投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

なぜいま念仏か(3)9月(後期)

自分は、今まさに明日をもしれないような状態に置かれています。

ほんの少し前まで、自分の人生はバラ色そのもので、愉快に平和で充実した日々を送っていたのですが、今その一切が断ち切られて、ただ一人寒々とした思いの中でベッドに伏しています。

あらゆる治療が施されながら、心身ともに一日一日衰えて行きます。

身体中が激しい痛みに苛まれているのですが、これまで自分は苦に耐えるという経験をしていません。

なぜなら、何でも思うことがかなえられてきたのですから。

けれども、今は全くその逆で、何ひとつ思いがかなえられないのです。

自分自身は、逆境に耐える力を全くといっていいほど持っていないにもかかわらず、最悪の惨めな姿で一切の苦痛に耐えなくてはならないのです。

それは、どうしようもない悲劇的な状況だとしかいいようがありません。

しかも周囲の人々はこの私の苦痛を、他人事として眺めるのみです。

かつての自分がそうであったように、周囲の健康な人々は死そのものには無関心で、いたって明るく人生の楽しみを満喫しているのです。

このように、現代人の人生を眺めてみますと、現代人のほとんどは「生」という面からのみ、自分の人生をとらえているのではないかと思われます。

誰でも、自分自身の最後は死に至るのだということは知っています。

けれども、その死そのものを「生」のなかでとらえているのです。

なぜなら現代人の目にふれる人生の在り方は、いかに快適で明るく楽しく、臨終の瞬間まで充実した人生を送れるか、といった処世術のみだからです。

どこまでも欲望を満たすためのみの人生論が語られているのです、それは「死」そのものまで、欲望を満たす方向で語られているのだといえます。

老後をいかに健康で充実して過ごすか、そしてその向こうに安らかに死を見ていると言えるのです。

もちろんこれは誰もが抱いている人間の願いであって、このような願いを持たない人などいないというべきかもしれません。

「いのちのであい」(下旬)私も必ず死ぬ身

ただ、仏教の立場から言えば、厄払いをしようがしまいが、老いもしますし、病気にもなります。

私も認めたくはなかったのですが、ギックリ腰などは老いなのです。

これは避けがたいことなんですね。

友引の話にしても、友引にお葬式をしようがしまいが、人は必ず死ぬのです。

この必ず老いること、必ず死ぬことをお釈迦さまは「無常」と言いあらわされたのです。

現代というのは、科学が非常に発達している世界です。

しかしながら、科学が全てではないのです。

私は、医師として僧侶として活動している訳ですが、例えば大学病院などで同じ病室ばかり続けて亡くなる方が出ることがあります。

そうすると、看護士さんやお医者さんが、私に

「この病室を御祓いしてくれないか」

などと言うのです。

「おいおい…」と思いますね。

科学的な考え方を修めたはずの医師や看護士に、そういった迷信を信じている方がいるのです。

現代というのは、科学的な考えた方がもちろん主流なのですが、迷信というものも非常に強く残っているのです。

しかしながら、科学と迷信ばかりで、この「無常」という真実が薄くなってきている、そんな気がします。

私には小学生の娘がいます。

その娘が一年生の時、休みの日に一緒に絵を描いていたのです。

その絵が非常に上手くて描けて、娘は喜んでいたのです。

そしてその夜に、ニコニコしながらこう言ったのです。

「お父さんが死んだら、この絵をお墓の中に一緒に入れしてあげる」と。

私は、人は必ず老いて死ぬということ、無常ということを言いました。

人は必ず死ぬといいますが、その「人」とは私なのです。

仏教とは決して傍観者的な教えではありません。

自分がそうだということなのです。

しかしながら、娘にそう言われた時に、私はギョッとしました。

私の父と母が自分たちのお葬式の話をしていても、別に変に思いません。

それは、父と母が必ず私より先に死ぬという思い込みがあるからです。

しかし、自分が必ず死ぬことは考えからはずれているのです。

だから、それを娘から言われてびっくりしたのです。

仏教が説いているのは、傍観者的に人が死ぬんだよ、無常なんだよということではありません。

私が死ぬんだということ、この一人称の死の解決が、仏教の根本なのです。

これを『仏説無量寿経』というお経では

「独り生まれ、独り死し、独り去り、独り来る」

という言い方をされますし、蓮如上人は「後生の一大事」とおっしゃいました。

これらは一人称の死であり、私のいのちの根本問題です。

ただ、先程もお話しましたように、自分自身の死を受け止めることは非常に難しいものです。

けれども、だからこそ、これを受け止めるには、いろいろな現実をあるがままに見なければならないのだと思います。

ロウソクは赤いの? 白いの?

