投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

葬儀を友引にすると死人が出る?

よく

「お葬式を友引に出すと死人が出る」

という話を耳にしますが、果たして本当にそうなのでしょうか?

そもそも友引というのは中国の六曜の中の一つです。

六曜とは

「大安、赤口、先勝、友引、先負、仏滅」

の六つを指しますが、日の吉凶を占う時に用いられていた暦が江戸末期から民間に広まり、勝手な解釈になったようです。

「友引」は元々は「共引」と書いて、共に引き合って勝負が付かない、どちらでも無いという意味だったのが、いつの間にか「友引」と書くようになり、その日が忌み嫌われるようになりました。

 ですから死んだ人が友を引いて行き、また死人が出るというのは全く根拠のないことです。

 歎異抄の中で親鸞聖人は

「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」

と言われています。

 何の根拠もない世間の戯言に惑わされやすい私たちだからこそ、確かなもの、お念仏(真実の教え)が必要であり、真実の教えに出会った私たちだからこそ、根拠もないことに振り回されない強い意志を持たなければなりません。

先月、私の家のすぐ側を流れる川が大雨と満潮が重なったこと等により増水・氾濫し、寺

先月、私の家のすぐ側を流れる川が大雨と満潮が重なったこと等により増水・氾濫し、寺の境内に大量の水が流れ込んだ他、近所の家々も床上・床下浸水等の被害がでました。

けが人が出なかったことが不幸中の幸いでした。

ちょうどその日は近所でお通夜があり、その家ももう少しで床上まで浸水という状況でした。

「どうしてこんな時に」「棺を2階に移そうか、どうしようか…」と皆で大慌てだったことを親族の方より後日お聞きしました。

一方、新潟ではまたもや中越沖地震が起こり、多くの方々が住む家を失い、避難所生活を送っておられる様子が、連日テレビ等で報道されています。

私の知人の家も半壊し、家では過ごせない状況であることなどが友人よりのメールを通して伝わってきました。

今回のこの地震によって家や家族を失い、多くの方々が今もなお苦しんでおられることを見たり聞いたりすると、胸が締め付けられる思いがします。

こういう時こそ、一人ひとりが苦しみ悩む方々のために、自らができることに少しでも取り組む必要があるように思われます。

今回の地震に遭われた方々は、それまであたり前のように思っていた生活が一瞬にして音をたてて崩れていったわけですから、惨状を前になさったその心情は推し量るべくもありません。

また、私の近所の水害と今回の地震とでは、被害の規模は全く違いますが、しかしながらとても他人事のようには思えません。

忘れた頃に突然やってきて、人間の力ではどうすることもできない自然災害の恐ろしさを、自らの遭遇した被害を通して、幾分なりと共有することが出来た気がします。

まさかこんなところでこんな災害は起きないだろうと、多くの人々は思っているようです。

しかし、災害が絶対に起こらない保障はどこにもありません。

何か起こった時の心構えだけは常に意識していなければならないことを強く思います。

一刻も早い新潟の復興を願うばかりです。

『平和のために戦いが続く なんと愚かなことか』

今も世界のいたるところで紛争が起こっています。

大切な家族や友人を失い、住むところすらままならない生活を強いられている人々がたくさんいます。

「戦争」それはいつも正義と正義のぶつかり合いで起こります。

自らを「悪」と自覚した上で戦争ができる人などいないのです。

 どんな戦争も

「我が国、我が民族、我が集団の利益と平和」

という旗印を掲げ、それとは裏腹に血を流し命を失う争いが絶えないのです。

なんとも皮肉なことでしょう。

 そこで叫ばれる「平和」とは一体誰にとっての「平和」なのでしょうか。

 私の?私たちの?我が国の?我が社会の?

