投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「『篤姫』放映と観光振興」(中旬)西郷隆盛へのメッセージが江戸城無血開城へ

しかし天璋院は、大奥を去りませんでした。

なぜでしょうか。

嫁として、そのとき大奥で一番悲しみのどん底にある方は誰かを考えてみましょう。

天璋院にとって、自分は嫁ですよね。

もちろん旦那の家定を亡くした悲しみはありますが、それ以上に悲しんでいるのは、姑であり家定の母親である本寿院なのです。

この本寿院を置いて、自分だけが出て行くことは出来ない。

しかも家定が亡くなれば、大奥で一番肩身が狭く、辛い思いをしながら暮らしていかなければならないのは本寿院です。

その本寿院に嫁として尽くすのが嫁としての当然の務めであるとして、天璋院は大奥に残ったんだと思います。

その後、今度は自分が嫁を迎える時がきました。

その嫁というのが天皇家から嫁いできた和宮(かずのみや)でした。

和宮は

「宮風の生活をする」

という約束で嫁いできた訳ですが、そこに

「武家出身の天璋院がいては問題がないか」

ということで、島津家から引き取りの打診が来た訳です。

しかし、これに対しても彼女は

「私に何の落ち度があるのですか。

もし徳川家に何かしら落ち度があるのであれば、私は潔く城を出ますけれど、そうでない限りは当家の土になる覚悟です」

と言って、これも断りました。

そして慶応四(一八六八)年三月、いよいよ時代の分かれ目が近付いてきました。

江戸城総攻撃の軍勢が江戸を目指して迫りつつありました。

この時は、既に和宮の夫である十四代将軍家茂も亡くなり、十五代将軍慶喜になっていました。

それぞれに夫である将軍を亡くした天璋院と清寛院(和宮は家茂の死後、同じく落飾して清寛院と名のっていました)は、江戸城を目指す軍勢が目前に迫っている中で、決死の嘆願書を書きます。

もちろん清寛院は実家の天皇家へ、天璋院は同じく実家の島津家の軍勢を指揮する西郷隆盛のもとへ、それぞれ送りました。

天璋院はその嘆願書の中で、西郷隆盛に

「私こと、一命にかけてお願いします。

徳川家存続をどうかお願いします」。

そして

「もし徳川家を存続させてくださるのであれば、西郷さんあなたの武人として、人間としての徳はこの上ないものと思います」

ということを述べています。

これは

「もし江戸城総攻撃を行うのなら、私を殺してからにせよ」

という彼女のメッセージなんですよね。

このような嘆願書を目にした西郷隆盛が、どうして天璋院を自分の手で殺すことが出来るでしょうか。

それは、人の道に背きます。

彼は何よりも人の道を踏み行う人物だと信頼されているので、その後の戊辰戦争でも指揮を任されたんです。

後の西南戦争でも、そういう人だからこそ、多くの人々が西郷さんのもとに集まって来る訳です。

そして三月十三日と、十四日、勝海舟と西郷隆盛は会談しました。

勝海舟は、数万に及ぶ旗本、御家人のいのちと生活、その家族と財産を守りたいと思ったことでしょう。

西郷さんにしても、自分を見出し、引き立ててくれた島津斉彬の娘であり、自分と同様に斉彬の使命を果たそうとした天璋院の命を救いたかったはずです。

こうした二人の思いが、翌三月十五日、江戸城無血開城につながったんだと思います。

「浄土真宗でふさわしくない言葉は?」

葬儀の際に、亡くなられた方を偲ぶ様々な言葉が弔辞や電報で使われています。

よくよく聞かせて頂くとその言葉の中には浄土真宗の教えに照らしてみてふさわしくない言葉が多くあります。

代表的なものを少し挙げてみます。

例えば、

「永眠いたしました」は、「往生いたしました」。

「安らかにお眠りください」は、「お浄土よりお導き下さい」。

「冥福を祈ります」は、「故人を偲んでお念仏します」。

「天国」「黄泉の国」「冥土」「草葉の陰」等は「お浄土」。

それぞれに浄土真宗の教えに適ったふさわしい言葉の使い方があります。

我々浄土真宗の教えを頂くものにとりましては、単なる言葉の間違いではすまされない大切な問題です。

先に挙げました「安らかにお眠りください」というのは、人間の心情からいえば確かにそうだなと思うところもあります。

しかし、浄土真宗の教えの上では亡き人は浄土へと生まれ往き悟りの身となられて、そこでゆっくり眠っているのではなく、われわれを真実の世界へと導かんがためにはたらいてくださるのです。

ですから「安らかにお眠りください」ではなく「お浄土よりお導き下さい」という表現になるのです。

言葉には大切な意味が含まれています。

一つひとつの言葉を慎重にそして大切に味わいながら使わせていただきたいものです。

<参考文献>

◎『仏事のイロハ』末本弘然著(本願寺出版社)

◎『門徒もの知り帳』(上・下)野々村智剣著(法蔵館)