皆さんの自宅にあるお仏壇の様子を見て下さい。

一番手前の机には右からロウソク立て、香炉、そしてきれいなお花があるはずです。

これを三具足といい、浄土真宗における日常のお飾り(荘厳)の正しい形です。

その仏具の一つにロウソクがあります。

ロウソクの灯は阿弥陀仏の智慧と勢至菩薩を表し、お花は仏の慈悲と観音菩薩を表しているといわれています。

皆さんがお使いになっていらっしゃるロウソクは大半が白だと思います。

けれども、赤いロウソクや銀のロウソクをご覧になられた方もいらっしゃるのではないでしょうか。

実は、ロウソクに4つの種類があり、法要の種別によって使い分けをしています。

まず白いロウソクは一般的な法要。

赤いロウソクは親鸞聖人のご命日をお勤めする法要である報恩講。

金のロウソクは慶讃法要や仏前結婚式など、銀のロウソクは葬儀や追悼法要など。

なお、金と銀のロウソクは、白いロウソクの上にそれぞれ金箔と銀箔を押したものなのですが、浄土真宗の法式規範によると、金は赤で、銀は白で代用してもよいことになっています。

しかし、これは一般の家庭で必ず使い分けしなければならないということではありません。

主に一般的な白いロウソクを用いれば良いのであって、使い分けすることが出来ればなお良いということです。

今、世間で評判となっている曲『千の風になって』。耳にしたことがある方も多いと思い

今、世間で評判となっている曲『千の風になって』。耳にしたことがある方も多いと思います。

そして、その曲をみごとな伸びのある声で歌い上げている“秋様”ことテノール歌手の秋川雅史さん。

素敵です。

さて、『千の風になって』の作者については様々な説があるようです。

しかし、作者がどなたであっても、この詩をつづられた方って、きっと宗教的な観念をお持ちの方だったんだろうなぁと感じています。

わたしたちのみ教えにも、似た捉え方ができるところが多々あるような気がしているからです。

 わたしのお墓の前で

 泣かないでください

 そこにわたしはいません

 眠ってなんかいません

お墓・お骨に対して、必要以上のこだわりをもつ人が多いのも現実だと思います。

確かに、お墓やお骨は亡くなった方を辿る縁(よすが)には他なりませんが、全くのその人自身ではもちろんありません。

人間は死を迎えることによって、いのちの形態を大きく変えるんですね。

 千の風に 

 千の風になって

 あの大きな空を

 吹きわたっています

わたしは中学生のとき、“人間の7割は水でできている”という話を聞き、

「わたし、死んだら火葬場で焼かれて、7割は湯気になって、お空にのぼって、あの雲になるんだ…」

と想いを巡らせたことを覚えています。

 秋には光になって

 畑にふりそそぐ

 冬はダイヤのように

 きらめく雪になる

 朝は鳥になって

 あなたを目覚めさせる

 夜は星になって

 あなたを見守る

わたしの7割は雲になる、そしていつしか雨になって、再び地上へ降りてくる。

わたし、植物となって育とうかな。

わたしがお野菜になったときは、好き嫌いせずわたしを食べてね。

お野菜は栄養豊富だから、きっとあなたの力になれるわ…。

 わたしのお墓の前で

 泣かないでください

 そこにわたしはいません

 死んでなんかいません

 千の風に

 千の風になって

 あの大きな空を

 吹きわたっています

いつかわたしも時空を超えた“千の風”になれるかなぁなんて思いつつ、カーステから聴こえる秋川さんの歌声に、聞き惚れている今日このごろです。

『浄土 還る家のあるありがたさ』

一般に、長期であっても短期であっても、旅をすることが好きな人はとても多いようです。

そういえば、よく旅行から帰って来た人が、

「あ〜、今度の旅行、とても楽しかった。また行きたいねぇ〜。でも、やっぱり我が家が一番!」

といったようなことを口にするのを聞くことがあります。

それは、旅先のホテルや旅館が、どれほど素晴らしい施設であったり、心を込めたもてなしをしてくれたとしても、やはり私の家ではありませんし、またそこから無事に自分の家にたどり着けるという保証もありません。

