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真宗講座親鸞聖人に見る「往相と還相」

阿弥陀仏の回向法としての「往相と還相」(11月前期)

親鸞聖人の著述から、往相還相について書かれた文を通覧すると、内容的にはほぼ三種類に分類できるように思われます。

第一は、この往相と還相が、阿弥陀仏の廻向法そのものだということが示される文です。

ここでは、この廻向法が阿弥陀仏のいかなる願から出され、どのような法として衆生に来たるかが語られることになります。

阿弥陀仏から廻向される往相還相の教法とは、具体的には教・行・信・証となるのですが、第二はその物体と功徳が示される文です。

そして、第三はその阿弥陀仏より廻向された往相と還相の教法がいかに衆生と関わるか、さらには往相と還相の法を廻向された衆生がいかに仏道を実践するか、その行道のすがたが示される文となります。

そこで、第一の阿弥陀仏の廻向法としての「往相と還相」の文から検討することにします。

ここでまず注意されるのは、『教行信証』「教巻」冒頭の文の「謹んで浄土真宗を案ずるに、二種の廻向有り。

一には往相、二には還相なり。

往相の廻向に就いて真実の教・行・信・証有り」の文であることはいうまでもありません。

親鸞聖人が『教行信証』で最も強調したかった点は、阿弥陀仏の教法とは、往相・還相という二種の廻向法だと思われるからです。

この点については、『文類聚鈔』で

「若しは往若しは還、一事として如来清浄の願心の廻向成就したまふところに非ざること有ること無し」

と述べられることによって、さらに明白になります。

往相・還相という二種の廻向法は、まさにその一切が阿弥陀仏の清浄なる願心の成就によるのです。

阿弥陀仏は、一切の衆生を救うために大悲の本願力を成就されたのですが、その本願はただ、衆生成仏の法として、往相と還相の二種の法を廻向することにあったのです。

親鸞聖人の著述の中では、これと同一の内容を示す文として

「報土の因果誓願に顕す。往還の回向は他力に由る」

「白は即是選択摂取の白業、往相回向の浄業なり」

「本願力の廻向に二種の相有り。一には往相、二には還相なり」

「弥陀の廻向成就して、往相還相二つなり」

等が見られます。

では、往相の廻向について、真実の

「教・行・信・証」

のその各々は、どの願から出されているのでしょうか。

「行」については

「この行は大悲の願より出でたり。…諸仏称名の願と名づく。…また往相廻向の願と名づく」

「諸仏咨嗟の願より出たり。…諸仏称名の願と名づけ、また往相正業の願と名づく」

「この如来の往相廻向につきて、真実の行業あり。すなわち諸仏称名の悲願にあらわれたり」

「往相の廻向につきて、真実の行業あり。…真実の行業といふは、諸仏称名の悲願」

等と示されています。

往相廻向の行とは、第十七願において成就されたもので、諸仏の称名として、この行はこの世に出現します。

しかもこの第十七願が「往相廻向の願」「往相正業の願」と名づけられていることには、特に注意する必要があります。

なぜなら、この願の内実こそまさに「往相」を決定せしめていると窺えるからです。

次の「信」においては、

「斯の心則ち是れ念仏往生の願より出たり。斯の大願を選択本願と名づく。…また往相信心の願と名づく」

「念仏往生の願より出でたり。また至心信楽の願と名づけ、また往生信心の願と名づく」

「また真実信心あり。すなわち念仏往生の悲願にあらわれたり」

「真実の信心あり。…真実の信心といふは、念仏往生の悲願にあらわれたり」

等と示されます。

親鸞聖人は『教行信証』の「信巻」で、「涅槃の真因は唯信心を以てす」と述べられますが、この信こそ、まさしく第十八願成就の念仏往生の悲願より廻向されたものです。

阿弥陀仏が、一切の迷える衆生を往生せしめるために成就された、真実信心の願であるために「往相信心の願」と名づけられていると思われます。

では「証」はどうでしょうか。

ここでは、『文類聚鈔』の

「証と言ふは、則ち利他円満の妙果なり。則ち是れ必至滅度の願より出でたり。また証大涅槃の願と名づけ、また往相証果の願と名くべし」

の文がまず注意されます。

この文は『教行信証』の「証巻」冒頭の文とほぼ一致するのですが、『教行信証』では「往相証果の願」という言葉は見当たりません。

この『文類聚鈔』の文によって、第十一願が「往相の証果」の願として捉えられていたことが明らかになります。

これと同一内容の文として

「また真実証果あり。すなわち必至滅度の悲願にあらわれれたり」があります。ここでは「往相の証果」

とは何かが、大きな問題になるといえます。

親鸞・去来篇(1)

