一般に私たちは
「死」
は
「生」
を否定するものだと考えています。
けれども、もし私の人生から死を抜きにしたら、おそらく私の生は曖昧なままで、ただだらしなくダラダラと続いていくだけのものになってしまうのではないでしょうか。
そして、そのように緊張感のないところには何の輝きもないし、また何の感動も生まれてこないように思われます。
一方、この身が死ぬという事実に本当に真向かいになったとき、私たちはいま生きているということがどれほど深く、尊いことであるかに気付かされるものです。
つまり、この私が死ぬということを本当に自覚したとき、ひとときひとときが、かけがえのないいのちとして疎かには生きられなくなる。
言うなれば
「死の自覚」
が
「生への愛」
を生みだしていくのです。
「後生の一大事」
という言葉があります。
これは
「あなたはいつ死ぬかもしれませんよ。今のままで死ねますか」
という、問いかけの言葉だと私は受け止めています。
思うに、実はこのような言葉は、ただ口から出される言葉だけではなくて、いろいろな人の姿、いろいろなこの世のありようというものの中から、常に私たちに問いかけられているようにうかがえます。
省みますと、私たちはいつも自分の思いがかなうこと、自分の人生が思い描いたと通りになることを願って生きています。
けれども、単に自分の思いが満足したというだけでは、それは感動ということにはなってはきません。
なぜなら、自分の欲望の満足というものは、必ず次の瞬間には当たり前になってしまうからです。
確かに、自分が追い求めていたものを手にできたときは一定の満足感を覚えるものですが、次にはそれを当たり前のことにしてしまって、また次の欲望を追い求め、果てのない、それこそ移ろい続けるほかないのが私たちのありようです。
このように、自分の思いだけで生きている時には、私たちは
「自分が、自分が」
と自分の思いだけを主張し、他と比べて一喜一憂するばかりの生き方に陥ってしまいます。
「生きている」
という事実は、
「生きている」
ということに感動する、その感動において確かなものになるのだといえます。
ただ、ダラダラと生きている、昨日あったように今日もあるし、今日もあるように明日もあるだろうといった思いの中で一日一日が過ぎていくのだとしたら、そこには今こうして生きていることに感動し、それこそいのちが輝くような、そういう生き方は決して出来ないと思われます。
あなたは、今ここに自分のいのちがあることの不思議さ、そして何よりもそのいのちが、尊い仏さまに
「願われてある」
ことに…、気付いておられますか。