投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「介護の現場から世界が見える」(上旬)ボケと寝たきりの原因は「閉じこもり症候群」

======ご講師紹介======

三好春樹さん(生活とリハビリ研究所代表)

☆演題 「介護の現場から世界が見える」

昭和25年、広島県に生まれる。

特別養護老人ホームの生活指導員として勤務後、理学療法士となる。

昭和60年に「生活とリハビリ研究所」を設立。

現在年間180回を超える講演と実技指導で現場に絶大な支持をえておられます。

また、介護、看護、リハビリのみならず、医療や心理、思想領域にまで大きな影響を与えておられます。

主な著書は

「関係障害論」「痴呆論」「じいさん・ばあさんの愛しかた」「完全図解新しい介護」

など多数。

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足の筋肉は使わないとだめになるというのはよく知られていることですが、実は頭も使わないとだめになるんです。

寝たきりの人がボケになると言われるのも、家に閉じこもったからなんです。

例えば、脳卒中で手足が不自由になるから、寝たきりになるとか、ボケるとか言われていますが、そんなことはありません。

手足が重いマヒにかかっても、片手で起き上がったり、片足で立つことはできます。

バランスがとれないけど、慣れればいいだけの話です。

脳卒中では寝たきりになりません。

脳卒中になった後、家から出なくなる。

友だちが亡くなる。

これで生きる気持ちがなくなって寝たきりになるんです。

ボケも同様です。

ですから、友だちと一緒に出かけるような方は大丈夫と思っていいでしょう。

このように、生活空間が狭くなり、人間関係がなくなることがボケと寝たきりの本当の原因です。

竹内孝仁という国際医療福祉大学大学院の先生は、これを

「閉じこもり症候群」

と名付けました。

閉じこもり症候群にさえならなければ、寝たきりもボケにもなりませんから、これをいかに防ぐかを考えなくてはいけません。

その対策としては、早期発見が大事です。

放っておくと、どんどんひどくなります。

第一段階から見ていきましょう。

第一段階は『家から出なくなる』ということです。

これが危ないですね。

「あそこのおばあさん、しばらく見ていないけど…」

と言われてくると、ボケと寝たきりセットの第一歩です。

とにかく家から出なくなると要注意だと思ってください。

放っておくと、あっという間に第二段階にいってしまうからです。

第二段階というのは『布団から出なくなる』ことなんです。

布団から出ないということは、身だしなみに無頓着になるということです。

皆さんは、外に出るときには髪をとかしたり、ヒゲを剃ったりしますよね。

それは、外に出て人に会うからです。

家から出ないとなると、布団から出る理由もないから、そのまま布団の中に入っちゃうということになります。

これはあっという間です。

これを放っておくと、すぐ第三段階になります。

この第三段階は、ちょっと深刻です。

もっと大変なところから出なくなるんです、例として、あるお年寄りのことをご紹介しましょう。

広島の特別養護老人ホーム

「清鈴園」

に入所していた今田トワさんというおばあさんがいました。

清鈴園は、いい介護をしていたので死亡率が低かったんですが、逆に言えばベッドが空かなくてなかなか入れない施設でした。

このおばあさんの場合は、入所まで3カ月かかりました。

それまでやって来たときにはもう歩けなくなっていて、

「いらっしゃい」

と声をかけても、目がとろんとして焦点が合わない、返事もないという状態でした。

「遅かったかな…」

と思いました。

『縁起』

「縁起」

という言葉は、今日では

「縁起がよい、悪い」

というように、

「ものごとの起こる前ぶれ、前兆」

の意味で用いられています。

けれども、縁起とは本来、釈尊が目覚めた真理を意味するものです。

したがって、縁起の思想は仏教の根本教義だということができます。

さて

「縁起」

とは正しくは

「因縁生起」

のことで

「因(よ)って起こること」、

具体的には

「苦しみは、何らかの直接的な原因(因)と間接的な条件(縁)によって起こり、その原因・条件(縁)がなくなれば、苦しみもなくなる」

ことを説くものです。

すなわち、縁起の思想は、苦しみを生み出す因果の系列をさかのぼることによって、苦しみの根本的に原因、つまり無明(根本煩悩)をさぐりあて、それを滅することによって、苦しみを解消することを目指す実践的な意味を持っています。

釈尊は、無明によって苦が生まれ、また無明を滅することによって苦も滅せられることを心身の調和を得た瞑想によって明らかにのだといえます。

こうした縁起の教えは、後に整理されて

「十二支縁起(十二因縁)」

と呼ばれる教えとして完成されます。

十二支とは、

(1)根源的な無知(無明)

(2)生活行為(行)

(3)認識作用(識)

(4)心と物(名色)

(5)六つの感覚機能(六処)

(6)対象との接触(触)

