投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

『どんな歩みでも無駄にはならない』

私たちはどのような生き方をしていても、失敗することもあれば、成功することもあります。

しかし、それがどちらになったとしても、自分の生きている事実そのものが

「空しくない」

という生き方は出来ないものでしょうか。

一般に、私たちは人生を生まれてから死ぬまでの

「長さ」

として考えやすいのですが、人生の本当の意味はそういう長さにあるのではなく、

「深さ」

にあるのではないでしょうか。

もし、人生が長さとしてだけしか考えられないとするなら、何らかの失敗に直面すると、そのことで人生そのものが切断されたような思いに落ち込んでしまうものです。

けれども、実は長さではなく深さなのだとすると、努力してしかも失敗したということを契機として、人生におけるさらに深い世界に目が開かれるということがあったりするものです。

では、人生の無限の深さに目を開いて行くような道とは、いったいどこにあるのでしょうか。

それを今、仏教で使われている

「修行」

という言葉で言い表されている在り方の中に見出すことが出来ます。

修行とはこの場合、座禅を組んだり、断食をしたり、滝に打たれたり…といったことを指すのではなく、言い換えとると彼方に何かを求めて行くことではなく、刻々に努力を重ねてゆくことによって、自らの身を修めて行くことです。

もし、そういう在り方が日々の生活の中で出来るとするならば、たとえ仕事や事業、あるいは就職、受験などに失敗したとしても、そこでそれまでの努力が砕け散ってしまうのではなく、失敗したことが自分にとって大きな意味を見出させる一つの契機になってくるということがあります。

ところが、人生を長さだけでしかとらえられないままでいると、それまで努力してきたことが報われなかった場合、それまでの自分の全ての努力は水泡に帰したという、絶望の中に追い込まれしまうこともあるのです。

その一方、人生そのものが修行の場であるという視点に立つことが出来れば、人生の中の失敗が、ただ単なる失敗に終わるのではなく、そのことが私たちを人生の深みに目を開かせてくれるのです。

このように、人生そのものが修行ということになれば、少なくとも私たちの人生が

「空しい」

ものになることはありません。

「必要にして十分な人生」

という言葉がありますが、失敗したということが私の人生に新しい意味を見出すために必要なことであった、悲しみは私を育てるものとして決して無駄なものではなかったということが言えるのだと思います。

考えてみますと、私たちの人生は単なる喜びだけが願わしいものとは限りません。

喜びと楽しみだけが人生の意味ではないのであって、悲しみがあり苦しみがあり、悩みがあり絶望がある。

そういうもの全体が、生きて行くということの意味を見開かせてくれるのだといえます。

そうだとすると、そのような人生においては、失敗ということはないのでしょうし、悲しみというものも、ただ悲しみたげに止まることはないと言えます。

なぜなら、私の人生にあるものは、すべてが必要なものであり、十分なものであると頷けたとき、私たちの人生は

「どんな歩みでも無駄にはならない」

ことを実感できようになるからです。

「念仏の教えと現代」3月(中期)

幸福をもたらす神々に私たちは必死にしがみついて、しかも最後はその神々にいとも簡単に裏切られることになります。

それも、神の力を今こそ必要とするまさにその時に、無情にも神に裏切られることになるのです。

ここで、最大の問題が残ることになります。

それは

「臨終」

ということが中心になるのですが、そのような臨終を迎えた人間にとって、究極的なみじめさ、どうしようもない哀れな姿で苦悩し、耐えがたいような苦痛の中に自分自身が落ち込んでいたとしても、その自分が無限の安らかさを得ている、あるいは破れることのない安らかさ、自分自身が無限に輝いている心に成ることが可能なのかどうか。

そのような心に至る道は、いったい有るのか、無いのかということです。

このような意味で、親鸞聖人が究極的に求められた仏道とは、まさにその無限の安らかさ、輝きの中に生きる道は何かということであったのだといえます。

そして、ここで出遇われた宗教こそ、親鸞聖人によって説かれている

「念仏の世界」

だと見ることができるのです。

これは自らの死に直面して動転している心が、そのまま無限の安らかさを得る、その可能性を問うことになるのですが、ここで私たちは自分の心に一つの問いを起こす必要があります。

