投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

親鸞・去来篇 怪盗 (6)

食物だの、衣服だの、また心づいた薬などの手に入るたびに、性善房は、範宴の旨をうけて、町の木賃へ運んで行った。

「きょうは、たいへんお元気でございました。あのご容子(ようす)ならば、もう明日あたりは、お床を上げられましょう」

きょうも、町から戻ってきた性善房が、彼の部屋へ来て告げた。

範宴の眉は、幾分か、明るくなって、

「――そうか。それではまず、弟の病気のほうは、一安心だが……」

「後が、もう一苦労でございますな」

「あの女子(おなご)との問題はどうしたものか。……もう養父上(ちちうえ)から、誰か迎えの者が来るころだが」

「観真様にも、さだめは、御心痛でございましょうに」

「それをいうてくれるな、わしたち兄弟は、生みの母君もともに、今の養父にひきとられて、乱世の中を、また貧困の中を、どれほど、ご苦労ばかりおかけ申してきたことか。……思うても胸がいとうなる」

「ぜひないことでございまする……」

やや世の中がしずまって、養父も、頭(つむり)を落し、せめて老後の月日をわずらいなく自適していらっしゃると思えばまたもこうしたことが起きてくる。

「……朝麿の罪ばかりは責められぬ、この範宴とても、いつ、養父にご安心をおさせ申したか。わしも、もっと励まねばならぬ。それが、亡き母君への唯一のお手向けではあるまいか」

性善房は、胸がいっぱいなって、何もいえなくなった。

範宴の肉体に赫々(かっかく)と燃えている火のような希望も頼もしくおもいながらも、目前の当惑には、つい弱い嘆息が出てしまうのであった。

「範宴どの。――都から早文が着いておるぞ。寮の執務所まで、取りにおいでなさい」

庭先で、誰かいった。

さては――と範宴はすぐ書面をとってきて、封を切った。

待ちわびていた養父からの返事である。

返書が来たところをみると、若い二人を迎える使いはよこさないものとみえる。

養父はどう考えているのだろうか、どう処置せよと仰(お)っしゃるのだろうか。

読みくだしてゆくうちに、彼は養父の筆のあとに、養父の顔つきだの心だのがなまなまと眼にみえた。

親子の慈愛というものが、惻々(そくそく)と胸をうってくる。

しかし養父が書中にいっている要点は、その慈愛とは反対に次のような厳格な意見であった。

(女子の親とも相談したが、言語にたえた不所存者である。

家を捨てて出た衣装、かまいつけることはないと決めた。

おもとも、不埒な駈落ち者などに関(かま)っておらずに、専心勉学されたがよい。

当人たちが困ろうと、飢えようと自業自得であり、むしろ生きた学問となろう。

親のことばより実際の社会(よのなか)から少し学ばせたほうが慈悲というものだ。

迎えの使いなどは断じて出さぬ)

というのである。

親鸞・去来篇(5)

金を見ると木賃の亭主は、平(ひら)蜘蛛(ぐも)のように謝り入って、それからは手のひらを返すように、頼みもしない薪を持ってきたり、粥を煮ようの、薬はあるかの、うるさいほど、親切の安売りをする。

「……現金な奴だ」野武士ていの男は苦笑しながら梢にむかって、

「お女房。ご病人のようすはどうだな、すこしはいいか」

「いつも、ありがとうございまする、おかげ様で、きょうあたりは……」

梢は、範宴にむかって、

「お兄さま。この隣のお方には、毎日何くれとなくお世話になっております。お礼を申し上げてくださいませ」

といった。

範宴はそういわれぬうちから、なんと礼をいったらよいかと、胸のうちでいっぱいに感謝しているのだった。

世には奇特な人もある。

弱肉強食の巷とばかり世間を見るのは偏見であって、こういう隣人があればこそ、修羅火宅のなかにも楽土がある。

あえぐことのみ多い生活のうちにも清泉に息づく思いができるというものであろう。

かかる人こそ、仏心を意識しないで仏心を権化(ごんげ)している奇特人というべきである。

何を職業としている者かありがたい存在といわねばならぬ。

範宴は、両手をつかえて、真ごころから礼を述べ、建て替えてくれた金子(きんす)は、沙門の身ゆえ、すぐには調達できないが、両三日うちには必ず持ってきて返済するというと、男は磊落(らいらく)に笑って、

