表した言葉が、愚痴(ぐち)という言葉です。

いくら愚痴を言っても事実は変わらないのですが、その変わらない事実に立てない弱さというものから出てくるのが愚痴です。

ですから、愚痴というのは弱さの表れですし、智慧というのは勇気の内実なのです。

この智慧を意味する勇気とは、絶望以上の現実に立つ勇気です。

私たちの人生は、自分の思い通りに行かないことが多く、たとえ私がどれほど絶望したとしてもその事実は何ら変わりません。

また、どれだけ嘆き悲しんでも現実が変わるということはありません。

けれども、その現実に立つ勇気を私たちは賜るのです。

しかし、それは自身の現実を全部ただ認めて、甘んじるということではありません。

勇気において、その現実に立つとき、初めて現実にかかわっていく、そういう歩みが自身の内から促されてくる、これはそういう勇気なのです。

おそらく、このような意味が

「忍」

という言葉にあるのだと思われます。

ですから、決してただ確認ということではなく、智慧を意味しようとするならば

「忍」

という字でなくては、その意味が明らかにならないのだと思われます。

親鸞聖人が

「正信偈」

の中に取り上げられた韋提希という人は、自己の愚かさというものに立って、その人間が人間として生きていく道を尋ねたということが象徴として揚げられているように窺えます。

そこに

「三忍」

という言葉が置かれていることの深い意味が感じられます。

人間の愚かさと悲しさを生き切り、現実を引き受けていく勇気を賜る教え、それが仏法です。

自分の弱さと向かい合う勇気を持つことが出来た時、どのような人生であっても、私たちは十分に生き尽くしていくことが出来るのではないでしょうか。

「教行信証」の行と信(5月中期)

1.蓮如上人の思想と『教行信証』

このような観点から信心と往生を問題にしますと、この場合も三点に整理することが出来ます。

 第一は、信じるとはどういうことかという問題です。

「易信」

であるためには、信じるということが私に容易に成り立たなくてはなりません。

そこで蓮如上人は、まず次のように諭されます。

「自分の力で往生するのではない。

自分の力を当て頼りにするのではなく、私たちは阿弥陀仏の本願力によって往生するのだ」

と強調されます。

このように信じることが第一に求められているのです。

 第二は、阿弥陀仏の本願力によって往生するのだと信じて、では自分自身はその本願力にどのように関われば良いのかという問題です。

ここで蓮如上人は、その本願力に

「ただひたすら一心に、後生たすけたまへとたのめ」

と言われます。

この一心に

「後生たすけたまへ」

とたのむ心が、第二の信じるという心です。

信じるとは、自らがひたすら一心に後生たすけたまへとたのむという心なのです。

 第三は、ではこの

「たのむ」

というのは、どのような心かという問題です。

この心は自力ではない、ということですから、その

「たのむ」

は自分が必死に本願にしがみつく、といったたのみ方ではなくなります。

そうではなくて、この

「たのむ」

は、阿弥陀仏にすべてをおまかせするという心になるのです。

一心にたのむとは、一切を阿弥陀仏の本願にまかせるということで、それが第三の、蓮如上人が説かれる信じる姿になるのです。

 以上をまとめますと、蓮如上人における往生と信心の関係は、まず自分の力でなく阿弥陀仏の本願力によって往生するのだと信じる。

そしてその信じるとは、ただひたすら一心に後生たすけたまえとたのむことになり、その

「たのむ」

とは、すべてを阿弥陀仏にまかせる心だといえるのではないかと思われます。

 そうすると、ここでこの信がどうすれば自分に生じるかということが問われます。

信心の獲得は、どのようにすれば可能なのかという問題です。

端的には、獲信はどのようにして起こるかということですが、ここでもまた三つの事柄に整理することが出来るようです。

 その第一と第二が

「二種深信」

の心になります。

一つは、自分はどこまでも愚かで、極悪なる凡夫だということを自覚する心ですが、この自らの愚かさを知る心が第一に求められます。

そして次に、その心に対して、阿弥陀仏はこの迷える私を必ず救って下さるのだと信じることが求められます。

自らの愚かさを信じ、それ故にこそ、阿弥陀仏はこの私を必ず救って下さるのだと信じるのです。

 では、私は愚かであって、この私を阿弥陀仏は必ず救って下さるのだということを信じるとは、具体的にはどういうことなのでしょうか。

また、その信はどうすれば起こるのでしょうか。

ここで第三の、六字の名号のいわれを一心に聞けという

「聞」

が求められることになります。

六字の名号(南無阿弥陀仏)のいわれを一心に聞くことによって、私と阿弥陀仏との関係が明らかになるのです。

そこで、次にその六字の名号のいわれが重要になります。

いわゆる

「蓮如上人の六字釈」

ということになるのですが、蓮如上人は南無阿弥陀仏の

「南無」

「阿弥陀仏」

を次のように説明されます。

 