それは、自分が本当に信じることが出来るもの、自分自身の全てを完全に任せることが出来るものは何かという問いです。

自分がたとえどのような状況に陥ったとしても、従容としてこの自分そのものの全て任せてしまう、言い換えるとそのものの心の中に飛び込んで行くことが出来る、

「そのもの」

とはいったい何かということを真剣に問うのです。

ここで私たちは、いま自分は全宇宙の中で、その一点として存在していることに気付くことが大切です。

これは、空間の全てと時間の全てに包まれて、全体の中のこの一点に自分がいるということです。

その自分が、もしこの自分の全てを任せることが出来る、そのようなものがあるとすれば、それは何かということが今問題になっているのです。

この願いが成り立つ可能性はただ一つ。

それは、宇宙そのものの根源、まさに宇宙そのものの願いといっても良いのですが、宇宙そのものが持っている願いの根本と、私自身の願いの根本がまさに完全に一体になる、そのような自分が生まれることによってのみ可能になるのではないかと思われます。

「ひらけゆく人生」(中旬)人間だけが偉いんですか

いのちと言えば、人間だけじゃない、動物もいのちです。

私は学校で、苦悩は人間だけで、動物には苦痛はあっても苦悩はないとか、道具と火を使うことが人間の特徴だと習いました。

ところが、テレビなどを見ておりますと、猫がノイローゼになったり、チンパンジーがナイフとフォークを上手に使って料理を食べるといった映像が流れたりします。

人間と動物の差というのは、どこにあるんでしょうね。

仏教では

「一切衆生」

と言いまして、人間だけが特別偉いという考えはありません。

西洋の思想では、動物や植物は、人間が食べるためにあるという考えがあります。

人間は理性があるから特別な存在で、他の動植物は理性がないから値打ちが下だということらしいですが、人間だけが偉いんでしょうかね。

仏教では、そういういのちに差をつける見方はありません。

インドに

「サットバ」

という言葉があります。

生きとし生けるものという意味なんですが、これは人間だけを示しているわけじゃありません。

動物も植物も、全部含まれています。

この言葉が中国で漢訳されて、仏教の

「衆生」または「有情」

という言葉として、いま私たちに伝わってきているんです。

この何がすごいかというと、人間から害虫まで全てのいちのをただ

「サットバ」

と一言で表してしまった。

つまり、全てのいのちに差がないということですよ。

仏教はこんなすごい理想があるのに、日本人はそれを使わず、西欧にならって理性があるからどうとか言う。

理性が悪いとは言いませんよ。

ですが、仏教では、その理性の危うさも教えてくれるんです。

親鸞聖人のお言葉に、

「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひをもすべし」

というのがあります。

時と場合によっては、縁があったら何をするかも分からない。

その

「かも分からない」

ところまで見抜かせていただくのが、本当に人間を見たことになるんじゃないですか。

また、いのちを考えるとき、それは身と心の両方から見ていかないといけません。

人によっては、宗教あるいは仏教は精神論だ、心だけの問題だというかもしれません。

ですが、親鸞聖人はそんなことは一言もおっしゃっておられません。

仏教には

「煩悩」

という言葉がありますが、それについて聖人は

「煩は身をわづらわす。

悩はこころをなやますといふ」

と説いておられます。

つまり、仏教が生きる上で問題とする煩悩は、心身の患いだということです。

また、

「信心歓喜」

という言葉がありますが、これについても

「歓は身をよろこばしむるなり、喜はこころをよろこばしむるなり」

とあります。

いのちが抱える煩悩も歓喜も、この私の身と心にかかってくるものだと親鸞聖人は書いておられるんですよ。

さらに、生だけではなく、死も見ていかないと、いのちの問題は解決できません。

今こうして私たちは生きていますが、生きているのが当たり前だと思ってはいませんか。

「ひょっとしたら事故や病気で死ぬかもしれない」

