投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

『どんな歩みでも無駄にはならない』

少し時季外れかもしれませんが、昨年末の忘年会の折り、乾杯の挨拶をされた方の言葉が、今でも印象深く心に響いてます。

その内容はと申しますと…、

『今年1年を振り返りますと、苦しかったこと、辛かったこと、もう思い出したくもないようなことなど、皆さんの中にもいろんな出来事があった1年ではなかったでしょうか。

忘年会では

「そのような嫌なことはお酒を飲んで、今日で全て忘れてしまいましょう」

という言葉はよく聞きますが、そう簡単に忘れることが出来ないのもまた、私たちではないでしょうか。

むしろ「忘れ難い大切な経験であったなぁ」

と振り返りながら、そのことを糧に、これから迎える新年に対して希望を抱く“望年会”としていきましょう、乾杯!』

「なんと素敵な挨拶なんだろう」

と思いました。

そしてまた、人間という姿の実態がこの言葉の中に凝縮されているようにも感じました。

良い思い出、悪い思い出。

但しそれは自分の心と判断で、都合良く自分が決めつけてしまっていることなのかもしれません。

その時は辛い体験であったことが、時が経ち思い返してみると、

「あの時があったからこそ」

と、いつしかそれが

「かけがえのない貴重な体験であった」

と振り返ることも、私たちには多くあったりするのではないでしょうか。

「浄土真宗の生活信条」の二番目に、

『み仏の光をあおぎ、常にわが身をかえりみて、感謝のうちに励みます』

とあります。

ついつい

「自分の思うがままにあってほしい」

と願う私に、阿弥陀さまの智慧と光は、私の醜い実態を映し出し、

「お前それでいいのか?」

と厳しく自分を問いただしてくださっているようです。

どのような人生の歩みであっても、その一つひとつが私にとっては大切なご縁であり、その一つひとつの点と点はやがて一本の線となり、今の自分へと繋がっています。

辛い歩みも決して無駄なものではなく、そこを歩む中に見えてくる視点を大事に受け止めたいものです。

「念仏の教えと現代」3月(前期)

私たちの世界の全てが、無常であり無我であるということは、一応頭では知っているのですが、にもかかわらず自分だけは幸福に生きることができると思っているのもまた確かな事実です。

けれども、自分だけは幸福に老いを得、自分だけが幸福な死に方が出来るのだと思っている間は、無常の真理を知り得ているとはいえません。

それは、自分の心が自分の真の人生に反逆していることになるからです。

改めて言うまでもなく、私たちの人生は老病死の方向に流れているのですが、その一方で私の心はむしろ私を逆の方向に進むことを願っています。

具体的には、私たちは老いの中でも若さを保つことを願い、病いの中にあっても安らぎを得ることを願い、たとえ死を迎えたとしても本当に輝かしく明るく、そして喜びをもって死ねることを願っているのだとすれば、それはむしろそのことがかえって自分自身を本当の意味で苦しめることになるのだと言わざるを得ません。

そこで親鸞聖人は、人間はつまるところ、幸福を求めながら現実には一人で惨めに死んでいかなくてはならない、これが私たちの偽らざる人生の相だといわれるのです。

これは『教行信証』の化身土巻に引用されているのですが、その中に現代の占いなどが説いている星占いのようなことが書かれています。

また、この世の中には無数の神々がましますが、多くの神々はそれぞれ人々に幸福をもたらすということが述べられています。

そこで人々は、自身の幸福を得るためにその神々に祈りを捧げることになるのですが、実は親鸞聖人は神々が人々に幸福をもたらすという事態に対しては、あえて否定してはおられません。

いろんな神々が人類に幸福をもたらして下さるのであれば、それはまことに結構なことに違いないからです。

では、人々が神々によって幸福をたくさん与えてもらったとして、その人は最後にどのような結末を迎えるのかということを親鸞聖人は極めて重要視されます。

何故なら、多くの幸福をもらった人が最終的にたどり着く姿は、等しく老いて病んで、そしてついにはどうしようもない醜い姿になって死んでしまう、あの天人の臨終とあまり変わらないからです。

