投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

親鸞・去来篇(4)

もとより金など持ちあわせていないけれど、弟の借財があるというならば、性善房に相談したうえで、どうにでもしなければなるまいと、四、五日の猶予を頼むと、亭主は首を振って、

「ふざけては困る」

頑(がん)然(ぜん)と、怒った。

「そう幾日も幾日も、病人などを置いておかれるか。毎晩、ほかの泊り客もあるのに、それを断っていては、おいらの嬶(かか)や餓鬼が干ぼしになるわい」

「迷惑でございましょう」

「大迷惑じゃ。とうに、追ん出したいのは山々だったが、薬代のたてかえもあるで、法隆寺に身寄りがいるという言い訳をあてにして、おぬしの来るのを待っていたのじゃ、持ち物なり、衣類なり、抵当(かた)において、すぐ連れて行ってくれい」

「ごもっともです。けれど、永い猶予はおねがいしませぬゆえ――」

「…………」

「両、三日でも」

「ばかをぬかせ。病人なればこそ、きょうまででも、こらえていたのじゃ」

「私は、僧門の身、この病人と女子(おなご)を、山門へ連れもどるわけには参りませぬ」

「――だから、知らぬというのか、借りをふみ倒す気か」

「決して」

「ならば、その法衣を脱いで出せ、女の帯を貰おう、いや、そんなことじゃまだ足りんわ、そうだ、よい数珠を持っておるな、水晶じゃろう、それもよこせ」

すると――いつのまにやら彼の後ろから入ってきて、のっそりと突っ立っていた隣の野武士ていの若い男が、左手に提(さ)げている革巻の刀の鞘で、わめいている亭主の横顔を、がつんと撲った。

「おぬしは、隣に泊っているお客じゃないか」

「さよう」

「なにをさらすのじゃ、なんでわしを、撲ったか」

「やかましい」

野武士ていの男は、逞しい腕を亭主の襟がみへ伸ばしたかと思うと、蝗(いなご)でも抓(つま)んで捨てるように、

「おととい来い」

吊り上げて、その弱腰を蹴とばした。

「わっ」

亭主は、外へもんどり打って、霜解けのぬかるみへ突っ込んだ泥の手で、

「おれを。……畜生っ、おれをよくも」

むしゃぶりついてくる手を払って、野武士ていの男は、その鷹のように底光りのする眼でつよく睨みつけた。

「さっきから隣でだまって聞いていれば、慈悲も情けもない云い草、もういっぺんほざいてみろ」

「貸しを取るのが、なぜわるい。おれたちに、飢え死にしろというのかい」

「だまれ、誰が、汝(うぬ)らの貸しを倒すといったか。さもしい奴だ、それっ、俺が建て替えておいてやるから持ってゆけ。その代わりに、病人のほうも、俺のほうも、客らしく鄭重(ていちょう)にあつかわないと承知せぬぞ。……何をふるえているのだ、手を出せ」

と野武士ていの男は、ふところから金入れを出して、まだ疑っている亭主の目先へ、金をつきつけた。

親鸞・去来篇(3)

むさ、法隆寺のほとりで会った梢が、声をきくとすぐそこを開けて、

「お兄さんが見えましたよ」

と、病人の枕へ、顔をよせて告げた。

「えっ……兄君が」

待ちかねていたのであろう。

朝麿は聞くや否や、あわてて褥(しとね)の外へ這いだした。

「朝麿、そのままにしていないさい、寒い風に、あたらぬように」

「兄君っ……」

涙でいっぱいになった弟の眼を見ると、範宴も、熱いものが瞼を突いてくるのを覚えた。

「め……めんぼく次第もございません……。こ、こんなところで」

「まあよい。さ……梢どの、衾(ふすま)のうちへ、病人を」

寝るようにすすめたが、朝麿は、兄のまえにひれ伏したまま、ただ泣き濡れているのであった。

範宴は、手をとって、

「何年(いつ)であったか、おもとと、鍛冶ケ池のそばで会った時に、わしは、およそのことを察していた。今日のことがなければよいがと案じていました」

「すみませぬ」

「今さら、どういうたとて、及ばぬことだ。――それよりは、体が大切、また後々の思案が大事。とにかく、衾のうえにいるがよい、ゆるりと話そう」

無理に、蒲団の中へもどして、弟にも梢にも、元気がつくように努めて微笑をもちながら先行きの覚悟のほどを聞いてみると、もちろん、恋し合ってここまで来た若い二人は、死ぬまでも、別れる気もちはないというし、またふたたび、親たちのいる都へ帰る気もないという。

