投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「ロケット打ち上げの秘密」(下旬)やるべき事を全てやり遂げた自分自身の確認

 現在、私が所属している鹿児島人口衛星開発協議会では、2つの発射場を持つこの鹿児島で何かを作って打ち上げたいという思いのもと、県外の企業いくつかと共同で法人を立ち上げて活動をしています。

 鹿児島大学や企業と共同で衛星を作って、JAXAの方に引き渡して打ち上げてもらうようにしています。

 まだまだ先のことになるでしょうけれど、将来的には目的や用途を受注して、私たちが中心になって人工衛星を作り、それを打ち上げてもらうというビジネスに発展させたいと思っています。

 本当にいろんな制約された条件下で私たちはやっています。

 これは極限の状態ですが、でも夢のある状態でもあります。

 子ども達にも夢を与えられるのではないか、そう思いますとやりがいがある仕事だなと私は思っています。

 私自身はほとんど引退したような身ですが、それでもまだ夢を抱いて仕事に取り組んでいます。

 ロケットの打ち上げというのは非常に派手です。

 ロケットに火がついてから衛星切り離しまで30分もありません。

 短いときには15分ほどで終わります。

 でも、その瞬間のために数年間の準備が必要で、部品の開発や製作も含めれば10年単位で時間がかかっています。

 人工衛星の場合は、打ち上げが成功してから、初めて本来の仕事ができるようになります。

 だから見た目は派手ですが、本当に1つの積み重ねがあって初めて実現していることなんですね。

 また、これだけの大きい仕事は個人の力ではとてもできません。

 若い時は私自身、何でもやってやろうと思っていたものですが、やっぱりできないことの方がずっと多かったですね。

 大きくなるほどチームがうまくまとまらなければ、何もできません。

 それはどんな事業でもそうだと思います。

 夢を持って取り組むこの大きなプロジェクトに積み重ねと人の和は大事です。

 そして、このロケット打ち上げでは、やれることを全てやり尽くしたとき、お寺や神社などにお参りすることがよくあります。

 決して神頼みではないと思います。

 「人事を尽くして天命を待つ」という言葉がありますが、するべき仕事を全てやり遂げた自分自身の確認とか、そういう気持ちで仏さまや神さまという存在にお参りするんじゃないかなと私は思います。

 

真宗講座親鸞聖人に見る「往相と還相」

如来二種回向の本質とその功徳(11月後期)

 まず往相廻向の「行」とは何かが問題になるのですが、これについては、「行巻」冒頭の文、

 「謹んで浄土真宗を案ずるに、大行有り、大信有り。大行とは、則ち無碍光如来の名を称するなり」

 が、そのすべて明白に語っています。

 「南無阿弥陀仏」と称えられている、その称名念仏が往相廻向の行だといわれるのです。

 そして、この行が阿弥陀仏から廻向されている行であるが故に、この行には

 「即是諸の善法を摂し諸の徳本を具せり。極促円満す。真如一実の功徳宝海なり」

 という功徳が有せられることになります。

 このことは『文類聚鈔』でも同じで

 「行と言ふは則ち利他円満の大行なり。…然るに本願力の廻向に二種の相有り。この行は遍く一切の行を摂し、極促円満す」

 と述べられます。

 ここでこの行の功徳が「利他円満の大行」とされていますが、それは「南無阿弥陀仏」こそ迷える一切の衆生(他)を完全に利益する、阿弥陀仏の大行だとういう意味に理解されます。

 なお、行と信について

 「往相廻向の行信に就いて行に則ち一念有り。また信に一念有り」

 という言葉が見られます。

 行と信にそれぞれ「一念」があるとされるのですが、では行の一念とは何でしょうか。

 「行の一念と言ふは、謂く称名の遍数に就いて選択易行の至徳を顕開す」

 といわれるように、たとえどのような称名であっても、一切の称名の中の一声の称名が、まさしく如来によって選択され廻向された、易行の至極なのです。

 したがって、この一声の念仏者は、よく速やかに阿弥陀仏の浄土に往生することができるのです。

 往相廻向の「信」については、「信巻」冒頭で

 「謹んで往相廻向の廻向を案ずるに、大信有り。大信心は則ち是れ長生不死之神方、欣浄厭穢之妙術、選択廻向之直心、利他深広之信楽、金剛不壊之真心、易往無人之浄信、心光摂護之一心、希有最勝之大信、世間難信之捷径、証大涅槃之真因、極促円融之白道、真如一実之信海」

