投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

親鸞・去来篇 10月(9)

「はい、私はおたずねの範宴ですが……」

答えながら、彼は、自分の前に立った娘に対して、どこかで見たような記憶をよび起こしたが、どこでとも、思い当らなかった。

(ああよかった)というように娘は安堵(あんど)の色を見せ、同時にすこし羞恥(はじら)いもしている容子(ようす)。

年ごろは十七、八であろうか。

しかし年よりはやや早熟(ませ)た眸と、純な処女(おとめ)とも受けとれない肌や髪のにおいを持っている。

それだけに、男には蠱惑(こわく)で、面ざしだの姿だの、総体からみて、美人ということには、誰に見せても抗議はあるまいと思われるほどである。

「あの……実は……私は京都の粟田口の者でございますが」

「はあ」

範宴は、水桶を下ろして、行きずりの旅の娘が、どうして、自分の名を知っているのかと、不審な顔をしていた。

「一昨年(おととし)の秋でございましたか、鍛冶ケ池のそばをお通りになった時、よそながら、お姿を見ておりました」

「ははあ……私をご存じですか」

「後で、あれが、肉親のお兄上様だと、朝麿様からうかがいましたので」

「え、弟から?」

「私は、あの時、朝麿様と一緒にいた梢という者でございますの。……父は、粟田口の宗次といって、あの近くで、刀鍛冶を生業(なりわい)にしています」

「……そうですか」

と、驚きの眼をみはりながら、範宴は、なにか弟の身にかかわることで、安からぬ予感がしきりと胸にさわいでくるのだった。

「梢どのと仰っしゃるか。――どこかで見たようなと思ったが」

「私も、一昨日から、法隆寺のまわりを歩いて、幾人(いくたり)も、同じお年ごろの学僧様が多いので、お探しするのに困りました。……というて、寺内へおたずねするのも悪いと思うて」

「なんぞ、この範宴に、御用があっておいでなされたのか」

「え……」

梢は、足もとへ眼を落して、河原の冬草を、足の先でまさぐりながら、

「ご相談があるんですの」

「私に」

「あの……実は……」

うす紅い血のいろが、耳の根から頬へのぼって、梢は、もじもじしていた。

「弟御さまと、私のことで」

範宴は、どきっと、心臓に小石でも打(ぶ)つけられたような動悸をうけた。

「弟が、どうかしましたか」

「あの……みんな私が悪いんでございます……」

範宴の足もとへ、泣きくずれて、梢は次のようなことを、断(き)れ断れに訴えた。

朝麿と梢は、ちょうど、同じ年の今年が十九であるが、二年ほど前から、恋に墜(お)ちて、ゆく末を語らっていたが、それが、世間にも知れ、男女(ふたり)の家庭にも知れ、ついにきびしい監視の下に隔てられてしまったので、若い二人は、謀(しめ)しあわせて、無断で家を脱け出してきたというのである。

「あの弟が」

と範宴は、霜を踏んだまま、凍ったように、唇の色を失って、梢のいうのを聞いていた。

親鸞・去来篇 10月(8)

範宴は性善房をさがし、性善房は範宴をさがして、半日を徒労に暮らしたが、それでもここで会えたことはまだ僥倖(ぎょうこう)のように思えて、

「どうなさったかと思いました」

と性善房葉、師の無事を見て、欣(よろこ)ぶのだった。

「そちこそ、木津で行きちがったにしても、余りに晩(おそ)かったではないか」

範宴にいわれて、性善房は返辞に窮した。

途中で、山伏の弁海に会い、執念深く追いかけられて、それを撒(ま)くためにさんざん道を迂回した事情を告げればいいことであるが、ああいう呪魔みたいな人間が師の影身につきまとっていることを、話したがいいか、話さないほうがいいかといえば、むろん聞いて愉快になるわけのものではなし、知らさずにおけるものなら、いわないに限ると、独りで決め込んでいたので、

「いえ、私もちと、どうかしておりました。木津の宿で、師の房に似たお方が、河内路へ曲がったと聞いたので、方角ちがいをしてしまったので」

そんなふうに、あいまいに紛らして、さて、疲れてもいるが、月明を幸いに、これから二里とはない法隆寺のこと、夜をかけて、歩いてしまおうではないかとなった。

それから月の白い道を、霧に濡れて、法隆寺の門に辿りついたのは、夜も更けたころで、境内の西園院(さいおんいん)の戸をたたき、そこに、何もかもそのままに一睡して、明る日、改めて、覚(かく)運(うん)僧都(そうず)に対面した。