そして絶えず、死への誘惑に迷っている影が、朝麿にも、梢にも、見えるのだった。

範宴は、そのあぶない瀬戸ぎわにある二人の心を見ぬいて当惑した。

沙門の身でなければ、当座の思案だけでもあるのであったが、きびしい山門のうちへ二人を連れてゆくわけにはゆかないし、このまま、この風の洩れる汚い板屋に寝かせておけば、弟の病勢がつのるのは眼にみえているし、その病気と、心の病気とは、何時(いつ)、死を甘い夢のように追って、敢(あえ)のない悔いを後に噛むことに立ちいたるかもわからない。

すると、外に、そのとき跫音(あしおと)がしてきたて。

ここの木賃の亭主であった。

無遠慮に入口を開けて、

「沙門さん、おめえは、法隆寺で勉強している学生(がくしょう)かい?」と訊くのであった。

範宴は、自分の顔を見て問われたので」

「さようでございます」

と答えると、亭主は、

「そして、この病人の兄弟ということだが、ほんとかね」

「はい」

「じゃあ、木賃の代だの、薬代だの、病人の借財は、もちろん、おぬしが払ってくれるんだろうな」

答えぬうちに、亭主は、ふところから書きつけたものを出して、範宴の前へ置くのであった。

親鸞・去来篇(2)

とにかく、此(こ)宿(こ)には違いないので、範宴が門口に寄って尋ねると、

「ああ、病人の旅のもんならば、裏の離れにおるだあ。この露地から、裏へ廻らっしゃい」

木賃の亭主が、煙っている家の中で呶鳴る。

「少々、その者に、会いとう存じますから、それでは、裏へ入らせていただきます」

と範宴は、一応断って、教えられた裏の方へ廻ってみた。

百姓もするのであろう、木賃旅籠の裏には、牛なども繋いであるし、農具だの、筵(むしろ)だのが散らかっている。

亭主のいう離れとはどこかと見まわしている、飼(し)蚕(さん)小屋でも繕わしたのであろう、ひどい板小屋を二間に切って、その一方に、誰やら寝ている者がある。

(こんな所に寝ているのか)弟の境遇は、その板小屋を見ただけでわかった。

旅の空に病んでいる気持、恋のために世間から追いつめられて、その恋をすら楽しめずに死を考えている気持――。

まざまざと、眼に見せられて、彼は、胸が痛くなった。

驚かせてはならないと、しのび足に、板屋の口へ寄って、異臭のする薄暗い中を覗きながら、

「朝麿」と、呼んでみた。

すると、そこに見えた薄い蒲団を刎ねのけて、寝ていた者は、むっくりと、起き上がった。

「あ……これは」

と範宴は、あわてて頭を下げて謝った。

蒲団のうえに坐りこんで、こっちを見つめているのは、似ても似つかない男なのである。

年ごろ二十四、五歳の、色浅ぐろい苦み走った人物であった。

鷹のように精悍(せいかん)な眼をして、起きるとたんに右の手には、枕元にあった革巻の野太刀を膝へよせていた。

野武士の着るような獣皮の袖無しを着、飲みからしの酒壺が、隅の方に押しやってある。

「失礼いたしました。人違いをして、お寝(やす)みのところを」と詫びを入れると、男は、

「なんだ、坊主か」と、口のうちでつぶやいて――

「誰をたずねてきたのだ」

「身寄りの者が、この木賃にわずろうていると聞きましたので」

「それじゃ、若い女を連れている小伜(こせがれ)だろう」

「はい」

「隣だよ」

無造作に、顎で板壁を指して、男はまた、蒲団をかぶって、ごろりと横になってしまう。

「ありがとうございました」

すぐ足を移して、隣を見ると、そこには、破れた紙ぶすまが閉めてある。

「ごめん……」と今度は念を入れて、範宴は小声におとずれた。

「ロケット打ち上げの秘密」(上旬)色あせないロケット打ち上げの感動

ご講師:園田昭眞さん(JAXA宇宙輸送プログムラSE室特任担当役)

ロケットとはそもそも何か。

ロケット戸は、宇宙に人工衛星などを運ぶ輸送機、船や飛行機と同じ運搬手段なんです。

人や物が乗らなければ単なる打ち上げ花火と同じです。

今回打ち上げられるイプシロンロケットも、火星や金星を観測する探査機を飛ばすためのものなんですよ。

ロケットの打ち上げに90〜100屋円かかりますが、人工衛星は150〜200億円もかかります。

ロケットが飛ぶ仕組みは非常に単純で、燃料を燃やしてできる燃焼ガスを吹き出して飛んでいきます。

だから、いかにしてうまく噴射の方向を定め、力強く出すかがロケットの仕組みになる訳です。

そのガスが噴出する力を「推力」といい、これがロケットの性能の決め手になります。

日本のロケットは液体酸素と液体水素という非常にエコロジーな燃料を使っていますが、実はロケット全体の重量のうち、約90%は燃料で占められていて、ロケット全体は、積載する人工衛星などを含めても1割くらいの重さしかないんです。

