投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

親鸞・去来篇(7)

手紙の一字一字が養父の顔つきであり声であるように範宴には感じられた。

慈愛をかくして峻烈に不肖の子を叱りながらもどこやらに惻々と悩んでいる厳父のこころが傷ましい強さで、(かまいつけるな)といってある。

しかし、手紙の養父のことばを、そのままに解して、自分までが厳格な態度をとったら、弟は、どこへ行くのだろうと思った。

おそらく、死を選ぶほかに彼の道はないのではないかと考えた。

性善房が案じるのもそれだった。

恋というものは熱病のようなものである。

健康な人間が、自分の健康な気持を標準にして荒療治をしようとすると、若気な男女は、春をいそぐ花のように、夢を追って身を散らしてしまうことをなんの惜しみともしないものである。

その弱い木を揺りうごかして、傍から花の散るのを急がすような心ない処置をとっては、なんにもならない。

――ましてや人間の苦患(くげん)に対しては絶対に慈悲をもって接しなければならない。

仏の御弟子である以上はなおさらのことである。

「どうしたらよいか」

範宴は、その夜、眠らずに考えた。

しかし、よい解決は見つからなかった。

それは、範宴自身が、仏の御弟子であり、きびしい山門の学生(がくしょう)であるから、おのずから法城の道徳だの、行動の自由にしばられて考えるからであった。

ふと、彼は、

(もし、ここに、兄弟(ふたり)の母がまだ生きておいでになったら、どうなさるだろうか)と考えた。

するとすぐ、範宴も、決心がついたのであった。

(――自分が母にかわればよい)ということであった。

何といっても、朝麿も自分も、幼少に母を亡っているので、母のあまい愛に飢えていることは事実である。

――何ものよりも高い養父の御恩はご恩としても、男性の親にはない母性の肌や、あまえたいものや、おろかなほど優しい愛撫だのに――飢えていたことは事実であろう。

自分にすらそれを時折は感じるのであるから、あの病身な、気の弱い弟は、なおさらであるにちがいない。

そういう永年のさびしさが、青春の処女(おとめ)と、燃えついたのは、人間の生理や心理からいえば、当然である。

けれど、青春の作った社会の道徳から、見る時には、ゆるしがたい不良児の行為として、肉親からも社会からも追われるのが当然であって、誰をうらむこともない。

もしも今なお世に在(いま)すものとすれば、こんな時こそ、母性は身をもっても、この不良の児を救うにちがいない。

あらゆるものを敵としても、母は、敢然と子のために闘うにちがいないのだ。

範宴は、朝になってからも、もいちど胸のうちでつぶやいた。

「――そうだ、わしは、母になって、母がいてなさるように、弟の苦境を考え、弟と共に考えてやればよい!」

お墓にひびが入るとよくないことが起こると聞きましたが、本当ですか?

 「お墓にひびが入ると良くないことが起こる?」

こういう類の質問を受けることがありますが、結論から申し上げますとお墓の状態と災いの間にはなんらの因果関係はありません。

冷静に考えてみますと家を新築しても年数がたってくるうちに自然と大小のひびは出てくるものです。

だからといって家をすぐに建て直すということはないでしょう。

しかしながら、墓石にちょっとしたひびが入っただけで

「故人がこの場所を気に入っていない」

「墓石にひびが入ると家族に良くないことが起こる前兆ではないか」

等々を気にする人も多いのが現状です。

自分や家族に災いが起こることを恐れて神経質になってしまうのは人情としてわからなくもありません。

しかしながら災いが起こったときにその原因を墓のひびあるいはご先祖が祟っていると考えて、墓石・先祖のせいにして事実を正しく見つめようとしない心の有り様こそが問題であることに気づかなければなりません。

墓のひび等の墓相にこだわるということは根も葉もない迷信にふりまわされることであり、かえって不安や恐れを増して心からの安らぎが得られない結果となります。

もちろん、ひびが大きくなってきたり、墓が傾いて倒れそうになっている場合は、修理や取り替え等を行わなければならないでしょう。

しかし、それは「災いがおこる」・「不幸を招く」から行うのではなく、ご先祖の遺徳を偲び、阿弥陀さまのお慈悲を味わう場として、気持ちよく手を合わせるために行うのです。

墓相にまつわる迷信、日の良い悪しにまつわる迷信等々ある現状において、様々な束縛から解放されて頂いたいのちを心豊かに生き、安心していのち終えていくことのできるみ教えを親鸞聖人はお伝え下さいました。