「どこまで、水を汲みに行ったのだ?」学頭は、睨みつけていった。

「はい」

範宴が、詫びると、

「はいじゃない」と金火箸で、胸を突いて――

「貴公、この法隆寺へ、遊びにきたのか、修行にきたのか」

「…………」

「怠惰の性(しょう)を、懲らしてやる」

学頭は、金火箸をふりかぶって彼の肩を打ちすえた。

範宴は炊事場の濡れている土に膝も手もついて、

「わるうございました」

「不埒なっ」

庖丁(ほうちょう)を持ったり、たすきを掛けたりした同僚たちが、がやがやと寄ってきて、

「俺たちが、働いているのに、怪しからん奴」

と、一緒になって罵詈(ばり)する学僧もあるし、

「荒仕事に馴れないから、無理もないよ」と庇う者もあった。

だが、庇う者のことば対して学頭はよけいに呶鳴った。

「こんなことがなかで荒仕事か、僧院に住む以上、当たりまえな勤めだ。叡山あたりでは、中間(ちゅうげん)僧(そう)や堂衆をこきつかって、据膳下げ膳で朝夕すんでいるか知らんが、当寺の学生寮(がくしょうりょう)では、そんな惰弱な生活はゆるさん。――また、貴族の子でも誰の子でも、身分などに、仮借もせんのだ。それが覚運僧都の仰せでもあり、法隆寺の掟(おきて)でもあるのだ。よいかっ」

「はい」

「おぼえておけ」

法衣の上は何ともなかったが、打たれた肩の皮膚が破れたのであろう。

土についている手の甲へ、袖の奥から紅い血が蚯蚓(みみず)のように走ってきた。

血を見て、学頭は、口をつぐんだ。

範宴は桶の水を、大瓶にあけて、また、川の方へ水を汲みに行った。

もう、梢のすがたは見えなかった。

白い枯野の朝(あさ)靄(もや)から、鴉が立ってゆく。

「かるい容態ならよいが……」

弟の病気が、しりきと、胸に不安を告げていた。

――仏陀の加護を祈りながら、範宴は、同じ大地を、何度も踏みしめて通った。

半日の日課がすんで、やっと、自分の体になると、範宴は、性善房にも告げず、法隆寺から一人で町の方へ出て行った。

小泉の宿(しゅく)には、この附近の寺院を相手に商いしている家々や、河内がよいの荷駄の馬方や、樵夫(きこり)や、野武士などかなり聚合(しゅうごう)して軒をならべていた。

「あ……。ここか」

範宴は、立ちどまって、薄暗い一軒のあばら屋をのぞきこんだ。

大きな笠が軒に掛けてあって、

「きちん」と書いてある。

何か、煮物をしていると見えて家の中は、榾(ほた)火(び)の煙がいっぱいだった。

ぎゃあぎゃあと、嬰児(あかご)が泣く声やら、亭主のどなる声やらして、どうして、それ以外の旅人を泊める席があるだろうかと疑われるような狭さであった。

『私が私でよかったと思える私になりたい』(前期)

あなたは『個性的』と言われた時に、どのように感じますか?

もちろんそれは、言われた時の話の流れや、言い方などによって、とらえ方も違ってくるとは思いますが、私は「特徴があるってことなのかな?」と解釈します。

本来、個性とはよくも悪くも、他人から区別できる違いがあれば個性となるのですが、近年は個性的であることが非常に重要であり、逆に特徴がないこと、区別できるものがないことがまるで悪いことのように言われたりすることもしばしば見受けられます。

たしかに、他の人が感動する・感銘を与えられるような、違いを有するということは大切なことかもしれませんが、そういったものがない場合には『悪・悪いこと』と見なしてしまい、認めないというのはいかがなものかと思います。

『阿弥陀経』というお経の中に「青色青光黄色黄光赤色赤光白色白光」という一文がありますが、あなたも耳にされたことがあるのではないでしょうか?

これは、お浄土の蓮の花の色が、それぞれの色で光り輝いているのを表しているものですが、私たちは、顔や姿、性格や能力、生まれや境遇が異なっていても、みなそれぞれ命を輝かせ生きていることを伝えているとも言えます。

向日葵や菊の花が、チューリップやゆり、バラの花を咲かすことはできません。

向日葵は向日葵、菊は菊です。

みんなそれぞれ、精一杯・いのち一杯に自分の花を咲かせています。

それぞれに咲き、それぞれに美しい花なのです。

自分の花を咲かせ、いのち輝いています。

その花たちは、私たちにみられようが、みられましが、どんなに素朴で小さくても、太陽の光に照らされて、いのち一杯に咲いている。

これほどすばらしく、見事なことはないのではないしょうか?親鸞聖人の教えも、どのようなものも、光(教え)に出遇うと、黄金のように輝くと伝えております。

私たちは、常日頃、自己を中心に過ごし、他の人と自分を比べながら、劣らないようにと飾り、ときには思い上がり、時には、落ち込んだりして、何かに追われるような虚しい日々を過ごすことも多くあります。

