投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

時折、これまでの人生を振り返ってみて

時折、これまでの人生を振り返ってみて

「あそこからやり直せたら…」

と思ったりすることとか、ありませんか。

でも、ホントにやり直すとなったら、それはそれでけっこう大変だと思います。

なぜなら、たとえやり直したかったことを今度は上手くできたとしても、これまで満足していたことが、また今度も同じように必ずしも上手く行くとは限らないからです。

思えば、私たちは成功だけを評価したり喜んだりしていますが、その一方で失敗したことは運命だったとか、不幸だったとかいう言葉で切り捨ててしまおうとすることがあります。

「運命」

というのは、私がどうあがこうと、あるいは何もしなくても、どこかの誰かの書いたあら筋のままに私の人生が展開していくということでしょうか。

そんな主体性のない人生に、充足感を得られますか。

考えてみると、私たちはむしろ失敗した時にこそ、多くのことを学ぶことが出来ていたりするのではないでしょうか。

世界中のどこを探しても、完璧な人間なんていません。

誰もが、多くの失敗を重ねながら、そのことをバネにして生きているのです。

そうすると、大切なことは失敗を恐れて何もしないでいるよりもたとえ失敗したとしても、いろんなことに積極的にチャレンジして行くことではないでしょうか。

また、仏教では私たちの人生は自由だと教えます。

この自由とはしたい放題ということではなく、選択の自由を意味しています。

つまり、私たちは自分の人生のいろいろなことを自らが選び取る自由を持ち、同時に結果は全て自らが引き受けていくことの大切さが説かれています。

たった一回きりの人生じゃありませんか。

この人生の主人公は私なんですから

「たとえ上手く行っても行かなくても、選び取った結果は全て自分が引き受けていくんだ」

という勇気を持ちましょうよ。

同じ上手くいかないことがあったとしても、それを誰かのせいにしてグチをこぼして終わるよりも、失敗の中から学んでいけるような生き方をしたいものです。

『四法印(三法印)』

釈尊の教えは、伝統的なバラモン思想や六師外道と呼ばれる自由思想家など、当時のインド思想一般を批判し、それを超えて新たに求められたものだといえます。

そこで仏教徒は諸々の思想との根本的な違いを四(または三)つの項目にまとめ、他の教えと区別する目安としました。

これが四法印(三法印)と呼ばれる教えです。

「印」

とは旗印を意味し、もしこの条件が具わっていれば、その思想は真実仏教の教えに違いないと断定するための証拠としたのです。

したがって、たとえその教えが、仏教思想だと伝えられているとしても、もし四法印に照らしてみて、明らかな間違いが認められるとすれば、それは仏教ではないということになります。

さて、この四法印とは

「諸行無常」

「諸法無我」

「一切皆苦」

「涅槃寂静」

のことで、三法印の場合は

「一切皆苦」

が省略されます。

第一の

「諸行無常」

という言葉は、そこから何か物哀しい響きが感じられますが、実はこれは感情の哀れさを示す言葉ではなく、この世の現象の在り方を示すものです。

「諸行」

とは、すべての現象のことを指します。

この世の全ての現象は、例えば神の意志のような、一切を超越した何ものかによって支配されたり動かされたりしているのではなく、種々の原因や条件(縁)によって形作られていて、常に消滅変化してゆくのであって、何ものも永遠不変ではありえないことを説いています。

第二の

「諸法無我」

とは、先の

「諸行無常」

から導かれる真理です。

世のすべてが一瞬としてとどまることがないとすれば、それはそのまま私自身に関しても認められなくてはなりません。

この真理を示す言葉が

「諸法無我」

です。

「諸法」

とは、あらゆる存在のことです。

我とはアートマンのことで、いつまでも永遠に変わることのない独立した実体です。

霊魂と訳されることもあります。

仏教は無我の思想だといわれますが、無我とは単にアートマンの存在を否定するだけではなく、存在の有無を議論すること、それ自体が現実の覚りには何の役にも立たないことを教えています。

第三の

「一切皆苦」

とは、すべてのものが苦しみであるということです。

一切が変化し移ろいゆくものですから、私たちが何かそれらに対して執着すれば、必然的に苦しみが生まれます。

ですから

「苦」

とは、苦痛や苦悩というより、自分では思い通りにならないことを意味しています。

そうした苦には四苦・八苦がよく知られています。

四苦とは、生・老・病・死です。

八苦とはこれに愛別離苦(愛する人と別れる苦しみ)・怨憎会苦(怨み憎む人と会う苦しみ)・求不得苦(求めるものが得られない苦しみ)・五蘊盛苦(存在を形作る五つの要素から生しる苦しみ)を加えた八つの苦をいいます。