つまり、どれほど神々に祈りを捧げ、幸福な人生を過ごせたとしても、最後にはそのような痛ましい姿しか残らないのだということを直視せよと、親鸞聖人は私たちに教えておられるのです。

「ひらけゆく人生」(上旬)欧米では日曜の朝を礼拝で迎える

======ご講師紹介======

中西智海さん(本願寺派勧学)

☆演題 「ひらけゆく人生」

昭和9年、富山県氷見市に生まれる。

昭和36念に龍谷大学の大学院文学研究科博士を修了。

昭和63念に大阪の宗門関係の学校である相愛大学・相愛女子短期大学の助教授、教授を経て学長に就任、以後6年間勤められました。

平成7年に京都の中央仏教院長に就任。

僧侶育成に努めるかたわら1年間ブラジルの南米開教区開教え総長を兼任。

現在は相愛大学名誉教授、本願寺派勧学をお務めです。

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仏教とは、この私の2度とない人生といのちを正しく見ることです。

私は龍谷大学1回生のとき、深浦正文という仏教学の先生に教わったんですが、その教えというのが

「仏教というのは、曲がった木は曲がった木、まっすぐな木はまっすぐな木だと、ありのままに見ることだ」

ということでした。

仏教は、たったこれだけなんです。

しかし、人間というのは欲望によって物事の見方が全て自分中心になってしまうんです。

自分のいびつさ、未熟さ、間違いというものに、自分から気付くことがなかなかできません。

他人や世の中、あるいは時代のせいにはしても、自分が悪かったとはなかなか言いませんね、

仏さまの教えは、特別な人のための難しい教えではありません。

親鸞聖人は全ての人に開かれた教えだとおっしゃっておられます。

これは、自分の欲望、自分の基準、自分の色眼鏡に当てはめて受け取るものじゃありません。

反対です。

人間の欲望のために宗教があるのではなくて、欲望を見つめ直すために宗教があるんですよ。

さて、人間が生きるためには何がなくてはならないでしょうか。

と、このように問いますと、たいてい、そんなものは衣食住に決まっているじゃないかと答えられるでしょう。

確かに、それも間違いじゃありません。

生きるために衣食住は必要ですよ。

でも、ただ食べることが出来れば、それでいいんでしょうか。

もし、衣食住が足りるだけで幸せなら、物がたくさんある現代に生まれて有り難い、幸せだと誰もが思っているはずですよね。

でも、実際はそうじゃない。

今は1年間で3万人も自死する人がいる世の中です。

衣食住さえあればいいとは、とても言えません。

私は仏教と出遇わせていただいて、人間にとって生きるために必要なものは、本物、本当ということを追求することなんだと学ばせていただきました。

宗教を離して考えても、人は本当ということを追求してきたといえます。

昔の小学校の先生は子どもたちに

「学校は本当ということを教える所だ」

と教えていました。

いわば真理を追究して学ぶ所が学校だということです。

それで、学問をして知性を磨き、芸術を教えて感情を育み、倫理道徳を形成していのちを高めてきたんじゃないですか。

この学問・芸術・倫理道徳を学ぶことを、それぞれ真・美・善の追究と言います。

人類はこのように、ただ衣食住だけが目的だったのではなく、本当を求めてきたわけです。

しかし、その真・美・善の追究の他にもう一つ、学校では教えてもらえない

「聖」

という価値があります。

41歳のとき、初めてアメリカに行ったんですが、日曜日の朝はどこのお店も閉まっていました。

聞いてみたら、教会で礼拝しているとのことでした。

欧米の人にとって、日曜日は聖日。

1週間の始まりとなる日曜日の朝が礼拝で始まるわけです。

これはキリスト教でもイスラム教でも聖日として大切にされています。

この聖日とは何の日かというと、いのちを見つめ直す日なんです。

『浄土真宗』

