投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

親鸞・去来篇 12月(1)

その時から、原のあなたで、女の泣きさけぶ声がして、範宴と性善房の耳のそばを糸のように流れた。

「やあっ、あの声は梢ではないか」

ここには、朝麿が、なに者かにふいに棒かなんぞでうちたたかれたように気を失っているし、あなたには、けたたましく救いを呼ぶ梢の声がきこえるし、事態はただごととは思われない。

兄に抱き起こされて、気がつくと、朝麿は、

「梢が――梢が――」

と、必死になって、道もない萱原(かやはら)の中へまろび入った。

遠い野火の炎が、雨もよいの、ひくい雲を紅くなすっていた。

火光に透いて、萱原の中に駈けおどって行く、十名ほどの人影が黒く見える。

「梢――」

朝麿が、さけぶと、なにか罵る声が激しく聞えて、彼はまたそこで、中の一人の一撃にあってよろめいた。

性善房と範宴は、朝麿の身を案じながら、すぐその後に駈けつけていた。

まぢかに迫ったとき、二人の瞳があざやかに見た十名ほどの人影は、うたがうまでもなく、人里といわず、山野といわず、野獣のように跳梁(ちょうりょう)する野盜の群れにちがいない。

それはいいが、中に、たしかに、目立って屈強な男が、梢のからだを横向きに抱いていた。

範宴は、

「やっ、あなたは小泉の宿でお会い申した、天城四郎殿ではありませんか」

いうと四郎は、からからと四辺(あたり)へ響くような声で笑った。

「そうだ、この女は小泉の木賃に宿り合わせたときから、それと言い交わした約束があるので、もらってゆく、天城四郎とは偽り、天城四郎とも、木賊(とくさの)四郎ともいう盗賊だ。異存があるなら、なんなりとそこでほざいて見るがいい」

範宴は、この恐ろしい魔人の声を聞くと、世の中のすべてが、暗澹(あんたん)とわからないものになってしまった。

つい、今がいままで、世にも奇特な人として、胸のうちに、あの時の感謝を忘れなかった。

その人物が、仮面を剥いで、そういうのであるだけに、唖然(あぜん)として、しばらくはいいかえすべき言葉もない。

親鸞聖人750回大遠忌法要

11月5日〜9日までの5日間、鹿児島市にあります、西本願寺鹿児島別院において、鹿児島教区・鹿児島別院親鸞聖人750回大遠忌法要が勤まりました。

これをお読みになっておられる方の中にも、お参りされた方が多数いらっしゃる事かと思います。

50年に一度の法要を大遠忌法要と申しますので、前回の大遠忌法要となりますと50年前の親鸞聖人700回大遠忌法要ということになります。

今回のご法要は5日間計8座、のべ5000人程の方がお参りになられました。

京都の御本山・本願寺よりご門主様、並びに新門様、両門さまご出勤のもとお勤まりになりましたので、普段の法要とはまた違い、一段と緊張感のある厳粛な法要となりました。

お経を唱える方々、お経に華をそえたコーラス隊の方々、表には見えない裏方として法要を支えた方々、そしてお参りになられた数多くの方々、一人一人の思いと力が結集したすばらしいご法要であったと感銘を受けました。

これだけのご法要でしたので、準備段階からそれぞれに多くの苦労があり、私自身も少々やりきったというような感じがあります。

法要中にも何度か確認されたことでありましたが、50年に一度の大遠忌法要を勤めるということは、法要が終わってこれで終わりということではありません。

次の50年後の大遠忌法要に向けて我々浄土真宗本願寺派教団がどのようにあるべきか、という新たな歩みへの始まりでもあります。

私自身、50年後の800回大遠忌法要は年齢的に厳しいですが、先人がいのちがけで護り我々に伝えてくださったように、人は変わり形は変わっても、私たちの後輩がお念仏の教えを受け継ぎ、800回大遠忌法要をお勤めすることとなるでしょう。

その時、私たちの教団は民衆にとってどのような教団であるか、めまぐるしく変化していくこの現代社会の中で、さまざまな社会問題とどのように向き合っていくか、これからの歩みがこれからの本願寺教団の未来に関わってくることと思われます。

この視点は私たちの教団のことにとどまらず、この国のあり方としても大事にしなければならない事だと思います。

目先の利益に走り、合理的かつ経済的観念のみを重視したあり方では、おそらく次の世代以降へ多くのつけを残すこととなるでしょう。

それは深刻な環境問題やこの国が抱える巨額の借金にもその兆候ははっきりと表われています。

原発を含むエネルギーの問題、平和憲法・集団的自衛権の問題等、今、日本は多くの大変な問題に直面していますが、50年後100年後に責任を持てるようなあり方が必要であり、それが先人より受け継ぎ現代を預かるわたしたちの責任であると思います。

そのようなことを仏教の教えの中に、親鸞聖人がお勧めしてくださったお念仏の教えの中に、あらためて確認していく機縁として、今回の750回大遠忌法要を私は捉えていきたいと考えています。

またそれが、宗祖親鸞聖人や先人のご恩に少しでも報いていく道であると思います。

「腕輪念珠」とは、どのようなものですか?

