「東日本大震災から2年を経て」〜原発事故被災者の現状について〜(中旬)いろんな場所を転々とした避難生活

炊き出しの昼ご飯を食べて一休みすると、避難していた方々は原発事故の影響で、会津や新潟の方など、南相馬を離れて移動を始めていました。

しかし、津波が国道6号線や常磐自動車道を越えているため、南相馬市の人たちは南北へ逃げることができず、西へ避難するしかなかったんですね。

私たちは飯舘村(いいたてむら)それから川俣町を経て、福島市へ避難することにしました。

放射線の影響については、勉強不足もあってよくわからなかったので、家族みんなでマスクをしていました。

すると息子が、

「お父さん、この花粉症用のマスクで大丈夫なの」

と言うので、

「わからない」

と答え、ウェットティッシュをはさむなどの工夫をしました。

私たちの家族は、14日の夕食を取った段階で西へ移動を始めました。

ところが、川俣町へ行ったところで車がガス欠になってしまい、道の駅に車を置いて一晩泊まることにしたんです。

翌日、たまたま通りかかったタクシーをつかまえることができたので、道の駅の店員さんらガス欠になった車のナンバーと持ち主の名前を伝え、川俣警察署にも電話を入れて、タクシーに乗って福島をめざしました。

福島にいる家内の姉の家で一晩を過ごし、 16日の朝、テレビで福島・仙台間に高速バスが緊急車両として運行している、との情報を聞いたので、早速バスに乗って仙台に向かいました。

仙台には家内の両親と、大学に通う次女がいますので、6人が合流できると思ったんです。

1時間ほどで仙台に着きましたが、仙台も交通網が乱れていました。

結局地下鉄で途中まで行って、あとは駅からタクシーで家内の両親がいる家をめざしました。

家内の実家はたまたま水道が大丈夫で、プロパンガスも使えましたので、やっと風呂にも入れましたし、食事も6日ぶりにまともな物がとれました。

しかし、そこから長い長い避難生活が始まっていくのです。

避難中ですが、道の駅に置いてきた車を取りに行かなければなりません。

3月29日の昼、バスを乗り継いで車を取りに行きました。

道の駅に行ってみると、警察にも連絡していたおかげもあり、ちゃんと車がありました。

翌朝6時からガソリンを販売するガソリンスタンドに朝5時くらいから並び、タンクを満タンにしていただきました。

そしてまっすぐ向かったのが自坊である南相馬市の光慶寺。

幸い、なくなったものなどはなく、ひとまず安心しました。

それからしばらくして仙台市と南相馬市を往復するような生活が続きました。

私は避難しているご門徒の状況を把握しなければなりません。

そこで、市役所に行ってロビーに連絡先を貼ったり、職員の方に私の携帯電話番号を渡したりして、ご門徒の避難状況を調べました。