投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

『どんな歩みでも無駄にはならない』

仏教で説く苦しみに四苦八苦があります。

その一つが求不得苦です。

求めても得られない苦しみです。

われわれが思うようにならないものが、人生そのものです。

私は自分の人生を計画して歩いてゆきます。

当然それには目標があります。

私も大学受験で一浪しました。

たとえば一浪して現役でも入学できた大学にしか受からなくて、結局そこに入学した時、その一年は無駄だったと言うことになります。

しかし、人の人生は、そんなことの繰り返しの様な気がします。

ある御門徒の奥さんが、自分の家が古くなったので、近くの空き家を、土地ごと買って移り住みました。

少し不都合なところに手を入れて生活していましたが、費用がかかり、新築したほうがよかったと愚痴を言っていました。

人生で思い通りになったことと、思い通りに成らなかったことを比べると、思い通りに成らないことだらけ

です。

そこで愚痴を言いながらの人生となります。

もうそのおばあさんは亡くなりましたが大正生まれの人でした。

ある時、寺の旅行で温泉に行きました。

帰りのバスが、信号のところで止まった時近くのイモ畑の中で、畝の間に座り込んで話をしているおばあさん二人を見つけました。

「あら、私と同じような人がいる」

と笑っていました。

大正生まれで、時代もあって、思うように成らない人生を歩んできたはずです。

そんな自分の人生を笑い飛ばしている、自分の人生を明るくうけいれている。

私はその笑顔を見ながらそう思いました。

「本願力に遇ひぬればむなしくすぐるひとぞなき」と

親鸞聖人は教えてくださいます。

愚痴だらけの私の人生ですがそれをそのまま受け入れてくれる阿弥陀さまの大きな願いの中に包まれると、自分の人生が愚痴に終わらない

「どんな歩みでも無駄にはならない」

と頂けることと思います。

「念仏の教えと現代」3月(後期)

この真理を私たちにはっきり教えて下さった方が、天親菩薩という方です。

天親菩薩は

世尊よ、我れ一心に

「尽十方無碍光如来」

に帰命したてまつる

と述べておられます。

「尽十方無碍光如来」

とは、時間的な全てをおおい尽くすと同時に、空間的な全てをおおい尽くして無限に輝いている如来という意味です。

したがってこのひと言は、宇宙の根源、それを仏教の言葉でいうと、真如とか如来とか言い表すのですが、その完全なる如来に自分は

「帰命」

するといわれるのです。

帰命とは、そのものに自分のすべてを

「まかせる」

という意味です。

そうすると、この天親菩薩の言葉は、宇宙の一切を完全におおい尽くして無限に輝いている、その如来に自分は自身の一切をお任せしますと表白している言葉だということになります。

自分が、もし自身の全てを託して信じることのできる如来がましますとすれば、それは宇宙の一切をおおい尽くして、時間的にも空間的にも無限に光輝き、その根源から自分をしっかりと抱き、摂め取って下さる如来を私は信じる、それ以外に帰命するものは存在しないと、天親菩薩は言われているのです。

