1.蓮如上人の思想と『教行信証』
このような観点から信心と往生を問題にしますと、この場合も三点に整理することが出来ます。
第一は、信じるとはどういうことかという問題です。
「易信」
であるためには、信じるということが私に容易に成り立たなくてはなりません。
そこで蓮如上人は、まず次のように諭されます。
「自分の力で往生するのではない。
自分の力を当て頼りにするのではなく、私たちは阿弥陀仏の本願力によって往生するのだ」
と強調されます。
このように信じることが第一に求められているのです。
第二は、阿弥陀仏の本願力によって往生するのだと信じて、では自分自身はその本願力にどのように関われば良いのかという問題です。
ここで蓮如上人は、その本願力に
「ただひたすら一心に、後生たすけたまへとたのめ」
と言われます。
この一心に
「後生たすけたまへ」
とたのむ心が、第二の信じるという心です。
信じるとは、自らがひたすら一心に後生たすけたまへとたのむという心なのです。
第三は、ではこの
「たのむ」
というのは、どのような心かという問題です。
この心は自力ではない、ということですから、その
「たのむ」
は自分が必死に本願にしがみつく、といったたのみ方ではなくなります。
そうではなくて、この
「たのむ」
は、阿弥陀仏にすべてをおまかせするという心になるのです。
一心にたのむとは、一切を阿弥陀仏の本願にまかせるということで、それが第三の、蓮如上人が説かれる信じる姿になるのです。
以上をまとめますと、蓮如上人における往生と信心の関係は、まず自分の力でなく阿弥陀仏の本願力によって往生するのだと信じる。
そしてその信じるとは、ただひたすら一心に後生たすけたまえとたのむことになり、その
「たのむ」
とは、すべてを阿弥陀仏にまかせる心だといえるのではないかと思われます。
そうすると、ここでこの信がどうすれば自分に生じるかということが問われます。
信心の獲得は、どのようにすれば可能なのかという問題です。
端的には、獲信はどのようにして起こるかということですが、ここでもまた三つの事柄に整理することが出来るようです。
その第一と第二が
「二種深信」
の心になります。
一つは、自分はどこまでも愚かで、極悪なる凡夫だということを自覚する心ですが、この自らの愚かさを知る心が第一に求められます。
そして次に、その心に対して、阿弥陀仏はこの迷える私を必ず救って下さるのだと信じることが求められます。
自らの愚かさを信じ、それ故にこそ、阿弥陀仏はこの私を必ず救って下さるのだと信じるのです。
では、私は愚かであって、この私を阿弥陀仏は必ず救って下さるのだということを信じるとは、具体的にはどういうことなのでしょうか。
また、その信はどうすれば起こるのでしょうか。
ここで第三の、六字の名号のいわれを一心に聞けという
「聞」
が求められることになります。
六字の名号(南無阿弥陀仏)のいわれを一心に聞くことによって、私と阿弥陀仏との関係が明らかになるのです。
そこで、次にその六字の名号のいわれが重要になります。
いわゆる
「蓮如上人の六字釈」
ということになるのですが、蓮如上人は南無阿弥陀仏の
「南無」
と
「阿弥陀仏」
を次のように説明されます。
「南無」
とは、衆生が阿弥陀仏を信じて、一心一向にたすけたまえと願う心だと言われます。
「阿弥陀仏」
とは、阿弥陀仏に対して南無する衆生を救う姿だといわれます。
すなわち、衆生が阿弥陀仏に
「たのむ」
こころが南無であり、その南無する衆生を救う姿が
「阿弥陀仏」
なのです。
そうしますと、この
「南無阿弥陀仏」
という六字はそのまま
「たのむ私」
と、
「救う阿弥陀仏」
が同時に一つに重なってしまいます。
「南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏」
と称えながら、その南無阿弥陀仏の六字の名号のいわれを聞き続ける。
そこに、自ら機と法、私と阿弥陀仏が一体になる機法一体の姿が生まれてくることになります。
私が阿弥陀仏に南無し、阿弥陀仏がその南無する衆生を救われる。
この阿弥陀仏と私の関係が明らかになる心が
「信心獲得す」
といわれている心なのです。