投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「介護の現場から世界が見える」(中旬)風船バレーをきっかけに、自分の世界から出る

入所して4日目の夜、宿直のときでした。

夜11時に入所者が全員寝ているのを確認して回っていると、このおばあさんの独り言が聞こえてくるんです。

近くで聞いてみると、自分で自分の名前を呼んで、自分で返事をしていました。

一人二役、三役ですね。

「トワさん、トワさん」

「はい、私が今田トワです」

「あなたが今田トワですか。さすがですな。はっはっは」

と夜中に一人で笑ってるんですよ。

さすがにちょっと不安でしたね。

次の日、お年寄りを集めて風船バレーボールをしました。

こういうのを私たちは

「遊ビリテーション」

と言います。

リハビリテーションだと痛いし、大変ですから、遊びながらリハビリをやろうということです。

さあ始めようかと思ったら、若い寮母さんがトワさんを車椅子に乗せて連れてきました。

トワさんは、その時もブツブツ言っているだけで、目もトロンとしていました。

でも、試合が始まって、真っ赤な風船が目の前を通ると、独り言をやめて反応したんです。

またブツブツ言い始めたんですが、三回目に風船が向こうから来たとき、思わず手が出ました。

打つと味方が

「わぁっ」

と歓声をあげたので、ああ打てばいいんだと分かったんでしょう。

それから30分間、ずっとボールを追いかけしまた。

目の焦点が合ったのは、これが初めてです。

その日の夜から変化が起こりました。

「あの風船つきは面白かった」

と、一晩中言っていたと夜勤から報告があったんです。

それで次の日の午後、私は予定を変えて、また風船バレーボールをしました。

「トワさん、また風船つきませんか」

と誘ったら、私をちゃんと見て、

「おお、行こう。あれは面白い」

と言ったのが、初めての会話でした。

よく偉い人で、

「風船バレーボールとか、あんな子どもだましを年寄りにさせて…」

と言う人がいますが、それはこの今田トワさんを知らないんですよ。

もうこの世の中で生きていくのをやめた、心を閉じた人でも、感覚は外に開いていますから、もう一回、一緒に生きていこうかというきっかけには十分なり得るんです。

第三段階。

今田トワさんはどこから出なくなっていたかと言いますと、

「自分の世界から出なくなる」

というのが答えだったんですね。

これが認知症なんて呼ばれている訳です。

それを、このような風船バレーをきっかけにして、自分の世界から出ていただく訳ですね。

じゃあ、在宅の場合は一体どうしたらいいんだろうかということになります。

方法が二つあります。

それは、介護とかで行政もやっていますが、とても追いつきません。

行政と地域住民とが一緒になってやらないといけないことです。

一つ目は、とにかく訪ねて行ってください。

一人暮らしでしばらく外に出ず、誰も訪ねてこないようなお年寄りの家に、

「こんにちは、元気でしたか」

と訪ねていく人、これが必要なんです。

今は訪問してきれる人も増えてきました。

でも、訪ねるだけでは元気にはなりません。

まず、誰が訪ねていってもいいという訳ではありません。

だって、好きな人が来てくれるからこそ、布団を出て、掃除して待っていようかと思うけれど、嫌な人が来ると思ったら布団をかぶって寝ますから。

好きな人が来なきゃいかんですね。

それだけじゃありません。

いくら訪ねて来てくれても、お年寄りからすれば、みんな自分より若くて元気な人ばかりですよね。

人間これでは生き生きしません。

そういう人ばかり訪ねても、世界で一番不幸なのは自分だという気持ちになるだけですから、訪問だけではお年寄りの目は輝かないんですね。

『ご本尊さまは木像・絵像・名号、どれでもよいのですか?』

ご本尊について、中興の祖・蓮如上人のお言葉に、

「木像より絵像、絵像より名号(南無阿弥陀仏)」

