投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「いのちのであい」(中旬)厄払いをしないと

最近若い人の中で、リセット願望というのがあるのをご存知でしょうか。

このリセット願望というのは、今まであった嫌な過去は全て消し去って、新しい自分を見つけたいというものです。

私は、このリセット願望ということが人間にとっていいことなのか疑問を持っています。

人間は今、この瞬間だけで生きている訳ではありません。

今まで自分が歩んできた道、過去があって初めて今の自分ではないかと思う訳です。

話は変わりますが、私は今四十七歳です。

五年前に花粉症になりまして、鼻がムズムズしていました。

それがある日、診療所で大きなくしゃみをした瞬間に、初めてギックリ腰になりました。

我々医師仲間の間では四十腰、五十肩と言いまして、四十歳になるとギックリ腰になりやすい、五十歳になるといわゆる五十肩になりやすいとされています。

今まで自分の患者さんでギックリ腰になったという方が来られると

「ああ、それは大変ですねえ」

と言っていたのですが、いざ自分がなると、もう全く動けないのです。

腰は痛くても診察はありますから、我慢して椅子に座っていました。

しかし、そんな時に限って患者さんは多く来られますね。

何とか昼まで我慢して、昼休みに少し横になっていれば楽になるかなと思ったのですが、全く治らないのです。

これはもう仕事にならないと思い、妻に車で迎えに来てもらって家に帰ったのです。

玄関から自分の部屋をあれほど遠くに感じたのは初めてでした。

ギックリ腰というのは、こんなに辛いのかと実感しました。

次の日には、別の病院での外来診療があったのですが、とてもじゃないけど行けませんでした。

それから三日後にその病院に行った時、他の医師たちに

「佐々木先生、大変でしたね」

と声をかけてもらって、ギックリ腰の話を何人かとしたのです。

そうすると、医学的な話ももちろんする訳ですが、それよりも

「佐々木先生いくつ?」

と聞いてくるのです。

「四十二ですけど」

と答えると

「厄払いに行った方がいいよ」

と言うのです。

最初は冗談かなと思っていたのですが、話を聞いてみるとどうやら皆さん本気のようなんです。

こういう時にはどう答えればいいのでしょう。

「厄払いなどは迷信に過ぎないから、ギックリ腰には関係ない」

と、医者としてはそういうことを言う時があります。

また、友引にお葬式をすると良くないと聞かれたこともあるでしょう。

そんな時に

「友引などは何の科学的根拠もないから、それは迷信に過ぎない」

などという言い方もしますよね。

大切な人はどこへ?(天国?冥土?あの世?)

お盆が過ぎ、秋の彼岸が近付いてきました。

どちらも先に亡くなられた大切な人を偲ぶご縁ですが、さて「大切な人はどこへ?」という思いを持たれた方は意外と多いのではないでしょうか。

もちろん、宗教や宗派によって説き方はそれぞれ違うのでしょうが、浄土真宗ではそれは極楽浄土であると説かれます。

よく耳にする「天国」というのは仏教では

「六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)」

の迷いの世界であると説かれます。

もし大切な人が未だ迷いの世界にいらっしゃるとするならば、これほど悲しいことはありませんね。

仏教の究極の目的は成仏(仏に成る)することです。

それは、阿弥陀仏のはたらきによって迷いの世界から離れ、極楽浄土でさとりを開くことですから、天国や冥土という迷いの世界に行かれるはずはありません。

特に「あの世」などという表現は、迷いの世界を離れた大切な人に対して、自分達とは遠くかけ離れた存在として扱っていることになるのではないでしょうか。

「大切な人」と言いながら、とても失礼な言い方のように思われます。

また、亡くなられたことを「永眠」という言葉で言い表されますが、決して極楽浄土に往かれた方々は眠ってなどおられません。

さとりを開かれたら、先ず迷いの世界に執着している私たちを極楽浄土へと導くために、お念仏のはたらきとなって私たちのもとに還って来て下さいます。

遠くかけ離れるどころか、お念仏の声を通して、これほど近くにおられる訳ですから、極楽浄土は「あの世」などではなく、また大切に人は私たちと共にいて下さるのです。

先日、あるニュース番組の特集で、スイスにある永久凍土のローヌ氷河の氷が数十年の間

先日、あるニュース番組の特集で、スイスにある永久凍土のローヌ氷河の氷が数十年の間に急速に溶け、その溶けた水ががけ崩れをおこしたり、あるいは川に流れ込んで水害を起こしたりしていることが伝えられていました。