「南無」

とは、衆生が阿弥陀仏を信じて、一心一向にたすけたまえと願う心だと言われます。

「阿弥陀仏」

とは、阿弥陀仏に対して南無する衆生を救う姿だといわれます。

すなわち、衆生が阿弥陀仏に

「たのむ」

こころが南無であり、その南無する衆生を救う姿が

「阿弥陀仏」

なのです。

そうしますと、この

「南無阿弥陀仏」

という六字はそのまま

「たのむ私」

と、

「救う阿弥陀仏」

が同時に一つに重なってしまいます。

「南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏」

と称えながら、その南無阿弥陀仏の六字の名号のいわれを聞き続ける。

そこに、自ら機と法、私と阿弥陀仏が一体になる機法一体の姿が生まれてくることになります。

 私が阿弥陀仏に南無し、阿弥陀仏がその南無する衆生を救われる。

この阿弥陀仏と私の関係が明らかになる心が

「信心獲得す」

といわれている心なのです。

「みえない いのち みえない こころ」(中旬) まかせて生きるもののみ み仏さまはいらっしゃる

 私たちは仏法に遇い、本当に人間に生れるってすごかったんだなあ、なんという素晴らしい人間に私は生れさせて頂いたのだ、という喜びに気付かせて頂きました。

私が知っているお子さんが小学校のとき、クラスでいじめにあいました。

そのとき

「お母ちゃん、僕の組の○○ちゃんと○○ちゃん、日曜学校に行かんやったからあんなことするんやねえ。

日曜学校に行ったら、み仏さまがいつでも見てるって教えてもろうとるのにねえ」

と言ったそうですが、すごいですねえ。

このことをお母さんは、うれしそうに話していました。

 まさか日曜学校にやったら、何年か後にそんなことを思ってくれるなんて考えなかったでしょうね。

押さない心に見えない何かを育てて下さったこと、何とうれしいことかなあと思うんです。

 私が勤務しておりますセンターでは、学校に行けない子どもの体験学習をするんです。

時々新聞社とかテレビ局が

「ぜひ映させてください」

と言って来ます。

「困ります。

私の方では秘密でしておりますから」

と答えますと、

「いや顔は映しませんから」

と言われます。

「じゃあ絶対に誰か分からないように遠くから映してください」

と念を押します。

 この体験学習では、いろんなことをしてるんです。

馬に乗ったり、山登りをしたり、キャンプをしたりと。

また、職場の中には遊戯室があり、卓球などいろんなことをします。

それを遠くから後ろ向きに映すんです。

するとあくる日、子どもはブスッとして言いました。

「先生、友達みんなに電話を入れとった。

私が今日のニュースでテレビに出るよって。

それなのに、どうして顔が映らんやったん」

と。

びっくりします。

この子たちは、自分が学校に行けないということで、親もそっと連れてきているのに、テレビに出ることがこんなに立派なことだと思っていたのかと。

そういえば、何か目立つことをしてみたくて、人を殺した人もいました。

見えるものしか格好がよくないんでしょう。

もしかすると、見えるものしか信じられないのてじょうか。

大人もそうです。

見えるもの、手で触れられるものしか確かだと思わないのでしょうか。

「見えない」

と私が思いましたのは、最近大変有名な山口県の金子みすゞさんという童謡詩人の

「星とたんぽぽ」

という詩をよんだときです。

 青いお空のそこふかく、

 海の小石のそのように、

 夜がくるまでしずんでる

 昼のお星はめにみえぬ。

 見えぬけれどもあるんだよ、

 見えぬものでもあるんだよ。

 ちってすがれたたんぽぽの、

 かわらのすきに、だアまって、

 春のくるのでかくれてる、

 つよいその眼はめにみえぬ。

見えぬけれどもあるんだよ、

見えぬものでもあるんだよ。

 仏さまというのは、信ずるもののみにあるのです。

信とは

「まかせよ」

という言葉を信じること。

まかせて生きるもののみに、み仏さまはいらっしゃるのです。

こんなに悲しい、こんなに苦しい、あなたは本当にいらっしゃるのですか、と問いたいほどの時があっても、確かにいらっしゃるのです。

なぜなら、何一つ人のためにできないこの私を、今日もこうして生かして下さっているではありませんか。

「何ができますか」

と言われたら、何もできないのに、ただあなたがそこにいるだけでいいよって…。

優しい人とは、

「憂いのそばに人が立つ」

と書きますが、人が悲しいとき黙ってそばにいてあげる、ただそれだけで良いのではないでしょうか。