とあります。

しかしながら、

「ほとんどのお寺さんが木像のご本尊で、名号・絵像のご本尊は見たことがない。

私たちがおむかえするとき、お寺では絵像または名号のご本尊をすすめるのはなぜ?」

というような疑問をもっておられる方も多いのではないのでしょうか。

まず、先の蓮如上人のお言葉ですが、その文だけを捉えてしまえば

木像≪絵像≪名号

というように、ただ単にその優劣をつけているように受け取ってしまいがちです。

しかしそうではなく、物やその価値に縛られ、ややもすれば

「偶像崇拝」

に陥りがちな私たちを戒める言葉ではないかと思われます。

もちろんだからと言って、木像・絵像・名号のご本尊が単なる

「偶像」

ということではありません。

阿弥陀如来さまの真実の智慧と慈悲が、私のために形となって現れてくださったのであり、お掛け軸の裏に

「方便法身の尊形」

という言葉が書かれているのはそのような意味からであります。

木像・絵像のお姿はその右手に召喚のお心、

「真実の世界にかえってこいよ」

という願いを表わし、その左手は摂取のお心、

「どんなことがあっても必ず救いとるぞ」

との願いが込められています。

ですから単なるお姿ではなく、阿弥陀如来さまの願いとはたらきを表わしています。

また名号(南無阿弥陀仏)も、

「この私にまかせよ(南無)、必ず救う(阿弥陀仏)」

という阿弥陀如来さまの尊いお心表わしています。

形になって現れてくださったお姿を通して、その阿弥陀如来さまの信(まこと)のお心をいただき、そのお徳を讃え、感謝のお念仏(南無阿弥陀仏)を称える身とならせていただく事が肝要であると、先の蓮如上人のお言葉はお示しになられているのではないでしょうか。

さて、ご家庭においては絵像の阿弥陀如来さまが一般的ですが、いずれにせよ安易にお仏具屋さんなどでもとめるのではなく、お手次のお寺に御相談の上、必ず本山からお受けになり、入仏法要(ご本尊をおむかえする時のご法事)などをとおして、しっかりとおいわれを聞かせていただく事が大切です。

『四諦八正道』

ものごとをごまかさないで見つめると、そこには二つの真理が見えてきます、一つは迷いの真理であり、いま一つ悟りの真理です。

そしてそれぞれに、真理のすがた(結果)と原因を見ることが出来ます。

この真理の見つめを

「四諦(したい)」

といいます。

「諦」

は今日では

「あきらめる」

と読まれ、途中で断念してしまうことの意味に使われていますが、本来の意味は

「あきらかにする」

ということで、ものごとを徹底的に見ること、真理そのものを指します。

つまり

「四諦」

とは、迷いと悟りに関する四つの真理を表したものなのです。

人はなぜ、この世において苦しみ続けなくてはならないのか(苦諦)。

それは欲望という煩悩に惑わされて、あらゆるものに執着し、真実を見ることが出来ないからです(集諦)。

したがって、その欲望を滅すれば(滅諦)

「涅槃寂静」

の悟りの境地が得られることになります。

ここに欲望を滅するための八つの正しい道(道諦)が説かれることになります。

これが仏教の根本原理である

「四諦・八正道」

で『律蔵大品』では、次のように説かれています。

苦しみを滅ぼした尽くした境地に入るには、八つの正しい道(八正道)を修めなければならない。

八つの正しい道というのは、

・正しい見解(正見)、

・正しい思い(正思惟)、

・正しい言葉(正語)、

・正しい行い(正業)、

・正しい生活(正命)、

・正しい努力(正精進)、

・正しい憶念(正念)、

・正しい心の統一(正定)。

これらの八つは、欲望を滅ぼすための正しい道の真理(道諦)といわれる。

さて、具体的に人生をよく生き抜くためにはどうすればよいでしょうか。

第一に、正しい人生観を持つこと、どのような人生を送ろうとしているのかを正しく見定めることです。

第二に、正しい人生を送るための心構えが求められます。

ここでは極力、

貪欲(とんよく)