「お念珠」はお寺へお参りする時に欠かせない大切な法具です。

阿弥陀如来さまをつつしんで敬い礼拝するために用います。

形や色、大きさなど様々なものがあり、同じ仏教でも、宗派によって多少の違いもあります。

「腕輪念珠」はお念珠を小さくしたもので、いつでも、どこでも、どんなときでも礼拝できるように作られたものです。

決して、魔除けやお守りではなく、礼拝するための法具です。

本願(南無阿弥陀仏)に出遇ったとき、欲望にまみれた自己中心的な私の姿が見えてきます。

自己中心的で、自分の都合や気持ち一つで、コロコロと心が変わっていってしまう私には、祈祷や占い、お守りが、何の役にも立たないことだと気付かされるはずです。

そんな私が仏となる教えがある。

南無阿弥陀仏のお念仏一つで、往生することができる。

良いことも、悪いことも、どれ一つ抜けても私の人生・命はなりたちません。

だからこそ、この命を精一杯見つめて、生き抜いてほしい。

命終わるとき必ずあなたをお浄土へと生まれさせると誓いをたて、仏となられたのが阿弥陀という仏さまです。

腕輪念珠を常に手にして生活することにより、仏さまはいつも私を呼び続けておられるのだと感じることができるのではないでしょうか。

最近では、お寺で腕輪念珠を作る行事等も増えてきています。

自分の好きな色で作った腕輪念珠もまた、大切な法具となります。

コロコロと転がっていってしまう丸い珠を、自分の手でつなぎ合わせていく作業も、私の心と阿弥陀さまがしっかりと繋がっているのだとあじわうことができるのではないでしょうか。

親鸞・去来篇(10)

若い男女(ふたり)は、先に歩み、範宴と性善房とは、ずっと離れてあるいた。

冬の日ではあるが、陽がぽかぽかと枯れ草に蒸れて、山蔭は、暖かだった。

「――幸福にさせたい」

範宴は、先にゆく、弟と弟の愛人のうしろ姿を見て、心から、いっぱいに思った。

「のう、性善房」

「はい」

「粟田口の養父上にお会したらそちも共に、おすがり申してくれ」

「はい」

「万一、どうしても、お聞き入れがなかったら青蓮院の師の君におすがりしてもと、わしは思う……。あの幸福そうなすがたを見い、あの二人は、世間も何もわすれている、ただ青春をたのしんでいる姿じゃ」

黄昏れになった。

女連れでもあるし、夜になるとめっきり寒いので、泊りを求めたが、狛田の部落を先刻(さっき)過ぎたので富野の荘までたどらなければ、家らしいものはない。

だが、そこも今のぼっている丘を一つ越えれば、もう西の麓には、木賃もあろうし、農家もあろうと思われる。

丘の上に立つと、

「おお……」と、範宴は笠をあげた。

河内平のあちこちの野で、野焼きをしている火がひろい闇の中に美しく見えたからである。

平野の闇を焼いてゆく野火のひかりはなんとなく彼の若い心にも燃え移ってくるような気がした。

範宴は自分の行く末を照らす法の火のようにそれを見ていた。

彼の頬の隈が、赤くなすられていた。

黙然と、火に対して、いのりと誓いをむすんでいた。

すると――

「いや、弟御様は」と、性善房があわてだした。

「先へ行ったのであろう」

「そうかも知れません」

足を早めかけると、どこかで、ひいっッ――という少女の悲鳴がきこえた。

耳のせいではなかった。

たしかに、梢の声なのである。

そこにはもう下りにかかった勾配で、真っ暗な道が、のぞきおろしに、雑木ばやしの崖へとなだれこんでいた。

「――誰か来てえッ……」

ふた声めが、帛(きぬ)を裂くように、二人の耳を打った。

それにしても、朝麿の声はしないし、いったい、どうしたというのだろうか?