僧都には、あらかじめ、叡山から書状を出しておいたことだし、慈円僧正からも口添えがあったことなので、

「幾年でも、おるがよい」

と覚運は、快く、留学をゆるしたうえで、

「しかし、わしもまだ、一介の学僧にすぎんのじゃから、果たして、範宴どのの求められるほどの蘊蓄(うんちく)がこちらにあるかないかは知らぬ」

と謙遜(けんそん)した。

しかし、当代の碩学のうちで、華厳の真髄(しんずい)を体得している人といえば、この人の右に出ずるものはないということは、世の定評であり、慈円僧正も常にいわれているところである。

範宴はなんとしても、この人の持っているすべてを自分に授け賜わらなければならないと思って、

「鈍物の性(さが)にござりますが、一心仏学によって生涯し、また、生きがいを見出したいと念じまする者、何とぞ、お鞭を加えて、御垂示をねがいまする」

と、大床の板の間にひれ伏して、門に入るの礼を執(と)った。

ふつうの学生(がくしょう)たちとまじって、範宴は、朝は暗い内から夜まで、勤行に、労役に、勉学に、ほとんど寝る間もなく、肉体と精神をつかった。

「あれは、九歳で入壇して大戒を受けた叡山の範宴少納言だそうだ」

と、学寮の同窓たちは、うすうす彼の生い立ちを知って、あまりな労働は課さなかったが、範宴は自分からすすんで、薪も割り、水も汲んで、ここ一年の余は、性善房とも、まったく、べつべつに起居していた。