今日わたしたちは、親鸞聖人のみ教えをいただく者の集まり(教団)、すなわち宗派の名称として

「浄土真宗」

という言葉を用いていますが、親鸞聖人は

「浄土真宗」

をこれとは違う意味で示しておられます。

親鸞聖人の主著『教行信証』を窺うと、

「教巻」の最初に

「謹んで浄土真宗を按ずるに、二種の廻向あり。

一つには往相、二つには還相なり。

往相の廻向について真実の教行信証あり」

とあります。

この文は、浄土真宗とは何かを端的に示された非常に重要な箇所で、

「浄土真宗」と

「二種の廻向」

という言葉は、親鸞聖人の思想の根幹になるものだと考えられます。

親鸞聖人は、まさにこれこそが

「真実」

だということを、この言葉を通して示されているからです。

では、浄土真宗とは何か。

「浄土」

に対応する言葉は

「穢土」です。

それは、私たちの住むこの娑婆国土を意味します。

また

「真宗」

というのは、無上の教えと捉えられます。

そうしますと、もし

「浄土の真宗」

があるのなら、

「穢土の真宗」

があってもよいと思われますが、

「穢土の真宗」

とは何でしょうか。

それは、釈尊の説かれた仏教がまさしくそれだといえます。

したがって、釈尊の説かれた仏教に対して、浄土の仏教があると見ることが出来ます。

このように見れば

「謹んで浄土真宗を按ずるに」

という言葉は、

「謹んで阿弥陀仏の教えを按ずるに」

と読むことが出来ます。

すなわち

「浄土真宗」

とは阿弥陀仏の教法そのものなのです。

そして

「浄土真宗に二種の廻向あり」

と言われます。

これは、阿弥陀仏の仏教は二種の廻向から成り立っているということです。

では、その二種の廻向とは何でしょうか。

一つは、衆生を浄土に往かしめる廻向(往相廻向)、いま一つは浄土に生まれた衆生を再び穢土に還らしめる廻向(還相廻向)です。

この二種の廻向によって、阿弥陀仏の仏教は成り立っています。

そしてここに、親鸞聖人の思想の根拠があります。

この阿弥陀仏の教法は、総序において

「難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」

と簡潔に示され、阿弥陀仏の教法が説かれた『仏説無量寿経』こそが真実の教えだと述べられます。

そしてこの教えこそ、末法の時代においても衆生を仏果に至らしめる唯一の仏教であると見らます。

では、その阿弥陀仏の往相廻向の教法とはいったい何なのでしょうか。

それは、私たち凡夫を往生せしめるための、教と行と信と証を廻向する法です。

教えとは、釈尊の説法のことですが、その教えは一切衆生を浄土へ往かしめるために、阿弥陀仏が釈尊を通して浄土の真実を説かしめたものです。

故に、真実の教えとなります。

ここに往生廻向の

「教」

の意味があります。

「行」

は阿弥陀仏が名号となって直接に衆生を救済して下さる働きをいいます。

これを大行と呼びます。

ただし、その真実を私たちに教えてくれる教法がなければ、その大行は私たちには伝わりません。

「南無阿弥陀仏」

の真実を、私たちに語る教法がなければならないからです。

その教えは釈尊によって説かれていますので、この釈尊の行為がまた

「真実の行」

となります。

釈尊によって説かれた阿弥陀仏の大行を、そのごとく信じることが

「信」です。

ただしこれは、この私を救おうとされている阿弥陀仏の大悲心(大信)が私の心にきたるということですから、その信は大行と大信を廻向されて生じる心となります。

ですから、信じている信そのものが廻向されたことになるのです。

この信が私に成立すること、それを獲信と呼んでいますが、獲信のその瞬間に阿弥陀仏の心に摂取されている自分が信知させられるのですから、その信はそのまま

「証」

に至ることになります。

したがって、証そのものがまさしく阿弥陀仏の廻向になるのです。