心配なことがありましたらそのみ教えをお伝え下さるお寺に相談にいかれることをお勧めいたします。

親鸞・去来篇 怪盗 (6)

食物だの、衣服だの、また心づいた薬などの手に入るたびに、性善房は、範宴の旨をうけて、町の木賃へ運んで行った。

「きょうは、たいへんお元気でございました。あのご容子(ようす)ならば、もう明日あたりは、お床を上げられましょう」

きょうも、町から戻ってきた性善房が、彼の部屋へ来て告げた。

範宴の眉は、幾分か、明るくなって、

「――そうか。それではまず、弟の病気のほうは、一安心だが……」

「後が、もう一苦労でございますな」

「あの女子(おなご)との問題はどうしたものか。……もう養父上(ちちうえ)から、誰か迎えの者が来るころだが」

「観真様にも、さだめは、御心痛でございましょうに」

「それをいうてくれるな、わしたち兄弟は、生みの母君もともに、今の養父にひきとられて、乱世の中を、また貧困の中を、どれほど、ご苦労ばかりおかけ申してきたことか。……思うても胸がいとうなる」

「ぜひないことでございまする……」

やや世の中がしずまって、養父も、頭(つむり)を落し、せめて老後の月日をわずらいなく自適していらっしゃると思えばまたもこうしたことが起きてくる。

「……朝麿の罪ばかりは責められぬ、この範宴とても、いつ、養父にご安心をおさせ申したか。わしも、もっと励まねばならぬ。それが、亡き母君への唯一のお手向けではあるまいか」

性善房は、胸がいっぱいなって、何もいえなくなった。

範宴の肉体に赫々(かっかく)と燃えている火のような希望も頼もしくおもいながらも、目前の当惑には、つい弱い嘆息が出てしまうのであった。

「範宴どの。――都から早文が着いておるぞ。寮の執務所まで、取りにおいでなさい」

庭先で、誰かいった。

さては――と範宴はすぐ書面をとってきて、封を切った。

待ちわびていた養父からの返事である。

返書が来たところをみると、若い二人を迎える使いはよこさないものとみえる。

養父はどう考えているのだろうか、どう処置せよと仰(お)っしゃるのだろうか。

読みくだしてゆくうちに、彼は養父の筆のあとに、養父の顔つきだの心だのがなまなまと眼にみえた。

親子の慈愛というものが、惻々(そくそく)と胸をうってくる。

しかし養父が書中にいっている要点は、その慈愛とは反対に次のような厳格な意見であった。

(女子の親とも相談したが、言語にたえた不所存者である。

家を捨てて出た衣装、かまいつけることはないと決めた。

おもとも、不埒な駈落ち者などに関(かま)っておらずに、専心勉学されたがよい。

当人たちが困ろうと、飢えようと自業自得であり、むしろ生きた学問となろう。

親のことばより実際の社会(よのなか)から少し学ばせたほうが慈悲というものだ。

迎えの使いなどは断じて出さぬ)

というのである。

親鸞・去来篇(5)

金を見ると木賃の亭主は、平(ひら)蜘蛛(ぐも)のように謝り入って、それからは手のひらを返すように、頼みもしない薪を持ってきたり、粥を煮ようの、薬はあるかの、うるさいほど、親切の安売りをする。

「……現金な奴だ」野武士ていの男は苦笑しながら梢にむかって、

「お女房。ご病人のようすはどうだな、すこしはいいか」

「いつも、ありがとうございまする、おかげ様で、きょうあたりは……」

梢は、範宴にむかって、

「お兄さま。この隣のお方には、毎日何くれとなくお世話になっております。お礼を申し上げてくださいませ」

といった。

範宴はそういわれぬうちから、なんと礼をいったらよいかと、胸のうちでいっぱいに感謝しているのだった。

世には奇特な人もある。

弱肉強食の巷とばかり世間を見るのは偏見であって、こういう隣人があればこそ、修羅火宅のなかにも楽土がある。

あえぐことのみ多い生活のうちにも清泉に息づく思いができるというものであろう。

かかる人こそ、仏心を意識しないで仏心を権化(ごんげ)している奇特人というべきである。

何を職業としている者かありがたい存在といわねばならぬ。

範宴は、両手をつかえて、真ごころから礼を述べ、建て替えてくれた金子(きんす)は、沙門の身ゆえ、すぐには調達できないが、両三日うちには必ず持ってきて返済するというと、男は磊落(らいらく)に笑って、

