投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「介護の現場から世界が見える」(下旬)介護とは、当たり前の生活をお手伝いすること

そこで二つ目。

それは

「仲間がいる場所」

に出かけていくということです。

仲間というのは同じように年を取ったり、ボケがあったり、体に障害を持つ人のことです。

自分と同じ人がいる。

大変だけど、頑張って生きているじゃないかということで、こんな体だけど、自分ももう一回生きて行こうという気持ちになってくれる訳です。

専門家ばかりいても老人は生き生きしません。

だから病院にいる老人は、あまり元気になりません。

家に閉じこもらず、仲間のいる場へ出かける。

これがデイサービスセンター、デイケアセンターです。

あるいは私たちは宅老所と呼んでいます。

どんなに寝たきりでも、認知症があっても、そこに来ていただけば全然違うんです。

認知症はもちろん治りませんが、問題がなくなってニココニ笑顔が出てきます。

いくら寝たきりでも、車椅子に座って生活できない人はいません。

座ってご飯を食べて、排泄して、普通のお風呂に入るという生活作りをちゃんとやっていくと、目が輝いてきて、ボケと寝たきりのセットにはならないという人がいっぱい出てきます。

これまでは、病院で上を向いて寝ているのを何とかしてあげるのが介護だと思っていたけど、そうじゃないんですね。

寝たきりにしてはいけないのが介護。

年を取って体が不自由でも、だからこそ、時には外に出て、人とちゃんと触れ合う当たり前の生活にどれだけ近付けるのか、それが介護という仕事です。

認知症だと言われている人たちも、年を取って物忘れがひどかろうと、何とか自分らしく生きていきたいと一生懸命になっている人たちなんです。

だから、そのお手伝いをしてあげるというのも、今問われている介護の役割だと考えています。

自分の世界から出る。

独り言を言わなくてもいいように、みんなが訪ねていってあげる。

いい人がくれば、布団から出てくれるでしょう。

そして家から出て、地域へ出て行って、人と触れ合う。

そういう豊かで相互的な関係の中にいる人は、ボケも寝たきりも進行しないですね。

ボケも寝たきりもなくても、人間関係が乏しくなっていたり、家から出ないという人は、これはもう時間の問題だという風に考えていいと思います。

だから、ボケにも寝たきりにもならないために、今日来ていないお友だちに、ぜひこの話を伝えていただきたいと思っております。

『仏さまにお参りする時に、何か必要な持ち物がありますか?』

仏さまへのお参りの際に、まず必要な物は念珠(ねんじゅ)です。

数珠(じゅず)とも言いますが、浄土真宗では

「念珠」

という言い方が多く用いられています。

念珠には、僧侶がお衣を着けた時に用いる双輪(ふたわ)のものと、ご門徒の皆さま方も一般的に用いられる単輪(ひとわ)のものとがあります。

いずれも珠(たま)をこすり合わせてジャラジャラと音を出したり、手のひらで握りしめたりはしません。

また大切な法具ですので畳や床、椅子の上にじかに置かず、必ず適当な敷物の上に置くか、器の中に入れるようにして大事にあつかいましょう。

また、

「念珠の珠(たま)の数はいくつあるのですか?」とか、

「百八の煩悩の数と関係があるのですか?」

と、言うような質問を時々お受けしますが、材料となるその珠の大きさなどによって、自ずとその数も異なってきますので、特に一般的に用いられる単輪念珠では数に規定があるわけではなく、そこにこだわる必要はありません。

そもそも浄土真宗では念珠を、煩悩を滅するための道具として用いるのでもなく、また、読経や念仏の回数をかぞえるために使うものでもありません。

ただ阿弥陀如来さまに合掌礼拝するときの礼儀として用いています。

次に、門徒式章(もんとしきしょう)も必ずかけるように心がけましょう。

得度(とくど)をして僧侶となりますと、その証に袈裟を着けます。

得度をしていない人でも、袈裟に代わるものとして門徒式章を着用します。

門徒式章は、僧侶が法衣、袈裟で正装するのと同様に門徒の皆さま方が阿弥陀如来さまの前に出るときの正装です。

ですから、お寺でもご家庭でも、仏前にお参りされるときは必ずかけるようにしましょう。

またその取り扱いも念珠同様大切な法具ですので、大事にあつかいましょう。

最後にご紹介したいのは、お経の本です。

お持ちでない方は、お手次のお寺さんにご相談の上、一人一冊はぜひお持ちいただきたいと思います。

僧侶が使う経本とは別に、初めてご覧になられる方でも、どなたでも読めるような経本がございますので、お寺のご法座などで正しい読み方を習われ、できれば僧侶がいなくてもお勤めがご家庭のお仏壇などで出来るように、親しんで下さればと思います。

