投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「仏像に聴く」(中旬)仏像にはその時代の願いが反映されている

最近までガンダーラでは、仏陀の像を何のためらいもなく「人の姿」で表してきたと言われていましたが、近年次々と新しい作品が発掘されまして、その説が変わりつつあります。

ガンダーラ美術の最初期、一世紀頃のある作品に、お釈迦さまの両脇に梵天と帝釈天を表した浮き彫りがあります。

その中心には、丸い円盤のようなものがあり、円盤の周囲には「ひだ」のようなものがあります。

実はその丸い円盤は、お釈迦さまを日輪として置き換えたものなんです。

周囲のひだのようなものは、円盤が光り輝いていることを表したものです。

この作品の時代では、まだお釈迦さまを人の姿で表すことをためらっていたことが窺えます。

やがて、同じくガンダーラ初期の同じ題材の作品でも、お釈迦さまを人の姿で表すようになってきます。

これらの作品は「梵天勧請」という場面を表しています。

お釈迦さまは悟りを得られた後、この悟りの内容はあまりにも難しく深遠で、人々に説いても理解する人はいないだろうと考えられました。

悟りの喜びは内なる喜びにとどめて、人々には伝えずにこの世を終えようと考えられたと伝えられています。

そこにインド在来の梵天と帝釈天が現れて、ぜひともその悟りの内容を多くの人々に説き聞かせて下さいと懇願します。

その場面が「梵天勧請」なんですね。

もしこのことがなければ、仏教はこの世に存在しなかったわけですから、仏教においては非常に重要な場面ということになります。

それで、この「梵天勧請」を題材にした作品が、ガンダーラの初期に非常に多く見られるということが最近になって知られてきています。

では、なぜガンダーラにおいて「梵天勧請」を題材とした作品が多いのでしょうか。

それは当時の人々が仏陀に法を説いてほしいという願いを抱いていたからだと考えられます。

そして、その願いが多くの造形を生み出したのです。

こうした造形作品というのは、必ずその時代の人々の思いが反映されているものです。

仏像と言いますと、詳しい人は一見しただけでその仏像がいつの時代に作られたものか判定します。

それは、その時代の願いを反映しているからです。

仏陀の説法を待った人々は、浮き彫りの主人公であるお釈迦さまに厚みを持たせて、舞台から抜け出させて、正面を向いた立体の像としてこの世に仏像を誕生させました。

これが、いわゆる「仏像の始まり」でした。

紀元前ま仏教徒が生み出した造形では、お釈迦さまを人の姿で表さずに、象徴に置き換えて表していました。

お釈迦さまは歴史上実在された方でありますが、そこに表そうとしたのはお釈迦さまの肖像ではなくて、悟りを開かれた真理そのものとなられたお姿、すなわち仏陀なのです。

当時の人々は、真理というのは人の姿では表せないと考えたようです。

ところが、西暦一世紀末から二世紀にかけて、仏教から人の姿を持った仏陀の像が造られるようになります。

それは、紀元前の人々が抱いていた仏陀観を否定したものなのかといえば、そうではありません。

伝統はそのまま受け継がれています。

一見、人の姿を持っていても、人とは違った姿をそこに表そうとしています。

【法名って何ですか?】

「法名」と聞けば、亡くなってからいただくものと考えている方も多いのではないでしょうか。

私たちの浄土真宗において法名とは、「得度」をし僧侶となったとき。

あるいは「帰敬式」(ききょうしき)を受けられた方に対し、ご本山(西本願寺)より授与されるものです。

つまりは、「仏法に帰依した人の名前」が法名であり、決して亡くなってから授かるというものではなく、生きているまさに今この時にこそ、仏教徒としての証しをいただくことが本来の姿であると言えます。

法名の頭には必ず「釋」の文字がつきます。

これは、お釈迦さまの釈の字を一字いただいており、お釈迦さまの弟子であるということも表しています。

ですので、法名をいただくということは「これからは仏さまの教えを聞いて生きていきます」という決意であり、大切な心がけであると言わねばなりません。

ご本山の帰敬式については、通常ですと午前(朝のお勤めの後)と午後1時半の1日2回、毎日行われていますので、京都に行かれることがありましたら是非ご本山で仏教徒としてのお名前をいただかれてはいかがでしょうか。