「そんな義理がたいことには及ばないさ。奈良の茶屋町で、一晩遊べば、あれくらいな金はすぐにけし飛んでしまう。お坊さんへ、喜捨いたしますよ。はははは」

「それでは余り恐れ入ります。失礼ですが、ご尊名は」

「名まえかい。――名をいうほどな人間でもないが、これでも、先祖は伊豆の一族。今では浪人をしているので、生国(しょうごく)の名をとって、天城(あまぎの)四郎とよんでいる田舎武士だよ」

「では、旅先のお体でございますか。さすればなおのこと、路銀のうちを私どもの難義のためにお割きくだされては、ご不自由でございましょうに」

「なんの、長者ほどはないが、路銀ぐらいに不自由はしない。くれぐれも、心配しなさるな。そう案じてくれては、せっかくのこっちの好意がかえって無になる。……ああ思わず邪魔をした。どれ、自分の塒(ねぐら)に入ろうか」

そういうと、男は隣の間に入って、ふたたび顔を見せもしない。

やがて、黄昏れの寒(かん)鴉(あ)の声を聞きながら、範宴も、法隆寺へ帰って行った。

そして、山門の外から本堂の御扉を拝して、弟のために、祈念をこらした。

その夜――凍りつく筆毛を走らせて、彼は、粟田口の草庵にいる養父(ちち)の範綱――今ではその俗名を捨てて観真とよぶ養父へ宛てて、書くにも辛い手紙を書き、あくる朝、駅使(うまやづかい)にたのんで京へ出しておいた。

『私が私でよかったと思える私になりたい』(中期)

人は、意識の度合いは違っていても、誰もが心の中で「(人として生まれたからには)幸福になりたい」と思って生きています。

そのような意味で、人類の歴史とは、

「幸福を願い、それを現実のものとするための方法を考え行為を繰り返し、その考えと行為が次から次へと受け継がれ無限に広がってきたものだ」

と言えます。

そして、このような幸福の求めによる成果を、私たちは科学の進歩とか人類の発展という言葉で呼んでいるのですが、いつの時代にあっても、常に幸福を求める無数の人びとがいたからこそ、今日までの人類の進歩や発展というものが続いてきたのかもしれません。

ところで、一般に私たちが幸福を口にする時、未来に幸福の実現を夢見る一方、未来に夢見た幸福な自分の姿から見て、そうではない現在の自分を歎いたり悲しんだりしているということが少なからずあります。

けれども、本当の幸福というものは未来に夢見られるのではなく、この現在において感じられてこそ意味があるはずです。

考えてみますと、未来に幸福を求めているということは、今ここにこうして生きている私は、未来に幸福を求めなくてはならないような不平不満の状態にあるということにほかなりません。

昔から「隣の芝生は青い」とか「隣の花は赤い」ということを言います。

「他人のものは自分のものよりもよく見える」ということの例えですが、これは私たちが、いつでも他の何かと比べることでしか、自分の幸福を考えることができないということを如実に物語っている言葉だと言えます。

したがって、幸福はいつでも他人の上にしかなく、しかも私においては未来にあって現在にはない、そういう事実の中で私たちは生きているということです。

そうすると、必然的に現在にあるものはいつでも不平不満であり、その満ち足りない気持ちで他人を見ては他人の上に幸福を感じ、未来に望んでいる幸福から現在を見ては、希望通りでない自分を歎き悲しむことになってしまう訳です。

とはいえ、それでは常に自分は不幸の只中にあってやりきれない思いに沈むばかり…ということになってしまうので、時折自分よりも不幸そうな人と比べて、「自分はまあ幸福な方ではないか」と、自身の不平不満を解消してバランスをとっているというのが、私たちの日々の在り方です。

ところが、そのようにして不平不満を自分で無理に納得させている限り、本当に腹の底から幸福だと実感することはできないのではないでしょうか。

なぜなら、自分の生きる環境は同じであるのに、自分より幸福そうな人を見ては不幸だと歎き、自分より不幸そうな人は見ては幸福だと喜ぶといった在り方は、自身を誤魔化しているだけに過ぎないからです。

私たちは、誰もが「幸福になりたい」と願っているのに、人生の途上においては、好むと好まざるとに関わらず、縁に触れ折りに触れ苦しみや悲しみが何度も襲ってきます。

そうすると、どれほど「幸福になりたい」と願っても、本当の意味での幸福を得ることができなければ、最後は「空しかった」という一言で、人生の全てが無駄なものとして砕け散ってしまわざるを得ません。