ちなみに

「お経を上げる」

ということは、他ならぬ私たち自身がお念仏のみ教えを聞き慶び、阿弥陀如来さまのお徳を讃えてそのご恩に感謝するための行為です。

ですから

「故人のための読経」

ではありません。

以前の事です。

以前の事です。

通勤途中…、毎日のことですが車が渋滞していました。

ふと、先に見える中央分離帯を見ると、何かチョロチョロと動いているのが見えました。

なんだろう????っと思いながら、渋滞中なのでゆっくりとその動く物体に近づいていくと…

!!!犬!!!です。

ただでさえ車が多い道路のわずかな中央分離帯(幅2m〜3mほど)

そこに、右にも左にも行けず、まさに右往左往しています。

私は¨どうしよう!?¨と悩んだのですが、何せ渋滞はしているものの車は確実に前へ進んでいます。

一瞬ためらいましたが、¨よしっ!¨と覚悟を決めて、中央分離帯に車を停車。

犬を捕まえようと追いかけると、犬はビックリして渋滞している車の方へ飛び出し、ピピッーっとクラクションを鳴らされ再び分離帯に・・・

犬も必死!私も必死!です。

私はイチかバチか自分の車の後部座席のドアを開け”おいで”っと呼んでみました。

そうしたら今までの格闘!?は何だったのだろうと思うくらいに、素直にぴょんっと座席に乗りました。

かなり座り慣れている!?様子です。

ほっと一安心。

車に犬を乗せたまま、車を発車!

とりあえず、職場へ向かいました。

職場の仲間に理由を話し、休憩室にプチ犬小屋を作りました。

犬をじっくり見ると、手入れがきちんとされているツヤツヤな毛並み。

っでも、首輪はしていません。

飼い犬だろうか?ノラ犬だろうか?みんなで会議。

(仕事しろっっ!!)

話し合った結果、近くの派出所に連絡して、飼い犬であれば飼い主が届けているかも!!っとなり早速連絡してみました。

結果は残念。。。

保健所にも連絡しましたが、

「届出はない」っとの事。

「保健所に連れて来て下さい」っと言われ、

「保健所=始末されてしまう!」っと勝手に思ってしまい、頭の中はパニックでした。

そこへ、たまたまラジオを聞いていた職場の同僚が

「今、ラジオで迷い犬のこと言ってたよ!このワンコの特徴に似てる」っと。

私は祈るような思いでラジオ局へ問い合わせして、飼い主さんに連絡をしました。

細かい特徴を伝えると”そうです。

そうです。

”とほっとした声・・・

ちなみに

「ワンコの名前は何ですか?」

っと聞いたところ”キララです”

私はワンコに

「キララ」

っと呼びかけると”ワン”っと返事をしました。

すぐに飼い主さんが迎えにきてくれました。

キララはしっぽをバタバタ!!大喜び!!

私はボロボロ大泣きでした。。。

飼い主さんはパン屋を経営されている方で、キララは看板犬だそうです。

昨日の夜に、お店を脱走!!!