これらの原因は、いま地球規模で問題になっている温暖化にあり、もしこのままのペースで温暖化が進めば、近い将来、氷河の大部分が溶けて大量の水が河に流れ込み、スイス以外の河が流れている国々の沿岸部も大水害に見舞われることになる危険性が高いとのことでした。

その他に、北極の氷も毎年急速に溶け続けており、各地域では砂漠化が進み、湖が干上がったりしているところもあります。

このように、地球温暖化が原因と思われることが世界各地で起きていますが、ニュースや新聞などを見て今のままでは大変だなと思うことはあっても、私たちはどこかで他人事として流してしまいがちです。

しかし、ここ数年の暖冬や猛暑に見られるように、私たちの身近な環境においても温暖化の影響による異常気象が起きており、日本アルプスではライチョウの生息地が減少中であるとも聞きました。

このように考えますと、この問題は決して他人事ではなく、私たちの周りでも顕著に起きている事象であり、早急に取り組んでいかなければならないことだといえます。

まずは、温暖化を防ぐために、私の身の周りで自分が出来る事から取り組み、少しずつその輪を広げていきたいです。

さらには、未来を担う子供たちにも温暖化を含む環境問題を身近な事として捉えてもらえるようにしていきたいと思う今日この頃です。

『浄土 還る家のあるありがたさ』

9月は秋のお彼岸の時節です。

「暑さ寒さも彼岸まで」といいますが、昼夜がほぼ一緒で、暑からず寒からず、太陽はほぼ東から昇り西に沈んでいきます。

このような好い季節に仏法に親しもう、と日本で始まったのが春秋の彼岸会の始まりです。

人として生まれ、仏の教えを聞かせていただき、正しい道を生き抜くときに、その終着点がお浄土です。

行き着くところ(お浄土)があるから正しい道が歩けるのではないでしょうか。

私たちの行き着くところ(帰る家)を想いつつ、仏の教えに出会えた事を喜び、お念仏申すことこそ彼岸の願いとするところではないかと思います。

『阿弥陀経』の中に「倶会一処」というご文が出てきます。

これはみないのちが一つ処で会うという意味です。

どこで会うのかと言いますと、それが仏さまの国、お浄土です。

たとえこの世で死に別れ、離れ離れになろうとも、阿弥陀様の教えを信じるもの同士、必ずお浄土でまた一緒になれるということです。

ああでもないこうでもないと、欲に惑わされ煩悩に寄り道ばかりしている私たちに

「こっちへ来いよ、こっちへ来いよ」

と常に呼びかけてくださる阿弥陀様のお心。

そのまことの教えの中に必ず帰ることのできる場所のあるありがたさを想うときに、ただただ感謝すると同時に、この人生を堂々と精一杯生き抜く勇気と力が湧いてくるのだと思われます。

なぜいま念仏か(3)9月(前期)