瞋恚(しんに)

愚癡(ぐち)

といった三毒の煩悩が否定されます。

では、そのためにはどのようなことに注意しなければならないでしょうか。

第三に、正しい言葉使いが問題になります。

心がすぐ口に表れるからで、嘘や悪口、二枚舌やおべっかは言うべきではありません。

これら正しい思いと言葉でもって、正しい行為をすればよい、それが第四です。

殺すこと、盗みをすること、淫らな行為をすることは、最も厭うべき行為になります。

このように私たちの日常生活は、正しい心と口と身体のはたらきによってなされています。

私たちはいかによく生きるべきか。

つまるところ、ものごとを常に理性的に正しく判断し、倫理的に正しく生き、そして安らかな心が保たれていることが、私たちの人生で求められます。

では第五の正しい生活は、どうすれば可能でしょうか。

そこにものごとを正しく判断する智慧の目が必要になってきます。

そして正しさを遂行するために、確固不動の意志と、正しさを曲げない毅然たる態度が求められます。

心と言葉と行いが、正しきなければならないのは当然です。

第六の正しい努力とは、それらを可能にするためのはたらきを意味します。

努力なしには正しい生活は成り立ちません。

けれども、自分が信念を貫き正しい行為をしても、他の人々の心を傷つけたのでは正しい行為とはいえません。

ここに第七の、思いやりの心が必要になってきます。

確固不動の意志が、そのまま柔和忍辱(にゅうわにんにく)でなければなりません。

やわらかく穏やかで、他の意見を受け入れ、その人の気持ちになって考え行う。

正しい努力は、このような正しい憶念によってなされるべきです。

この一切が、第八の正しい心の統一によってのみ可能になるのです。

したがって八正道とは別々にあるのではなく、調和し関係しあって一つの

「正しい道」

を形成していることになります。

一つ欠けても八正道は成り立ちません。

そうだとすると、仏教者にとって

「正しい行い、正しい生活、正しい努力」

を真の意味で行うのはとても困難です。

ここに、親鸞聖人の説かれる

「愚か」

の心が、ここにいま一つ、どうしても必要になる理由があります。

先月の寒波で、日本各地で大雪とのニュースが流れていました。

先月の寒波で、日本各地で大雪とのニュースが流れていました。

私の住む地域も4〜5cmほど積もりました。

南国鹿児島ということもあり、こんなに積もった雪を見るのは、数年ぶりのことでした。

朝起きて窓を開けると、真っ白な景色。

驚くと共に、嬉しい気持ちになりました。

早速、外を歩くと雪に足跡が残る。

だんだん興奮してきて、童心にかえり(現在、28歳です…)雪だるまを作ったりしてしまいました。

しばらく雪を楽しんで、部屋に戻ります。

時間が経つにつれて、雪を楽しんでいた自分はいなくなろうとしていました。

なぜか?

実は、外出する用事があったのです。

雪の道路の運転は慣れていないので、急に不安になります。

ついさっきまでは、雪をコロコロ転がし雪だるま作りを楽しんでいた自分が、今は雪のことを嫌に思っている。

自分の都合で雪への思いがコロコロ変わっています。

勝手だなと、自分のことながら感じてしまいます。

ある本の中に

“夏が来れば冬がよいといい

冬が来れば夏がよいという

忙しいから用事ができない

忙しいから掃除ができない

たぶん忙しいから死ねないだろう”

