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「教行信証」の行と信(5月中期)

1.蓮如上人の思想と『教行信証』

このような観点から信心と往生を問題にしますと、この場合も三点に整理することが出来ます。

 第一は、信じるとはどういうことかという問題です。

「易信」

であるためには、信じるということが私に容易に成り立たなくてはなりません。

そこで蓮如上人は、まず次のように諭されます。

「自分の力で往生するのではない。

自分の力を当て頼りにするのではなく、私たちは阿弥陀仏の本願力によって往生するのだ」

と強調されます。

このように信じることが第一に求められているのです。

 第二は、阿弥陀仏の本願力によって往生するのだと信じて、では自分自身はその本願力にどのように関われば良いのかという問題です。

ここで蓮如上人は、その本願力に

「ただひたすら一心に、後生たすけたまへとたのめ」

と言われます。

この一心に

「後生たすけたまへ」

とたのむ心が、第二の信じるという心です。

信じるとは、自らがひたすら一心に後生たすけたまへとたのむという心なのです。

 第三は、ではこの

「たのむ」

というのは、どのような心かという問題です。

この心は自力ではない、ということですから、その

「たのむ」

は自分が必死に本願にしがみつく、といったたのみ方ではなくなります。

そうではなくて、この

「たのむ」

は、阿弥陀仏にすべてをおまかせするという心になるのです。

一心にたのむとは、一切を阿弥陀仏の本願にまかせるということで、それが第三の、蓮如上人が説かれる信じる姿になるのです。

 以上をまとめますと、蓮如上人における往生と信心の関係は、まず自分の力でなく阿弥陀仏の本願力によって往生するのだと信じる。

そしてその信じるとは、ただひたすら一心に後生たすけたまえとたのむことになり、その

「たのむ」

とは、すべてを阿弥陀仏にまかせる心だといえるのではないかと思われます。

 そうすると、ここでこの信がどうすれば自分に生じるかということが問われます。

信心の獲得は、どのようにすれば可能なのかという問題です。

端的には、獲信はどのようにして起こるかということですが、ここでもまた三つの事柄に整理することが出来るようです。

 その第一と第二が

「二種深信」

の心になります。

一つは、自分はどこまでも愚かで、極悪なる凡夫だということを自覚する心ですが、この自らの愚かさを知る心が第一に求められます。

そして次に、その心に対して、阿弥陀仏はこの迷える私を必ず救って下さるのだと信じることが求められます。

自らの愚かさを信じ、それ故にこそ、阿弥陀仏はこの私を必ず救って下さるのだと信じるのです。

 では、私は愚かであって、この私を阿弥陀仏は必ず救って下さるのだということを信じるとは、具体的にはどういうことなのでしょうか。

また、その信はどうすれば起こるのでしょうか。

ここで第三の、六字の名号のいわれを一心に聞けという

「聞」

が求められることになります。

六字の名号(南無阿弥陀仏)のいわれを一心に聞くことによって、私と阿弥陀仏との関係が明らかになるのです。

そこで、次にその六字の名号のいわれが重要になります。

いわゆる

「蓮如上人の六字釈」

ということになるのですが、蓮如上人は南無阿弥陀仏の

「南無」

「阿弥陀仏」

を次のように説明されます。

 