天親菩薩は、お釈迦さまに向かって表白されます。

「釈尊よ、私は信じます。

尽十方に無限に輝くその如来を信じるのです」

と。

この

「帰命尽十方無碍光如来」

という言葉は中国での意訳です。

そこでこの言葉をインドの言葉に戻しますと、

「南無阿弥陀仏」

になります。

「南無」

つまりナムとは帰命の意で、

「阿弥陀仏」

はアミターユス、アミターバという二つの言葉から成り立っているのですが、前者が無量の命、後者が無限の光の意です。

すなわち、無量の寿命と無限の光明をもった仏という意味が、アミターユス、アミターバという言葉になるのです。

したがって、帰命尽十方無碍光如来と南無阿弥陀仏との違いは、意訳と音写の違いだけで、その意味は全く同じです。

「ひらけゆく人生」(下旬)生まれて初めて父親を仏として拝んだ日

最後に申しますのは、見る世界と感ずる世界があるということです。

私は若い人に宗教を知ってもらうには、風を例えにして話をします。

風そのものは目で見えるものじゃありません。

木や草の揺れを見て、体で感じるものですよね。

宗教も同じです。

阿弥陀さまは目では見えません。

でも念仏の中に感じられる世界があるんです。

死んだらどこに行くか分からない私ですが、阿弥陀さまがそんな私を真実の悟りの世界に必ず抱き上げると言ってくれている。

すごいことですよ。

そういう宗教、仏教を、お念仏を私たちは頂いているんです。

おかげさまで、私たちは念仏の中に仏を感じ、先立ったご先祖を感じて生きていけるんじゃないですか。

お釈迦さまは真理を説かれました。

先ほど、人間は本物、つまり真実を追求する生きものだと言いましたが、私たちはそれをお経という形で、仏教として受け継いでいるんです。

この仏の智慧と慈悲に抱かれて、私たちの未来はひらけていくんです。

死んだら終わりだと言ってもらっては困ります。

浄土真宗では、浄土往生と言っておりますが、これは悟りの世界に

「往き」

「生まれる」

と書きます。

どこまでも未来形でしょう。

命日とは、いのちが終わった日じゃありません。

限りないいのち

「無量寿命」

の旅立ちの日なんですよ。

お葬式も、死んだ人の始末をする儀式なんかじゃありません。

以前あった、あるお葬式でのことです。

その家には、家出した道楽息子がいたんですが、父親が亡くなったことを知って帰ってきました。

親戚一同から

「今ごろ、のこのこと帰って来て」

と白い目で見られていました。

それで私は、その息子さんを呼んで

「今日はお通夜の晩であるが、お前の本当の意味での誕生日だ」

と伝えました。

それは、そのお葬式の日が息子さんにとって、生まれて初めて父親を仏として拝んだ日、その出遇いの日、人間が生まれ変わった日だという意味です。

仏教に後退さりの言葉はありません。

後悔の2文字もいりません。

過去をやり直すことはできなくても、見直すことはできます。

どんな良縁も悪縁も、私を育ててくれた年月でありましたと受け取れる人間になることが、往生浄土の道を歩いていく者のひらけゆく人生です。

『合掌する時に手をたたかない(音をたてない)のはなぜですか?』

合掌して手をたたくという作法は、

「拍手(かしわで)」

といい、神道の祭祀や神社・神棚など神さまを拝する際に行う作法です。

「柏手」

と書かれることもあり、また、

「開手(ひらて)」

ともいうのだそうです。

この作法は、手をたたくその波動で神様の霊力を呼び覚まし、周囲の邪気を祓いご利益を頂くという意味があるそうです。

合掌は、仏教のふるさとインドから伝わった礼儀作法です。

インドでは合掌して相手を拝むという作法が現在も普通に使われています。

これは、目上の人に対する最高の礼にあたるそうです。

この作法が仏教伝来とともに日本に伝えられたため、仏教徒に共通の仏さまを拝む作法となっているのです。

合掌は

「仏に帰命する」

という心が形に出たものです。

「帰命(きみょう)」とは

「仏の救いを信じ、身命を投げ出して従うこと」

という意味で、

「帰依(きえ)」

ともいいます。

その合掌の形がもつ意味については、いくつかのいわれがあります。

ひとつは、仏教では右手は仏の世界、左手は衆生界すなわち私たちの世界(私)をあらわしており、合掌することでひとつ(一体)になるといわれています。

また、いまひとつには、掌をあわせることで無防備・無抵抗を表し、平和そのものをかたどる姿であるともいわれています。

あとひとつには、心の中が一つの心で二心がないこと(仏を疑う心がないこと)を表しているとも言われています。

このようなことから、手をたたき合掌するのではなく、静かに手を合わせ合掌し

『南無阿弥陀仏』

