親鸞・去来篇 川霧 9月(9)

女がさらに血相を持ち直して、甲だかく猛(たけ)りかかると、その時、門(かど)の戸を開けて、

「娘、われはまた、ここへ来ていくさるのか」

誰やら、老人らしい声がした。

その声を聞くと、萱乃は、びくりとして、

「あっ、お父さん」

水を浴びたように、今までの狂態を醒(さ)まし、にわかに、穴へでも入りたいように、居竦(いすく)んでしまう。

烏帽子の国助も面目なげにうろうろとしていた。

するともう案内もなく上がって来た萱乃の父なる人は、厳(いか)つい顔を硬(こわ)ばらしてそこに突っ立ちながら、若い男女を見下して、さも忌々(いまいま)しげに、

「恥さらしめっ」

と、唾でも吐きかけたいように睨(ね)めつけた。

宇治の郷士でもあろうか、粗末な野太刀を佩(は)いた老人だった。

「さ、家へこい、家へ帰れ。こんな怠け者の職人と、痴話狂いをさせようとて、おやは、子を育てはせぬぞ。

不届き者め」

萱乃の襟がみをつかんで、叱りながら、引っ立てると、

「嫌です、嫌です」

娘は、筵(むしろ)へしがみ伏して、

「――家へは帰りません」

と必死でいった。

「なぜ帰らない」

「でも私は、国助さんと、どんな苦労でもしたいのです」

「親の許さぬ男に?」

「かんにんして下さい」

「ならぬっ」

と老人は一喝(いっかつ)して、

「こんな男に見込みはない。親のゆるさぬ男の家へ入りこんで、仲よくでも暮らしていることか、町の衆が、笑っている。嫌ならよし、親の威光でも、しょッ引いて行かねばならぬ」

憤怒(ふんぬ)して、老人は、娘の体を二、三尺ずるずると門の方へ引きずり出した。

皺(しわ)の深い唇(くち)のまわりに、ばらっと、針のような無精髭の伸びている老人の顔と、物言い振りを、それまでじっと傍観していた性善房は、その時初めて口を開いて、

「待て、――おぬしは、六条のお館に奉公していた箭四郎じゃないか」

といった。

「げっ?」

老人は開いた口をしばらくそのまま、

「…………」

小皺の中の眼をこらして、いつまでもいつまでも性善房の顔を見つめ、一転して、その側にきちんと坐っている範宴の姿を見て、

「や、や、や……」

萱乃の襟がみから手を離して、そこへ、べたっと坐ってしまった。

「お――。……おぬしは元の侍従介?」

「介じゃよ」

「では、これにお在(わ)すのは……」

「わからぬか、あまりご成長あそばしたので、見違うたも無理じゃない。日野の和子さま……十八公麿様じゃ」

「あっ、何としよう」

箭四老人は、両手をつき、額を筵につけたまましばらくは面を上げようとしない。