仏教では、すべての「苦」は無明(迷い)を原因とする煩悩から発生し、智慧によって無明を破ることにより消滅すると説いています。
「煩悩」とは身を煩わし心を悩ますもので、その数え方はいろいろあります。
除夜の鐘でよく知られている百八、あるいは八万四千、また集約すれば三つにおさまるともいわれます。
この中の三つが、人間の持つ根本煩悩と定義される「三毒の煩悩」で、具体的には「貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)」です。
「貪欲」とは欲望をいだきそれに執着すること、「瞋恚」とは自分の気にいらないことに対し憎み怒ること、「愚痴」とは道理に無知であることです。
大乗の経典(『涅槃経』)には、この三つが病にたとえられ、その治癒法が
「貪欲の病には骨相観を、瞋恚の病には慈悲観を、愚痴の病には縁起観を教える」
と、説かれています。
「愛欲におぼれている者には、その対象がどれほど魅力的に見えたとしても、結局最終的には骨になってしまうことを観察させる。
怒りの心に満ちている者には、なぜ腹立たしいのかをよく見きわめさせて慈悲の心を回復させる。
自分の知っていること以外は何も知らないのに、世の中のすべてのことが自分には分かっていると錯覚して、自己中心的な見方しかできない愚か者に対しては「すべての存在はさまざまな条件(縁)によって生じるという縁起の理法を観察させる」と。
また、こられの煩悩を消し去るものが「智慧」であると説かれます。
仏教では、 この智慧を「忍」という字で説いています。
『仏説観無量寿経』において、韋提希夫人が「無生法忍」を得たということが述べられています。
この「忍」とは「認可決定」という意味で、はっきりと認めていく、勝解(しょうげ)という、すぐれた理解をするという意味だという説明がなされています。
そのような意味で、「忍」とは「認める」ということだといわれています。
けれども、そうであれば「無生法忍」ではなく「無生法認」とすれば良いように思われるのですが、あえてそこに「忍」という字が用いられているところに、何らかの意味があるのだと考えられます。
では、それはどのような意味かというと、ギリシャ人の「智慧」に対する理解がこの「忍」の意味に通じるものがあるように感じられます。
ギリシャ人は「智慧」を「情熱」という言葉で表していたといわれます。
この場合の智慧とは、知識をたくさん持っていることではなく、情熱を持っていることだというのです。
そしてこの情熱とは、何があっても何かを最後までやり遂げるということではなく、それがたとえどんなに辛いことであったとしても、それが事実であれば事実として受け止め、その事実を生きていくという、勇気としての情熱として理解していたと伝えられています。
これと同じように、仏教における智慧も、うまくいってもいかなくても、自分の人生の事実をすべて引き受けて、その事実を生きていく勇気のことなのです。
これに対して、愚痴というのは、何も知らないということではなく、事実を事実として受け止めて引き受けていくことのできない弱さのことをいいます。
どれほど愚痴をこぼしてみても、その事実が変わるということはありません。
にもかかわらず、自分の思い通りにならないことの原因を他に責任転嫁したり、世間を呪ったりするばかりで、不都合な事実をどこまでも受け入れようとしないあり方にとらわれてしまうのです。
一方、どれほどその事実が自分にとって受け入れがたいことであったとしても、私は私の人生の事実をこの身にしっかりと受け止めていく勇気を智慧といい、また忍という言葉で表しているのです。
とはいえ、やはり私たちは、いつまでも健康で、経済的な不安を感じることもなく、家族をはじめ大切な友だちと日々楽しい生活を過ごしたいと思っているのですが、それらにほころびが生じ、思い通りにならない現実に直面すると、つい愚痴の言葉があふれ出てきます。
一つしかない口なのですから、他をそしったり世の中を呪ったりするような言葉よりも、生かされて生きているこの身の幸せを喜んだり、私を支えてくださっている周りの方々への感謝の言葉を口にすることができれば良いのですが、なかなか難しいものです。
親鸞聖人は、この仏さまは本来「色もなく形もなく、言葉で言い表すことも想像することもできない」存在であるが故に、私たちすべての煩悩を兼ね備えている凡夫にはとうてい理解し得ない。
だからこそ、仏さまの側からその存在を私たちに知らしめるために、自ら「南無阿弥陀仏」と名を名のり、私の称える念仏の声となって躍動しておられるのだ、と教えておられます。
まさに、愚痴しか出ない私の口から、阿弥陀仏という仏さまは「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と、念仏の声となってこぼれ出て、常に私を導いていてくださる仏さまなのです。