過去にも脱走歴があるそうです。

飼い主さんに少し怒られているキララの姿を見ていると、一つの小さな命だけど(少しハラハラ、ドキドキしましたが)命の重みを改めて感じさせられました。

キララありがとう。。。

『大乗仏教』

親鸞聖人の主著『教行信証』の

「行巻」に

「真宗は大乗の至極なり」

とあります。

「乗」

というのは、乗り物のことです。

すべての衆生を乗せることができる大きな乗り物であることから

「大乗」

と呼ばれます。

しかもそれは絶対的な唯一の乗り物ですから

「一乗」

とも表されます。

また、乗せるということは、救うという意味にもとれますから、すべての衆生を救う唯一絶対の教法となります。

このような教えは仏(如来)の乗り物以外にはありませんので

「仏乗」

ともいわれます。

そして、その仏こそ阿弥陀仏なのです。

そうしますと、一切の仏教の中で、もっとも重要な法門こそが阿弥陀仏の誓いによって打ち建てられた浄土真宗の教えだということになります。

大乗仏教では、智慧と慈悲の実践者を

「菩薩」

と呼び、この大乗菩薩道の実践こそが大乗仏教の特徴だと示されます。

ところが、この菩薩道の実践は、凡愚にとっては極めて困難なことです。

曇鸞大師は、この世には既に仏がましまさず、世の中はまことに乱れている。

誰一人真実を見る目を持っていないから、菩薩道そのものが成り立たないと言われます。

道綽禅師もまた、今の世を末法時代だとして、真の救いは阿弥陀仏の浄土教によるしかありえないと教えられます。

親鸞聖人ご自身も『正像末和讃』に、

釈迦如来かくれましまして二千余年になりたまふ

正・像の二時はおはりにき如来の遺弟悲泣せよ

と、いかに末法の世には菩薩道の実践が成り立たないかを悲しんでおられます。

けれども、この悲しみの中で、一心に仏道を求められ、釈尊の真意を法然聖人から聞き、阿弥陀仏の

「浄土真宗」

のみ教えに出遇われたのです。

親鸞聖人はこの末法の世において、一声

「南無阿弥陀仏」

を称えること、その称名こそが一切衆生が仏果に至る唯一の仏道であり、

「易行の至極」

だととらえられます。

愚かな凡夫ばかりの社会では、もはや真の意味で仏道は成り立ちません。

愚悪なる者の仏道は、たとえその者がどのように懸命に善行に励んだとしても、その行為の一切が雑毒であり虚仮の行でしかありえないからです。

ではこの人間社会で、もし無限に輝く仏教があるとすれば、それはどのような仏の教えなのでしょうか。

教えそのものの中に、凡愚をして仏果に至らしめる、行業と証果の功徳の一切が含まれている、そしてその

「教」

が大行となって、無条件で凡愚の心に来たり、凡愚を直ちに仏果に至らしめる、そのような仏教だといえます。

「南無阿弥陀仏」

とは、まさにその

「大行」なのです。

だからこそ、私たちが称える一声の念仏が、仏果に至る

「易行の至極」

ということになるのです。

仏教者の願いもただ一つだといわねば成りません。

それは自らが無上仏になることです。

この願いは仏道者である限り同じであって、菩薩は言うに及ばず、いかなる凡愚も無上仏になることを願うのです。

ところで、いまその無上仏が

「南無阿弥陀仏」

という言葉となって、私の心に聞こえてきたのです。

その声は無上仏の、私を仏にせしめるための願いです。

「南無阿弥陀仏とたのめ、あなたを無上仏にせしめる」

という仏の呼び声が、私の心に響いているのです。

しかも私自身も心から仏になることを願っています。

とすれば、私もまた

「南無阿弥陀仏」

と称えつつ、南無阿弥陀仏に一切をまかせる以外に、私の仏道はありえなくなります。

この仏からの

「南無阿弥陀仏を称えよ」

という願いが、阿弥陀仏の大信心であり、信楽なのです。

そして、その仏道とは

「南無阿弥陀仏」

のみだと私が信知する時が私の獲信の瞬間であり、まさに仏果の定まる時です。

親鸞聖人は

「真宗」

の念仏者として、法然聖人の

「ただ念仏」

の教えのみに生きられたご一生であったとうかがえます。

そこには何のはからいも力みもみられません。

自らもたんたんと人々に念仏を勧められた、ただそれのみです。

人生の苦悩に打ちひしがれた多くの人々が、この教えに導かれて心から喜びを生きる光を得て、各々が念仏者としての仏道を歩いているのです。

とすれば、法然聖人も親鸞聖人も、愚かなる凡夫道のただ中にありながら、まさしく智慧と慈悲に輝く大乗菩薩道を邁進された方々だといえます。

そしてこれこそが

「真宗は大乗の至極なり」

といわれる念仏の大道の意味だと窺い知られます。

『人はささいな言葉に傷つきささいな言葉で癒される』

「血が出たら痛いってわかるのに、さっきな、おれ言葉でケガしとるんやわ」

これは、ある少年の詩です。

おそらく、誰かにひどい言葉で傷つけられたのでしょう。

私たちは、それが故意・不注意のいずれにせよ、他人にケガをさせて、その人が出血したり、ひどいときには骨折などしてしまったときには、その痛ましい姿を具体的に目にすることが出来るだけに、深く反省したり、お詫びの言葉を口にすることも可能です。