そして燃料を使っていくにつれて、どんどん軽くなりますから、その分スピードも速くなる訳です。

宇宙に行くためにはそれだけ燃料が必要になるということですね。

また、ロケットを飛ばすにはたくさんお金もかかりますが、他にも覚悟が必要になってきます。

現在でも100%完璧な安全性は確保できていませんから、宇宙飛行はいのちがけなんです。

種子島での打ち上げの歴史は小型ロケットから始まりました。

そして次に打ち上げたのがN−1ロケット。

このときに人工衛星「きく1号」を打ち上げています。

ロケットはその後どんどん大型化しまして、H−2ロケットとなっていきました。

N−1ロケット打ち上げは1975年ですから、もう35年以上前になります。

私は最初の小型ロケット打ち上げのころから種子島にいましたが、やはり私自身のロケット打ち上げの一番の思い出は、このN−1ロケットで人工衛星「きく1号」を上げたときですね。

それまでロケットの打ち上げといったら、斜め方向に打ち上げるものでしたから、まっすぐ打ち上げるN−1ロケットの時は、本当に上がるのかなと、理屈では分かっていても不安だったんです。

やはり人間というのは不思議なものですよね。

それでゆらゆらとロケットがゆっくり上がっていくのを見たときは、涙がポロポロ流れたのを覚えています。

やはり、1号機を上げるときが一番苦労しましたから、今でもその時の感動は色あせていません。

そういうロケットの打ち上げから、今の大きいロケットまで流れてきています。

そうしてN−1ロケットから、現在のH−2Bロケットにつながってくるんですが、実は最初のN−1ロケット、N−2ロケット、H−1ロケットのときは、アメリカから技術導入したものを打ち上げていたんですよ。

なぜかというと、日本は終戦後、航空技術の開発についてアメリカから制約を受けていたので、新しい技術が全然なかったんです。

それで、きちんとしたロケットを作るために、まずはベースの部分を勉強しようということで、アメリカから技術を導入して、早くそれを習得しようという方針の下で動いたんです。

それが、今のロケット開発につながっているという訳です。

仏前でリンを鳴らすことの意味を教えてください

お仏壇にお参りする時は多くの人は、おもむろに仏前に座り、お念仏申しながら合掌礼拝をします。

またその中には、リンを数回打ち鳴らしてからお念仏を申し、合掌礼拝をされる方もおられます。

リンは読経の最初と最後や中間に定められた作法で打ち鳴らす仏具です。

ですから、読経以外のときにむやみやたらに打ち鳴らすものではありません。

しかしながら

「リンを鳴らさないと阿弥陀さま・ご先祖さまに届かない」

「阿弥陀さま・ご先祖さまにお参りにきたことを、念仏申しリンを鳴らせて知らせるんです」

というふうにおっしゃる方々もおられます。

浄土真宗では私が称えさせていただく念仏は、どこまでいっても私を必ずお救い下さる阿弥陀さまへの感謝のお念仏です。

だから、私の側から阿弥陀さまやご先祖さまに何かを届ようとする必要もないのです。

カネを打つということは、お釈迦さまのご在世の頃は、お釈迦さまの説法を聞くときの合図だったといわれます。

お仏壇の前でリンを打ち読経する時には、お釈迦さまの説法をお聞かせいただくという気持ちでお参りさせていただきたいものです。

スピードラーニング

30代も半ばになり、今更ながら外国語、特に英語を少しでも話せるようになりたいと、強く思いを抱いております。

これまでの自身の日常生活においては、英語を身近に聞く機会も少なく、また必要とすることもありませんでしたので、特に何の意識も持っておりませんでした。

しかしここ数年、年に何度かアジア諸国に行くご縁をいただく中で、現地の空港やホテルなど、必ず英語を必要とする場面に幾度となく遭遇し、その都度自分の語学力の無さを痛感するのと同時に、どの国の方々も母国語と共にほとんどの方が英語も同じように話し、理解し、外国人旅行者と対等に会話している姿には心底驚きました。

グローバルと呼ばれる現代において、世界では二カ国語話せて当然の世の中に既にあることを知らされます。

近年は韓国のアイドルグループが日本でも人気が高いですが、テレビを見ていて凄いと感じるのは、みんな日本語で受け答えをし、きちんとその国の言葉を覚え、仕事をする上である程度の会話力を身につけて日本に来ているということに、本当に感心する思いです。

タイのバンコクに、カオサン通りという世界中から旅行者が集まる一帯があります。

そこで働くタイ人を始め、私たちと同じアジア地域の旅行者たちも、見るからに強者ぞろいのアメリカやヨーロッパ諸国のバックパッカーたちと等しく英語で会話し、島国からやってきた私はその隅で恐る恐るビールを注文するという場面を何度も経験しました。