 と語られ、『文類聚鈔』では

 「浄信と言ふは則ち利他深広の信心なり」

 「誠に是除疑獲徳之神方、極促円融之真詮、長生不死之妙術、威徳広大之浄信」

 と示されます。

 ここに「利他深広の信心」という言葉が見られますが、この信心こそ、阿弥陀仏が迷える衆生を救うために成就された、無限に輝く清浄で広大な願心だと言えます。

 このような功徳をもった大信心であるが故に、この信心が凡夫を大涅槃に至らしめる真因として、念仏往生の願より廻向されているのです。

 こうして、この信楽の一念が

 「斯れ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰す」

 と述べられるのです。

 では往相還相の「証」とは何でしょうか。

 「証巻」の冒頭の文は、

 「謹んで真実証を顕さば、即利他円満之妙位、無上涅槃之証果」

 とあり、『文類聚鈔』では、

 「証と言ふは則ち利他円満之妙果なり」

 となっています。

 すでに示したように、この証果の願が、「往相証果之願」と名づけられていることから、この「証」も往相廻向の証であることはいうまでもありません。

 阿弥陀仏の廻向による証であるが故に、この証を得たものは、「清浄真実至極畢竟無生」の極果に至りうるのです。

 ところで「証巻」に

 「往相廻向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入るなり」

 という文が見られます。

 このことは、この証果は、衆生が阿弥陀仏から廻向される「行」と「信」を獲得することによって、はじめて成立するということを示しているといえます。

 では還相廻向とは、どのような証果なのでしょうか。

 還相廻向に関しては「二に還相廻向と言ふは、則ち利他教化地の益なり」と、『教行信証』『文類聚鈔』ともにほぼ同一の文となっていて、この廻向は、第二十二願より出ずると示されます。

 ただし、その廻向の内容に関しては、第二十二願がそのまま直ちに引用されるのではなく、『教行信証』では『浄土論』『浄土論註』の文を通して、また『文類聚鈔』では願成就の文が引用されることによって、還相廻向が語られることになります(『二種廻向文』は『教行信証』と同じ)。

 これはいったいどういうことなのでしょうか。

 ここで親鸞聖人の一つの重要な意図が明らかになります。

 すでに述べた

 「若しは往若しは還、一事として如来清浄の願心の廻向成就したまふところに非ざること有ること無し」

 の文によっても明らかに知られるように、往相と還相の功徳の一切が、阿弥陀仏の本願によって成就され、それが衆生に廻向されるという、親鸞聖人によって解明されたこの真理は、ほんの少しも動かすことができないことはいうまでもありません。

 行も信も証も、そのすべてが阿弥陀仏の本願に成就されているのです。

 けれとも、それを「廻向」という一点で押さえるならば、それはまさしく迷える衆生に廻向されているのですから、衆生の心を抜きにしては、この往還の二廻向は語られていません。

 衆生と切り離されたところで、阿弥陀仏の往還の二廻向が成就されているのではなくて、常に衆生の心に廻向されている、その事態においてのみ、この二廻向は意義を持つのだといえます。

 