「そんな義理がたいことには及ばないさ。奈良の茶屋町で、一晩遊べば、あれくらいな金はすぐにけし飛んでしまう。お坊さんへ、喜捨いたしますよ。はははは」

「それでは余り恐れ入ります。失礼ですが、ご尊名は」

「名まえかい。――名をいうほどな人間でもないが、これでも、先祖は伊豆の一族。今では浪人をしているので、生国(しょうごく)の名をとって、天城(あまぎの)四郎とよんでいる田舎武士だよ」

「では、旅先のお体でございますか。さすればなおのこと、路銀のうちを私どもの難義のためにお割きくだされては、ご不自由でございましょうに」

「なんの、長者ほどはないが、路銀ぐらいに不自由はしない。くれぐれも、心配しなさるな。そう案じてくれては、せっかくのこっちの好意がかえって無になる。……ああ思わず邪魔をした。どれ、自分の塒(ねぐら)に入ろうか」

そういうと、男は隣の間に入って、ふたたび顔を見せもしない。

やがて、黄昏れの寒(かん)鴉(あ)の声を聞きながら、範宴も、法隆寺へ帰って行った。

そして、山門の外から本堂の御扉を拝して、弟のために、祈念をこらした。

その夜――凍りつく筆毛を走らせて、彼は、粟田口の草庵にいる養父(ちち)の範綱――今ではその俗名を捨てて観真とよぶ養父へ宛てて、書くにも辛い手紙を書き、あくる朝、駅使(うまやづかい)にたのんで京へ出しておいた。

『私が私でよかったと思える私になりたい』(中期)

人は、意識の度合いは違っていても、誰もが心の中で「(人として生まれたからには)幸福になりたい」と思って生きています。

そのような意味で、人類の歴史とは、

「幸福を願い、それを現実のものとするための方法を考え行為を繰り返し、その考えと行為が次から次へと受け継がれ無限に広がってきたものだ」

と言えます。

そして、このような幸福の求めによる成果を、私たちは科学の進歩とか人類の発展という言葉で呼んでいるのですが、いつの時代にあっても、常に幸福を求める無数の人びとがいたからこそ、今日までの人類の進歩や発展というものが続いてきたのかもしれません。

ところで、一般に私たちが幸福を口にする時、未来に幸福の実現を夢見る一方、未来に夢見た幸福な自分の姿から見て、そうではない現在の自分を歎いたり悲しんだりしているということが少なからずあります。

けれども、本当の幸福というものは未来に夢見られるのではなく、この現在において感じられてこそ意味があるはずです。

考えてみますと、未来に幸福を求めているということは、今ここにこうして生きている私は、未来に幸福を求めなくてはならないような不平不満の状態にあるということにほかなりません。

昔から「隣の芝生は青い」とか「隣の花は赤い」ということを言います。

「他人のものは自分のものよりもよく見える」ということの例えですが、これは私たちが、いつでも他の何かと比べることでしか、自分の幸福を考えることができないということを如実に物語っている言葉だと言えます。

したがって、幸福はいつでも他人の上にしかなく、しかも私においては未来にあって現在にはない、そういう事実の中で私たちは生きているということです。

そうすると、必然的に現在にあるものはいつでも不平不満であり、その満ち足りない気持ちで他人を見ては他人の上に幸福を感じ、未来に望んでいる幸福から現在を見ては、希望通りでない自分を歎き悲しむことになってしまう訳です。

とはいえ、それでは常に自分は不幸の只中にあってやりきれない思いに沈むばかり…ということになってしまうので、時折自分よりも不幸そうな人と比べて、「自分はまあ幸福な方ではないか」と、自身の不平不満を解消してバランスをとっているというのが、私たちの日々の在り方です。

ところが、そのようにして不平不満を自分で無理に納得させている限り、本当に腹の底から幸福だと実感することはできないのではないでしょうか。

なぜなら、自分の生きる環境は同じであるのに、自分より幸福そうな人を見ては不幸だと歎き、自分より不幸そうな人は見ては幸福だと喜ぶといった在り方は、自身を誤魔化しているだけに過ぎないからです。