そこには争いの種となる自分中心の価値観、考え方が渦巻いているのではないでしょうか。

 私たちが目指すべき平和とは「みんなの平和」ではないでしょうか。

そのみんなは国を超え、人種を越え、宗教を超えてめざされるべきものなのではないでしょうか。

 唯一絶対なる正義などあり得ない、間違いを起こさない人などいない、差別や偏見を持ちがちな、「悪人」を自分の外に作りがちな「私」の姿を仏法は教えて下さいます。

私たち一人一人のいのちは、無数の縁によって支えられ育まれてきたいのちです。

そのいのちを奪い取ることを正当化するような正義とか平和などありません。

 今年もまた終戦記念日がやってきます。

憲法改正も声高に叫ばれている今だからこそ、「平和」ということばの意味するところをみんなで考えてみたいものです。

なぜいま念仏か(2)8月(前期)

もちろん近世までは、その役目は主として宗教が担っていたのです。

神に祈祷し、占いや呪を行って、人間にまとわりつく苦悪の呪縛からの開放を願ったのです。

けれども、その効果は期待したほどあがらず、むしろ反対に人間をさらなる不幸に落ち込ませることさえあったといえます。

だからこそ、現代人はこのような行為を「迷信」として非常に嫌うのです。

祈祷や占いに見られる不合理性は、理性的なものの考え方、科学の眼から見れば、全くおかしいといわねばなりません。

だからこそ、理性的な生活が求められているこの科学の時代においては、迷信や俗信と見られる行為はまず第一に除かれなければならないのです。

この科学の時代を生きる現代人で、迷信的在り方に頼った生き方を肯定する人は極めて少ないと思われます。

 そこで、

「現在では、迷信や俗信が消え去ってしまったのです」

と言われれば納得出来るのですが、現実はそうではありません。

「科学の時代」と言われる一方で、他方ではこの現代において迷信が世を謳歌しているのです。

それは何故なのでしょうか。

人生は「不条理」だと言われています。

それは、科学時代の現代においても何ら変わるところはありません。

この私に、いつどのように不慮の出来事が起こるか、実際のところ全くわからないのです。

ところで、現代人の特徴は便利で楽しく快適な生活に慣れ親しんでいる反面、苦痛に耐えることが非常に弱くなっているといえます。

その上、物事の判断を常に合理的に行っていますので、論理立てて考えることには強いのですが、理性に反するような出来事が起こりますと、どうしてよいかわからなくなってしまいます。

人がもし人生の途上で、不条理な出来事に出遇い、不幸のどん底に落ち込み、苦悩にあえいでいるとします。

その耳元で、甘い言葉がささやかれたとしたら…、その人はどうなるでしょうか。

「歳を重ねるごとに美しく」(上旬) 「しつけ」とは方向付けること

======ご講師紹介======

中村洋志さん(鹿児島市立田上小学校校長)

☆ 演題 「歳を重ねるごとに美しく」

ご講師は、鹿児島市立田上小学校校長の中村洋志さんです。数ある鹿児島の小学校長の中でも異彩を放つ方で、元気印の校長先生として鹿児島県の教育界で注目されている方です。

中村さんは、昭和四十五年に宮崎大学教育学部を卒業後、鹿児島大学付属小学校などに教諭として勤務。曽於教育事務所指導主事、教育庁学校教育課指導監査などを経て、平成十八年に鹿児島市田上小学校の校長に就任。現在に至ります。

著書に『いのちの輝き』『子どもと楽しむ図形の学習』などがあります。

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十数年前だと思いますけど、テレビを見ておりましたら、若い二十歳前後の女性に

