また、自分の子どもが仮に東大に入学して、人生がわからなくなったと言って悩んだときも、こちらが無理に解答する必要はないんです。
そんなときこそ
「あそこのお坊さんがね、生き方について非常に詳しいんだよ。一度お話を聞いてごらん」
「隣のおじさんは哲学を勉強してるんだって、本もたくさん読んでるよ。
あそこのおじさんからアドバイスを受けてごらん」
と導いて行く。
このように、一生できるのが「しつけ」なんです。
ところが、「しつけ」の意味が変わり、親は子どもの身なりを整えてやったり、赤ちゃんを不快にさせないようにおしめをすぐに替えたりします。
私は、親が子どもに不快を教えず、かまいすぎることは、「しつけ」の反対になってしまっているのではないかと心配になってきます。
私には今も残る母の言葉があります。
母は非常に忙しくて、私は祖父、祖母と一緒に暮らしていました。
それでも学校から帰って、
今日は友達とけんかをしたとか、
あの人は僕をいじめたとか、
あいつは非常に悪いやつだとか、
そういう人の悪口を言って帰ると、母は私にひとこと
「ところで、あんたはよ。あんたは大丈夫なの」
と言うんです。
この言葉は、私にとって非常によく效きました。
そのときも母親が
「人の悪口を言うと、一番最初に聞くのは自分の耳だよ」
ということをよく教えてくれました。
とても忙しい母でしたが、その教えは今でもよく覚えています。
現在八十八歳ですが、今でも母にはかないません。
やっぱり、すごいなと母を尊敬しています。
また、祖母から学んだことですが、祖母はいつも私をお寺に連れて行ってくれました。
そのときのことを考えてみますと、すごい教育者だったんだなと思います。
まさしく「しつけ」をしてくれたんですね。
例えば、私が正座をして、足が疲れてきたのでだらんとしても、まっすぐしなさいと叱ったりしないんです。
さっき言った「しつけ」の方向付けです。
私が足を崩しそうになると、周りの人にこう言うんですよ。
私に聞こえるように
「うちの孫は我慢強い子なんですよ、多少のことでは、足を崩さないんですよ」
という訳ですね。
そうなると、私はしびれがきて痛いのに、足を崩せないんです。
また、お風呂にもよく一緒に入ってました。
私の祖母はものすごく熱いお湯に入ってましたので、私も中に入ると飛び上がるように痛くて、すぐに出たくなりました。そんな時も祖母は私に
「非常に我慢強い子なんだ」
「少々熱くても入ってるんだ」
と言うんです。
そう言われると、我慢してじっと入ってしまうんですね、
これがさっき言った「しつけ」なんです。
だから、私は三世代で育ったこと、身近に祖母がいたということが、自分にとってはよかったと思っています。