十月十五日と十六日で例年のごとく龍谷会の法要が京都東山の大谷本廟でご修行になられ

十月十五日と十六日で例年のごとく龍谷会の法要が京都東山の大谷本廟でご修行になられました。

龍谷会と申しますのは大谷本廟での報恩講のことで、三百年あまり前、大谷本廟の祖廟、拝堂が建立された頃から行われています。

ご存知の方も多いと思いますが、龍谷会では庭儀の列が組まれます。

御導師を中心に讃嘆衆、奏楽員、威従儀師等の諸役(中には上童子や持幡童といったお子さんが担う役もございます)が、集会所(読経所)から明著堂まで列を正して歩いていく作法です。

その庭儀の時に使用する履物が二つあります。

一つはご門主様、新門様がお履きになる葦草履(いぞうり)という履物です。

これは草鞋を大きくしたような履物で、集会所を出てから明著堂に着くまでの間に履かれます。

もう一つは浅沓(あさぐつ)という木でできた黒漆塗りの履物で、奏楽員が履きます。

同じく集会所を出てから明著堂に着くまでの間に履きますが、ごそごそ底を擦るようにして歩きます。

どちらも龍谷会の時以外はご本山で用いることはありません。

現在ご本山で使用されている履物にはこの二つの他に鯨魚(げぎょ)という履物があります。

これは毎年十二月二十日に行われる御煤払の時にご門主様がお履きになる物で、葦草履をもっと巨大化した草鞋です。

『私の安心はいつも一安心』

日頃、乳幼児と接する環境に身を置くご縁をいただいています。

夕方のお迎えの時間、玄関にお父さん、お母さんの姿が見えると、一目散に親の元へ駆け寄って行く子、まだまだ遊び足らずすぐには帰ろうとしない子など、様々な子どもたちの姿が見られます。

けれども、みな一様に言えるのは、その表情は安心感に満ちあふれているということです。

子どもにとって、親という存在ほど大きく安心できる場所はありません。

したがって、子ども達の心には、安心できる場所を持つことで、大きなゆとりと自信が生まれます。

そして、そのような存在に包まれて、伸び伸びと生きて行く中で、かけがえのない「いのち」は輝きを放つのだと思います。

確かに、成長と共にいつしかそういった思いが薄れていくのも事実ですが、自分の拠り所となるものあるいは生きる指針を持つことは、人として成長していく過程で、努めて意識するよう心掛けたいものです。

最近のテレビを見ていると、芸能人や有名人の人生を様々な形で診断する番組が人気を博しているようです。

また朝の時間帯には、今日の運勢や占いとったコーナーが必ずありますが、それはとりもなおさず毎朝これからの一日がどのような一日であるかということについて、人々が高い関心を寄せていることの表れだと思います。

そして、それは今、私たちが生きていく上で、常に「安心」ということが求められている時代だということを顕著に表している現象なのかもしれません。

ところで、その日によってころころ変わる不確かな運勢を人生の基盤とするのか。

あるいは、占いや迷信に左右されることなく、自分の信念をしっかり持って自らの人生を歩むのか。

嬉しいことや楽しいこと、悲しいことやつらいこと、あらゆる事が予期しない形で起きるのが私の人生です。

しかも誰も代わってくれることのないのが私の人生の現実です。

そのような意味で、いろんな「ご縁」の中で、物事を見極める目と、的確に判断できる確かな心を培うことが、この人生を力強く生きる上で大切な要因となっているのだと言えます。

なぜいま念仏か11月(前期)

ところが、現存する親鸞聖人の著述はすべて、親鸞聖人が信心を獲られた後に書かれたものばかりですが、そのどこを探してみても「後世の祈り」は見られないのです。

親鸞聖人の思想には、そういった後世の幸福に対する祈りや、この世にただよう悪霊へのお祓いといったものは、全く存在していないのです。

不幸の根源ともいうべき、空間と時間を支配する、悪霊・魔力を恐れた痕跡が全く見いだせないのです。

確かに、信心を獲られる前の親鸞聖人は、後世に対して無限の恐怖を抱いておられるのですが、信心を獲られた後は、その恐怖が完全に断ち切られています。

いわば、未来に対する畏れと、空間の悪霊への恐れに、身動きが出来ないほどまでに縛られていた親鸞聖人が、信心を獲られたことによって、その呪縛から完全に解放されているのです。