「南無」

とは、衆生が阿弥陀仏を信じて、一心一向にたすけたまえと願う心だと言われます。

「阿弥陀仏」

とは、阿弥陀仏に対して南無する衆生を救う姿だといわれます。

すなわち、衆生が阿弥陀仏に

「たのむ」

こころが南無であり、その南無する衆生を救う姿が

「阿弥陀仏」

なのです。

そうしますと、この

「南無阿弥陀仏」

という六字はそのまま

「たのむ私」

と、

「救う阿弥陀仏」

が同時に一つに重なってしまいます。

「南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏」

と称えながら、その南無阿弥陀仏の六字の名号のいわれを聞き続ける。

そこに、自ら機と法、私と阿弥陀仏が一体になる機法一体の姿が生まれてくることになります。

 私が阿弥陀仏に南無し、阿弥陀仏がその南無する衆生を救われる。

この阿弥陀仏と私の関係が明らかになる心が

「信心獲得す」

といわれている心なのです。

「みえない いのち みえない こころ」(中旬) まかせて生きるもののみ み仏さまはいらっしゃる

 私たちは仏法に遇い、本当に人間に生れるってすごかったんだなあ、なんという素晴らしい人間に私は生れさせて頂いたのだ、という喜びに気付かせて頂きました。

私が知っているお子さんが小学校のとき、クラスでいじめにあいました。

そのとき

「お母ちゃん、僕の組の○○ちゃんと○○ちゃん、日曜学校に行かんやったからあんなことするんやねえ。

日曜学校に行ったら、み仏さまがいつでも見てるって教えてもろうとるのにねえ」

と言ったそうですが、すごいですねえ。

このことをお母さんは、うれしそうに話していました。

 まさか日曜学校にやったら、何年か後にそんなことを思ってくれるなんて考えなかったでしょうね。

押さない心に見えない何かを育てて下さったこと、何とうれしいことかなあと思うんです。

 私が勤務しておりますセンターでは、学校に行けない子どもの体験学習をするんです。

時々新聞社とかテレビ局が

「ぜひ映させてください」

と言って来ます。

「困ります。

私の方では秘密でしておりますから」

と答えますと、

「いや顔は映しませんから」

と言われます。

「じゃあ絶対に誰か分からないように遠くから映してください」

と念を押します。

 この体験学習では、いろんなことをしてるんです。

馬に乗ったり、山登りをしたり、キャンプをしたりと。

また、職場の中には遊戯室があり、卓球などいろんなことをします。

それを遠くから後ろ向きに映すんです。

するとあくる日、子どもはブスッとして言いました。

「先生、友達みんなに電話を入れとった。

私が今日のニュースでテレビに出るよって。

それなのに、どうして顔が映らんやったん」

と。

びっくりします。

この子たちは、自分が学校に行けないということで、親もそっと連れてきているのに、テレビに出ることがこんなに立派なことだと思っていたのかと。

そういえば、何か目立つことをしてみたくて、人を殺した人もいました。

見えるものしか格好がよくないんでしょう。

もしかすると、見えるものしか信じられないのてじょうか。

大人もそうです。

見えるもの、手で触れられるものしか確かだと思わないのでしょうか。

「見えない」

と私が思いましたのは、最近大変有名な山口県の金子みすゞさんという童謡詩人の

「星とたんぽぽ」

という詩をよんだときです。

 青いお空のそこふかく、

 海の小石のそのように、

 夜がくるまでしずんでる

 昼のお星はめにみえぬ。

 見えぬけれどもあるんだよ、

 見えぬものでもあるんだよ。

 ちってすがれたたんぽぽの、

 かわらのすきに、だアまって、

 春のくるのでかくれてる、

 つよいその眼はめにみえぬ。

見えぬけれどもあるんだよ、

見えぬものでもあるんだよ。

 仏さまというのは、信ずるもののみにあるのです。

信とは

「まかせよ」

という言葉を信じること。

まかせて生きるもののみに、み仏さまはいらっしゃるのです。

こんなに悲しい、こんなに苦しい、あなたは本当にいらっしゃるのですか、と問いたいほどの時があっても、確かにいらっしゃるのです。

なぜなら、何一つ人のためにできないこの私を、今日もこうして生かして下さっているではありませんか。

「何ができますか」

と言われたら、何もできないのに、ただあなたがそこにいるだけでいいよって…。