第四の

「涅槃寂静」

とは、私自身において

「諸行無常」

「諸法無我」

の実相が覚知される時の心を指すものであって、完全なる寂静、理想の境地がここに実現されます。

つまり

「涅槃」

とは、煩悩の火が吹き消されている状態のことです。

涅槃に至るには、この現象をあるがままに観察し、自分自身を含むあらゆる物事への執着を断ち切らなくてはなりません。

煩悩が消え、苦の無くなった状態が寂静です。

『初春今ここにあるいのちの不思議』

一般に私たちは

「死」

「生」

を否定するものだと考えています。

けれども、もし私の人生から死を抜きにしたら、おそらく私の生は曖昧なままで、ただだらしなくダラダラと続いていくだけのものになってしまうのではないでしょうか。

そして、そのように緊張感のないところには何の輝きもないし、また何の感動も生まれてこないように思われます。

一方、この身が死ぬという事実に本当に真向かいになったとき、私たちはいま生きているということがどれほど深く、尊いことであるかに気付かされるものです。

つまり、この私が死ぬということを本当に自覚したとき、ひとときひとときが、かけがえのないいのちとして疎かには生きられなくなる。

言うなれば

「死の自覚」

「生への愛」

を生みだしていくのです。

「後生の一大事」

という言葉があります。

これは

「あなたはいつ死ぬかもしれませんよ。今のままで死ねますか」

という、問いかけの言葉だと私は受け止めています。

思うに、実はこのような言葉は、ただ口から出される言葉だけではなくて、いろいろな人の姿、いろいろなこの世のありようというものの中から、常に私たちに問いかけられているようにうかがえます。

省みますと、私たちはいつも自分の思いがかなうこと、自分の人生が思い描いたと通りになることを願って生きています。

けれども、単に自分の思いが満足したというだけでは、それは感動ということにはなってはきません。

なぜなら、自分の欲望の満足というものは、必ず次の瞬間には当たり前になってしまうからです。

確かに、自分が追い求めていたものを手にできたときは一定の満足感を覚えるものですが、次にはそれを当たり前のことにしてしまって、また次の欲望を追い求め、果てのない、それこそ移ろい続けるほかないのが私たちのありようです。

このように、自分の思いだけで生きている時には、私たちは

「自分が、自分が」

と自分の思いだけを主張し、他と比べて一喜一憂するばかりの生き方に陥ってしまいます。

「生きている」

という事実は、

「生きている」

ということに感動する、その感動において確かなものになるのだといえます。

ただ、ダラダラと生きている、昨日あったように今日もあるし、今日もあるように明日もあるだろうといった思いの中で一日一日が過ぎていくのだとしたら、そこには今こうして生きていることに感動し、それこそいのちが輝くような、そういう生き方は決して出来ないと思われます。

あなたは、今ここに自分のいのちがあることの不思議さ、そして何よりもそのいのちが、尊い仏さまに

「願われてある」

ことに…、気付いておられますか。

「念仏の教えと現代」1月(中期)

では、

「真実の宗教とはいったいどのような教えか」

ということになります。

世の中にはいろいろな教えがありますが、その中からどの教えが真実の教えかということを見極めるために、次のような三つの尺度を持つことが考えられます。

それは、宗教と道徳と科学という三つの尺度です。

第一は、宗教が究極的に求めていることは

「心の安らぎ」

だといえます。

したがって、その宗教の究極を突き詰めれば、人々に心の安らぎを説いているかどうかを見ることが一つの尺度となります。

次に、その安らぎを得るために、その人は果たして人間としての正しい行為をなしているかどうかを見ることが問題になります。

これが第二の道徳の尺度ということになるのですが、安らぎを得る一つ前の段階で、その安らぎの心が人間にとっての一番の根源だとすれば、その前にはたしてその安らぎの心が人間として正しい行為によって得られたかどうか、その行為性について考えるような見方を尺度にすることが求められます。

このようにして、人は安らぎを得て、正しい人生を送ることになるのですが、最後にその人生が人間の理性、科学的な思惟に矛盾しないかという見方をすることで、それが正しい宗教であるかどうかが最終的に分かるのだと言えます。

