投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

なぜいま念仏か(4)10月(後期)

ここで着目したいのは、浄土真宗の教えに生かされた人として顕彰された

「妙好人(みょうこうにん)」

と呼ばれた人々のことです。

今その人々の臨終に注意してみますと、妙好人の臨終にも、枕元には多くの人たちが集まっています。

ところで、その臨終において、心を乱して歎き悲しんでいるのは、死を迎えようとしている妙好人ではなく、むしろ集まっている周囲の人たちなのです。

その無常を悲しんでいる人たちに、妙好人は静かに語りかけます。

『この世のすべては不条理でしかありません。

なぜなら、悪多く障り多きもののすみかだからです。

常住な幸福に満ちた人生などありえないのです。

だからこそ、私たちには、無常を超えた無限の喜びが、私の心に開かれなくてはなりません。

私は、お念仏によってその心を得たのです。

みなさまも、お念仏の教えに導かれ、無限の喜びに生かされる人生を歩んで下さい。

このようなことを語りかけながら、たんたんと臨終を迎えておられます。

妙好人は、私たちと同じ凡夫にほかなりませんが、その凡夫が釈尊や高僧たちと全く同じような臨終を迎えることが出来ているのです。

それはなぜなのでしょうか。

妙好人はすでに一切の呪縛から解放されていたからだといえます。

私たちはいったい根源的に何に呪縛されているのでしょうか。

それは「見えざるものの恐怖」によってです。

そして、その見えざるものとは、時間と空間にほかなりません。

幸福に満たされている、今この私の存在が、いつどこで破綻させられるかわかりません。

未来に流れていく時間の構造を私たちは見ることは出来ませんし、またどこから不幸がやって来るか、その空間を見ることも出来ないのです。

そこで、人はその見えざる力に恐れを抱くのですが、それはまた若き日の親鸞聖人も同様であったと言えます。

親鸞聖人は二十九歳の時、比叡山での仏道に挫折されます。

そこで、山を降りて、法然上人のもとを訪ねられることになるのですが、その理由を親鸞聖人の奥様、恵信尼公が

「後世を祈って」

と語っておられます。

親鸞聖人は比叡山で

「生死出ずべき道(迷いを超える道)」

を求めて、一心に仏道に励まれるのですが、その解決の道が得られず、死後の自分の行く先に無限の不安を募らせておられたのです。

「仏像に聴く」(下旬)お釈迦さまの光輝は表面ではなく内面

例えば、有名な「苦行の像」ですが、お釈迦さまは六年に及ぶ断食やヨガなどのさまざまな苦行をなさり、とうとう骨と皮だけになってしまわれました。

それは、非常に痛々しいお姿です。

しかし、この像の前に立ちますと、崇高なものを感じると多くの方が言われます。

そこには、造形の世界の不思議な力を感じます。

この像にしても、先程の「梵天勧請」の像にしても、頭の後ろには丸い円盤が表されています。

これは、仏陀の身体から光が発せられていることを意味しておりまして、後の「光背(こうはい)」の原初の形です。

また、当時の仏教教団では、捨てられた布を拾い集めてきて、粗末な布を身につけたと伝えられています。

そのことから想像しますと、普通の人の目に映るお釈迦さまは、決して美しい身なりはされていなかったはずなのです。

ところが、実際私たちが仏像を拝観しますと、多くは金色で表されています。

お釈迦さまは、決してあのような金色の美しい布を召しておられたわけではありません。

それにもかかわらず、なぜ金色で表されているのでしょうか。

それは、表面ではなく内面を表しているのです。

普通の人が見たら、そうではないのかもしれませんが、仏弟子が見たお釈迦さまは、悟りを得られて真理そのものと成られた光り輝く方であり、偉大な方であったということです。

このようなイメージは、その後の仏像に反映されていきます。

具体的には、光り輝くお釈迦さまを、金箔でもって金色に表しています。

また、親鸞聖人のご和讃をご覧いただきますと、「浄土和讃」の最初に「尊者阿難座よりたち世尊の威光を瞻仰し生希有心とおどろかし未曽見とぞあやしみし」とか「如来の光瑞希有にして阿難はなはだこころよく如是之義ととへりしに出世の本意あらはせり」とあります。