(7)心の作用(受)

(8)本能的な欲望(愛)

(9)執着(取)

(10)生存(有)

(11)誕生(生)

(12)老いと死(老死)

のことです。

この

「十二支縁起」

の理解については、いくつか解釈があって難しいのですが、私たちは縁起を、釈尊はこの世界が無常であることを明らかにすることによって、この世の苦しみを説明する一方で、苦しみを滅するために、苦しみを生み出す原因が無明であることを明らかにされた思想であると知ればよいのだと思います。

ところで『雑阿含経』などにおいて、十二支縁起が説かれる初めの部分には、しばしば

「これあればかれあり。

これ生ずればかれ生ず。

これなければすれなし。

これ滅すればかれ滅す」

という定型の表現が見られます。

ここには縁起の思想が一般化され、現象世界の法則性として示されています。

それは、この世に存在している一切のものは、何一つとして単独にあるものはなく、みな持ちつもたれつ関係の中で、一切が存在しているということを説くものです。

そうすると、私たちが見たり、体験するこの世界の一切の出来事は、必ず種々の原因と条件が重なりあって成立していることになります。

不慮の事故が起こった場合、苦しみや不安が突然、私のところにやってきた時、私たちは、それが不意に条理なことが起こったと見てしまいます。

けれども、実はその事柄は必ず原因や条件が複雑に重なりあって起こっているのです。

仏教では、この現に起こっている個々の事柄をごまかさないで、あるがままに如実に見ることを

「縁起を見る」

といい、またそのように見ることができることを

「智慧を得る」

というのです。

したがって、私たちは縁起の思想における因と縁、そして結果の関係を時間的な関係と同時に、また空間的な関係において理解することが大切だといえます。

すべてが変化し、何一つ頼るもののないこの世界において、いま私がこうしてあるという事実は、さまざまないのちによって支えられてあるということです。

だから幸せだと釈尊は示されているのです。

『初春今ここにあるいのちの不思議』

少しほっとする話から

ある新聞に出ていた子供の詩

「うんちの最高記録」

佐藤大悟(4年)

この前うんちをしていたら、かなりでかいのが出た。

友達が自慢していた太さ5?、長さ25?を余裕でこしていた。

「博物館に出したいなー。」

と思いましたが、そんな博物館は百%ありません。

結局流しました。

ちょっと残念でした。

「はぐれ雲」

というマンガ(ジョージ秋山作)が連載されています。

マンガの主人公が、深刻な悩みを持つ人に一言いいます。

「でっかいうんこ、してますか」

はっ?おれの悩みはうんこ以下か、と怒り出します。

しかし、後でそのことを老師に聞きに行きます。

老師曰く、

「近頃は小さなことで悩む人が多くなりました。

きちんと、大きなうんこがでるような生活をしてみては如何か。」

たしか、このような話をされました。

思えば、たまにでもりっぱなヤツが出た時に感謝することはありません。

いつも何かを気にかけて下痢をしたり、便秘になったり。

立派なうんこをするための生活を目指す、という生活目標ではいけませんか。

そのために捨てるものが増えるかもしれませんが、なくて生きていけるなら、それもありなのではないでしょうか。

立派なモノが出る不思議、感動を大事に、そして下痢なら下痢で、便秘なら便秘で自分の体調を知る物差しとして大事にしましょう。

しかし、私は当たり前のことがこんなに喜ばしいことなのに、どうして喜べないのでしょうか。

この点も何とも不思議と言えば不思議です。

この心身両面で不思議な私を、不思議な働きにより導いてくださるアミダ様が、1番不思議です。

「念仏の教えと現代」1月(後期)

そうすると、ここで

「宗教」

ということをひとまず度外視して、理想的な人生を追い求めていくと、その理想的な人生と、真実の宗教が人々に語りかけている人生とが、ここで全く重なり合ってしまうことになることに気付かされます。

真実の宗教は何を教えているかというと、先ず心の安らぎを説きます。

しかも、その心の安らぎを得るために、正しい生活、正しい道、人間としての善なる道をなせということを勧めます。

しかもその行為は、決して理性的な判断を狂わせるものではありません。

このような三つの柱を正しい宗教は持っていると言えます。

一方、現代を生きる私たちが求めている理想的な人生も、理性に即した生き方に基づく幸福な日々であり、それは人間としての正しさを失うことなく、しかも心の安らぎに満ちたものだということになると、真実の宗教が説くあり方と私たちが求めている幸福な人生の方向性は全く矛盾していないということが出来ます。