私たちは、誰もが「幸福になりたい」と願っているのに、人生の途上においては、好むと好まざるとに関わらず、縁に触れ折りに触れ苦しみや悲しみが何度も襲ってきます。

そうすると、どれほど「幸福になりたい」と願っても、本当の意味での幸福を得ることができなければ、最後は「空しかった」という一言で、人生の全てが無駄なものとして砕け散ってしまわざるを得ません。

では、本当の幸福とはいったいどのようなものなのでしょうか。

思うに、たとえ苦しくても悲しくても、その苦しみや悲しみが本当の意味で空しくない、苦しみの中に無駄ではなかったといえるものが感じら、悲しみの中にも人生の意味が見出されない限り、人間の一生というものは、どれほど長く生きたとしても「生きた」という深い頷きを持ち得ないのではないでしょうか。

そうすると、本当の幸福とは

「自分が生きたという事実が決して空しく終わらない」、

言い換えると

「現実を安心して生きることのできる道が明らかになること」

だと言えます。

私たちは、いつも他人との比較の中で幸福を考えているのですが、振り返ってみますと、私が自身にどれほど絶望し、仮に「死んでしまいたい」とまでと思っても、決して私を見捨てない事実があります。

それは何かというと、私の「いのち」そのものです。

私は、自分のこの「いのち」を自分で作ったという覚えもありませんし、頼んだ覚えもないのですが、私の「いのち」は今日ここまでこうして私を生かし続けてくれています。

そうすると、誰でもない、この私が自身の「いのち」に安んじるということがなければ、つまり私が私に生まれ、この人生を私が生きて行くということに誇りを持つということがなければ、やはり最後は「空しかった」という一言に全てが収斂され、死と共に砕け散っていくことにならざるを得ません。

親鸞聖人は、ご和讃(高僧和讃)の中で

罪障功徳の体となるこおりとみずのごとくにて

こおりおおきにみずおおしさわりおおきに徳おおし

と、讃えておられます。

仏教では「罪」とは煩悩によって創り出される悪の行為、「障り」とは覚りの生涯になるという意味で、このことから「罪障」とは「功徳」と相反するものだといえます。

ところが、親鸞聖人は、そのような「罪障」が、功徳のもとであるのだといわれます。

更に、その「罪障」が多ければ多いほど、それが転じたときに得られる功徳が多くなる、つまり「罪障」があるからこそ、私たちは「功徳」を得ることができるのだと述べておられます。

私たちは、生きて行く中で様々な困難に出遭います。

そして、思い通りにならない現実に直面して苦しんだり悩んだり、時には過ちを犯したり、失敗したりすることさえあったりします。

けれども、私の人生の主人公は私以外、他には誰もいないのであり、たとえうまくいってもいかなくても、私がこの人生の全てを引き受けて行くのだということに深い頷きをもつと、かつて運命だと諦めようとした、あるいは不幸だったと切り捨てようとしたことなど、まさに「罪障」とでもいうべきことが、単に「無駄なこと」に終わるのではなく、まるで大きな氷が溶ければたくさんの水が流れだして全てを潤していくように、私の人生の全体を輝かせてくれることになるのだと言われるのです。

確かに、辛いこと、悲しいこと、苦しいことなど、できればない方がいいに決まっています。

けれども、一方で「人間には悲しみを通さないと見えてこない世界がある」とも言われます。

そういった事柄をくぐって、再び勇気を持って立ちあがるとき、それまで当たり前と思っていたことが実はそうではなかった、気付かなかったこと、見落としていたことに気が付いたり、眼を開いたりすることができたりするものです。

このような意味で本当の幸福とは、決して快楽でもなければ一時の感動でもなく、現在の自分に満足する「自己充足の感情」とでも称すべきものであり、言い換えると「私が私で良かったと思える私であること」への深い頷きとでも言うことのできるように思われます。

真宗講座親鸞聖人に見る「往相と還相」

阿弥陀仏の回向法としての「往相と還相」(11月中期)

さて、証果論において、親鸞聖人の思想における最大の特徴は、この往相の証果に対して、いま一つ還相の証果が殊に強調されている点だといえます。

そして『教行信証』では、この還相の証果が

「二に還相の廻向と言ふは、則ち是れ利他教化地の益なり。即是必至補処の願より出でたり。…また還相廻向の願と名づくべきなり」

と示されます。

このことから、還相の廻向が誓われている願とは、第二十二の願であることが明らかになります。

そしてこの第二十二願が、ことに「還相廻向の願」と名づけられていることから、「往相廻向の願」である第十七願と、この第二十二願がまさしく対応していることが知られます。