冬の朝など――まだ雪の白い地をふんで炊事場から三町もある法輪寺川へ、荷担(にない)に水桶を吊って水を汲みにゆく範宴のすがたが、よく河原に見えた。

すると、ある朝のこと、

「もしや、あなたは、範宴様ではございませんか」

若い旅の娘が、そばへ来て訊ねた。

「浄瑠璃のお話〜三味線の弾き語り〜」(下旬)この原爆の話を浄瑠璃にしよう

1つ、この創作浄瑠璃には特別な作品があるんです。

それは、私の故郷広島の原爆に関する作品です。母親から「地元の敬老会で三味線を弾いてほしい」と頼まれ、広島に帰った時のことでした。

せっかくなので原爆資料館に行ってみたんです。

そこでさまざまな展示品を見ていたとき、ある花の白黒写真を見つけました。

それは被爆後の75年は草木も咲かないと言われた広島の焦土に、たった1カ月半で咲いたカンナの花でした。

広島の人たちはこの花を見て、希望の光が見えたのでしょう。

そのとき、この原爆の話も土地に伝わる話なんだから浄瑠璃にしてみようと思いました。

世界で唯一の原爆被爆国である日本の伝統文化・浄瑠璃で、これを世に知らせられたら素晴らしいことではないか。

被爆者の方々は思い出したくないだろうけれど、決して忘れてはいけないことだと思って作ろうと決めました。

先ず翌年の8月11日に会場をおさえ、それからも被爆者の方にお話を聞かせてもらおうとしました。

最初は父親に聞こうとしたんですが、河原で死体を山積みにして、それを燃やす係だった父親からは、

「もう大変で、川から引き上げるときに、足がズルッと抜け落ちて、思い出すのも嫌だからとても話せない」

と言われました。

やっぱり被爆者の人たちはもう思い出したくもないんだなと思い、困っていたところに、母の知り合いの被爆された方からお話を聞かせていただくことができました。

実はその方は私の乳母で、私にとっては40年ぶりの再会でした。

その方もすごく懐かしがってくれて、被爆当時のことを話してくださいました。

原爆が落ちた瞬間のこと、身体中にケロイドを負って、痛くって、でもお母さんを探すために一生懸命歩いていたことなど、そのときのことを淡々と話されました。

再会したお母さんがアロエを剥いで、それを背中とかケロイドに塗ってくれたということを話してくださった時は、ポロポロと涙を流されていました。

やっぱり、自分の痛みよりも母の愛って素晴らしいんだなと、目頭が熱くなりました。

そういうお話をお聞きして、例の写真に写っていた“カンナの花が見た被爆の広島”を作ろうと思いました。

それが『広島咲希望花カンナ』なんです。

いろんなことを思って私はこの活動をしていますが、本当に人生というのは、人との出会いのためにあるようなものだ感じます。

たくさんの人と出会っていろんなものを分かち合って、いろんな思い出を作る。

本当に人生って素晴らしいなと思います。

私の場合、この浄瑠璃と引き合わせて下さったのも、東方浄瑠璃世界の薬師如来のおかげだと思っています。

おじちゃんのお月見セット

9月19日は十五夜でしたね。

今年の十五夜には、きれいな満月が夜空に浮かび上がっていました。

多くの方が、満月に見入っておられたのではないかと思います。

事実、Facebookには多くの友人の撮った満月の写真がアップされていました。

実は、ほんの少し前まで十五夜=満月だと思っていました。

でも違うんですね。

十五夜は、旧暦の8月15日のことで、満月とは何ら関係がないんだとか。

たまたま、十五夜と満月が一緒の日になっただけで、次に十五夜に満月が見られるのは8年後!!そして十五夜には、秋の収穫を感謝するという意味があると!!

本当に恥ずかしいことです・・・

そんなことも知らずに、毎年月を眺めながらお団子を食べていたとは(>_<) 昨年まで、十五夜の日には必ず、ご門徒の方がすすき・お団子・栗・さつまいものお月見セットを持ってきてくださっていました。毎年、必ず。 その方が、お月見セットを持って来られると、 「あ!今日が十五夜なんだ」 と知らされるくらい、毎年。 しかし今年は、その方からお月見セットを頂くことはありませんでした。 昨年は、私の家族全員が外出している時に、その方が来られたようで、玄関先にお月見セットが置かれていました。 毎年のことだったので、 「今年も持ってきてくださったんだね」 と家族みんながピンときて、お礼の電話をしました。 ご夫婦で、よくお寺にお参りをされ、私も幼いころから 「おじちゃん」 と呼んで、親しくさせていただいていた方でした。 「おじちゃん、お月見セットありがとうございます。今年も縁側に飾って、お月見しますね〜。」 とお礼を申したその後、その方から返ってきた言葉が 「来年は持っていけないと思うから。」 というものでした。 以前より、その方が病気を患っていることは知っていましたが 「来年は持っていけないと思う」 状態であることを初めて知らされました。 常々「無常」ということを聞かせていただいているのに、私たちは 「またあとで」 「また明日」 と、よく使ってしまいます。 いつ終わってしまってもおかしくない 「いのち」なのに。 知らず知らずのうちに 「私のいのちは、まだまだある!まだ終わるはずがない!」 と思っていたことを知らされました。 その方の言われた通り、今年の十五夜にその方からお月見セットを頂くことはありませんでした。 初夏の、辛く悲しい別れでした。 今年の十五夜に、すすき・栗・さつまいもを縁側に飾ることはありませんでしたが、お団子だけは自分で作りました。 そしてお団子を頂きながら、月を見ながら、家族で話すことは 「おじちゃん」のことでした。 今後、何度十五夜を迎えられるかわかりません。 もしかしたら、私自身が来年の十五夜を迎えられないかもしれない。 でも、もし今後十五夜を迎えることができるのならば、きっと毎年 「おじちゃん」のことを思い出すんだろうな・・・と思った、十五夜の夜でした。 おじちゃん、ありがとうございました。

『「おかげさまで」と言える人生に孤独はない』(後期)

「お蔭様」

「有り難う」

「勿体ない」

「ご馳走様」

「頂きます」

などの美しい言葉は、昔から私たちのご先祖の方が、大切にしてきた仏教的な言葉であり、今後とも、受け継いでいきたい日本語です。

その中、

「お蔭様」(おかげさま)は、感謝の心を表わす日常語です。

本来、「お陰」とは、神仏の助けや加護のことをさしていますが、そこから派生して、人から受ける恩恵や力添えをいうようになりました。

また、「お陰様」の文字からわかりますように、何かとうぬぼれが強く、自分の力で生きていると錯覚している私に、私の気づかないところで(陰の見えないところで)、多くの方々に支えられています。

