投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

なぜいま念仏か11月(後期)

このような問いが発せられますと、一般に私たちはこれらの問題を何とか理性の範疇で説明、理解できるような答えを一心に探し求めようとします。

「西方」とは日が没する方向で、それは非常に清浄で静寂な世界であり、一切の寂滅を私たちの心に抱かしめてくれます。

そこで、そこに私たちの最も理想と思える世界を建立し、その浄土の荘厳を通して、仏教の根本義である空とか涅槃の意味をここに明らかにしようと試みます。

あるいは「阿弥陀」という名号は、光明無量・寿命無量という意味であり、それは無限の智慧と慈悲を象徴していることを踏まえて、この仏は無限の空間と無限の時間の一切を覆い尽くし、完全なる智慧と慈悲の功徳でもって、一切の衆生を摂め取られるのだと説きます。

また、菩薩が自らの誓願を名号に託して仏に成られることに着目して、仏の正しい覚りは、そのまま名号の成就を意味し、名号にはその仏の功徳の全体が有せられていますので、名号が仏そのものと不二だと受け止めます。

そして、一声の称名「南無阿弥陀仏」が称えられる時、その人の心は阿弥陀仏の功徳で満ち満ち、ここに完全なる救いが成り立つことになるのだと説くのです。

このように、名号や浄土の真実性を極めて精緻に論ずることになるのですが、それがどれほど論理的に説き明かされたとしても、最終的にはやはり知的理解に留まってしまうのではないでしょうか。

なぜ名号が阿弥陀仏と一体なのか、はたして私は光明無量・寿命無量という仏を、私の全人格をなげうって信じることが出来るのか、一心に念仏を称え、浄土に生まれたいと願う心が、この私に生じるのか、むしろ私たちの中にはこれらの疑問が次々と生じることになるのではないかと思われます。