ところが、言葉で傷つけてしまっても、そのことを相手が口にしてくれなければ、なかなかその事実に自ら気付くということはありません。

また、身体的な傷は医療技術や時間の経過が癒してくれるものですが、言葉の傷は特効薬などないだけになかなか治りにくいものです。

その一方で、私たちはさりげない一言がとても嬉しかったり、時には自分の一生を決定付けるような言葉に出会うことさえあったりします。

あるいは、自分では特に意識しないでかけた言葉であっても、聞いた人の心の琴線にふれて、その人の心を癒したり、大きな力になっていたりすることもあります。

同じ言葉であっても、他の人を傷つけたり、癒したりすることがあるのは、表現は同じであっても、その人との関係性で受け止められ方が異なっていたり、聞く人の思いや心の状態が様々であるからです。

時折、テレビドラマなどで耳にする

「死ぬほど好き!」

という言葉。

愛する人から言われると嬉しいものですが、それが見知らぬ人からの突然の告白だったりした場合、聞きようによっては

「自分を好きになってくれなかったら、死んでやる!」

といった

「死をほのめかした脅迫?」

と取れないこともありません。

また、そういう人からいきなり

「いつでもあなたを見つめています」

などと言われたら、思わず

「ストーカー宣言?」

と恐怖すら感じてしまうのではないでしょうか。

このように、愛のメッセージもひとつ間違えば犯罪にもなりかねません。

そうすると、日頃、何気なく使っている言葉でも、聞きようによっては相手に全く違った意味にとられていることがあったりしているかもしれません。

反対に、何気ない一言が誰かの人の心を癒したり、生きる勇気を与えていることがあったりしていることもあるでしょう。

人間が他の生きものと決定的に違う点は、言葉を持ち、その言葉を使ってものを考え、お互いを理解し合っていることです。

言葉は、ひと度使い方を誤ると、凶器にさえなりかねません。

けれども、真心を持って語るとお互いの絆を深め、心を豊かにしてくれます。

あなたは、日頃何気なく口にしている言葉が、時には人を傷つけているかもしれないこと、そして生きる勇気となっていることに…、気が付いていますか。

「念仏の教えと現代」2月(中期)

では、なぜ人間は

「善」

をなさなくてはならないのでしょうす。

それは、人間は一人では生きていけないからです。

仲間と共に生きるためには、自分勝手な行動は許されません。

そこで、善行が求められることになるのですが、ただそれだけではありません。

これは、自分達の日常の生活を考えればよいのですが、日常生活の中で、一番気持ちのよい時はどのような時かと言えば、おそらくそれはお互いが他のために、一心によいことをしている時ではないでしょうか。

人間にとって、最高の生きがいは、よいことを積み重ねていくことの中にあるといえます。

誰でも、自分の心の中には、必ずよいことをしたい、よい生活をしたい、人のために尽くしたいといった、善行に励む心を基本的に持っているといえます。

よいことをしたいという心を根底に持って、人生を過ごしているといってもいいと思われます。

そして、極めて積極的に、その善い行いをせよと説いているのが仏教だといえます。

ところが、それが人間の心だとすると、ここに大きな矛盾が生じます。

「お互いがよい行いをし、よい行いをすることの中で喜びを感じ、生きがいを見出している」

そういう人間が集まって私たちは社会を作っているはずなのですが、そこでいったい何をしているかというと、常に争いを繰り返しています。

これはなぜなのでしょうか。

私たちは、なぜよい行いをすることに喜びを感じながら、にもかかわらず争い、お互いが傷つけあって生きなくてはならないのでしょうか。

ここで、私たちは自分が行っている

「善」

そのものを見つめ直す必要に迫られます。

私たちは確かによい行いに励んでいるのですが、よく見ると、その善の中心に常に自分を置いて、自分にとって都合のよい行為を

「善」

と錯覚しているのです。

いわば、自己中心的な善が行われていることになるのです。

例えば、自分を中心に円を描いてみると、自分に一番近いのが子どもや親などの家族です。

そして、円の中心が少し広げられて、兄弟姉妹や仲間がいます。

そういう中で、お互いがよい行いをしようとすることは可能です。

ただし、最も親しい夫婦の仲であるとか、親子の仲であっても、もし自分のよいと思っている心が相手に拒絶されたような場合は、これは決定的に腹をたててしまうことになります。

ここに争いの原因が見られるのですが、仏教で善をなせというその善は、争いの原因になるような、自分勝手な善をなせといわれている訳ではありません。