優しい人とは、

「憂いのそばに人が立つ」

と書きますが、人が悲しいとき黙ってそばにいてあげる、ただそれだけで良いのではないでしょうか。

『念仏』

 親鸞聖人はつね日頃人々に

『自分は

「ただ念仏して阿弥陀仏に救われよ」

と教えられた、法然聖人の言葉を信じているだけです』

と語っておられます。

「念仏」

とは、仏を念ずる行為ですが、ここでは口に

「南無阿弥陀仏」

と称えることを意味しています。

 もともと念仏は、仏弟子が一心に釈尊を慕う心から始まりました。

その心は、釈尊がお亡くなりになって、より一層募りました。

仏の徳が偲ばれ、姿を想い、名前が呼ばれたのです。

それは、仏弟子の

「常に仏と共にいたい、仏の功徳を頂きたい」

という強い願いに基づくものです。

そうだとしますと、その願いは時の流れにしたがってますます強くなり、無限の功徳と無限の時間を有する仏が求められます。

 そこで念仏は、仏弟子たちにとって、仏になるための最も重要な仏道になりました。

仏の名号を称え、仏の功徳を念じ、仏の相好(おすがた)を観察する。

この行為によって、行者はまさしく仏と一体になり、心を統一し、真実清浄にして智慧を磨き、仏の功徳が身に満ちるように願ったからです。

 ただし、このような行の完成は、菩薩と呼ばれるような、よほど優れた行者でなければ不可能で、愚かな凡夫はいかに一心に念仏を行じたとしても、仏徳が身に満ちることなど起こり得ません。

だからこそ、凡夫は迷い続けることになるのですが、けれども無限の仏の功徳は、このように迷い続ける衆生こそを一方的に救おうと願われ、向けられているのです。

 では、それはどのような

「仏」

なのでしょうか。

その仏こそ、無限の時間と空間、宇宙の一切を覆い尽くして、そこに迷える一切の衆生を救おうと願われている仏だといえます。

無限の時間を古代インドでは

「アミターユス」

と発音し、

「無量寿」

の意味と解し、さらに無限の空間の一切を覆い尽くして、そこに迷う一切の衆生を救う

「はたらき」

を、やはり古代インドでは象徴的に

「無限の光明」

と捉えて、

「アミターバ」

と発音しました。

さて、

「南無阿弥陀仏」

とは、どのような仏なのでしょうか。

阿弥陀仏とは、このインドの

「アミターユス・アミターバ」

という言葉が、中国で統一されて、

「阿弥陀仏」

という漢字で表現されました。

「南無」

もまた

「ナモー」

の音写で、

「帰命」

と意訳されていますが、この語を親鸞聖人は、阿弥陀仏が自らの全生命をかけて、一切の衆生を救おうとしておられる願いであり、力用(はたらき)だと解釈されました。

法然聖人は、

「ただ念仏して弥陀に救われよ」

と教えられました。

では、なぜ

「南無阿弥陀仏」

と称えることが、仏道のすべてなのでしょうか。

愚かな凡夫は、仏に導かれない限り、仏への道を歩むことはできません。

一方、阿弥陀仏は、私たち凡夫がその仏への道を求めるはるか以前に、この迷える者を救わずにはおかないと願っておられます。

したがって、この凡夫を救う阿弥陀仏の大悲の躍動こそが、私たちの念仏、

「南無阿弥陀仏」

にほかならないが故に、念仏することが私たち凡夫の仏道の全てになるのです。

 親鸞聖人は、法然聖人の教えを通して、この念仏の法、南無阿弥陀仏を称えつつ、一切の衆生を摂取される阿弥陀仏の大悲を信じられたのだといえます。

外国に出かける場合、ポスポート(旅券)はもちろんのこと、それ以外に査証(ビザ)を

外国に出かける場合、ポスポート(旅券)はもちろんのこと、それ以外に査証(ビザ)を必要とする国も多くあります。

国によって様々ですが、観光目的で定められた期日以内の滞在であればビザは必要なかったり、いかなる理由においても入国に際しては必ずビザを求められたり、あるいはその時の日本との外交状況にもよったりと、ビザ申請の要不要から日本とその国の関係を垣間見るのも、何となく興味深い気もします。

麻薬や密輸、不法就労・滞在など、日本でも外国人による犯罪、事件の報道を見聞きしますが、やはり一つには国の治安、自国民の生活や安全、何よりもその国ならではの伝統や生活習慣が海外からの旅行者により壊されてしまうことへの懸念から、国家として自国の文化を守るために、外国人の来訪に関しては徹底して厳しい審査が設けられていたりするのでしょうか。