こうして「往相」と「還相」の意義は、第十七願と第二十二願の内実、より端的に言えば、「行巻」と「証巻」の根本問題が明らかになって、はじめて解明されることになります。

この還相廻向に関して、『文類聚鈔』では

「必至補処の願より出でたり。…還相廻向の願と名づく…」

と、『教行信証』とほぼ同一の表現がとられているのですが、和語の著述では

「二に還相の廻向といふは、浄土論に曰く。本願力の廻向をもっての故に、是を出第五門と名づくといへり。これは還相の廻向なり。一生補処の悲願にあらわれたり。…この悲願は如来の還相廻向の御ちかひなり」

「二、還相廻向といふは、…一生補処の大願にあらわれたり。…(第二十二願)…これは如来の還相廻向の御ちかひなり。これは他力の還相の廻向なれば、自利・利他ともに行者の願楽にあらず、法蔵菩薩の誓願なり」

と述べられ、衆生の往生との関係を同時に含めて論じられている点で、前二者との間で、表現に微妙な差異が存在することになります。

最後に「往相廻向の教」の問題が残りました。

いったい、往相廻向の「教」とは何なのでしょうか。

これは『教行信証』のみに見られる特殊な表現で、同様に往還の二種廻向が問題にされている『文類聚鈔』『三経往生文類』『二種廻向文』では、往相廻向については、いずれも「行・信・証」が問題にされているのみで、「教」は含まれてはいません。

そうすると『教行信証』の「教巻」に説かれている思想が、この往相廻向の「教」を示す唯一の文となります。

そして「教巻」では、この教を端的に「夫れ真実の教を顕さば、則ち大無量寿経是れなり」と定義されます。

浄土真宗にあって、真実の教が『無量寿経』であるということは、親鸞聖人の思想を学ぶものにおいては、自明の理とも言うべきことで、ここには何ら疑いをはさむ余地はありません。

ところが、不思議なことに「教巻」における『無量寿経』の引文を窺うと、『大無量寿経』の根本思想を説くとみなされる重要な箇所は、何一つ引用されていません。

「教巻」の『無量寿経』の引文は、ただ「発起序」の釈尊が弥陀三昧に入られて、今までにない不可思議な光顔巍巍としたお姿を示されたとする「五徳瑞現」の部分のみです。

しかも親鸞聖人は、『無量寿経』の肝心な内容を内一つ述べられることなく、釈尊が今までになく輝いたとされる「五徳瑞現」に、この『無量寿経』こそが、釈尊の出世本懐の経であり、真実の教だと証明する根本的な根拠を見られます。

このことは、いったい何を意味しているのでしょうか。

これは、釈尊の「五徳瑞現」こそが、阿弥陀仏の往相廻向の「教」が具体的にこの世に出現した証だということにほかなりません。

ただし、まだこの時点では、教法についての釈尊の説法は始まってはいません。

したがって、釈尊はまだ一言も、言葉としてこの法については語られていませんし、ましてや文字に書かれた『無量寿経』という経典は、この世には未だ一文字も存在してはいません。

けれども、迷える一切の衆生を阿弥陀仏の浄土に往生せしめるという、阿弥陀仏の本願の名号と功徳の教法は、今まさしく完全に阿弥陀仏から釈尊に廻向されているのです。

この内実が、やがて『無量寿経』として説かれることになるが故に、この『無量寿経』が浄土の真実の教であり、また釈尊の出世本懐の経と呼ばれることになるのですが、ただこの釈尊の説法という行為は、釈尊における真実の行道にほかならないことから、親鸞聖人はこの南無阿弥陀仏についての説法を、浄土真宗の行とし、「行巻」に語られることになるのです。

こうして、親鸞聖人はこの阿弥陀仏より廻向された教法を完全に領受されて、今まさに法悦に輝いておられる釈尊の「五徳瑞現」の心を、一切の衆生を阿弥陀仏の浄土に往生せしめる「往相廻向の教」そのものと捉えられたのです。

