「東日本大震災から2年を経て」〜原発事故被災者の現状について〜(上旬)放射性物質が飛んでくる

ご講師:白江順昭さん(福島県光慶寺住職)

東日本大震災発生の瞬間、ラジオと携帯電話から同時に緊急地震速報が鳴り、

「これはただごとじゃない」

と思って、すぐに外に飛び出しました。

すると、それまで経験したことのない、宮城県沖地震をはるかに超えるような揺れに襲われたんです。

外から本堂を見ると、屋根と柱が曲がるようにものすごい音がして、いつ本堂が倒れるんだろうかと思いました。

本堂は地震の影響で扉が閉まらなくなり、境内の灯籠(とうろう)は映画のワンシーンのように、スローモーションで舞うような感覚で崩れていきました。

地面からは液状化現象で水が吹き出し、親鸞聖人の銅像は揺れによって前のめりに傾き、お墓は倒れるといった被害がありました。

3月11日の地震発生時、家内は市の幼稚園の手伝いで、近くの小学校に行っていました。

その地域は、かなりの家が津波被害に遭い、学校の体育館や教室が避難所になるため、家内はその日の晩はお寺に帰らず、みなさんのお世話をすることになりました。

高校1年生だった息子とは全く連絡がとれないままの状態が続きましたが、数時間してなんとか連絡がとれ、先生から学校まで迎えに来てほしいと言われました。

学校へ行く4キロメートルの旧街道は大渋滞して、普段は15分で到着する道のりに30分以上かかりました。

学校に到着すると、そこには家に帰れずに残っている生徒がたくさんおり、私は息子と近くに住んでいる同級生2人を乗せて帰路につきました。

同乗した同級生の1人は、お父さんお母さんが仕事で帰りが遅くなるとのことだったので、コンビニに寄って晩ご飯を買うことにしたんです。

しかし、午後6時30分でしたが、ジュースはあったものの、水やお茶は売り切れ。

おにぎりやお弁当もありませんでした。

それが3月11日の夕方から夜にかけての状況です。

翌日の12日と13日はお寺で法事を受けていたんですが、本堂はとても使える状況ではありませんでした。

何とか連絡したくても電話が通じませんので、それぞれのご自宅に行って、会えた人には直接お伝えし、会えなかった人には伝言メモを書いて置いてきました。

私は何かあってはいけないので、とにかく留まれる限りお寺に留まりました。

周りの方からは

「白江さん、何やってんの。早く逃げないとダメだよ」

と言われましたが、14日の午前に火葬がありましたから、私はお寺に留まりながら、テレビやラジオで情報を収集し続けました。

火葬が終わり、14日の午後になって、やっと近くの小学校に避難している家族と会えました。

ホッとしたのもつかの間、テレビから福島第一原発3号機の建屋が水素爆発を起こしたというニュースが流れました。

避難所にいた人たちは、それぞれに窓に目張りをするなどして、懸命に外からの放射性物質の侵入を防ごうとしたんです。

同時に、避難所から数キロメートル東にある原町火力発電所で火災が発生したという連絡も入りました。

避難所の窓から外を見ると、この日は普段吹く風とは逆向きで、煙がこっちに向かってるんですよ。

ですので

「これはまずい」

と思いました。

福島第一原発も同じ方角にあったため、放射性物質が自分たちに向かって飛んでくるのをみんな恐れたのです。