そこで、このような真実の宗教に出遇うことを前提にして、それで私たちにとって理想的な人生とはということについて考えてみたいと思います。

自分自身にとって、一番理想的な人生とは、迷信などに頼ったり振り回されたりすることなく、理性に基づいた幸福な生き方が自分の人生の中に実現している。

そしてその自分の人生が、人間としての正しさを失うことなく、しかもその奥には常に心の安らぎがある。

このように、心の安らぎ・正しい行為・理性的な生き方といった、三つの尺度がすべて適えられている人生が、私たちの理想的な人生だということになるのではないかと思われます。

「焼酎に魅せられて」(中旬)焼酎は清酒がいらない世界を作り出した

人間の舌が一番甘く感じる温度は35度前後だと言われています。

それより低くなると味が変わってきます。

温かいときの味噌汁はおいしいですが、冷たくなると塩分を強く感じやすくなるのと一緒です。

だから冷たい料理というのは、塩分を控えめにしなくてはいけない。

温かくすると甘さを感じますし、渋みも感じにくくなってきます。

お湯割りというのは、そういう意味でも合理的に出来ているということです。

結局、鹿児島の焼酎というお酒は、恵まれた条件下で生まれたのではないといえます。

米がなくて暑い土地、さらにサツマイモという酒造りにしってやっかいな原料。

昔の人たちは、そういう風土の暑さとかサツマイモの特性というハンデを逆手に取って、さまざまな知恵を出しました。

その結果生まれてきたのが、オリジナリティーを持った焼酎というお酒だったんです。

それは食中酒であることや、お湯割りで飲めるお酒であるということ。

あるいは清酒がいらない世界を作り出すという、蒸留酒でありながら、他の蒸留酒にない考えを導入したんです。

だから、蒸留酒であって醸造酒のように飲めるというわけです。

そして、この焼酎というお酒の特性は、鹿児島、薩摩人だけに求められたというわけではなく、日本人全体がそういうものを求めていたんです。

焼酎は体に優しい、酔い覚めのいい、自分の好みに応じて飲める。

食中酒に合うような、そういう性質、普遍性を持っていたということです。

そして、鹿児島の風土の中で磨かれた焼酎を日頃飲んでいる人には、ウイスキーとか清酒といった、他のお酒はあまりなじみがなくなってきます。

このように、焼酎文化は、焼酎以外の物がなかなか入って来れなくなる世界を作っていったわけです。

このハートフル大学の開催主旨の中には、科学万能・経済優先・合理主義が謳歌される社会、便利・簡単・スピードという価値観が重要視される日常の中に生きる私たちは、本当に大切なものを見失いつつあるんじゃないかということが謳われています。

実は、この見失いつつあるものというのが、焼酎の世界を広げてきた一番大きな要因だろうと私は考えています。

お酒というのは、元々地元にある産物を使って全部埋まってきているんです。

農業的でありながら、地域性を持っているということです。

そして、それが風土性を作ってきていたんですね。

ところが20世紀型の科学技術万能社会では、技術というのがお酒をずいぶん変えてきた。

その目指すところは何かというと、いい物を大量に作ってやすく売るということです。

それは技術が非常に得意といるところです。

ところが、その行く着く先は何かというと、いわゆる風土性の消失、大量生産、品種・品質の画一化、低コスト化、こういうものがあるんですけれども、実は、この失われていくものの中で、一番大事なものが風土性なんですね。

『お仏飯は、毎朝お供えしなければいけませんか?』

お仏飯は、本来ならば努めて、毎朝炊きたてのご飯をお供えされることが望ましいあり方です。

京都のご本山(西本願寺)では、毎朝のお晨朝(朝のお勤め)が始まる前にお仏飯をお供えして、正午までに下げるというのが通例となっています。

一般のお寺、そして家庭においてもこれに倣い、毎朝お供えする姿勢はきちんと見習っていきたいものです。

しかしながら、近頃の傾向としてパン食が増えたり、また毎朝ご飯を炊くという生活の習慣も今は減りつつあるようにも見受けられまい。

そこで、毎朝とまではいかなくても、せめてご飯が炊きあがった時は、自分たちが真っ先に手をつけるのではなく、まずはお仏壇にお仏飯をお供えしてみんなでお参りし、それから食事をするということを心がけていただきたいと思います。

お仏壇を中心とする生活の中に、今まで気付かなかったこと、あまり深くは考えなかったことも、有難いことでした、お陰様でしたと頷いていくことの出来る視点が恵まれるのではないかと思います。