投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

『法事を勤めないとタタリがありますか?』

 私たちは、いったいなぜ法事を勤めるのでしょうか。

一般に、法事が勤められている時の感情の一つに「気晴らし」ということがあるようです。

例えば、法事が終わった後に、時折「これで気持ちが晴れました」とおっしゃる方がありますが、この「気持ちが晴れる」という言葉を、別の言葉で言い換えると「安らかに眠ってください」という言葉になります。

つまり、亡くなった人が安らかに眠ってくださった時には、自分の心が晴れるという訳です。

しかも、それに加えて「私たちの生活を守って下さい」というお願いをしたりされる方もあります。

このような意味で、一般に営まれている法事は「気晴らし+安眠+おねだり」ということがその内部構造になっているといえます。

 けれども、法事を勤めるにあたって一番に考えなくてはならないことは、私にとって亡くなった人がどうなっているかということです。

私にとって、亡くなった人がどういう意味をもっているかを考えてみて、その人が愚痴の種でしかなければ、これは仏さまになっているとは言いえません。

言い換えると、自分に何かうまくいかないことが起きると

「亡くなった人、あるいは先祖の誰かが迷っていて、自分が不幸に陥っている」

と口にする人がありますが、仏さまとは

「迷いをはなれてさとりを開いた方」

ですから、そうしますと亡き方が仏さまになられたとは言いえなくなります。

 浄土真宗では法事のことを「おとむらい」と言いますが、この言葉は

「先に生まれた人は後に生まれた人を導き、後に生まれた人は先に(お浄土に)生まれた人をとむらいなさい」

という教説の「とむらい」から出たもので、漢字は「訪(とむら)い」と書きます。

つまり「とむらい」とは、

「先にお浄土に往かれた方々の足跡を私が訪ねて行く」

ことを意味しているのです。

 したがって、タタリをおそれて義務的に、あるいは気晴らしをするために勤めるのではなく、先にお浄土に往かれた方々の遺徳を偲び、そのご恩に感謝して勤めるのが法事の精神なのだといえます。

『油断』

 「油断」の語は、ユッタリ、ユックリと同じ系列の古語「ユタ(寛)ニ」の音便で、

「ゆったりとした気分を持つこと」

の意味で使われることもありますが、一般的にはなまけ怠ること、注意を怠ることを指します。

油断大敵・油断はけがのもと・油断も隙もならないといったように、不注意な行動を戒めるものとして用いられことが多いようです。

 ところでこの「油断」も仏典の説話に由来する言葉です。

『涅槃経』には次のように説かれています。

 むかしある王が臣下の一人に油の入った油鉢を持たせて

「もし一滴でも油をこぼしたならば、汝の生命を断つであろう」

と申し渡して、二十五里四方になった人の群れの中を歩かせた。

その後には、刀を抜いた監視の部下をつけさせた。

命令を受けた臣下は細心の注意を払って懸命に油鉢を捧げ持ち、一滴の油をこぼすこともなく無事に歩き通した。

 この説話の中の「油をこぼしたならば、汝の生命を断つ」から「油断」の語が出来たと言われます。

なお、この話に対する注釈は、次のように説明しています。

「二十五里」は、迷いの現実世界である二十五有(衆生が輪廻の生存を繰り返す場としての三界を二十五種に分類したもの)、

捧げ持つ「油鉢」は色心(事物ないしは身体と心。ここではその調和の状態を指す)、

「油」は戒、「一滴もこぼさず」は一戒をも犯さず、

「王」は仏、

「臣」は修行の人、「刀を抜いて後につく監視人」は無常にそれぞれ譬えているのだと。

 迷いの世界に生を受け、欲望の根源である身体と心のバランスを保ちながら、正道を逸脱することのないよう精進しつつも、いったん踏み外した暁には、人としての尊厳がたちまちにして失われてしまうのだということでしょうか。

 日々「油断」なく、生きることに心寄せたいものです。

今年で、平成も二十年になります。

今年で、平成も二十年になります。

つまり日本人でいえば「平成」という年号も成人式を迎える訳です。

二十年前、当時まだ官房長官だった小渕さんが、テレビで「平成」という元号の書かれた色紙を掲げていたシーンが懐かしく思い返されます。

子ども心に、それを見ながら昭和が終わったことを感じたことでした。

その頃のことを、あなたはどのような思いで振り返られますか。

二十年前、あなたは学生時代、就職や結婚をした頃、あるいはまだ生まれていなかったという人もいたりするかもしれませんね。

また良いこと、嫌なこと、嬉しかったこと、辛かったことなど、たくさんのことを積み重ねて、今の自分がここにいることを思うとき、

「いつのことだか思い出してごらん、あんなこと、こんなこと、あったでしょう♪」

と、子どもの頃に歌った歌の歌詞がふと胸をよぎります。めまぐるしく移り変わる現代に、やわらかなメロディと優しい歌詞が私の心に「少し立ち止まったり、振り返ったりしては?」と語りかけてくれているかのようです。