その度にもっと自分も堂々と英語で話しかけたい。

でも「This is a Pen」しか英語が頭に浮かんでこない自分が情けない。

そしてつい最近、いよいよ私も英語を身につけなければという思いに到る出来事がありました。

香港からのホームステイを受け入れておられるご夫婦が、日本らしいところを案内したいというので、香港の大学に通う若い学生さんを連れて私のお寺に尋ねて来られたことがありました。

本堂にご案内をして、ドキドキしながらその彼と簡単な英語のやりとりであいさつを交わしました。

「Hello」

「Nice to meet you」

「Where are you from?」

アルファベットで書くと格好良く見えますよね。

でも実際はおどおどしながら「ハ、ハロー」、流暢な片言です。

そしてその先はこれまでの旅を通して私が身につけた超自己流の英会話方法を駆使し、身振り手振りを交えながら数少ない英単語を連呼するのみの支離滅裂な会話が進み、最後は何故か

「I’m Buddhist」

「謝謝」

私は仏教徒ですと何の意味もない宣言をして会話は終了しました。

ただ、方法は滅茶苦茶でも、それでも何となくお互いの思いが通じ合うところが外国の方と話をしていて結構楽しいと感じるところですが、驚いたのは、それを横で見ていたそのご夫婦が、

「凄い、若先生は英語ができるんだ」

と思ったらしく、狭い地域がゆえそれがどう伝わったのか、数日経ったある日、全く別の方から

「先生は英語がお上手なんですってね」

と聞かれ、恥ずかしいやら弁解に必死になるやら、戸惑いを覚えたことです。

次はアフリカの方がホームステイに来る予定があるそうで、「その時はまた来ますから〜」とニコニコしながら言われるのですが、まず英語なのか何語なのかも分からず、どう迎えていいのか近頃悩むところです。

そのような経緯もあり、また旅をする中でやはり英語の必要性は自分でも肌で感じておりましたので、「聞き流すだけ」でお馴染み、スピードラーニングに私も手を出したというわけです。

聞き流すだけに惹かれ、楽して身につけようとするところが、昔から何も成長していないいかにも自分らしい姿ですが・・・。

その中身はというと、伊藤氏という日本人男性が、旅の英会話や日常会話など様々な場面の中で会話を展開していくという設定で、英語のワンフレーズごとに日本語の意味が流れますので、まさに聞き流すだけで大体の内容は理解することができます。

ところが、集中力のない私には、英語の本文よりもその後に続く日本語の解説の方に心が偏り、伊藤氏はコーヒーにはミルクを入れるタイプなんだとか、英語そっちのけで伊藤氏がどんな人物であるかの方に興味が向いているような状態で、しかも、楽して聞き流すことを自分で選んでいながら、聞き続けていない私の継続性の無さには、家族からも

「伊藤さんはあれからどうなったの?」

と笑われながら聞かれるような始末です。

そのような状態ですので一向に英語が上達するはずはありません。

ただ一つ、これは私の経験上個人的な見解ですが、英会話を理解するうえで大事だなと思うのは、様々な英単語を知っておくこともさることながら、「話す」ことよりも、むしろ相手がどんな内容を言っているのか、会話の流れから一つでも英単語を「聞く」ということができれば、あ、今このことについて話してるんだと何となく理解ができ、こちらもそれとなく単語を返すことで、文法としてはおかしくても、意思の疎通やコミュニケーションとしてのうえからは、異国の方と繋がりを持てたということの方が大きな喜びを感じると思うのです。

やはりそれには、若い時期からの体験と学びが大切でありましょう。

今の英語の教科書がどのような内容かは分かりませんが、私たちの年代は「Is this a Pen?」これはペンですか?という、今思えば不思議な英語からスタートしましたので、それではなく、もっと子どもたちが外国に興味を持つような、そしてちょっとした英語で相手との繋がりを実感できるような英語教育に期待をしたいと思います。

また英語を聞き続けることで耳が英語に慣れ、話の内容や要点が次第に分かってくるような感じがします。

もちろんそれにはある程度の英単語を理解していなければなりませんが、そこがスピードラーニングの意図するところではないかなと勝手に解釈しておるような次第です。

ある方が言います。

子どもが年齢を重ねることは「成長」。

でも大人になるとそれは「老化」。

体力的には確かにそうですが、けど、どんなに年を重ねても今からでもやりたい、やってみたいという希望と情熱は、いつまでも子どものように持ち続けていたいと思う、35歳の成長です。

とにもかくにも、まずはそのアフリカの方がいらしたときの対応を身につけることと、次はもっと勇気と自信を持ってカオサンでビールを注文できるよう、気楽にスピードラーニングに耳を傾けていきたいと思います。