では、本当の幸福とはいったいどのようなものなのでしょうか。

思うに、たとえ苦しくても悲しくても、その苦しみや悲しみが本当の意味で空しくない、苦しみの中に無駄ではなかったといえるものが感じら、悲しみの中にも人生の意味が見出されない限り、人間の一生というものは、どれほど長く生きたとしても「生きた」という深い頷きを持ち得ないのではないでしょうか。

そうすると、本当の幸福とは

「自分が生きたという事実が決して空しく終わらない」、

言い換えると

「現実を安心して生きることのできる道が明らかになること」

だと言えます。

私たちは、いつも他人との比較の中で幸福を考えているのですが、振り返ってみますと、私が自身にどれほど絶望し、仮に「死んでしまいたい」とまでと思っても、決して私を見捨てない事実があります。

それは何かというと、私の「いのち」そのものです。

私は、自分のこの「いのち」を自分で作ったという覚えもありませんし、頼んだ覚えもないのですが、私の「いのち」は今日ここまでこうして私を生かし続けてくれています。

そうすると、誰でもない、この私が自身の「いのち」に安んじるということがなければ、つまり私が私に生まれ、この人生を私が生きて行くということに誇りを持つということがなければ、やはり最後は「空しかった」という一言に全てが収斂され、死と共に砕け散っていくことにならざるを得ません。

親鸞聖人は、ご和讃(高僧和讃)の中で

罪障功徳の体となるこおりとみずのごとくにて

こおりおおきにみずおおしさわりおおきに徳おおし

と、讃えておられます。

仏教では「罪」とは煩悩によって創り出される悪の行為、「障り」とは覚りの生涯になるという意味で、このことから「罪障」とは「功徳」と相反するものだといえます。

ところが、親鸞聖人は、そのような「罪障」が、功徳のもとであるのだといわれます。

更に、その「罪障」が多ければ多いほど、それが転じたときに得られる功徳が多くなる、つまり「罪障」があるからこそ、私たちは「功徳」を得ることができるのだと述べておられます。

私たちは、生きて行く中で様々な困難に出遭います。

そして、思い通りにならない現実に直面して苦しんだり悩んだり、時には過ちを犯したり、失敗したりすることさえあったりします。

けれども、私の人生の主人公は私以外、他には誰もいないのであり、たとえうまくいってもいかなくても、私がこの人生の全てを引き受けて行くのだということに深い頷きをもつと、かつて運命だと諦めようとした、あるいは不幸だったと切り捨てようとしたことなど、まさに「罪障」とでもいうべきことが、単に「無駄なこと」に終わるのではなく、まるで大きな氷が溶ければたくさんの水が流れだして全てを潤していくように、私の人生の全体を輝かせてくれることになるのだと言われるのです。

確かに、辛いこと、悲しいこと、苦しいことなど、できればない方がいいに決まっています。

けれども、一方で「人間には悲しみを通さないと見えてこない世界がある」とも言われます。

そういった事柄をくぐって、再び勇気を持って立ちあがるとき、それまで当たり前と思っていたことが実はそうではなかった、気付かなかったこと、見落としていたことに気が付いたり、眼を開いたりすることができたりするものです。

このような意味で本当の幸福とは、決して快楽でもなければ一時の感動でもなく、現在の自分に満足する「自己充足の感情」とでも称すべきものであり、言い換えると「私が私で良かったと思える私であること」への深い頷きとでも言うことのできるように思われます。

真宗講座親鸞聖人に見る「往相と還相」

阿弥陀仏の回向法としての「往相と還相」(11月中期)

さて、証果論において、親鸞聖人の思想における最大の特徴は、この往相の証果に対して、いま一つ還相の証果が殊に強調されている点だといえます。

そして『教行信証』では、この還相の証果が

「二に還相の廻向と言ふは、則ち是れ利他教化地の益なり。即是必至補処の願より出でたり。…また還相廻向の願と名づくべきなり」

と示されます。

このことから、還相の廻向が誓われている願とは、第二十二の願であることが明らかになります。

そしてこの第二十二願が、ことに「還相廻向の願」と名づけられていることから、「往相廻向の願」である第十七願と、この第二十二願がまさしく対応していることが知られます。

こうして「往相」と「還相」の意義は、第十七願と第二十二願の内実、より端的に言えば、「行巻」と「証巻」の根本問題が明らかになって、はじめて解明されることになります。

この還相廻向に関して、『文類聚鈔』では

「必至補処の願より出でたり。…還相廻向の願と名づく…」

と、『教行信証』とほぼ同一の表現がとられているのですが、和語の著述では

「二に還相の廻向といふは、浄土論に曰く。本願力の廻向をもっての故に、是を出第五門と名づくといへり。これは還相の廻向なり。一生補処の悲願にあらわれたり。…この悲願は如来の還相廻向の御ちかひなり」