このように、教・行・信・証のすべてが阿弥陀仏の廻向法によるものなのです。

親鸞聖人の示された

「浄土真宗」

の意味とは、このようなことだといえます。

『人はささいな言葉に傷つきささいな言葉で癒される』

私は、某日居間のテーブルに置いてある、熱いお茶の入った湯のみ茶碗を、新聞を取ろうと手を伸ばした弾みに、湯のみ茶碗ごとお茶を床にこぼしてしまいました。

その時発した言葉は

「まったくこんな所に置いとくから、こんなことになるんや。

誰や湯のみ茶碗をこんな所に置いたのは」

と自分の非は棚に上げて、声を荒げて言い放つや間髪を入れず、発した妻の言葉は

「周りも確かめず、手を伸ばしたあなたが悪い」

と来ました。

これが、発火点となりストレス発散も兼ねて、大いに口喧嘩を楽しんだ(?)のです。

この時は、頭に血が昇っていて冷静さを失っていたわけですが、よくよく考えて見ると、何ともささいな事と反省させられました。

茶碗をひっくり返したその時

「しまった。せっかく熱いお茶を入れておいてもらったのに、粗相をしてごめん」

の一言が出ていれば、

「熱かったでしょう。火傷はしなかったですか。そこに置いた私が悪いでした」

と、妻も応じてくれたであろうにと、後悔先に立たずの苦い経験であったことは言うまでもありません。

このような類の事例は、形こそ違え再三再四ありうる事であるだけに、今一度この標語を読み返してみては如何でしょう。

あなたの一言が、相手の人生を変えさせることになるかも知れませんね。

それほど、言葉のもつ意味は大きいのだと思います。

「念仏の教えと現代」2月(後期)

仏教で

「もろもろの悪をしてはならない。

もろもろの善はすすんで行いなさい。

という場合には、自分を中心にした善悪ではなく、本当に仏法というのを基準にした善と悪、その法にしたがっての善が求められているのです。

そうすると、自分を中心にした善行をなすことは可能なのですが、一切の人にとって平等になる、自分や自分の家族、仲間の利益を後にしてでも他を救うような善をなすことが求められたとすると、そのような善の実践はなかなかなしえなくなります。

ここに本当の意味での仏道を歩むことの困難さがあります。

善を行おうとして、それが出来ない自分の姿がここに露になってくるのです。

したがって、本当に世界を平和にするような善をお互いがもとめられながら、実際にはむしそれとは逆の、かえって争いの原因を作るような行為をしてしまうのです。

そうだとすると、人間には善は成し得ない、それが自分の姿だということになります。

親鸞聖人は、第一の心の安らかさに対して、人間は究極的には安らかになれないとされたのですが、第二の善をなさねばならないということに対しても、そういう真実の善は自分には出来ないという心が、親鸞聖人の中に今ひとつ生じました。

そうすると、最後の幸福な生き方がもう一つ問われることになります。

これはすでにお釈迦さまが答えを出しておられます。

既に述べたように、生という面からのみ人生を見ると、幸福をどこまでも積み重ねていくことが出来ます。

老いの中でいかな幸福に生きることができるか、老いの中でもこのように素晴しく生きることが出来る。

また病にかかっても、このように病を克服することが出来る。

そして、お互いにこういうような安らかな死を迎えようではないかと。

確かに、諸行は無常であり、諸法が無我であり、涅槃寂静だというような心になることができて、仏さまと同じような心の状態になることが出来れば安らかな心を得ることが出来ますし、本当の意味での幸福をつかむことが出来るかもしれません。

けれども、たとえどのようにバラ色に彩られた老病死が語られたとしても、お釈迦さまは悟りの境地に至ることの出来ない者にとって、この世の中は

「一切皆苦」

であると説かれます。

人生がなぜ一切皆苦であるかというと、私たちは自分たちのこの世界の一切が無常であり、無我であるという真理を、実は本当に知り得ていないからです。