驚くような速さで、世の中は情報化、迅速化しています。二十年前とは、比べものにならないほど色んな事が様変わりした今日。

その一つに、以前にもまして何よりも「速さ」が求められている時代だと言えるかもしれません。

最新の情報や話題、交通網、物の流れ、全ての面において「速さを競い合う」というところに、今の時代を物語る特徴があるように思われます。

しかし、その速さが求められる一方で「待つ」という態度が次第に薄れつつあるように感じられます。

何かを「楽しみに待つ」、あるいは「心待ちにする」、そのような「こころ」の成長が、速さと引き換えにかき消されてしまうのは、とても寂しいことだと言えます。

「もういくつ寝ると、お正月…♪」

 もしかすると、もうそういうような時代ではないのかもしれませんが、けれども、何かを心待ちにするということは、やはり決して失いたくない大切な心だと思います。

確かに、物質的な面では豊かで、様々なことが驚くほど便利になり、まさにその恩恵に浴して生きている私たちであることは動かしようのない事実です。

けれども、平成二十年、日本人で言えば「成人」ともいえる節目の年の始めにあたり、今こそ少し立ち止まり、振り返り、物に左右されず、しっかり自分と向き合うことのできる成人でありたいと思うことです。

『真(ま)あたらしい いのちの朝(あした) 手をあわす』

 

新年になりました。それぞれの思いの中で、元旦を迎えられていることだと思います。

このように、新年を迎えることが出来るのは、当然のことですが私たちが生きているからであり、私のいのちが様々なもののつながりのおかげによって生かされているからだと言えます。

しかし、一日一日を過ごしているうちに、いつの間にかそのことをすっかり忘れてしまって、自己を中心とした生活を送っているのが私たちの現実です。

しかも、生きていることがまるで当たり前であるのかのように思っている感さえあります。

昨年は、いのちについて深く考えさせられるような出来事が、新聞やテレビのニュースで見たり聞いたりするだけではなく、身近な所でも色々ありました。

ともすれば、それらのことを他人事として受けとめてしまいがちですが、考えてみますとそのような出来事が

「決して私の身には起きない」

と言いきることは出来ないではないでしょうか。

もしかすると、何かしらの条件さえ整えば、あるいは自分の身にも起きてしまっていたかもしれません。

実はそういった中で

「私は、いつどうなるか分からない毎日を生きている」

ということに改めて気づかされた一年でした。

新しい年を迎える当たり、気持ちを新たにするとともに、一日一日を当たり前のように過ごすのではなく、いつどうなるか分からない私のこのいのちが、様々な縁によってつながっていることに心寄せていきたいと思います。

そして、多くの生きとし生けるものの恩恵によって、生かされていることのありがたさを失念することなく、感謝の思いで手を合わせていく毎日を過ごしていきたいものです。

「親鸞聖人における信の構造」 1月(前期)

はじめに

 親鸞聖人は「さとりに至る真実の因はただ信心のみである」と述べられます。

それは、私たちが仏になれるのは、真実の信心を頂くことによってのみであると言われるのです。

そこで、親鸞聖人の「信心の構造」ということについて尋ねていきたいのですが、それに際してこのことを

(1)「獲信の過程」

(2)「念仏と信心」

(3)「親鸞聖人の獲信」

という三つの問題に分けて考えてみたいと思います。

まず(1)「獲信の過程」では、一般に親鸞聖人が明らかにされた浄土真宗の教えは、実は特殊な仏教思想だとみなされていますが、ではその特殊性とはどのような点にあるのかということを示し、併せてなぜそのような思想が親鸞聖人に生まれたのか、その原因とそれを生むに至る過程を問題にしていきます