これは、阿弥陀仏の願心より、釈尊の心に廻向された教法そのものにほかなりません。

この点を「教巻」冒頭で、「謹んで浄土真宗を案ずるに」と言われているのです。

ただしこのことは、親鸞聖人の思想にあっては、浄土真実の教とは何かを、「教巻」という独自の項目を立てて掘り下げることのできた『教行信証』においてのみ語ることが可能であったのだと理解する必要があります。

往相廻向の「教」という表現が、他の著述において見られないのはこのためで、いわば、衆生と直接関係する往還二廻向の法とは、具体的は「行・信・証」ということになります。

さて、阿弥陀仏の願心より発起された往還二廻向の法が、釈尊の心に廻向され、その法が今、釈尊によって語られることになりました。

それが「行巻」以下の内容です。

そこで「行巻」以下は、具体的に阿弥陀仏の願が示され、この世に出現している「行・信・証」の、二廻向の法の物体とその功徳が明らかにされることになります。

では、親鸞聖人は、この「行・信・証」の物体とその功徳を、どのように捉えておられたのでしょうか。

それが、次の第二の問題点になります。

「ロケット打ち上げの秘密」(中旬)ロケットの最も薄いところは厚さ2mm

ロケットはてっぺんに人工衛星を積んでいます。

しかし空気中をむき出しで打ち上げては空気摩擦と熱で壊れてしまうので、衛星を包み込むための保護カバー「衛星フェアリング」というものをつけます。

その下に2段目ロケット、さらにその下に1段目ロケットがついています。

そして、強力な推力を出す固体ロケットブースター。

これらによって得た全体重量を倍近く上回る推力で、ロケットは持ち上がって行く訳です。

全体の9割を占める燃料が入っているのがロケットの本体・構造物の部分です。

この構造物は直径4mなんですが、実は最も薄いところは厚さ2mmしかないんです。

そのぐらい薄くしなければ軽くできないということです。

それを特殊な工法を用いて、ロケット本体がつぶれて壊れないようにしています。

エンジン部分では、超低温の酸素と水素に火をつけて、推力となる燃焼ガスを出すんですが、ここでは何と1秒間で500lもの燃料が消費されています。

このようにして、ロケットは打ち上がっているんです。

種子島でロケットを打ち上げるときは、海上輸送で部品を島まで運び、陸揚げして、深夜のうちに発射場まで輸送します。

発射場に到着したロケットは1段目から順に発射台に乗せて組み立て、ロケットに問題がないことを確認したら、人工衛星を乗せます。

最後に試験をして打ち上げ当日を迎えます。

組立開始から1カ月半ほどかかり、当日は専用の移動台車で発射台ごと発射点まで移動させます。

移動で約1時間です。

その後、固定して配管をつないだりして燃料を入れ、その状態でロケット本体・人工衛星・発射設備の準備、安全の確保、打ち上げ時間、天候といったさまざまな条件を確認してから打ち上げ作業に入ります。

この作業に約10時間かかります。

そして10分前から最後の秒読みに入ります。

わずかなズレも許されない状況ですから、4分30秒前の段階になると全部コンピューターに任せ、信号のやりとりで作業が進むようになります。

そして最終的に問題がないとロケットのコンピューターが判断したとき、固体ロケットに点火され打ち上げられます。

ロケットは、衛星の用途によっていろんな角度で飛ばす必要があるんですが、イプシロンをはじめ、現在のロケットは自分で最適な角度を計算して、姿勢を制御しながら飛んでいきます。