子猫育て

2年前の10月2日。

朝、法事に向うため、車のとこに行くと、ボンネットにいつも家の周りをうろうろしているノラ猫が、大きなお腹をして座っていました。

「もうすぐ赤ちゃんが生まれるのかな」

「何匹くらいお腹の中に入っているのだろうか」

と思いながら、その猫を車から降ろして、出かけました。

その約20分後、自宅から携帯に着信が入っていて、全ての法事を終えてかけ直してみると

「玄関に体が羊膜に包まれたままの猫の赤ちゃんが1匹いて、しばらく外において様子を見ていたけれど、母猫が迎えに来る様子もなかったから、うちに連れてきている」

ということでした。

そして、その日から子猫育ての毎日が始まりました。

夜中も起きて、2〜3時間おきに、子猫用の粉ミルクを溶かしてミルクをやり、最初は動物用の哺乳瓶でも子猫の口のほうが小さかったため、スポイトで与えていました。

そして、温かく濡らした布でおしりをポンポン刺激して排泄をさせ、常にに保温を心がけました。

実は、その数年前にも、親猫が突然死んでしまった、まだ生まれて間もない子猫を何匹か育てたことがありました。

その時は、子猫が感染症に罹り、全て死んでしまいました。

色々な情報を集めてみると、生まれたばかりの子猫を人間の手で育てていくのは

「とても難しいことです」

「大変なことです」

と書かれたものばかりだったので、今回猫一匹育てるにしても、本当に毎日が緊張の連続でした。

お世話を繰り返しながら、毎日の中で最初に私が驚いたことは、ミルクが少しでも冷えてくると、全く飲まなくなり、温め直すとまた飲み始めたことです。

ふとした変化に新しい心配をしたり、新たな発見をしたりして、ささいなことであっても喜びに感じる日々が過ぎていきました。

はじめは閉じていた目や耳も順調に育ち、日がたつごとに開いてきました。

手さぐりの中で、いろんなことを調べては次へといった感じでしたが、どの資料にも「だいたい10日前後で目が開いてきます」と書いてありました。

しかし、その10日が過ぎてしばらく待ってみても、目が開く気配がなく、だんだん心配になって、動物病院に相談してみました。

すると

「目やには出ていませんか」

「くしゃみをしませんか」

と、何度も尋ねられました。

「どちらもありません」

と答えると、

「それにしても目が開くのが遅いですね。病院に一度連れて来てください」

と言われ、電話を切り、猫の様子を身に行くと、さっきまでしっかり閉じていたはずの目がパチッと開いていました。

嬉しい気持ちと、さっきまで心配して病院に相談していたのに、「このタイミングで!!」と思うと、笑ってしまいました。

子猫が、約生後1カ月過ぎるまでの間というのは、昼夜問わずお世話をし続けた感じでした。

今年で2年過ぎたその猫は、今元気にうちの中で過ごしています。

そして、私はよくこの猫をなでながら、この奮闘した時のことを思い出して「大きくなったなあ」と感じています。

出遇うことの不思議さ、生命力、いのちが育まれていく時間の中に今があり、大変な苦労や深い思い、願いが向けられているなと、改めていのちのことも見つめさせてもらった、貴重な体験でした。

『私が私でよかったと思える私になりたい』(後期)

「大きくなったら何になりたい?」

問いかけると、さきを争うようにして「恐竜ジャー!」「仮面ライダーガイム!」「プリキュア!」など、アニメのヒーロー・ヒロインの名前をあげる子ども達の姿は、何とも微笑ましいものです。

もちろん、成長するにしたがって「なりたいもの」は、より現実味をおびてくるのでしょうが、人は「なりたい自分」があるからこそ、一生懸命勉強したりさまざまな努力を重ねていけるのです。

しかし、すべての人がなりたい自分になれる訳ではありません。

なりたい自分になれなくて涙を流したり、ひどい挫折感を味わうこともあるでしょう。

でも、たとえなりたい自分になれなくても、なりたい自分になるために努力を重ねてきたそのことは得難い宝として体に刻み込まれています。

それが、次のステップにつながる大きな力となっていくのです。

今さかんにいわれる「自己肯定感」を持つとは、そういうことではないでしょうか。

それは、思うようにならなくて自分を否定しそうになった時でも、そこにそのまま沈みこんでしまうのではなく、そこから立ちあがって再び歩きだすことのできる、何らかの前向きの力が自身の中ではたらいていることを自覚できることをいうのだと思います。

それは先ほど述べたように、失敗を恐れずに挑戦したり努力したりする中で養われるのでしょう。

そしてもうひとつ、そんな自分を見守り認め励ましてくれる人がいてくれることが重要です。

それらがあれば、どんな辛いことや苦しいことがあっても、きっと乗り越えていけるに違いありません。

お経の中に「無有代者(むうたいしゃ=かわるものあることなし)」という言葉があります。

「あなたはあなただけ。世界中探してもあなたの代わりはどこにもいない。絶対に代わることのできないかけがえのない存在、それがあなただよ」

と、仏さまは全面的に私を肯定して下さっています。

失敗も挫折も欠点も、人生で起きることの全てが私を私にしていく大切なご縁です。

それらを受け入れることが、「私が私でよかった」と思えること、「かけがえのない存在としての私を生きていく」ということではないでしょうか。

親鸞・去来篇(7)