「『篤姫』放映と観光振興」(下旬)子をなさない母親が子どもを立派に育て上げた

こうして、鹿児島時代と大奥時代が終わりました。

でも、これで終わりではないんです。

東京時代となるここにも天璋院の仕事があるんです。

徳川家は存続が許されて、彼女は跡継ぎとなる田安亀之助(たやすかめのすけ)六歳を養育することになります。

その子を立派な徳川家第十六代当主(後の徳川家達)として育てなければなりませんから、大変な仕事です。

明治十年、家達が十六歳になると、天璋院は彼をイギリスに留学させます。

イギリスからは、たくさんの品々が天璋院のもとに送られてきました。

家達は彼女のことを本当の母親のように思っていた証拠ですよね。

そして家達を送り出して三年後の明治十三年、彼女は嫁いで以来初めて東京を離れます。

おそらくは生まれ故郷の鹿児島に行きたかったことでしょう。

しかし明治十年に西南戦争があって、鹿児島は焼け野原になっていました。

鹿児島の人々の悲しみを考えると、どんな顔をして帰れば良いのでしょうか。

家達をイギリスに送り出した後、鹿児島に帰ることが出来たとしても、徳川家の御台としてはとても帰れなかったんでしょうね。

この時は、伊豆のある温泉に行きました。

といっても、温泉に入りに行った訳ではありません。

実は、そこで一番可愛がっていた和宮がわずか三十一歳の若さで亡くなったんです。

自分より十一歳年下のかわいい嫁でした。

共に政略結婚で子をなさず、結婚生活も短いものでしたが、立派な子どもを育てたんです。

子をなさない母親が子どもを育てあげたということですよね。

現在の徳川家に残っている、明治十三年の天璋院の日記に

「私は胸がふさがり、懐旧の涙が袖を絞るほど溢れるのを押さえることができなかった」

と描いてあります。

その温泉の近くには早川という流れの速い川がありました。

そこで彼女は歌を詠んでいます。

「君が齢とどめかねたる早川の水の流れもうらめしきかな」。

これが姑の天璋院が嫁の和宮に送った追悼の歌です。

イギリスから家達が帰ってきた後、天璋院は最後の仕事をします。

家達の嫁として近衛家から近衛泰子を迎えて、その娘を育てて結婚のお膳立てをしました。

そして明治十六年、四十九歳の生涯を閉じました。

その翌年、明治十七年に近衛泰子と徳川家達の婚礼が盛大に行われました。

このように、鹿児島時代、大奥時代、東京時代と揺るぎない人生を送られた方が、鹿児島の薩摩おごじょ、天璋院篤姫です。

「姓の違う人のお骨と納めるとケンカが起こる?」

研修会の際、話し合いの時間にある女性が、

「遠い親戚で直接お会いしたこともない人のお骨をだれも見る人がいなくなったので自分の両親のお墓に一緒に納めようかどうか迷っている。

姓の違う人のお骨を一緒に納めるとケンカをするということを聞くがどうすればよいのでしょうか?」

と話された女性がおられました。

結論からいいますと

「姓の違う人のお骨であっても一緒に納骨して何の問題もありません。」

ケンカをするのではないかと心配してしまうのは、お骨そのものを故人そのものとしてしか見ていくことのできない我執にとらわれた我々人間のものの見方から生じているといえます。

阿弥陀経には「倶会一処」?また一つの処(浄土)でお会いしましょう?とあります。

たとえ生前、仲の悪かった人同士であっても浄土では世俗での様々なしがらみから解放されて互いが手を取り合い、我々が真実の世界に目覚めるようにはたらいてくださるのです。

ですから、姓の違う人であっても一緒に納骨してなんの問題もないのです。

ケンカをするのではないかと心配している我々のものの見方・考え方そのものが迷いの根源であったと気付かせて頂くことが大切です。

<参考文献>

◎『仏事のイロハ』末本弘然著(本願寺出版社)

◎『門徒もの知り帳』(上・下)野々村智剣著(法蔵館)

「がっこうのトイレに“はなこさん”がでるんだって。

「がっこうのトイレに“はなこさん”がでるんだって。

もぉこわくてはいれないよぉぉぉ。」

小学生の娘が言った。

「あら、今でも花子って名前の子がいるんだぁ。めずらしいね〜。」

わざととぼけて返事した。

「ちがう!“はなこさん”はオバケなんだよ。

トイレにだ〜れもいないのに、『はなこさ〜ん』てよぶと、へんじするんだって。」

ひと昔前に『トイレの花子さん』という映画にもなった、あの怪談話のことだと分かってはいたけど。

やっぱり今でもそういうの、あるんだ。

いつの時代になっても、何歳になっても、人は霊や霊魂、お化けといったものに恐怖を感じるものなのかもしれない。

目に見えないものに対して、恐怖や畏怖、驚愕の念を覚えるのは、ある意味自然なことなのかも。

「じゃ、さ、あなたが“はなこさん”をみたの?声を聞いた?」

「うぅん、○○ちゃんが話してたの聞いただけ…」

「ママさ、オバケのことはよくわかんないんだけどさ。

あなたがちゃんとオバケを見たり声を聞いたりするまでは、怖がらなくていいんじゃない?

もしかしたら、かわいいオバケかもしれないし、優しいオバケかもしれない。

本当は花子さん、いないかもしれない。

わかんなくない?会ってみるまで。

だから、怖いよ、怖いよ!すっごく怖い〜〜!!って思うのは、オバケに会ってみてからでもいいかもよ。

それまではさ、『オバケってどんなんだろ?いるのかな?いないのかな?』って思っとこぉよ。

ちなみに、ママは早くオバケに会ってみたいんだけど、この年になっても、まだ一度も会ったことないんだよね。

だから、ぜ〜んぜん、怖くなれないんだよ。」

娘は「ふ〜ん。」とだけもらして、しばらくしてから別の話をしだした。

小学生に“こわがるな”って言う方が所詮無理な話だろう。

だけど、気にかけない人もいるんだってこと、知ってもらうだけで充分だと思った。

これからの人生、たくさんのとまどうような場面に出会っていくことだろうけど、一緒に感じ、考え、話し合い、共に実践していける、そんな親でありたいと、心から思う。

できるかどうかは別として…。

とにもかくにも、

「我慢せず、ちゃんとトイレ行ってね!」

それだけは伝えておかないと!!