昨年のブータン国王夫妻の来日は、日本国内で大きな話題となりましたが、経済至上主義の蔓延した社会ではなく、国民生活の幸福度に重きを置くブータンも、外国の価値観からあまり影響を受けることのないよう、外国人の入国にはかなりの制限があると聞きます。

今月(5月)初め、個人的にカンボジアの友だちを日本に招待するために、半年程前からその彼と電話やメールでやりとりをしてきました。

そしていよいよ日本へのチケットも購入を済ませ残り1カ月となった4月当初、ふいにビザの話になり、日本に行くにはビザがいるかどうかということになりました。

その友だちは数年前にも一度日本に来たことはあるのですが、その時は団体でのホームステイで来日したため、ビザ申請など一切の手続きについてはノータッチだったとのこと。

そこで今回いろいろと調べてみたところ、日本に入国するにはビザ申請に大がかりな準備がいることが発覚しました。

私たち日本人がカンボジアに行く場合は、空路ですと現地の空港に着いて入国審査レーンの手前にビザカウンターがあり、その場で申請し、スムーズにいけば5分ほどでビザが発給されます。

そこで、カンボジア人が日本に来るのもそれぐらい簡単なことと考えていたのですが、これがとんでもないことでした。

カンボジア人が日本に入国する場合、まず受け入れ先(滞在先)となる私の身元保証書、招へい理由書。

そして住民票、所得証明書、銀行の残高証明等の公的機関の発行する必要書類。

更には本人達が一緒に写っている写真まで、これら一式をまず日本で私が用意をし、それをカンボジアの友だちに郵送。

その日本からの書類を持って現地の日本大使館に行き、初めてビザの申請ができるというのです。

このことに気がついたのがもうすでに1カ月もきった頃。

すぐさま役所や銀行に行きますが、新年度を迎え窓口には長蛇の列。

それでもようやく必要書類を揃え、きちんと届くのか不安と緊張の中、初めてのエアメールをカンボジアに送りました。

そして10日後、無事カンボジアに書類が届き大使館にも申請を済ませ

「I am waiting to get the Visa.」

今はビザができるのを待っていますとの嬉しいメールが彼から届いたときにはホッと胸をなで下ろしたことです。

今回、この過程を通じて初めて感じたことですが、私たちが日本人としてそこまで厳しい審査もなく外国にいけるということは、日本という国の信用性、これまでの日本人旅行者の資質など、日本がこれまで築いてきた評価の歴史を深く認識した次第です。

また思いがけず今の自分の所得や自己資産というものを確認できたというのも、良かったのか悪かったのか、このままでいいのかとの思いも少なからず胸に抱いたことです。

『智慧 自分の弱さと向かい合う勇気』

あなたには、人生の生きる目標というものがありますか。

財産をつくりあげていくこと、地位や名声を得ていくことなど、人には様々な願望の中にその目標があるのではないかと思います。

そして、その願望が満たされた時には本当に幸せで、逆に満たされなかった時には不幸であると考えてしまいがちです。

ですが、本当にそれが正しいことなのでしょうか。

 私たちの人生は、その中でたくさんのいろんなことがあります。

嬉しいことや楽しいことがある一方で、悲しいことや苦しいこともあります。

人は、悲しみや苦しみやといった人生の壁にぶつかった時、どんなに学識や地位があっても、占い・まじない・祈祷といったものに頼ってしまいがちです。

それは、自分が苦悩のどん底にあるのは、決して自分のせいではなく、目には見えない悪魔の働きや霊魂の祟りといった不可解なものが作用していると考えてしまうからです。

そのため、それらをおはらいや祈禱などによってふりはらい、悲しみや苦しみから逃れようと試みるのです。

 そこには、私たち人間の持つ弱さや脆さといったものがうかがわれます。

まさに

「溺れる者は、ワラをも掴む」

といったところでしょうか。

しかし、そういったことによって得た『救い』は、一時は解決し救われたように思えても、所詮一時しのぎでしかなく、実のところ根本的な解決にはなりません。

私たちが直面する様々な問題は、そういったものを信じたり用いたりすることで打開されるものではありません。

真実の

「救い」

とは、たとえ現実がどれほど自分の願いどおりにならなかったとしても、また絶望と悲嘆にくれるような時であっても、その壁を突破・打破し、それを乗り越え、生きる勇気と力を与えてくれるものです。