これは仏陀のお弟子である阿難尊者が、ある日お釈迦さまの尊顔を拝してご威光を感じるということがありました。

先程申しましたように、お釈迦さまは粗末な着物を着ておられましたが、阿難尊者が見るお釈迦さまは光り輝いておられたということです。

なお、この時に説かれたのが、親鸞聖人が「真実の教」とお示し下さった『仏説無量寿経』です。

このように、仏像は実際に言葉を発してものは言いませんが、私たちに何かを語りかけているのです。

私はそれを聴いていくことが大切であると感じ、日々木に向かい、ノミを振るって仕事に向かっています。

【お寺にはどんな法要があるのですか?】

お寺の法要、あるいは行事について、例えば大晦日の除夜の鐘であったり、お葬式、年忌など、皆さんもそれぞれに想像されることと思います。

今回は、私たちの浄土真宗における法要などについて、その一部ですがご紹介します。

まず最も大きな法要として、

「御正忌報恩講」(ごしょうきほうおんこう)

があります。

これは、宗祖親鸞聖人の祥月命日(1月16日)にあたり、聖人のご苦労を偲び、そのご恩に感謝し営まれる1年のうちで最も重要な法要です。

身近な方のご法事と同じように、浄土真宗のみ教えに生きる者として、宗祖のご法事を勤めることも私たちは忘れてなりません。

他にも、春秋のお彼岸やお盆。

また

「降誕会」(ごうたんえ)

と呼ばれる、親鸞聖人のご誕生をお祝いする法要もあります。

その他にもお寺では、赤ちゃんが生まれて一番最初にお参りする「初参式」や、仏前での「結婚式」もあります。

昨今様々な形での結婚式を見聞きします。

式の形態や雰囲気が重視され、いわゆる流行りやお洒落として今選ばれている傾向にあると言えます。

しかし、仏教徒、あるいは浄土真宗の門徒ならば、やはり仏前での誓いをいたしたいものです。

人生の大切な節目節目にはどうぞ仏前へ奉告をし、みんなで揃ってお参りをしてください。

『ワイルドストロベリー』

『ワイルドストロベリー』

野生のイチゴでバラ科の多年草です。

最近では「幸せを運ぶ」と言われ人気があるそうです。

(花が咲いて、実がなると恋が実る、結婚できるetc…)

そんなコトは知らずにですが、ワタシ今職場でこのワイルドストロベリーを育てています。

1ミリもないくらいの種を植えて、約2週間、発芽。

そこから双葉になって、本葉がでて・・・

少しずつではありますが、確実に成長していってます。

小学生の頃以来の植物の栽培!!

最初のうちはなかなか芽も出てこないしあきらめかけていました。そんなとき、ちっちゃーい芽が!!!!!

「可愛いッ!!!」

毎朝、出勤してはすぐに状態を見ています(●^∀^●)♪

自分が休みのときは、周りの方にお願いをして水をあげてもらってます。

前にどこかで、植物にも話しかけたり、良い音楽を聴かすと、スクスク元気に育つと聞いたことがあり、ワタシも早速実践!

「おはよ〜」

「大きくなってね(●^∀^●)」

など、いろいろと話しかけています。

不思議なものですね。

土がかわいていると「ごめんね。。。(>_<)」って心から思うようになりました。 さらに 生きている。。。 この植物(イチゴ)にも命があるんだなぁー・・・って成長を見守る中で感じるようになりました。 このイチゴは力強く生き抜く光輝くいのちのありかたを、まざまざと教えてくれているように思います。 私たちは日常の忙しさに溺れ、日常の幸せばかりを求めて生きています。 そんな中わたしに『生きる』という意味。 『いのち』について考えるきっかけをこのイチゴはあたえてくれたように思います。 このイチゴをとおして、元気をもらったり、勇気をもらったり、いろんなことに気付かされているワタシです(*^∀^*)☆彡