「二、還相廻向といふは、…一生補処の大願にあらわれたり。…(第二十二願)…これは如来の還相廻向の御ちかひなり。これは他力の還相の廻向なれば、自利・利他ともに行者の願楽にあらず、法蔵菩薩の誓願なり」

と述べられ、衆生の往生との関係を同時に含めて論じられている点で、前二者との間で、表現に微妙な差異が存在することになります。

最後に「往相廻向の教」の問題が残りました。

いったい、往相廻向の「教」とは何なのでしょうか。

これは『教行信証』のみに見られる特殊な表現で、同様に往還の二種廻向が問題にされている『文類聚鈔』『三経往生文類』『二種廻向文』では、往相廻向については、いずれも「行・信・証」が問題にされているのみで、「教」は含まれてはいません。

そうすると『教行信証』の「教巻」に説かれている思想が、この往相廻向の「教」を示す唯一の文となります。

そして「教巻」では、この教を端的に「夫れ真実の教を顕さば、則ち大無量寿経是れなり」と定義されます。

浄土真宗にあって、真実の教が『無量寿経』であるということは、親鸞聖人の思想を学ぶものにおいては、自明の理とも言うべきことで、ここには何ら疑いをはさむ余地はありません。

ところが、不思議なことに「教巻」における『無量寿経』の引文を窺うと、『大無量寿経』の根本思想を説くとみなされる重要な箇所は、何一つ引用されていません。

「教巻」の『無量寿経』の引文は、ただ「発起序」の釈尊が弥陀三昧に入られて、今までにない不可思議な光顔巍巍としたお姿を示されたとする「五徳瑞現」の部分のみです。

しかも親鸞聖人は、『無量寿経』の肝心な内容を内一つ述べられることなく、釈尊が今までになく輝いたとされる「五徳瑞現」に、この『無量寿経』こそが、釈尊の出世本懐の経であり、真実の教だと証明する根本的な根拠を見られます。

このことは、いったい何を意味しているのでしょうか。

これは、釈尊の「五徳瑞現」こそが、阿弥陀仏の往相廻向の「教」が具体的にこの世に出現した証だということにほかなりません。

ただし、まだこの時点では、教法についての釈尊の説法は始まってはいません。

したがって、釈尊はまだ一言も、言葉としてこの法については語られていませんし、ましてや文字に書かれた『無量寿経』という経典は、この世には未だ一文字も存在してはいません。

けれども、迷える一切の衆生を阿弥陀仏の浄土に往生せしめるという、阿弥陀仏の本願の名号と功徳の教法は、今まさしく完全に阿弥陀仏から釈尊に廻向されているのです。

この内実が、やがて『無量寿経』として説かれることになるが故に、この『無量寿経』が浄土の真実の教であり、また釈尊の出世本懐の経と呼ばれることになるのですが、ただこの釈尊の説法という行為は、釈尊における真実の行道にほかならないことから、親鸞聖人はこの南無阿弥陀仏についての説法を、浄土真宗の行とし、「行巻」に語られることになるのです。

こうして、親鸞聖人はこの阿弥陀仏より廻向された教法を完全に領受されて、今まさに法悦に輝いておられる釈尊の「五徳瑞現」の心を、一切の衆生を阿弥陀仏の浄土に往生せしめる「往相廻向の教」そのものと捉えられたのです。

これは、阿弥陀仏の願心より、釈尊の心に廻向された教法そのものにほかなりません。

この点を「教巻」冒頭で、「謹んで浄土真宗を案ずるに」と言われているのです。

ただしこのことは、親鸞聖人の思想にあっては、浄土真実の教とは何かを、「教巻」という独自の項目を立てて掘り下げることのできた『教行信証』においてのみ語ることが可能であったのだと理解する必要があります。

往相廻向の「教」という表現が、他の著述において見られないのはこのためで、いわば、衆生と直接関係する往還二廻向の法とは、具体的は「行・信・証」ということになります。

さて、阿弥陀仏の願心より発起された往還二廻向の法が、釈尊の心に廻向され、その法が今、釈尊によって語られることになりました。

それが「行巻」以下の内容です。

そこで「行巻」以下は、具体的に阿弥陀仏の願が示され、この世に出現している「行・信・証」の、二廻向の法の物体とその功徳が明らかにされることになります。

では、親鸞聖人は、この「行・信・証」の物体とその功徳を、どのように捉えておられたのでしょうか。

それが、次の第二の問題点になります。