その「ご恩」に、後々、気づかされた時に、わざわざ「お」と「様」を前後に付けて、「お陰様」と報恩・感謝の気持ちを言葉で表現させて頂くのです。

ですから、「ご恩」と「お陰様」は同じような意味であり、私がつくり与えるものではなくて、一方的に与えられる恩恵をさしています。

さて、私は鹿児島県日置市伊集院町の寺院に住んで十数年になりますが、朝夕の決まった時間に、ゴオーン・ゴオーンと梵鐘が聞こえてきます。

そこで、あの梵鐘はどこのお寺さんがついているのか気になってきました。

町内で梵鐘のある寺院は限られています。

ある日、梵鐘の鳴る方向に車を走らせましたが、どうしてもわかりません。

そうこうするうちに、いろんな情報提供を頂き、ようやくわかりました。

それはなんと、近くの高台にある、鹿児島城西高校・鹿児島育英館高校の敷地内にある梵鐘からでした。

驚きました。

梵鐘は寺院にあるものと思い込んでいました。

そこで早速、高校に車を走らせました。

高台に立派な鐘楼堂があり、周囲は樹木に覆われており、外からは全く見えませんでした。

その入口に

「報恩の鐘・縁起」

という説明板が設置されていましたので、以下、ご紹介します。

この報恩の鐘は生徒が寮生活を通して人間らしい心を涵養(かんよう)し、人格の淘(とう)治(ち)をはかり、今日に生きる感謝と喜びにひたるために設置されたものであります。

鐘は朝な夕なの集いや機会あるごとに、生徒たちの手によってつきつづけられます。

一度に三回つく鐘は、後藤大治学園理事長の

「感謝の心を育てる」

教育理念に基づいて

一つ目が、今日まで育てていただいた祖先や父母そして家庭に感謝の心をこめて

二つ目が、自分をこれまで支えていただいた恩師や友人たち、そして社会への感謝の気

持ちをこめて

三つめが、自分の決意と努力がこめられています

以上ですが、後日、学校の担当の先生にお伺いしますと、鹿児島市内より校舎が移転して以来、30数年、朝夕の集いの時、寮生が順番で鐘をついているとのこと、またその間、他の寮生は故郷の方向に向いて黙祷をしているとのことでした。

寮生の方は、故郷を離れていることからくる寂しさもあるでしょうが、鐘の音に励まされることも多いと思います。

「おかげさま」といえる人生には孤独はありません。

しかし、私は一人だ、誰も私の気持ちはわかってくれないと孤独感に陥っている時は、いろんな音や情景に身をゆだねてみてはいかがでしょうか。

そうした意味からも、懐かしい文部省唱歌

「夕焼け小焼け」

の歌詞はいいですね。

「夕焼け小焼けで日が暮れて

山のお寺の鐘がなる

おててつないでみなかえろう

からすといっしょにかえりましょ

子供がかえったあとからは

まるい大きなお月さま

小鳥が夢を見るころは

空にはきらきら金の星」

私たちは、生かされています。

いつも支えられています。

「おかげさま」の世界に生かされています。

真宗講座親鸞聖人に見る「往相と還相」(後期)

ここで問題なのは、この批判を是とし、この批判に対して現生に還相面を見出そうとすることではなく、実はこの批判そのものが根本的に誤っていることを明らかにすることだといえます。