そこで、このような真実の宗教、あるいは人々が理想とする人生論と、親鸞聖人が求められた教えとが、いったいどのように関係するかということについて考えてみます。

親鸞聖人は、人間にとっての心の安らぎをどのように見られたのでしょうか。

心の安らぎ、これは人間にとって案外簡単に得ることが出来るものです。

それは、平常心の時には、努力をすれば誰でも安らかな心を作ることができるということです。

例えば、お寺の本堂に参って、静かに心を鎮め、姿勢を正し、呼吸を整えてひとつのことを念じる。

南無阿弥陀仏の姿を心で想い浮かべてもよいし、称名念仏をしてもよいのですが、そのような心をしばらく持続させると、いとも簡単に心の安らぎを得ることが出来るのです。

このように、人間は静かな心になって気持ちのよい状態を作ることは出来るのですが、けれどもそれが可能なのはその時の自分がそのような心を作ることができる、恵まれた状態に置かれている時だけです。

具体的には、健康であって、時間に余裕があったり、楽しみの中に自分がいるといったような時には、心にもゆとりがあるので、やすらいだ心になることが可能なのです。

「焼酎に魅せられて」(下旬)風土性が焼酎の価値を決める

だから、鹿児島の薩摩焼酎と言うときには、鹿児島のサツマイモを使わないと薩摩焼酎とは呼べないことになっています。

これは業界が決めて、国にも世界的にも認証を受けました。

それはなぜでしょうか。

以前、中国のサツマイモを使っているということが新聞などをにぎわせました。

サツマイモは非常にやっかいな原料で、害虫がいます。

そのため生では輸入できない原料ですから、蒸して、冷凍して持ってきます。

それが一時期使われたわけです。

ここで一番肝心なことは、風土性が失われるということなんです。

芋焼酎というのは、地域で作った農産物を、地域の人が働いて、そして何よりも地域の人が消費するという、地域循環型の産業構造を作っているわけです。

それが、鹿児島の焼酎文化を支えているんです。

おらが村の焼酎だとかですね、サツマイモへの愛着だとか、それがこの風土、地産地消、あるいはカライモと言わずサツマイモと呼ぶところ、そういうところが焼酎のいのちなんです。

このような意味で、焼酎のいのちは、アルコールではないんです。

焼酎のボトルを見ると、アルコール度数25パーセントと書いてあります。

では、残りは何かと言えば、水だと応えたら0点なんです。

残りが水だったらこれは甲類焼酎、単なるアルコールになってしまうんです。

アルコールプラスアルファの

「アルファ」

に当たるのが、焼酎のいのちなんです。

例えば、サツマイモのごくわずかな微量成分であったり、鹿児島が持っている風土性であったり、あるいは物語性であったり、あるいは歴史・文化であったり、そういうものすべてが焼酎のいのちになっているんです。

それを技術というものは、同じ原料を使って同じものを作ればいいだろうと思っています。

そうすると一番大事なものが失われていく。

そこのところが、焼酎が他のお酒とは違うところなんです。

どこでも作れる物というのは、やはり価値を失っていきます。

この土地ならではの物でないといけません。

風土というのは動かせないものです。

技術などはどこでも移転できますが、桜島は移転できないわけです。

風土とは、この鹿児島のシラス台地、この暑い気候、ここで取れるサツマイモなんです。

それはやはり動かしてはなりませんし、その風土性という価値を持った物を作っていかなければなりません。

そういうものが、やはり鹿児島の芋焼酎を支えてきているし、我々もその重要性を失わないようにしていかなければならないと思います。

『お焼香には意味とかきまりがあるのですか?』

お仏壇のお飾りをするとき、ロウソクに灯りを点けたり、きれいなお花をお供えしたりするように、お焼香にも

「香り」

をお供えするという意味合いがあります。

そしてその香りから、如来さまのみ教えを味わう心が大切なことです。

お香の香りは、直接私たちの目にみることは出来ません。

けれど、姿形はなくてもお香の香りは上下左右を問わず隅々まで満遍なく行き届くように、如来さまの

「あなたがどこにいても私が必ず見守っていますよ」

という、救いの無限さ、広大さをお香の香りから受け取っていくこと大事な姿勢ではないかと思うのです。

したがって、その意味合いをしっかりと味わい、きちんとした浄土真宗の作法に則ってお焼香をしていくことが大事です。

お焼香のお作法は、

(1)焼香台の一歩手前で立ち止まり、腰から上体を前方に軽く傾け一礼。

(2)一歩進み、右手でお香を一掴みして香炉に入れる。

(3)お念珠を両手に掛けて胸の前で合掌、お念仏、礼拝。

(4)一歩下がり、一番はじめと同じように腰から上体を前方に軽く傾け一礼。

以上が、浄土真宗本願寺派のお焼香のお作法です。

法事やお葬式など様々な場面でお焼香をされる機会があるかと思いますが、浄土真宗の門徒として自信を持って作法に則ったお焼香を心がけていただきたいと思います。