prideという英単語があります。

prideという英単語があります。

日本語では「誇り」とか「自尊心」と訳される言葉です。

辞書を引くと「誇り」を「自尊心」と区別するためにtrue(真の)prideとかproper(正しい)prideなどと表現するそうです。

日本中が騒然としたマンション等の耐震強度偽装問題を代表とする欠陥建築や手抜き工事、最近になっては産地偽装や材料を偽っての食料品などエスカレートするばかり。

たとえどんなものでも、安くつくって高く売れればいいとでも言ってはばからない姿勢に、ものを作るつくり手の誇りはどこに行ってしまったのかと嘆かわしい限りです。

数年前私のお寺の本堂が台風で被害を受けました。

雨戸を納める戸袋が壊れてしまいました。

そのまま放っておく訳にはいきませんので、大工さんにお願いして新しく作り直してもらうことになりました。

その大工さんは一目見て

「これは結構大変な仕事ですね」

と思わずこぼしました。

その理由に、一般の家庭とは違うサイズと手の込んだ細工を挙げて説明してくれました。

私はちょっと気をつかって

「元通りのものでなくてもいいですから、よろしくお願いします。」

と言うと、キッパリと

「そんな訳にはいきませんよ。この先何十年も門徒の皆さんの目につくわけですから、大工として半端なものは作れません。

と言って一歩も譲りません。

それからの数日間は朝から夕方暗くなるまで、汗をいっぱいかきながらの作業。

そして、当初の見積もりよりかなり工期もかかって悪戦苦闘の果てに、元通りの立派な戸袋ができあがりました。

「これなら自分の仕事と胸を張って言える」

とでも言いたいような誇らしげな顔をしながら、嬉しそうに眺めている姿が印象的でした。

日本語に

「矜持(きょうじ)」

という言葉があります。

広辞苑には

「自分の能力を信じていだく誇り。自負。プライド。」

とあります。

まさにtrueprideと英語で表現されるべき言葉ではないだろうかと思います。

今世の中では

「経済性」

ばかりが優先され、物作りの職人として、あるいは仕事人として、果ては人としてという

「矜持(truepride)」

が失われているのではないかと思えてなりません。

自尊心ではなく矜持。

外向きの視線ではなく、自分自身に向いた視線。

自己を見つめ自分を問うていく視線。

それこそが仏教的な視線ではないかと思うのです。

今こそ「矜持」をもって今を歩んでいきたいものです。

『仏法は私の心を写す鏡』

鏡に映った自分の姿を見て、あなたはまず何をしますか。

ほとんどの人が、服装や髪を直したりすることと思います。

あるいは、自分の顔をまじまじと眺めて、

「シワが増えたな」とか、

「最近太ったな」とか、

中には「いい顔をしているな」などと思われる人もいるかもしれませんね。

このように、日頃私たちが使っている鏡は、外見をあるがままに映し出してくれるのですが、もし私の内面までをも写し出す鏡があったらとしたら、あなたは欲しいと思いますか。

怖いもの見たさもあるかもしれませんが、実際にそのような鏡の前に立つと、自分の姿に愕然としてしまうのではないでしょうか。

なぜなら、外見を繕うことは出来ても、内面まで隠し通すことはなかなか難しいからです。

嫌いな人の前であれば、いくら笑顔で接していても、心の中で舌を出している姿が写し出されたりすることもあるかもしれません。

親鸞聖人の著された

「正像末和讃」には

「外面に現れた身のふるまいは、いかにも賢く善い行いに励んでいるかのように見せかけていますが、内面は貪り・怒り・腹立ち・そねみ・妬み・卑さ・嘘・偽りの多いこの身です」

と記されています。

これは、親鸞聖人が仏法に自らの姿を照らした結果、深い悲しみの中から述べられたものです。

また、お手紙には

「貪り・怒り・偽りの多い身だからといって、そのことに甘えて、してはいけないことをしたり、口に出しては行けないことを言ったり、心に思ってはいけないことを思ったりするなど、自己中心的で身勝手な振る舞いをしても良いのだと語り合ったりすることは、本当に心の痛むことです。

お酒に酔っている人が、まだその酔いもさめていないのに更にお酒を勧めたり、毒が消えていないのにいよいよ毒を勧めるようなものです。

いくら薬があるからといって、毒を好きになりなさいなどということは、あってはならないことです。」

と厳しく注意しておられます。

仏さまの教えは、私たちの心を写し出す鏡です。

私たちは、仏さまのみ教えを聞くということがなければ、自分の本当の姿を知ることは出来ません。

繰り返しみ教えを聞くことを通して、そこに明らかになる自分の姿から目をそらすことなく、しっかりと向き合って、あるべき姿に正していけるかどうか、人間として生きる上でとても大切なことだと思われます。

なぜいま念仏か(4)10月(前期)