阿弥陀様の教えはそんな私たちを光照らし、あなたはあなたのままでいいんだよ、と引き受け受け止め、いのち輝かせてくださる教えなのです。

みんなちがって、みんないい。

私が私であってよかったと、自らのいのちという素晴らしく美しい花を咲かせながら、心豊かに、日々のいのちを喜びすごしていきたいものですね。

親鸞・去来篇 10月(10)

なお仔細に事情を訊くと、弟の朝麿は、梢と逃げてくる旅の途中風邪をこじらせて、食物もすすまぬようになり、この附近の木賃旅籠に寝こんでしまって、持ち合わせの小遣いは失くなるし、途方にくれているところだというのである。

「では……弟はわしに会いたいというと、おもとを使いによこしたわけか」

「ええ……」

梢は、打ち悄(しお)れたまま、

「いっそ、二人して死んでしまおうかと、何度も、刃物を手に取ってみましたが、やはり、死ぬこともできません」

と、肩をふるわせて泣き入るのであった。

無考えな若い男女(ふたり)も、途方に暮れたことであろうが、より以上に困惑したので範宴であった。

まず第一に思いやられるのは、髪をおろして、せっかく、老後の安住を得た養父の気持だった。

次には、生来、腺病質(せんびょうしつ)でかぼそい体の弟が、旅先で、金もなく、落着くあてもなく、これも定めて悶えているだろう容子(ようす)が眼に見える心地がする。

病のほども案じられる。

「どこですか、その旅籠は」

「ここから近い、小泉の宿端れでございます。

経本を商(ひさ)ぐ家の隣で、軒端に、きちんと板札が、打ってあります」

「見らるる通り、わしは今、朝のお勤めをしている途中、これから勤行の座にすわり、寮の日課をすまさねば、自分の体にはなれぬのじゃ。……それを了(お)えてから訪ねてゆくほどに、おもとは、弟の看護(みとり)をして下さるように」

「では、来て下さいますか」

梢は、ほっとした顔いろでいった。

兄は、きっと怒るであろうと弟からいわれていたものとみえ、範宴の返辞を聞くと、迷路に一つの灯を見たように彼女はよろこんだ。

「参ります。何でまた、捨てておかれよう。きっと行くほどに、弟にも、心をつよく持てといってください」

「はい。……それだけでも、きっと、元気がつくでしょう」

「では……」

と範宴は、学寮の忙しさが思いだされて、急に、水桶を担いだした。

すべらぬように藁(わら)で縛ってある足の裏は、冷たいとも痛いとも感覚は失せているが、血がにじみ出していた。

真っ黒な天井の下に、三つの大きな土(ど)泥(べ)竃(つつい)が並んでいた。

その炊事場には、薪を割る者だの、襷(たすき)がけで野菜を刻んでいるものだのが朝の一刻(いっとき)を、法師に似げない荒っぽい言葉や唄をうたい交わして働いていた。

範宴が、水桶を担って入ってきたのを見ると、泥(へっ)竃(つい)のまえに、金(かな)火箸(ひばし)を持っていた学頭が、

「範宴っ、何をしとった?」

と、焼けた金火箸を下げて、彼の方へ歩いてきた。

親鸞・去来篇 10月(9)

「はい、私はおたずねの範宴ですが……」

答えながら、彼は、自分の前に立った娘に対して、どこかで見たような記憶をよび起こしたが、どこでとも、思い当らなかった。

(ああよかった)というように娘は安堵(あんど)の色を見せ、同時にすこし羞恥(はじら)いもしている容子(ようす)。

年ごろは十七、八であろうか。

しかし年よりはやや早熟(ませ)た眸と、純な処女(おとめ)とも受けとれない肌や髪のにおいを持っている。

それだけに、男には蠱惑(こわく)で、面ざしだの姿だの、総体からみて、美人ということには、誰に見せても抗議はあるまいと思われるほどである。

「あの……実は……私は京都の粟田口の者でございますが」

「はあ」

範宴は、水桶を下ろして、行きずりの旅の娘が、どうして、自分の名を知っているのかと、不審な顔をしていた。

「一昨年(おととし)の秋でございましたか、鍛冶ケ池のそばをお通りになった時、よそながら、お姿を見ておりました」

「ははあ……私をご存じですか」

「後で、あれが、肉親のお兄上様だと、朝麿様からうかがいましたので」

「え、弟から?」

「私は、あの時、朝麿様と一緒にいた梢という者でございますの。……父は、粟田口の宗次といって、あの近くで、刀鍛冶を生業(なりわい)にしています」

「……そうですか」

と、驚きの眼をみはりながら、範宴は、なにか弟の身にかかわることで、安からぬ予感がしきりと胸にさわいでくるのだった。

「梢どのと仰っしゃるか。――どこかで見たようなと思ったが」

「私も、一昨日から、法隆寺のまわりを歩いて、幾人(いくたり)も、同じお年ごろの学僧様が多いので、お探しするのに困りました。……というて、寺内へおたずねするのも悪いと思うて」