そして、ロケットはいらなくなった物をどんどん切り離して飛んでいきます。

最初に、横の固体ロケットが燃え尽きるので、これを切り離します。

次に、空気がなくなる高度100km以上に到達すると、空気摩擦などから人工衛星を保護する衛星フェアリングが不要になりますので分離されます。

そして1段目ロケットが燃え尽きたら1段目を切り離し、2段目が燃え尽きたらそれも分離します。

それで地球を回るスピードになったら、今度は衛星を切り離します。

そういう順序でロケットはどんどんスピードを増して衛星を目的の所に届けます。

ロケットは、このようにして打ち上げられ、輸送機としての役割を果たしている訳です。

春はあけぼの。春のあれヤバい。

春はあけぼの。

やうやう白くなりゆく山ぎは少し明かりて紫だちたる雲の細くたなびきたる。

有名な『枕草子』の一節です。

現代語に訳すと

春は、あけぼの(夜明けの太陽)の頃が趣深い。

だんだんに白くなっていく山際(山の稜線に接する空の部分)が

少し明るくなって、紫がかった雲が

細くたなびいているところが趣深い。

といった感じになります。

ちなみに、筆者の清少納言は、他の季節について

「夏は、夜」

「秋は、夕暮」

「冬は、つとめて(早朝)」

が、それぞれに良いと綴っています。

その理由として、

夏は、夜が趣深い。

月の頃は言うまでもなく、闇の夜も蛍がたくさん飛びかっているのが趣深い。

また、ただ一つ二つなど、ほのかに光って飛んで行くのも風情があり、雨などが降るのも趣がある。

秋は、夕暮れが趣深い。

夕日がさして山際(山の稜線)にたいそう近くなっているところに、カラスがねぐらに帰ろうとして、三羽四羽、二羽三羽などと、急いで飛んでいくのまでもしみじみと感じられる。

まして、雁などの列をつくっているのがとても小さく見えるのは、たいそう趣がある。

日がすっかり沈んで、風の音や虫の音など、またあらためていうまでもないほどいい。

冬は、早朝が趣深い。

雪が降っているときはいうまでもなく、霜がとても白いときも、またそうでなくてもとても寒いときに、火などを急いでおこして、炭を持って部屋へと廊下を通って行くのもとても冬の朝に似つかわしい。

昼になって、気温が温かくなり、寒さがゆるくなっていくと、火桶も白い灰がちになってよくない。

と、述べています。

『枕草子』は、高校の古典の教科書などに取り上げられていることからよく知られていますが、

「虫は」「木の花は」「すさまじきもの」「うつくしきもの」

に代表される「ものづくし」の「類聚章段」をはじめ、日常生活や四季の自然を観察した「随想章段」、清少納言が出仕した中宮定子周辺の宮廷社会を振り返った「回想章段」(日記章段)など、多彩な文章から成り立っています。

平仮名を中心とした和文で綴られ、総じて軽妙な筆致の短編が多いのですが、中関白家の没落と主君・中宮定子の身にふりかかった不幸を反映して、時にかすかな感傷が交じった心情を吐露する個所も見られたりします。

同時代に紫式部によって著された『源氏物語』が、心情的な「もののあはれ」を基調としているのに対し、『枕草子』は筆者の洗練されたセンスと、事物への鋭い観察眼が融合して、知性的な「をかし」の美世界を現出させていると評価されています。

ところで、鎌倉時代に『徒然草』を著した兼好法師は、その書の中で当時の言葉の乱れを歎いているのですが、もし語彙力のない現代人が『枕草子』の一節を現代語に訳すと、いったいどうなるのでしょうか。

春のあれヤバい。

なんか白くなる山のところ

少し明るくて、

紫の雲の細いのヤバい。

夏の夜はヤバい。

月の頃はもっとヤバい。

闇はメッチャいい。

ホタルがメッチャ飛んでる。

また、一つ二つ、光るのもヤバい。

雨の降るのもヤバい。

秋の夕暮れはヤバい。

夕方ごろ、山のはじが近くなって

鳥メッチャ飛んでる。

雁など、小さく見えて相当パない。

風の音、虫の音は、超すごい。

冬の明け方はヤバい。

雪や霜の日は超寒いけど好き。

寒いとき火をおこして炭をもっていくの似合う。

昼に火桶の日が白い灰になるのはダサい。

まさか、テストで『枕草子』の一節が出題され、「現代語訳しなさい」という設問に対して、上記のような解答をする人はいないと思いますが、もしそういう人がいたら、きっと「現代誤訳」ということになるのでしょうか。

「言葉は生き物」と言われます。

最初その言葉本来の意味・読みとは違った意味・読みで誤って使われていたものが、いつの間にかその誤った使い方が定着すると、やがて「正しい」ということになってしまったりします。

その過渡期に「言葉の乱れ」が問題になったりする訳ですが、『枕草子』や『徒然草』などが、現代では「古典」として扱われているように、「現代語」で書かれた文章も、もしかすると将来は「古典」として扱われるようになるかもしれませんが、「春のあれヤバい…」みたいなのは…、いったいどうなるんでしょうね。