「あっ、お師さま」

先へ駈けだした性善房は、何ものかにつまずいたらしく、坂道に、もんどり打っていた。

範宴も、駈けつづいて、

「どうしたのじゃ」

「朝麿様が、そこに」

 「えっ、弟が」

 びっくりして、地上をすかしてみると、たしかに人らしいものが、顔を横にして、仆(たお)れていた。

 

親鸞・去来篇(9)

朝麿は、見ちがえるほど恢復(かいふく)して、病床(とこ)を離れていた。

兄と、性善房とが、旅装(たびよそお)いをして、ふいに訪ねてきたので、彼は梢とともに、驚きの眼をみはって、

「どこへお旅立ちですか」と、もう淋しげな顔をした。

性善房が、

「いや、お師様には、もはや華厳をご卒業あそばしたので、南都にとどまることはないと、法隆寺の僧都様からゆるしが出たために、お別れを告げてきたのです」と話すと、

朝麿は、

「では、叡山へ、お帰りですか」と、なお心細げにいうのであった。

「されば……帰ろうと思う」範宴はそういって、

「ついては、おもとも京都へ共に帰らぬか」

「…………」

「わしが一緒に行ってあげよう。そして、ともどもに、養父(ちち)上(うえ)へお詫びをするが子の道ではないか」

「兄上。ご心配をかけて、なんともおそれ入りまする。けれど、今さら養父の家へは帰れません」

「なぜ」

「……お察しくださいまし……どの顔をさげて」

「そのために、兄がついて行くではないか。何事も、まかせておきなさい」

そばで聞いていた梢は、不安な顔をして、朝麿がそこを立つと、寝小屋の裏へ連れて行って、

「あなたは帰る気ですか」と男を責めていた。

「――わたしは嫌です。死んだって嫌ですよ。あなたの兄様は、きっと、お父さんのいいつけをうけて、私たちを、うまく京都へ連れ帰ってこいといわれているに違いありません」

女には、いわれるし、兄には叛(そむ)けない気がして、朝麿は、板ばさみになって当惑そう俯(う)つ向いていた。

すると、性善房が様子を見にきて、

「梢どの、それは、あなたの邪推です。お師様には、決して、お二人の心を無視して、ただ生木を裂くようなことをなさろうというのではなく、あなたの父上にも、朝麿様の養父君にも、子としての道へもどって、罪は詫び、希望(のぞみ)は、おすがり申そうというお考えなのです」

諄々(じゅんじゅん)と、説いて聞かせると、梢もやっと得心したので、にわかに、京へ立つことになった。

ところで、このあいだ宿の借財をたて替えてくれた親切な相客の浪人にも一言、礼をのべて行きたいがと、隣の寝小屋をさしのぞくと、誰も人気(ひとけ)はない。

亭主にきくと、

「はい、今朝ほどはやく、お立ちになりました。皆さまへ、よろしくといい残して――」

「や。もうお立ちになったのか。……今日は、改めてお礼を申し上げようと思うていたのに……。済まぬことであった」

範宴は、胸に借物でも残されたように、自分の怠りが悔いられた。

親鸞・去来篇(8)

いつものように、学生たちへ、華厳法相の講義をすまして、法隆寺の覚運が、橋廊下をもどってくると、

「僧都さま」と、いう声が足もとで聞えた。

覚運は、橋廊下から地上へ、そこに、手をついている範宴のすがたへ、じろりと眼をおとして、

「――何じゃ」

「おねがいがございまして」と、範宴は顔を上げた。

そして、覚運が眸でうなずいたのを見て、十日ほどの暇(いとま)をいただいて京都へ行ってきたいとい願いを申し出ると、覚運は、

「観真どのでもご病気か」と、たずねた。

「いえ、弟のことについて」

範宴は、そういう俗事に囚われていることを、僧都から叱咤されはしないかと、おそれながらいうと、

「行ってくるがよい」と案外な許しであった。

そればかりでなく、覚運はまたこういった。

「おん身が、ここへ参られてからはや一年の余にもなる。わしの持っている華厳の真髄は、すでに、あらましおん身に講じもし、また、おん身はそれを味得せられたと思う。このうえの学問は一に自己の発明にある。

ちょうど、よい機(おり)でもある。都へ上(のぼ)られたならば、慈円僧正にもそう申されて、次の修行の道を計られたがよかろう」

そういわれると、範宴はなお去り難い気もちがして、なおもう一年もとどまって研学したいといったが、僧都は、

「いやこれ以上、法隆寺に留学する必要はない」といった。

計らぬ時に、覚運との別れも来たのである。

範宴は、あつく礼をのべて引き退がった。

性善房にも告げ、学寮の人々にもそのよしを告げて、翌る日、山門を出た。

同寮の学生たちは、

「おさらば」

「元気でやり給え」

「ご精進を祈るぞ」などと、口では祝福して、見送ったが、心のうちでは、

(ここの烈しい苦学に参ってしまって、とうとう、僧都にお暇をねがい出たのだろう)と、わらっていた。

範宴は、一年余の学窓にわかれて、山門を数歩出ると、

(まだなにか残してきたような気がしてならぬ)と、振りかえった。

そして、

(これでいいのか)と自分の研鑽を疑った。

なんとなく、自信がなかった。

そして、朝夕に艱(かん)苦(く)を汲んだ法輪寺川ともわかれて、小泉の宿場町にはいると、すぐ、頭のうちは弟のことでいっぱいになっていた。