と思っている人はいるでしょう。

しかし、

「死ぬかもしれない」

ものなんでしょうか。

逆ですよ。

生まれたものは絶対死にます。

「ひょっとしたら」

死ぬんじゃない。

必ず死ぬんです。

生きているのが当たり前だと思うから、嬉しさもないし感激もないんですよ。

死は必然なり、生は驚きなり。

必ず死すべき者が、今朝目が覚めた。

それは

「有り難い」

ことなんです。

今あることの驚きを知り、人間の知恵、知識、思いはからいを超越したその不可思議に目覚める。

それが仏教です。

『お仏壇のお飾りにはどのような仏具が必要ですか?』

お仏壇の普段のお飾りは三具足(みつぐそく)と呼ばれる仏具をお供えします。

これは

・花瓶(かひん)

・金香炉(かなごうろ)

・蝋燭立(ろうそくたて)

の3つで一組と考えるお飾りです。

ご本尊に向かって左側に花瓶、真ん中に香炉、右側に蝋燭立を置きます。

特別な場合(報恩講・祥月命日法要・御遷仏法要など)には、この三具足に花瓶と蝋燭立を1つずつ加え、五具足(ごぐそく)というお飾りをします。

ご本尊に向かって、中央に香炉、その両側に蝋燭立一対、両端に花瓶一対を置きます。

花瓶に備える仏花ですが、これは阿弥陀如来さまのお徳を讃え、そのご恩に感謝する気持ちを表しています。

短く儚い一生であるにもかかわらず、そのいのちを精いっぱい輝かせている花。

この花の姿を通して、すべてを生かし育んで下さる阿弥陀如来さまのいのちにふれさせていただきましょう。

そして、清らかな花からお浄土を想い、安らかな気持ちで阿弥陀如来様のお慈悲を味わいたいものです。

なお、お仏壇にお供えする花は造花ではなく、四季おりおりの生花をお供え下さい。

また毒花やトゲのある花、悪臭を放つ花などは避けるように心掛けましょう。

蝋燭立のローソクの火には、2つの意味があります。

一つは『光』です。

光は、阿弥陀さまの智慧を象徴し、迷いの闇をくまなく照らし、真実に向かわしめる智慧の光明を意味しています。

もう一つは『熱』です。

これは阿弥陀さまのお慈悲を表し、その熱の温もりが私たちの心をあたため、解きほぐして下さることを意味しています。

なお、一般に平時や悲しみの時には白、慶びの時には赤の蝋燭を用います。

香炉にたくお香は、そのかぐわしい香りによって私たちはすがすがしい気持ちになり、心身ともに落ち着くことができます。

そのお香のかぐわしい薫りが漂うと、そこに居合わせた人々は清らかなお浄土を想い、またすべてに区別なくゆきわたるお香の薫りから、阿弥陀さまのわけへだてなく注いで下さるお慈悲の心に触れることが出来るのです。

『阿弥陀仏』

阿弥陀仏は、浄土教徒にとってのご本尊で、私たちし念仏者はこの仏に帰依し、この仏に救われるのです。

「阿弥陀」

とは、古代インド語の

「アミターユス」

「アミターバ」

という言葉の音を、中国でそのまま漢字に写したもので、阿・弥・陀という漢字には意味がありません。

原意をたずねると、

「ア」は否定の「無」という意味、

「ミター」は「量」を示す言葉ですから、

「アミター」は「無量」という意味になります。

これより

「アミターユス」は「無量寿」、

「アミターバ」は「無量光」

を表すことから、

「阿弥陀仏」は

「無量の寿命と無量の光明」

という無限の功徳を有する仏ということになるのです。

仏教では、

「光」

を非常に重視します。

それは、光が闇を破るからで、闇は

「心が暗闇だ」

という表現からも窺えるように、ものごとが見えず、惨憺たる状態で、迷い苦悩する無智なる心を象徴しています。

したがって

「光」

は、その迷妄を破る力となり、悟りの智慧を象徴しますから

「無限の光明」は

「完全なる智慧」

という意味になるのです。

光は瞬間的に空間の暗闇を突き破ります。

その光が無限であれば、この世における一切の闇は、この光にくまなく突き破られていることになります。

いま、阿弥陀仏の智慧という面からこの点を窺いますと、阿弥陀仏は完全なる智慧でもって空間の一切を見通し、この世における真実と不実のすべてを露にし、何が真実であり何が偽であるかを見極めておられるといえます。