『仏法は私の心を写す鏡』

仏教を学ぶ場合、二通りの学び方があると言われます。

一つは解学、今一つは行学といいます。

解学というのは、仏教を思想として学ぶことで、あえて言えば哲学といえます。

「宗教哲学」

という学問がありますが、仏教を哲学として学ぶ時には、仏や菩薩の悟りあるいは凡夫の迷いの内容を分析して、理論的に学ぶことが出来ます。

つまり、自分の人生や生活とは無関係に、教理を客観的に学ぶということだけなら、どのような教えでも自由に学ぶことが出来るように思われます。

これに対する行学、端的には

「行を学ぶ」

という場合は、なかなかそういう訳にはいきません。

なぜなら、行学というのは自分の生き方を仏教に学ぶという在り方だからです。

自分の生き方は、私の自由自在にという訳には参りませんので、同じように難しいのです。

このことについて、中国の唐の時代の善導大師という方は

「もし行を学ぼうと思うのであれば、必ず待対の法をよりどころにしなさい」

と教えておられます。

ここで言われる

「待対の法」とは

「人間を待ち、人間にこたえる仏法」

というような意味ですが、人間が仏法を待っているのではなく、仏法の方が人間を待っているのだと言われるのです。

言い換えると、人間が仏法に従うのではなく、仏法の方が人間に従う。

つまり、私たちが仏法を聞いてその教えに従って生きるというのではなく、私たち人間の生きている事実の方が先にあり、その悩んだり苦しんだりして生きている人間の問題にこたえるのが仏教だということを、善導大師は

「待対の法」

という言葉で教えて下さっているのです。

そうしますと、真の意味で

「仏法に遇う」

ということは、私が理解する以上に、私の事実が既にこたえられていたという事実に気付くことだといえます。

仏法の語りかけに耳を傾けると、そこで耳にするのは、私が今まで知らなかったことではありません。

新しい教え、新しい言葉を知るのではなく、私の事実を言い当てている言葉がすでにあったということを知るのです。

言うなれば、私を言い当て、その私にこたえる言葉に出会うということなのです。

このような意味で仏法とは、日頃私たちが自分の姿を知りたい時には鏡の前に立つように、どこまでもこの私自身を言い当て、明らかにする鏡の役割を果たしてしてくれる教えだといえましょうか。

なぜいま念仏か(4)10月(中期)

科学の力によって幸福が得られないのだとしますと、人は科学の力を超えた力を求めざるを得ません。

それは、今まであまり気にもしていなかった、あるいは蔑視さえしていた、人間の力をはるかに超えた能力、いわゆる神とか仏とか呼ばれている霊力に必死にしがみつくことです。

不可思議なる霊力に、一心に祈祷を捧げることによって、再び幸福な人生を取り戻そうとするのです。

ここにそれまでの科学的な生き方から転じた、信仰的な生き方が生まれることになります。

健康に恵まれ順風を受け、理性的判断のもとで人生を歩んでいる時は、まさしく一顧だにしなかった、その宗教的迷信による幸福の求めを、人はいとも簡単に受け入れ、一心に行うことになるのです。

それは、迷信によって呪縛されている姿だといわねばなりません。

このように見ますと、現代人は二種の呪縛によって、我が身が縛られていることになります。

一つは科学の力によって幸福を得ようとする方向であり、他はそれが破れた場合で、信仰の力によって幸福を得ようとする呪縛の姿です。

結局、その幸福の求めは、最終的には両者とも、完全に破れてしまうことになります。

けれども、破れれば破れるほど、人はより一層、そのいずれかによって幸福を得ようとすることになりますから、現代人はその見えない力によって、ますます呪縛されていくことになります。

現代人にとって、最も悲惨な姿は臨終にほかなりません。

楽しみいっぱいの幸福に満ちた人生がある時突然破れ、自分の前に死の影が突如として現れるのです。

そこで、まず科学の力によって、あらゆる手段を講じてその不幸を取り除こうとするのですが、何の効果もありません。

期待に反して、苦しみと衰えが増すばかりです。

そこで今度は神仏の力にしがみついて、その不幸を祓おうとするのですが、これもまた意に反して何の効果もあらわれません。

さらに苦痛に加えて、いい知れぬ不安が募ってきます。

にもかかわらず、この苦悩と恐怖におののく私の心は、その恐れに耐えることが出来ません。

これが、今日の臨終を迎える人の一般的姿だと言えるのではないでしょうか。

そこで、だからこそこの恐れおののく心に、安らぎを与えるために周囲の人々の力が、最近では殊に必要とされるようになったのです。

ここに、今日におけるビハーラやホスピスといった活動が求められ、社会的な重要度が増している理由が窺えます。

けれども、現実的には、多くの人々は迷信的信仰の中で、呪縛を取り除こうとして、より一層その信仰に呪縛されているといえるようです。