とお念仏を口にすることが浄土真宗では大切だといえます。

なお、この念仏とは、すべての人を救いたいという阿弥陀仏の大悲の願いの躍動した姿そのものです。

阿弥陀仏という仏さまは、真実の救いを実現するために

「南無阿弥陀仏」

の六字となって、私のところに届いて下さるのです。

したがって、今こうして私たちの口からお念仏がこぼれ出るということは、まさに阿弥陀仏の救いのはたらきが私に届いた姿そのものだと受けとめることを

「信心」

をいただくともいいます。

正しいお作法をもって、阿弥陀仏の尊いみ教えをいただき、心豊かにすごしていきたいものですね。

1年間受けもったPTA役員の任が、ようやく終わりました。

1年間受けもったPTA役員の任が、ようやく終わりました。

バザーも無事にやりとげることができました。

部長をくじで引き当てたときは、もぉ本当に泣きたいくらい

「無理!!」

って思ったけど、

なんとかすれば、なんとかなるもんで、

みなさんに支えられながら、やりとげることができました。

いろんな思い出があるけど、バザーが終わった後の

副部長さん宅での打ち上げが一番の思い出です。

鍋とお寿司と、少しのアルコール。

たわいもない人生話が肴の

一生心に残るであろう夜でした。

PTA活動については、活動そのものに対する賛否もありますし、

わたし自身、押しつけられ感満載で、1年間やり続けた気がします。

でもまぁ、子どもたちが喜んでくれたのは単純にうれしかったし、

なかなかの貴重な経験をさせていただきました。

出遇いに感謝!

今、そう思えることが、わたしの1年間の答えのようです。

『本願』

私たちの教団は

「本願寺教団」

と呼ばれています。

ここでは、浄土真宗のみ教えが説かれていますが、それは阿弥陀仏の本願によって救われるという教えです。

岩波国語辞典で

「本願」

の語を見ますと、

「本来の願い。仏・菩薩が衆生を救うために起こした誓願」

と説明されていますが、私たちにとって

「本願」

とはいったい何なのでしょうか。

正しく人生を歩むためには、心の根源に正しい世界観や人生観をもって、日々をよく生きようと願い、その願いを実現するために一心に努力し実践することが必要です。

仏道の歩みも、根本的にはこれと同じであって、自分の心の根源に仏になりたいという強い願いと、その願いを完成させるための厳しい行道が求められます。

そして、この行道を歩む行者を

「菩薩」

と呼びます。

では、具体的に、菩薩はどのような願いを起こして仏になろうとしているのでしょうか。

仏教では、菩薩が仏になるためには、必ず次の四つの誓願を起こさなければならいといわれます。

(1)すべてり衆生を必ずさとりに至らしめよう

(2)すべての煩悩を断ち切ろう

(3)すべての教えを学び知ろう

(4)「この上ない悟りに至ろう

という誓いです。

そしてその上で、菩薩はさらに各々独自の誓願を建て、迷える衆生を救い、その衆生を仏果に至らせるために、さまざまにはからわれるのです。

とすれば、いかなる仏の

「本願」

も、結局はただ一つになってしまいます。

大悲心でもって寸時の休みもなく、迷える一切の衆生を救い続けること以外に仏の道は存在しないからです。

こうして仏はまず、自身の一切の煩悩を断ち切り、無限の智慧を成就し、その功徳でもって一切の衆生を救うのです。

その無窮の行道が仏の本願になります。

このようにみれば、

「本願」

という心は、私たち凡夫には一片もあり得ないといわねばなりません。

貪愛(とんない)と瞋憎(しんぞう)の迷いに満ちた愚かな私たちの心には、煩悩を断つ力も、仏道を学ぶ智慧も全く見出せないからです。

それ故にこそ、仏は本願力をもってこの迷える凡夫を救おうと願われているのです。

では、迷える凡夫にとって、何が最も重要な仏道となるのでしょうか。

それは、この迷える私を間違いなく、しかも速やかに必ず仏果に至らしめる本願に私自身が真に出遇うことだといえます。

釈尊をはじめ、一切の諸仏はすべて、阿弥陀仏の

「本願」

を讃嘆し、衆生はぜひともこの本願によって救われよと教えられます。

なぜなら、弥陀は本願に

「ただ念仏せよ、救う」

と誓われているからで、これに勝る仏道は存在しません。

そこで諸仏は、その念仏の勧めを、諸仏の本願とされたのです。

法然聖人は、この釈尊の勧めに従って、阿弥陀仏が本願に選択された念仏こそ、唯一の仏道だと明かされたのです。

私たちの本願寺教団は、親鸞聖人のみ教えにしたがう者の集いですが、親鸞聖人は法然聖人の教えをさらに純化されて、弥陀の本願の教法をただ聞信せよと勧められ、ここに

「念仏せよ、救う」

という本願の真実を、ただ信じるのみという道を開かれたのです。