言い換えると、全ての人々が無条件にして、等しく救われていく教えです。

そのような教えを、親鸞聖人は具体的に『絶えず私たちのために願い、私たちを救おうとして、常にはたらきかけていてくださるはたらきを

「本願力」

という。

私たちは、この阿弥陀仏の

「念仏せよ救う」

という本願念仏の教えを信じ、念仏申す日々の中で必ず仏にならせて頂く身の幸せを喜んで生きていくのだ』教えていて下さいます。

これは、そのまま仏のさとりを極めていく道を進むことになるのだといえます。

 私自身の生き方を振り返ってみますと、毎日を一生懸命生きていたつもりが、実は

「ただただ、死なないための生き方をしていただけ」

といったような気がします。

平成22年度の日本人の平均年齢は、83歳なのだそうです。

どんなに生きながらえたとしても、100年に足らない命がほとんどです。

その命を、ただただ死に怯えながら死を終着とする命をおくるのか。

あるいは、智慧の心をいただきながら、毎日を支えられながら充実した日々をすごしていくのか、どちらが有意義で限りある命をすごせることになるでしょうか。

自分の弱さと向きあいながら、仏の智慧の心とともに、勇気をいただきながら喜びの毎日を過ごしてゆきたいものですね。

「教行信証」の行と信(5月前期)

1.蓮如上人の思想と『教行信証』

 浄土真宗、殊に西本願寺においては、中興の祖と讃えられる蓮如上人の影響力は極めて大きく、そのため

『教行信証』

を学ぶに際しては、蓮如上人が説かれた

「信心正因称名報恩」

の思想を重ねて解釈することが求められています。

そのため、蓮如教学についての理解を抜きにしては

『教行信証』

を理解し難い状況にあるとも言えます。

そこでしばらく、蓮如上人は浄土往生の問題をどのように考えておいでであったのかということについて、その中心問題である信心と念仏の関係を通して窺うことにします。

 蓮如上人は、往生に関して信心と称名の問題をどのように見ておられたのでしょうか。

最初の問題は、称名と往生の関係です。

この称名と往生の関係に関しては、

「信心正因・称名報恩」

の義が明確に打ち出されています。

これは、称名に往因を見ないということです。

この見方に立って称名を問題にしますと、だいたい次の三点に注意をする必要があります。

第一は、浄土真宗では称名念仏以外の行はないのですから、南無阿弥陀仏を称えること以外の行、及び自力の行を完全に捨てよというのが、蓮如上人の教えの柱のひとつです。

称名念仏以外の行、及び自力の行を完全に捨てよというのが

「領解文」

「もろもろの雑行雑修自力の心をふりすてて」

といわれる言葉です。

第二は、無意味な称名の否定です。

例えば演劇とか映画によく念仏が出てきますが、これらの称名念仏は往生には関係ありません。

そこで信心の伴わない口先だけの称名は厳しく否定され、そのような念仏を往生の問題にからめてはならないとされます。

第三に、称名念仏は信を得た上での念仏でなければならないとされます。

真実の念仏は必ず信をいただいた上での念仏であることが強調されるのです。

このように、蓮如上人の念仏は三つの柱を立てて考えるとよく理解することが出来ます。

そこで、信心と往生の関係を問題にしてみます。

「信心正因」

ですから、往生は信心によって決定します。

この往生は信心によるという教えは、親鸞聖人の教えの流れからして当然のことなのですが、ここで蓮如上人と親鸞聖人との間にはひとつの大きな違いがあるように思われます。

それは、親鸞聖人の場合は、

「難信」

ということが非常に強調されているのですが、その難信に対して蓮如上人の場合は、むしろ

「易信」

という点に重点がおかれています。

つまり、蓮如上人にあっては

「信心は得易い」

という表現で、教えが展開されるのです。