「なんぞ、この範宴に、御用があっておいでなされたのか」

「え……」

梢は、足もとへ眼を落して、河原の冬草を、足の先でまさぐりながら、

「ご相談があるんですの」

「私に」

「あの……実は……」

うす紅い血のいろが、耳の根から頬へのぼって、梢は、もじもじしていた。

「弟御さまと、私のことで」

範宴は、どきっと、心臓に小石でも打(ぶ)つけられたような動悸をうけた。

「弟が、どうかしましたか」

「あの……みんな私が悪いんでございます……」

範宴の足もとへ、泣きくずれて、梢は次のようなことを、断(き)れ断れに訴えた。

朝麿と梢は、ちょうど、同じ年の今年が十九であるが、二年ほど前から、恋に墜(お)ちて、ゆく末を語らっていたが、それが、世間にも知れ、男女(ふたり)の家庭にも知れ、ついにきびしい監視の下に隔てられてしまったので、若い二人は、謀(しめ)しあわせて、無断で家を脱け出してきたというのである。

「あの弟が」

と範宴は、霜を踏んだまま、凍ったように、唇の色を失って、梢のいうのを聞いていた。

親鸞・去来篇 10月(8)

範宴は性善房をさがし、性善房は範宴をさがして、半日を徒労に暮らしたが、それでもここで会えたことはまだ僥倖(ぎょうこう)のように思えて、

「どうなさったかと思いました」

と性善房葉、師の無事を見て、欣(よろこ)ぶのだった。

「そちこそ、木津で行きちがったにしても、余りに晩(おそ)かったではないか」

範宴にいわれて、性善房は返辞に窮した。

途中で、山伏の弁海に会い、執念深く追いかけられて、それを撒(ま)くためにさんざん道を迂回した事情を告げればいいことであるが、ああいう呪魔みたいな人間が師の影身につきまとっていることを、話したがいいか、話さないほうがいいかといえば、むろん聞いて愉快になるわけのものではなし、知らさずにおけるものなら、いわないに限ると、独りで決め込んでいたので、

「いえ、私もちと、どうかしておりました。木津の宿で、師の房に似たお方が、河内路へ曲がったと聞いたので、方角ちがいをしてしまったので」

そんなふうに、あいまいに紛らして、さて、疲れてもいるが、月明を幸いに、これから二里とはない法隆寺のこと、夜をかけて、歩いてしまおうではないかとなった。

それから月の白い道を、霧に濡れて、法隆寺の門に辿りついたのは、夜も更けたころで、境内の西園院(さいおんいん)の戸をたたき、そこに、何もかもそのままに一睡して、明る日、改めて、覚(かく)運(うん)僧都(そうず)に対面した。

僧都には、あらかじめ、叡山から書状を出しておいたことだし、慈円僧正からも口添えがあったことなので、

「幾年でも、おるがよい」

と覚運は、快く、留学をゆるしたうえで、

「しかし、わしもまだ、一介の学僧にすぎんのじゃから、果たして、範宴どのの求められるほどの蘊蓄(うんちく)がこちらにあるかないかは知らぬ」

と謙遜(けんそん)した。

しかし、当代の碩学のうちで、華厳の真髄(しんずい)を体得している人といえば、この人の右に出ずるものはないということは、世の定評であり、慈円僧正も常にいわれているところである。

範宴はなんとしても、この人の持っているすべてを自分に授け賜わらなければならないと思って、

「鈍物の性(さが)にござりますが、一心仏学によって生涯し、また、生きがいを見出したいと念じまする者、何とぞ、お鞭を加えて、御垂示をねがいまする」

と、大床の板の間にひれ伏して、門に入るの礼を執(と)った。

ふつうの学生(がくしょう)たちとまじって、範宴は、朝は暗い内から夜まで、勤行に、労役に、勉学に、ほとんど寝る間もなく、肉体と精神をつかった。

「あれは、九歳で入壇して大戒を受けた叡山の範宴少納言だそうだ」

と、学寮の同窓たちは、うすうす彼の生い立ちを知って、あまりな労働は課さなかったが、範宴は自分からすすんで、薪も割り、水も汲んで、ここ一年の余は、性善房とも、まったく、べつべつに起居していた。

冬の朝など――まだ雪の白い地をふんで炊事場から三町もある法輪寺川へ、荷担(にない)に水桶を吊って水を汲みにゆく範宴のすがたが、よく河原に見えた。

すると、ある朝のこと、

「もしや、あなたは、範宴様ではございませんか」

若い旅の娘が、そばへ来て訊ねた。