では、根本的な誤りとは何かというと、

「往相の正定聚の位」

についての見解です。

ここに還相位がないと言われているのですが、はたしてそうなのでしょうか。

久松師と同じく、真宗者自身も錯覚しているのは、往相が自利であり、還相が利他であるとする見解です。

そのため、久松師が

「真宗の妙好人は往相の正定聚の位だ」

といわれたことに対して、正定聚の機の実践は自利のみだということで、動揺してしまったのだと思われます。

けれども、親鸞聖人は正定聚の機が自利だとは語ってはおられません。

ここで『浄土論註』に示されている次の言葉に注意してみることにします。

未証浄心の菩薩は、初地已上七地以還の諸の菩薩なり。

この菩薩またよく身を現ずること、もしは百もしは千もしは万もしは億もしは百千万億、無仏の国土にして、仏事を施作す。

要ず心を作して、三昧に入りて、乃しよく作心せざるにあらず。

作心をもっての故に、名づけて未諸浄心と為す。

この菩薩、安楽浄土に生じてすなわち阿弥陀仏を見むと願ず。

阿弥陀仏を見たてまつる時、上地の諸の菩薩と、畢竟じて身等しく法等しと。

龍樹菩薩・婆藪槃頭(天親)菩薩の輩、彼こに生ぜんと願ずるは、まさにこの為なるべし。

ここで、龍樹菩薩や天親菩薩がなぜ、阿弥陀仏の浄土への往生を願われたか、その理由が明確に示されています。

明らかに知られるように、この龍樹・天親菩薩は往相の菩薩です。

その位は、未諸浄心ですが、まさしく往生は決定しているのですから、正定聚の機であることはいうまでもありません。

では、この往相の菩薩はどのように仏事をなすのでしょうか。

その仏道は教化地(還相位)の菩薩と全く同じであって、何ら変わるところはありません。

三昧に入って、他の迷える衆生を救うためのみに、無仏の国土において、一心に利他行を行じておられるのです。

ただし、この未証浄心の菩薩と教化地の菩薩との間には、決定的な差が一つだけあります。

それは、未証浄心の菩薩は

「要ず心を作して、三昧に入りて」

仏事を施作すると示されているように、自ら一心に清浄なる無心を作って、利他の仏事を施し続けます。

これに対して、教化地の菩薩は

「他力釈」

において明らかなように、常に法身の三昧の中にあって、阿修羅の琴のように自然に無心に、無限の利他行をすることができます。

一切の菩薩は、利他の仏道のみを行ずるということにおいて全く同じなのですが、未証浄心の菩薩は、作心してしかそれを行ずることができません。

それに対して、教化地の菩薩は自然に無限の利他行ができます。

この一点に両者の決定的な差がみられます。

このゆえに、往相の菩薩である龍樹・天親菩薩は、阿弥陀仏の浄土に生まれて、還相の菩薩になることを願われたのです。

このようにみますと、往相が自利であり、還相が利他だとする見方は、根本的に誤っているということになります。

いまだ往相が決定していない衆生は自利だ、ということはいえるかもしれませんが、往相が決定している正定聚の機には自利の面など全くないのであって、その意味からすれば『教行信証』は、往相の利他と還相の利他を明らかにしている書だといわねばなりません。

ここで今一度、先に引用した

「悲願の信行えしむれば、生死すなはち涅槃なり」

という和讃に注目してみます。

ここで親鸞聖人は、正定聚の機の心を讃えておられるのですが、この正定聚の機こそ、久松師がいわれる無的主体の利他行の実践者にほかなりません。

では、浄土真宗にとって、還相の菩薩とは、具体的にはどのような菩薩だと見ればよいのでしょうか。

この場合、経典に示されている教化地の菩薩を見ればよいのであって、弥勒・観音・勢至といった菩薩がここで思い起こされることになります。

龍樹・天親菩薩が未証浄心の菩薩であり、弥勒・観音・勢至が教化地の菩薩です。

前者が往相の、後者が還相が利他行の菩薩なのです。

この弥勒・観音・勢至といった利他行の菩薩が、この世に存在するはずはありません。

具体的に人間の相をもって、自然に無限の利他行ができる、そのような還相の菩薩がこの世にいてくださるとよいのですが、残念ながらこの世にはおられません。

したがって、この世における菩薩行の実践は、どこまでも往相の利他行でなければならないのです。

そして、それを実践されたのが龍樹・天親菩薩なのであり、より具体的には、正定聚の機が仏道を歩む姿なのです。

親鸞聖人は、この往相の正定聚の機の実践を、浄土真宗の行として

「行巻」に説かれたのであり、さらに還相の菩薩の実践を

「証巻」に明かしておられます。

しかもこの両者は、共に、現生に直接かかわる利他行の実践として、親鸞聖人は語っておられます。

このような観点から見る、親鸞聖人の思想における

「往相・還相」についての論考は、今日まであまり試みられていません。

そこで、以下、この問題を掘り下げていくことにしたいと思います。