次に(2)「念仏と信心」では、親鸞聖人の信心は阿弥陀仏の本願との関係の中で生まれています。

この場合、阿弥陀仏は本願に衆生を摂取するための「心」と「行為」を既に成就しています。

親鸞聖人は前者を「大信心」、後者を「大行」と名付けられますが、この両者の姿が「南無阿弥陀仏」だと説かれます。

そこで、南無阿弥陀仏とはいったい何であり、この阿弥陀仏の法はいかにして親鸞聖人の心に来たり、さらに私たちの心に届くのかということについて考えます。

最後に(3)「親鸞聖人の獲信」では、親鸞聖人の獲信の構造を明かにします。

親鸞聖人は「信心」を「獲得する」と表現されます。

自分の信心をこのような表現で語られるのは、おそらく親鸞聖人のみだと考えられます。

「獲得」とは、自分が獲物を得ることで、もともと自分にないものを他から取ってくることを意味しています。

一般的に、信心とは本来自分の心ですから、信じる心になるのであって、「獲得」という言葉は使いません。

これより見て、親鸞聖人が「因」としている信心は、自分の信心ではなくて、その根源にある「如来の信心」を指していることが分かります。

その「信」を親鸞聖人はいかにして得られたかがここでの中心問題となります。

「いじめってなんですか」〜いじめに対する大人の認識にについて〜(上旬) “無視”それは恐ろしい心へのリンチ

======ご講師紹介======

 小森美登里さん(NPO法人ジェントルハートプロジェクト理事)

☆ 演題 「いじめって なんですか」〜いじめに対する大人の認識について〜

ご講師は、いじめのない社会の実現を目指す、NPO法人ジェントルハートプロジェクト理事の小森美登里さんです。

小森さんのお話を通して、いじめの問題を私たち一人ひとりが考えていきたいものです。

小森さんは昭和三十二年、神奈川県のお生まれ。

小森さんがご主人と一緒にこの活動を始められたきっかけは、平成十年七月に一人娘のお子さんをいじめによる自殺で亡くされたことに端を発します。

娘さんが亡くなられる四日前に残された「優しい心が一番大切だよ」という言葉を、一人でも多くの人に伝えるために、現在も学校を中心に活動を続けておられます。

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 今、私は講演などで話をしていますが、まだ一人娘の香澄が死んでしまってもうどこにもいないということを、まだ事実だと信じることが出来ずにいます。

生きている間、ずっとそれが事実だと納得することはないと思います。

でも香澄とは、もう会えない。

香澄がいないのは事実なんだと、くやしいけれど、現実に押しつぶされそうな気持ちになることがあります。

 でも、香澄はその肉体に替えて、私に大切なものを残していってくれました。

それは心というものを考えるきっかけです。

香澄が私に、あんなに痛くて苦しくて悲しかった心ってなんだろうと、問いかけているように思えて仕方がないのです。

あの子が人生に替えて私に残していった大きな宿題だと思います。

 私たちには感情があります。

みんな泣いたり、笑ったり、怒ったりすると思います。

この感情を感じる場所が心なのでしょう。

私たちには肉体があります。

そして心があります。

その二つがそろって、一つのいのちなのではないでしょうか。

心は肉体みたいに、傷口や赤い血が流れるのが目に見える訳ではありませんが、見えないだけで心も傷つき、血を流し続け苦しむものだと思います。

 心の痛みというものをまだ経験したことがないという人は、一人もいないのではないかと思います。

心が元気でないと、人は幸せを実感出来ません。

心は、悲しみに沈んでいる人を励ましたり、支えあったりする力を持っていますが、同時に使い方を間違えると相手を傷つけたり、死まで追い詰めてしまう凶器になってしまうことがあります。

 私はいつも子ども達に講演をするとき、ある質問をしています。

それは

「よくいじめられる方にも原因や問題があると聞きます。皆さんはどう思いますか」

というものです。

以前の私は亡くなる子に対して、この子はいったい何が原因でいじめられたんだろうと思っていた大人でしたが、同じ質問をしたら大人のみなさんはどのように思われますか。

 よく大人はいじめている子どもに対して、その理由を聞きます。

そうすると、いじめている子はその理由を探して、あいつは変だからとか、むかつくからと言います。

変わっていたら、むかついたら、そこに理由があれば人を傷つけてもいいのでしょうか。

人に傷つけられても仕方がない理由。

人を傷つけてもいい権利。

そんなものを持って生まれてくる人は一人もいません。

みんなが幸せに、自由に生きる権利を持って生まれたいのちだと思います。

 次に、今でもよくあるのですが「無視」といういじめがあります。

この無視といういじめについて、ある精神科の先生が私に教えてくれたことがあります。

人間は孤独がとても苦手な生き物で、ずっと無視され続けていると心が病気になってしまって、最後には自分を死へと追い詰めてしまうということです。

 リンチというと肉体への暴力だと思われるかもしれませんが、無視というのは恐ろしい心へのリンチなのだそうです。

その無視をしている子に注意しますと

「やってるのは私だけじゃないもん。みんなもやっているもの」

なんて答えてくるんです。

人数が多ければいいのかと言いたくなります。

されている身になればすぐにわかりますが、一人に無視されるだけでもすごく心地悪いですよね。