手紙の一字一字が養父の顔つきであり声であるように範宴には感じられた。

慈愛をかくして峻烈に不肖の子を叱りながらもどこやらに惻々と悩んでいる厳父のこころが傷ましい強さで、(かまいつけるな)といってある。

しかし、手紙の養父のことばを、そのままに解して、自分までが厳格な態度をとったら、弟は、どこへ行くのだろうと思った。

おそらく、死を選ぶほかに彼の道はないのではないかと考えた。

性善房が案じるのもそれだった。

恋というものは熱病のようなものである。

健康な人間が、自分の健康な気持を標準にして荒療治をしようとすると、若気な男女は、春をいそぐ花のように、夢を追って身を散らしてしまうことをなんの惜しみともしないものである。

その弱い木を揺りうごかして、傍から花の散るのを急がすような心ない処置をとっては、なんにもならない。

――ましてや人間の苦患(くげん)に対しては絶対に慈悲をもって接しなければならない。

仏の御弟子である以上はなおさらのことである。

「どうしたらよいか」

範宴は、その夜、眠らずに考えた。

しかし、よい解決は見つからなかった。

それは、範宴自身が、仏の御弟子であり、きびしい山門の学生(がくしょう)であるから、おのずから法城の道徳だの、行動の自由にしばられて考えるからであった。

ふと、彼は、

(もし、ここに、兄弟(ふたり)の母がまだ生きておいでになったら、どうなさるだろうか)と考えた。

するとすぐ、範宴も、決心がついたのであった。

(――自分が母にかわればよい)ということであった。

何といっても、朝麿も自分も、幼少に母を亡っているので、母のあまい愛に飢えていることは事実である。

――何ものよりも高い養父の御恩はご恩としても、男性の親にはない母性の肌や、あまえたいものや、おろかなほど優しい愛撫だのに――飢えていたことは事実であろう。

自分にすらそれを時折は感じるのであるから、あの病身な、気の弱い弟は、なおさらであるにちがいない。

そういう永年のさびしさが、青春の処女(おとめ)と、燃えついたのは、人間の生理や心理からいえば、当然である。

けれど、青春の作った社会の道徳から、見る時には、ゆるしがたい不良児の行為として、肉親からも社会からも追われるのが当然であって、誰をうらむこともない。

もしも今なお世に在(いま)すものとすれば、こんな時こそ、母性は身をもっても、この不良の児を救うにちがいない。

あらゆるものを敵としても、母は、敢然と子のために闘うにちがいないのだ。

範宴は、朝になってからも、もいちど胸のうちでつぶやいた。

「――そうだ、わしは、母になって、母がいてなさるように、弟の苦境を考え、弟と共に考えてやればよい!」

お墓にひびが入るとよくないことが起こると聞きましたが、本当ですか?

 「お墓にひびが入ると良くないことが起こる?」

こういう類の質問を受けることがありますが、結論から申し上げますとお墓の状態と災いの間にはなんらの因果関係はありません。

冷静に考えてみますと家を新築しても年数がたってくるうちに自然と大小のひびは出てくるものです。

だからといって家をすぐに建て直すということはないでしょう。

しかしながら、墓石にちょっとしたひびが入っただけで

「故人がこの場所を気に入っていない」

「墓石にひびが入ると家族に良くないことが起こる前兆ではないか」

等々を気にする人も多いのが現状です。

自分や家族に災いが起こることを恐れて神経質になってしまうのは人情としてわからなくもありません。

しかしながら災いが起こったときにその原因を墓のひびあるいはご先祖が祟っていると考えて、墓石・先祖のせいにして事実を正しく見つめようとしない心の有り様こそが問題であることに気づかなければなりません。

墓のひび等の墓相にこだわるということは根も葉もない迷信にふりまわされることであり、かえって不安や恐れを増して心からの安らぎが得られない結果となります。

もちろん、ひびが大きくなってきたり、墓が傾いて倒れそうになっている場合は、修理や取り替え等を行わなければならないでしょう。

しかし、それは「災いがおこる」・「不幸を招く」から行うのではなく、ご先祖の遺徳を偲び、阿弥陀さまのお慈悲を味わう場として、気持ちよく手を合わせるために行うのです。

墓相にまつわる迷信、日の良い悪しにまつわる迷信等々ある現状において、様々な束縛から解放されて頂いたいのちを心豊かに生き、安心していのち終えていくことのできるみ教えを親鸞聖人はお伝え下さいました。

心配なことがありましたらそのみ教えをお伝え下さるお寺に相談にいかれることをお勧めいたします。