それは、信心を獲ることによって、仏教が意味する因果の道理がわかったからだといえます。

そうしますと、この「因果の道理」は、科学的に見た原因と結果の法則とは、大きく異なっているといわなくてはなりません。

では、信心を獲ることによって親鸞聖人に何が起こったのでしょうか。

ひとことで言えば「念仏の真実」という因果の道理が、親鸞聖人の全人格的な場で、信心を獲られたその瞬間、明確に信知されたということです。

そうしますと、仏教における因果の道理とは何でしょうか。

それは、凡夫とはただ迷うのみで、その心には一片の真実心も存在せず、一方阿弥陀仏の大悲は、その凡夫を念仏を通してただ一方的に救おうとしておられるということです。

私が南無阿弥陀仏と念仏を称えている、その念仏を称えている姿こそ、この私が既に阿弥陀仏の大悲に摂め取られているのだという真理が、親鸞聖人に明らかになったのです。

それゆえに、時間と空間の呪縛から自由になられたのです。

「『篤姫』放映と観光振興」(上旬)姑の本寿院は嫁に寛容で優しかったんじゃないか

======ご講師紹介======

原口泉さん(鹿児島大学教授)

☆演題 「『篤姫』放映と観光振興」

原口さんは、平成二十年に放送が予定されているNHK大河ドラマ『篤姫』の時代考証を担当されています。

昭和二十二年、鹿児島市生まれの原口さんは、東京大学に進まれ、博士課程を修了。

昭和五十四年から鹿児島大学の法文学部に勤務。

助手、講師、助教授を経て平成十年から教授に。

原口さんのご専門は日本の近世、近代史で、特に南九州と薩摩藩の歴史研究に取り組んでおられます。
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天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ)。

この人の人生は鹿児島時代、大奥時代、東京時代の三つに分けることが出来るでしょう。

将軍の正室

「御台所(みだいどころ)」

としての大奥時代、篤姫は養父の島津斉彬に託された使命を果たそうと必死に努力します。

その使命とは、将軍家の跡継ぎに一橋慶喜を勧めるように、十三代将軍のお母さんである本寿院(ほんじゅいん)にとりなしてもらうことでした。

本寿院は嫁のその話を聞いて、将軍家定に

「篤姫のお父さんの島津斉彬が、一橋慶喜を跡取りにと推薦しております」

と伝えました。

すると将軍家定は

「なんたることか。

私はまだ三十五だ。

一橋慶喜は二十を過ぎているではないか。

しかも外様大名の分際で、公に世継ぎのことをうんぬんするとは何事か」

と激怒しました。

家定は御台所に、そういうことはダメだと、実家に対して手紙を書かせるように本寿院に言いました。

ところが、本寿院はそんな家定をなだめるんです。

「そんなことをしたら御台さまがかわいそうでしょ。

立場がなくなりますよ。

労中と相談してご沙汰して下さい。

それを私が伝えてあげますから」

と言ったんです。

これは本寿院が、篤姫のことを我が子の将軍家定にとりなしをしているんです。

そして、家定は大変怒っているということを篤姫に伝えます。

ところが篤姫も父斉彬に託された使命ですから、簡単にはあきらめません。

嫁でありながら、姑である本寿院に反論しているんです。

斉彬宛のお手紙の中で篤姫は

「お母さま、私は見をいとい申さず」

と書いています。

まず、自分はどうなってもいいということです。

これが篤姫の生き方なんです。

「こういうことを父斉彬が言うからには、よほど徳川家のことを案じているからだと思います。

どうかお願いします」

と嫁が反論したのに対して、姑は

「お願いだから控えておいて下さい」

と言っています。

しかし、それでも篤姫はあきらめませんでした。

大奥の中では、上臈(じょうろう)というのが責任者なんでが、その上臈の歌橋(うたはし)に同じ相談をしているんです。

そのときの答えも

「御台さま、控えておいてください」

と、本寿院と同じでした。

実は、大奥は御三家の中で水戸が嫌いでしたから、将軍に世継ぎがない場合は次期将軍候補となるご三卿の一橋家当主とはいえ、その水戸家出身の一橋慶喜を次期将軍として認めることは出来ない訳です。

このことから、私は姑の本寿院は嫁に寛容で優しかったんじゃないかと思うんです。

本寿院の気持ちになってみますと、息子の家定はやや知的障害があるものの十三代将軍職を立派に務めています。

ただ、家定は公家から迎えた御台所を二人も亡くしていました。

そこで、三人目ともなると、しっかりと支えてくれる女性をということで、島津家から御台所を迎えられたんです。

そのとき斉彬は、篤姫なら性格も温和だし、家臣の勧めもある。

しかも忍耐強く、人に接するのが巧みである。

これは将軍の御台所に推挙するのは彼女しかいないということで、篤姫が選ばれたんです。

そのような意味で、おそらく本寿院にとっても篤姫は期待の星だったんじゃないかと思います。

だからこそ、嫁の言葉を家定にとりついだんでしょうね。

安政五(一八五八)年七月六日、将軍家定が亡くなり、さらにその十日後には島津斉彬が鹿児島で亡くなりました。

斉彬の影響が亡くなり、次期将軍は一橋家の慶喜ではなく、紀州徳川家の家茂に決まりました。

そして篤姫は落飾して天璋院となり、すべての支えを亡くしてしまったんです。

まさに四面楚歌というような立場におかれる中、実家の島津家からは幕府に対して引き取りの打診がありました。