「あなたの理想の男性はどんな男性ですか」

とインタビューする番組がありました。

尋ねられた女性は

「ハンサムでお金持ちで、背がすらっとして、優しくて」

と自分の理想をずらっと並べました。

私は自分に当てはまるものが一つでもないかと、ドキドキしながらそのテレビを見ていました。

すると、その時アナウンサーが私の言いたいことをズバっと言ってくれました。

「もしそんな理想の男性がいたら、その人はあなたを選ぶと思いますか」。

私は思わずテレビの前で拍手してしまいました。

選ぶはずがないんです。

「自分の要求だけつきつける。

もちろん、そういう理想があってもいいんですけど、選ばれるためには自分自身の内面的な豊かさを求めていかないと、決して対象にはならないということだろうと思います。

大人の役割について、「しつけ」という言葉があります。

この「しつけ」という言葉は、最近はなにか古くさいことをいうようにとらえられておりますが、私の勤務する田上小学校では「しつけ」を非常に大事にしています。

「しつけ」というのは漢字で「身を美しく」と書きますよね。

でも本当は違ったんです。

もともとは「仕付」と書いて「しつけ」と読んでいたんです。

これは何をしつけるかといいますと、田んぼです。

田植えをするとき、日本では稲をきちんと並べてきれいに植えていきますよね。

何センチかごとに印をつけて植えていきます。

あるいは裁縫をするときに仮縫いをしますが、そのときに仮縫いの針を打っていきます。

それが「しつけ」の糸できちんと方向付けをするということであります。

ところが、いつの間にか「躾」という文字に変わってしまい、意味も

ハンカチを持っているかどうか、

爪は切ってあるか、

鼻が垂れていないか

といった外面的な美しさ、つまり身を美しくするのが「しつけ」だというように、とらえ方も変わっていきました。

しかし「しつけ」というのは、方向付けをするということが本来の意味でございます。

だから今、田上小学校では本来の意味のしつけに戻していこうという話をしているところであります。

方向付けをするというのはどのようなことでしょうか。

例えば、一、二年の頃だと、算数の問題なんか親もよく分かります。

だから、子どもに聞かれなくても、親の方から一生懸命教えてやることが出来ます。

でもそれが三、四年生になると少し難しくなり、五、六年生になると、親の解けないような問題が出てきます。

そうなると、子どもが台所へ行って、

「お母さん、これはどうするの」

と聞いても

「忙しいから後にしなさい」

とか、わからないとは言えないので

「うるさい」

とか怒ったりするんですよね。

でも、私はいつも言うのですが、利口な親は早くしつけをしていきます。

親が教えられるころから、

「お母さん、この計算がわからない、教えて」

と聞かれたら、

「これは、あの先生が得意なんだよ」

「あそこのお兄ちゃんに聞いてごらん」

「図書室で調べてごらん」

と言ったり、

「お母さん、この漢字がわからない」

と聞かれたら

「辞書を引いてごらん」

「隣のおじさんが漢字博士なんだよ。聞いてごらん」

と言って、方向付けをするのが「しつけ」であります。

なぜいま念仏か(1)7月(後期)

現代は科学の時代であると同時に迷信の時代でもあると述べました。

これは両者が足りない部分を補完しあって、互いに同じものを求めているからではないでしょうか。

人間にとって、求められるべき幸福な人生とは、ほぼ次の三点にまとめることができるのではないかと思います。

まず第一は、その人生が健康に恵まれ、豊かでたのしく充実したものであること。

第二は、人間としての正しさを失っていないこと。

そして第三は、その努力がその人にやすらぎを与えていること。

ところでこの三点を満たすために、科学と宗教が必要だとして、一体どちらが役立つのでしょうか。

かつては宗教であったかもしれませんが、現代は明らかに科学だといえます。

現代の文明社会に見る豊かさ、便利さ、快適さ、そういった人間の欲望を満たす楽しい人生は、まさしく科学によってもたらされたといえるからです。

人間にとって最も望まれることは、自由自在の生き方が出来ることです。

ところで、それが最大の願いだということは、私たちの人生は、実際は全く不自由な生き方しか出来ないからに他なりません。

そういった意味で、人間社会に生きる私たちは、苦悩の原因となるさまざまな事柄に、がんじがらめに縛られているのです。

だからこそ、人間は懸命にその繋縛されている要素の一つ一つを取り除くために努力しているのです。

そして現に科学の力は、病の苦しみ、自然からの脅威、人間社会の不平等性、貧困・醜さといった、人間の持っている苦痛の原因の多くを除くことに成功しているかのように思われます。