けれども実際的には、すべての人間がそのような願いを持ちながら、実現出来ることなどありえません。

にもかかわらず、そのありないことを、あたかもあると錯覚して、臨終の瞬間まで幸福に満たされた人生というものを夢見ているのが、まさに現代人の心だといえます。

ここに、現代の人々が見えない何かに呪縛されている姿が見られます。

どこまでも欲望を満たし続けようとするのが現代人の生き方ですが、そのことを実現するためにまず人々は科学の力に頼ります。

科学の力こそ、そのような生き方を実現させてくれるように思われるからです。

そのような意味で、現代人の多くは、まず科学的な迷信に呪縛されることになります。

ところが、その力によって得られた幸福も、あるとき突然断ち切られます。

死の影が不意に襲う時、科学の力の限界が露呈します。

この場合、科学の力はその人が求める幸福には、全く役には立ちません。

現代文明の中では、人は既に科学的なものの見方に慣らされてしまっています。

したがって、物事を見て判断する場合、原因と結果の法則に即して筋道を通して、物事を考えようとします。

一般に、このような理性的判断には強いのですが、その反面理性的判断が成り立たないような場合は、非常に弱い心しか持ち得ていないと言わざるを得ません。

例えば、友人と二人でドライブに出かけたとします。

そこで事故に出会ったとして、友人には何の怪我もなかったのに、自分だけが大怪我をした、といった場合です。

なぜ自分だけが怪我をしたのか、その原因がどれほど明確に分かったとしても、それで自分の心が癒されるわけではありません。

なぜ自分だけがこのような不幸を背負うことになるのか、そしてそれ以後の人生が完全に狂わされてきますと、その人にはもはや理性的な生き方は成り立たなくなってしまうのではないでしょうか。

現代文明の科学的な生き方によって、その人は不幸のどん底に陥ったとすると、この不幸を破って、幸福を得るためにはどうすればよいのでしょうか。

「仏像に聴く」(上旬)法を説かれる仏陀の存在が待たれた

======ご講師紹介======

江里康慧さん(仏師)

☆ 演題 「仏像に聴く」

仏像という作品は、「美術品」であると同時に、『礼拝対象』でもあります。

「木に仏の声を聞く」という江里さんは、美術と宗教をどのように意識しておられるのでしょうか。

じつに興味深いところです。

昭和十八年、京都市生まれの江里さんは、昭和三十七年京都市日吉ケ丘高校美術課程彫刻科をご卒業され、松久朋琳師、宗琳師に入門。

昭和四十年に独立、父・江里宗平氏のもとで仏像彫刻の道に入られました。

東京や京都、アメリカなど各地で「江里康慧・佐代子展」を開催しておられます。

また、今年の三月十五日には、第四十一回仏教伝道文化賞を受賞されました。

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お釈迦さまの生きておられたころ、一地域の宗教に過ぎなかった仏教は、やがて全インドに広がって民族の宗教になり、今や世界宗教の一つに数えられるほどに発展してきました。

それにはアショーカ王とカニシカ王という二人の人物が重要な役割を果たしています。

アショーカ王は紀元前三世紀にインドを統一し、仏教を守護した王さまです。

カニシカ王というのは二世紀ごろ中央アジアあたりを中心に勢力を伸ばしたクシャーン族という騎馬民族の王だと伝えられています。

現在のパキスタンとアフガニスタンにまたがる地域、ガンダーラ地方と呼ばれるそのあたりは、今も昔も政情が不安定で、大昔から戦いが絶えない地域でした。

クシャーン族はこのガンダーラに侵入してきました。

その結果、そこに住む人々は家族が殺されたり傷つけたられたり、家財を略奪されたりするなど、戦争の被害を受けていたんです。

紀元前三世紀、アショーカ王は統一した全インドに仏舎利(ぶっしゃり−お釈迦さまのお骨)を分骨して、お釈迦さまの説話を浮き彫りで描いた仏塔を建てさせました。

そうして仏教を全インドに広めたといわれています。

ガンダーラ地方にはアショーカ王時代の仏塔が今も残されていますから、仏教はアショーカ王の時代にはすでにガンダーラ地方の人々に伝えられていたことがわかります。

仏教はそのころから戦争の犠牲になって苦しんでいた人たちの心に、救いとして染みいっていたんですね。

そのことは、残された作品を通して感じ取ることができます。

仏像は、ガンダーラで生まれたといわれています。

ガンダーラで作られた仏像はおびただしい数がありますが、それらが作られた背景というのは決して華やかなものではありませんでした。

やはり仏教による救いがあったからこそ、その信仰をもとにして作られたのは確かなことだと考えられます。

次に、カニシカ王もアショーカ王の勢威には及びませんでしたが、北インドを統一したと伝えられています。

ある文献によると、その統一の過程で九億人もの人がいのちを落としたと記されています。

この記録がどこまで誇張されたものかはわかりませんが、相当な数の犠牲者があったのは確かなことと思われます。

カニシカ王は、その悲惨な戦争の結果に心を痛めます。

そして、後半生はアショーカ王と同じように深く仏教に帰依し、外側から法を護る「外護」をしました。

カニシカ王が行った外護とは、それまでの「浮き彫り」ではなく「仏像」を奨励したことです。

そうしてカニシカ王の時代に無数の仏像が作られましたが、それ以外にも仏像が生まれる土壌というものがありました。

戦に巻き込まれていた当時のガンダーラ地方の人々にとっては、生きることはそのまま苦しみでもありました。

仏教とご縁を頂いても、仏塔の周囲に描かれた説話図の解説を受けても現実の生活面での救いにはなりませんでした。

この人たちにとって、それは既に亡くなったお釈迦さまの生涯を描いた過去の物語でしかなかったからです。

人々が望んでいたのは、今現在においてこの世で法を説いてくれる仏陀の存在だったのです。

その思いが、浮き彫りの説話図の主人公であるお釈迦さまの姿を、やがては立体の像として変化させていくことになったのだといえます。