とありました。

物事に対して自分中心の思い、自分の都合で行動する私

人と関わる際に、その場の気分や都合で接している私

の姿に気付かされます。

自作の雪だるまを見ながら、

「さっきまでは楽しんでいたなあ」

と、少し複雑な思いで自らを振り返るのでした。

『人はささいな言葉に傷つきささいな言葉で癒される』

はやいもので2010年も始まって1カ月が過ぎました。

あなたは、いかがお過ごしですか。

さて、私事ではありますが今年のお正月は特別なものでした。

といいますのも、卒業して以来20年ぶりに中学校の同窓会が行われたのです。

久しぶりに顔をあわせる人も多く、歳月の流れを感じさせられるものでした。

あなたは同窓会、参加されたことありますか。

名前を思い出せない人、顔すら変わってしまいわからない人など様々でしたが、楽しいひと時を過ごせました。

そんな中、お開き直前ひとりの女性から声をかけられました。

3年時のクラスメートでしたので、すぐに名前は思い出せました。

「チーちゃん」です。

しかし、当時のことはほとんど思い出せません。

そんな私に、チーちゃんは言うのです。

「中学2年生の時、転校して初めて声をかけてもらってうれしかった」と。

私は、チーちゃんが転校してきた記憶さえありませんでしたが、チーちゃんの中には20年間忘れられない出来事として記憶してもらっていたのです。

私は、少しうれしい気持ちでその会を終えることができました。

でも、よくよく考えると、これってすごく怖いことですよね。

たまたまチーちゃんがうれしい思い出であったから声をかけてくれましたが、これが嫌な思い出だったらきっと声さえかけてくれないばかりでなく、20年もの間ずっと恨まれ続けていたことでしょう。

もしかすると、そんな同級生もいるのかもしれません。

ただ単に、私が気付かないだけで。

まさに「ひと言」重みです。

あなたは、誰かの言葉に傷付いたり、逆に癒されたりしたことがありますか。

あなたは、誰かを言葉で傷つけたり、逆に癒したりしたことがありますか。

和顔愛語(わげんあいご・穏やかな顔と優しい言葉)で、日々過ごしたいものですね。

「念仏の教えと現代」2月(前期)

人間にとって心の安らぎがほしいと思うのは、そういう平常心の時ではありません。

なぜなら、平常な心が保たれているに時は、あえて欲しなくても安らかな心でいることが出来るからです。

ところが、私たちが心の安らぎを求めるのは、普通の時ではなく非常の時です。

けれども、最も安らぎを必要とするその非常の場合には、実はいかに努力をしても心は安らかにはなりません。

心が動転している時は、念仏をいくら称えても心は安らかにはならないものです。

例えば、事故や災害に見舞われた時など、そのような場では心が安らかになることはまずあり得ないのではないでしょうか。

しかし、私たちが本当に心の安らかさを求めるのは、まさにそのような非常の時です。

このような観点から、親鸞聖人は

「人間はいかに努力をしても、絶対的な安らぎを得ることは不可能だ」

といわれたのです。

私たちは、日々の生活の中に心の安らぎを求めるのですが、その心の安らぎを究極までつきつめてみると、人間には誰一人として絶対に砕かれない心の安らぎを持つことなどあり得ないというのが、

「心の安らぎ」

の求めに対する親鸞聖人の答えになります。

また

「人間である限り、正しい生き方をしなければならない」

これも人間として当然のことですが、仏教ではこれを

「善行」

といい、この善行に勤しむことこそが仏教の基本だといえます。

仏教の教えを簡潔に言い表した

「七仏通誡偈(しつぶつつうかいのげ)」

という偈があります。

七仏というのは、お釈迦さまがお生まれになるまでに過去世に六人の仏さま方が世に出ておられるので、お釈迦さまを含めた七人の仏さまということです。

このように、今まで過去世に七人の仏さまがいらっしゃったことになるのですが、その仏さま方が共通して人々に教えられたのが

「もろもろの悪をしてはならない。

もろもろの善はすすんで行いなさい」

ということです。

したがって

「善いことをして、悪いことをしてはならない」

これが、一切の仏教に共通する教えだといえます。

このような意味で、仏教の教えの根本は、ごく当たり前のことだといえます。

極めて簡単であって、よいことをして悪いことをしない、これ以外に仏教はないと考えればよいのです。

しかもこのことは、実は一切の人間に共通する、最も基本的な問題だといえます。