『私の安心はいつも一安心』

仏教では人間を「機」という言葉で呼びます。

機とは「機微(きび)」、つまりかすかなものをもっているもの、意識よりももっと深いところにいのちそのものの願いを持っているもの、というような意味ですが、そのかすかなものが私たちの生活の中において、どのような形で一番具体的に現れてくるかというと、それは「不安」です。

私たちは、生きて行く中で、誰もが何かしらの不安を抱えています。

けれども、考えてみますと不安を感じるということは不思議な感じがします。

なぜなら、こういう時には不安を感じるものだとか、不安はこのようにして感じるのだとか、誰かに教えられて不安を感じるようになった訳ではありません。

それにもかかわらず、何かしら人生に対する不安を感じる時があります。

思うに「不安」とは何かと言うと「今の在り方は確かか」という、問い返しなのではないでしょうか。

それは、私の中に私の在り方を問い返す何かがあるということだと思います。

したがって、何となく自分の生き方に不安を感じるのは、今の私の生き方に「それでいいのか」と、問いかけてくる何かがあるからに違いありません。

ところが、私たちの日々の生活を振り返ってみますと、その問いかけの意味に気付くことなく、何とかその不安を感じないようにと、不安を消し去る努力を試みたりします。

そこで、神仏に祈ったり、占いに頼ったりするなどして、不安を消そうとするのですが、どれほど一心に無病息災を願っても、時間の流れを止めることは出来ないのですから、不安を消そうとする努力は、所詮単なる気晴らしに終わってしまいます。

なぜなら、時間を止められない以上、老いることも死ぬことも避けられないからです。したがって、たとえ不安が消えたように思っても、それは一安心に過ぎないです。

考えてみますと、私たちは不安があるからこそ、真実の言葉に耳を傾けることが出来るのではないでしょうか。

不安とは、私が感じようと思って意識して感じるものではありません。

しかしながら、日々の生活の中で誰もが確かに感じるものです。

それは、自らの力では意識出来ないような、かすかな「いのちの叫び」とでも言い表してもいいようなものですが、その事実に目覚めさせ、確かな問いを気付かせて下さるのが、仏さまの言葉、仏教の語りかけなのだと言えます。

心の奥底から、私の生き方を問い返してくる力が「不安」だとすると、それを消し去って一安心することを求めるよりも、その不安があるからこそ、私たちは真実の生き方を求めることが出来るのだと仏法に耳を傾ける、そのどちらの生き方を選ぶかはあなた次第だと言えます。

なぜいま念仏か11月(中期)

「南無阿弥陀仏」を称える、そこにこの私の一切の救いがあると言われても、現代人一般の目から見れば、そのような

「因果の道理」

を直ちに信じることは極めて難しいといわざるを得ません。

南無阿弥陀仏とは、言うまでもなく、私自らが阿弥陀仏に対して、礼拝し帰依して心から阿弥陀仏を讃嘆し、一心にその浄土に生まれたいと願う心です。

けれども、幸いに言葉として

「南無阿弥陀仏」

が私の口から称えられたとしても、この私に果たして阿弥陀仏という仏を信じることができるのでしょうか。

ましてやその浄土に生まれたいという心が起こるのか、私には大きな疑問になります。

それは当然のことであって、阿弥陀仏や西方の浄土を信じることが難しいのは、何も今に始まったことではないからです。

それは既に、釈尊の時代から、そしてそれ以降の多くの高僧達もこの問題に直面しているのです。

阿弥陀仏の浄土の教えは、まことに易しい教えだといえます。

なぜなら、阿弥陀仏の大悲を信じてその浄土に生まれたいと願えば、ただちに仏に成るという教えだからです言葉を換えれば

「ただ念仏して仏になる」

ということですが、ただし浄土の経典には、この行道は易行であるが、この教えをその通りに信じることは

「難中の難」であって、これ以上の難はないと明確に記されています。

したがって、浄土の法門における最も根本の問題は

「いかにして阿弥陀仏を信じるか」

ということにあると言えます。

まさにこの点こそが、古代から現代に至るまで多くの高僧によって問い続けられてきた問題なのです。

殊に、理性的判断に頼っている現代人には、見ることのできない阿弥陀仏やその西方浄土の存在は、まさしく信じ難い問題だということになります。

にもかかわらず、なぜ私たちにとって

「南無阿弥陀仏」

が全てだと言うことができるのでしょうか。