そのため、心の奥底では緊張の糸が張りつめているので、心底くつろぐことが難しいのですが、自分の家に帰って来ると、一切の緊張の糸がゆるんでホッとするので、思わず「我が家が一番」と感じてしまうのです。

まさに、「旅は帰れる家があるからこそ、楽しい」のです。

帰る家のない旅を「放浪」といいます。

今夜は泊まる家があったけれども、明日以降はあてがない、という旅は本当に不安だと思われます。

私たちの人生も、しばしば旅をすることにたとえられます。

既に気がつけば、今こうして生きているわけですが、そうすると私たちは「人生という旅」の途上にあるのだと言えます。

そこで考えて頂きたいことは、あなたはもういのちの帰って行く世界を見出していますか、ということです。

もし、いのちの帰って行く世界がわからないままに生きているとしたら…、それはまるで放浪みたいな人生だといえはしないでしょうか。

いのちの帰って行く世界をもたない人生には、しばしば死の影が舞い降りてきます。

ちょっと病気をすると

「死ぬのではなかろうか?」

と不安になったり、上手くいかないことが続くと、

「先祖の誰かが迷っているのでは?」

とか

「何かの霊に取りつかれているのでは?」

と恐れたり、

「日の善し悪しは大丈夫か?」

とか、

「方角は間違っていないか?」

といったことが気になったり、その結果毎朝新聞が来ると真っ先に

「今日の運勢はどうだろうか?」

とか、テレビのチャンネルを変えながら、自分の気に入る

「今日の占い」

を見るまでは落ち着かなかったりします。

そのような私たちに、南無阿弥陀仏は

「あなたのいのちの帰ってくる世界はここだ。私の浄土に生まれたいと思うものは、南無阿弥陀仏と称えよ、必ず救う」

と、呼びかけていて下さいます。

しかも、願うに先立って、願うと願わざるとにかかわらず、私のためにはたらいていてくださるのです。

この教えを聞いて、いのちの帰る世界を浄土と見定めて歩き出す人生を「往生浄土」といいます。

このいのちが、いったいどこに向かえばよいのかわからないままに迷い続けていた私が、尊いみ教えを聞いて、毎日一歩ずつ

「浄土に往き生まれていく私」

となり、この迷いのいのちの終わる瞬間に、成仏という形で往生浄土の歩みを完成させていくのです。

なぜいま念仏か(3)9月(中期)

そこで、寿命が終わりに近づいた天人は、天国の道理として唯ひとり誰の目にもふれないところに移され、今までの清らかな美しさはみるみる穢れた醜い姿に転じ、遂には天国から追放されることになってしまうのです。

その瞬間、天人は楽しみの絶頂から苦悩のどん底へと転落して行きます。

まさに、天国から地獄へということですが、そのときに味わう天人の苦悩は、地獄において受けるいかなる苦痛よりもなお深いとされています。

このように、天人には無限の苦悩を受けるべき要因が残っているが故に、未だ迷いの境涯だとされているのです。

さて、ここで現代の臨終の姿に今一度目を移してみましょう。

現代人の人生の様相も、この天人の姿に近付きつつあるように思われます。

豊かで、楽しく快適な暮らしを送りながら、ある日突然のその人に死に至る病が襲いかかります。

そうなると、その人は近代設備の整った病室にただ一人隔離されることになります。

けれども、そこで悶えている姿こそ、天人の死に行く姿そのものだと言えはしないでしょうか。

私たちの人生において、最も辛く悲しく惨めな時が臨終です。

しかも現代の人々は、過去世において誰もが経験しなかったような、まことに惨めな臨終を迎えようとしているのです。

現代社会の目指す方向は、人間の欲望の充足に他なりません。

心に嫌だなと感じる、苦の原因になる一切の事柄を取り除いて、これが欲しいと望まれる、快適で便利で豊かで楽しい生き方を次々に実現させています。

そのために、私たちの目に映る現代社会は、非常に美しく明るく装っているといえます。

その一方、惨めな死の姿を目にすることはほとんどありません。

また、他人の臨終を見る限り、それがまさしく悲惨だとは、どうしても思えません。

なぜなら、現代医学の粋を集めた病院で、完全な看護が施されているのですから。

けれども、いざ自分がその臨終の場に置かれると、事態は全く逆転しまうことになるのです。