しかしながら、この入院という事態を病人である本人から見ればどうなるでしょうか。

大変な苦痛にさいなまれること自体、言いようのない惨めさを味わうことになるのですが、加えて今の自分の姿はどうでしょうか。

それがどれほど素晴らしい病院だとしても、自分はただ一人、全く知らない病室で医療器具に覆われて横たえられているのです。

さまざまな治療が施されてはいるものの、まさに「薬石の効もなく」日々弱って回復の兆しは見られません。

病室に隔離されていて、見知らぬ医者や看護士に治療をしてもらうのですが、心の甘える場はありません。

家族にしても、常に付き添っていてくれる訳ではないのです。

確かに、形式的に自分は周囲から笑顔を見せられてはいますが、実質的には既に自分の存在は世間から忘れられています。

病室から外を見ると、外の世界は無限に明るく、人々はレジャーに浮かれ、楽しみを満喫させて、愉快に生活を送っています。

それに比べて、自分の心は無限に暗いのです。

この病人の姿に、はたして「救い」は見られるかということを、今たずねているのです。

仏教では、六道輪廻の中に見られる「天上界」を迷いの世界だととらえます。

天人の住む天上界(天国)には、苦悩の原因になるものは何一つないと言われています。

したがって、天人の生活は楽しみのみなのです。

では、なぜその天人の世界が「迷界」だと言われるのでしょうか。

その最大の理由は、天人もまた無常の道理の中に置かれていて、寿命があるからです。

ただし、天上界には苦悪の要素は何も存在しませんから、天人は自分に寿命があることを知ることができません。

もしそのことを知れば、不安や苦痛を生むことになってしまうからです。

そこで、天人の生命は常に享楽のさなかにありながら、ある時突然「死」に襲われることになるのです。

ところで、死体は腐敗をしますが、それはまさしく「穢れ」であり、他の者に不快の念を抱かせる要因になりますので、清浄なる天上界に存在することは許されなくなります。

「いのちのであい」(上旬)過去を大切に…

======ご講師紹介======

 佐々木恵雲さん(西本願寺あそか診療所所長)

☆ 演題 「いのちのであい」

ご講師は、京都にあります西本願寺あそか診療所所長の佐々木恵雲先生です。

昭和三十五年滋賀県生まれの佐々木先生は、あそか診療所所長として患者さんを診察するかたわら、大阪医科大学講師として後輩の育成にも力を注がれています。

医学博士で、内科・糖尿病の専門家としてだけでなく、滋賀県西照寺寺所属の本願寺派僧侶でもあられ、仏教と医療・医学の両分野でご活躍しておられます。

著書に『新糖尿病』(共著)があります。

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今日ご出席いただいたみなさんに限らず、人というものは何かしらのつらい思い出があるものです。

特に、愛する人や大切な人との別れを経験しない人はいないと思います。

冬になりますと、インフルエンザが流行ってまいります。

そうすると、子どもやお年寄りの中には、インフルエンザ脳症という、脳にインフルエンザのウイルスの影響が出てくることがあります。

それで毎年何人かの方が亡くなっていきます。

非常に痛ましい状況で、昼間は元気だったのに、夕方はもうぐったりしているといった様子で、本当にあっという間に亡くなっていきます。

あるお母さんの三歳になるお子さんが、インフルエンザ脳症で亡くなられました。

我々医師は、患者さんの命を何とか救うために様々な処置をします。

ただ、努力空しく亡くなられる場合もあります。

しかし、お母さんというのはそれを受け止めることは出来ませんよね。

二、三時間前には元気だった自分の子どもが、今、死んでしまったということを実感することはできない訳です。

そういう時に、医師が

「残念ですが、亡くなられました」

と機械的に言うだけでは、お母さんにも伝わらないのです。

そのお母さんの病院では

「最後に抱きしめてあげてください」

と言われたそうです。

その最後のふれあいが、今思い出してみると、どれほど有り難いことだったかと、そのお母さんは言っていました。

また、皆さまも覚えておられるとは思いますが、大阪池田の小学校で殺人事件がありましたね。

あの被害者の中に一人だけ男の子がいたのですが、その子が私の近くの救命センターに運ばれたのです。

担ぎ込まれた時には、すでに身体から血が全部流れ出たような感じでした。

もう、どうしようもない状態だった訳です。

その時、救命センターの医師が母親に言った言葉が

「身体が温かいうちに抱きしめてあげてください」

だったそうです。

朝、

「いってらっしゃい」

と見送った息子が、何時間後には死体になっている訳です。

そういう時に表面的になげかける言葉だけでは、人は救われません。

理屈では、母親も自分の子どもが亡くなったと分かっているのです。

しかし理屈で分かっていても、心で分かっていないのが我々人間です。

ですから、中にはその非常に辛い記憶、大切な人との別れ、そういったものを直視しないようにしてしまう方もおられます。

しかしながら、その辛い別れ、自分にとって非常に誓い家族とか親しい友人とかとの別れなのですけれども、そういった別れも自分の現在を作っている一要素なのです。

そのような過去も含めて現在なのですね。

ですから、最近私は

「過去を大切にして下さい」

とよく言わせていただきます。

どんな辛い過去であったとしても、時間をかけて自分自身が向かい合うことで、過去を思い出して欲しいのです。

過去を大切にするということは、過去を受け止めることであり、自分自身を受け止めることなのです。