ここに不実な心で迷い苦しんでいる衆生がいるとします。

衆生の存在が、宇宙のどこであっても、それは問題ではありません。

たとえどんな辺鄙なところであっても、阿弥陀仏は無限の智慧の目でもって、その衆生をすでに見通していることになるからです。

ところで、迷い苦悩する者を見出し、その者をそのまま捨ておくのであれば、それは単なる知的発見でしかなく、完全なる智慧とはいえません。

智慧が完全であるということは、苦悩する衆生を見出したその瞬間に、みずからが衆生の心に飛び込んで、苦悩を救おうとする

「慈悲」

が、この智慧から必然的に生まれなければなりません。

完全なる智慧は、完全なる慈悲心を有してこそ、完全なる智慧なのであり、いかなる者をも救う慈悲心には、必ず完全なる智慧が有せられていることになるのです。

ところで、迷い苦しむ衆生は、空間的にも時間的にも、次々に数限りなく現れ出でます。

したがって、それらの衆生を救い続けるためには、空間の闇を破る光が無限であると同時に、一切の時間を満たす、寿命の無量性がここに確立されていなければなりません。

「阿弥陀仏」とは、

「無量の寿命と無限の光明」

を有する仏という意でした。

それは今、現に愚悪を自覚するがゆえに苦悩している、その者こそを救う仏ということになります。

悪を自覚する衆生は、苦悩のどん底で、阿弥陀仏のみがこの自分を摂取されることを知り、ただ一心に弥陀に救いを求めることになるのですが、それ故にこそ阿弥陀仏は、この苦悩する悪人こそを救いの正機とされるのです。

「暑さ寒さも彼岸まで」

「暑さ寒さも彼岸まで」

と言われますように、彼岸の時期になりますと不思議と寒さも和らぎ過ごしやすい気候へと移り変わっていきます。

異常気象が言われる昨今ではありますが、お彼岸の時期になると決まって花を咲かす赤や黄色の彼岸花を見ますとなにかホッとさせられます。

彼岸は、太陽が真西に沈む春分や秋分の前後7日間にわたる仏教行事であり、平安時代に日本で始まったものといわれています。

彼岸の中日ともなりますと鹿児島県内そして全国の墓地では早朝からお墓のお掃除とお参りに行かれる多くの方々の様子が報道されます。

彼岸とは、彼の岸のことで、煩悩で汚れた此の岸(この世)に対して、清浄なお浄土のことを指し示す言葉です。

1つには、仏道修行をするのに最適な時節であること。

2つには、太陽が真西に沈むことを、生の帰する処と意味づけて、お浄土を観想していく法会(ほうえ)とも言えます。

もっとも浄土真宗においては、本願寺第3世宗主の覚如上人の『改邪鈔』に

「二季の彼岸をもって念仏修行の時節と定むる、いわれなき事」

と示されております通り、お彼岸の期間だけを重視するということでなく念仏する者は普段から仏恩報謝の念仏に励むべきことと諭されるのです。

お彼岸を墓前清掃期間として終わらせることなく、故人を偲びつつ、往生されたお浄土と仏徳を讃嘆する法会(ほうえ)として大切に勤めていくのが私たち浄土真宗の考え方です。

お墓に足を運ぶだけでなく、彼岸会(ひがんえ)の勤まっているお寺で聴聞して頂ければと思うことです。

なお、それぞれのお寺によって法要がお勤めされる日が異なりますので、事前に問い合わされてからお参りされますことをお勧めいたします。