投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

親鸞聖人の往生観 (5)4月(中期)

そこで浄土宗の場合、法然上人の言葉をどのように受け止めたかということです。

阿弥陀仏の本願は、悪人こそを救うという本願です。

では、自分はいかなる人間かというと、まさに極悪人でしかありません。

それゆえに、阿弥陀仏の本願はこの私を救おうとしておられるのです。

私は阿弥陀仏に救われる以外に、仏になる道はありません。

そこで、自分は一心に念仏を称え、心から往生を願うのです。

そうであれば、この私は既に阿弥陀仏の大悲の中にあり、往生の道を歩む念仏者だということになります。

では、私にとっての日常はどうあるべきか。

極悪人である私が、阿弥陀仏の大悲に救われ、今を生かされているのです。

だとすれば、この私はせめて人間として、善に励むことが仏の恩に報じることになるのではないでしょうか。

救われているがゆえに、懸命に仏事を営むのです。

ひたすら念仏を称え、少しでも善人になるために善行に励む、これが浄土宗の教義で、ここに善人往生の思想が生まれた原因が見られるようにうかがえます。

ではそれに対して、親鸞聖人の教えの特徴は何でしょうか。

それは、私たちは悪人であるという教えではありません。

今日の浄土真宗は、私たちは悪人だと教え、私たちもまた頭から自分は悪人だと思っているのですが、それは親鸞聖人の教えからいえば、間違っているといえます。

私たちは誰も本当の意味で、自分は悪人だと思っていないからです。

そこで親鸞聖人の教えですが、親鸞聖人は私たちに「あなたは自分を善人だとしか思っていない」と教えられている点が重要なのです。

ここのところを私たちは間違って聞いてはならないのです。

人間というものは、自分を善人としかとらえることは出来ません。

自分はいつも正しいのであって、間違っているのは相手や周囲の人びとであり、私は善であり、他者は悪だと無意識の内に見てしまうのが人間なのです。

その人間に対して、親鸞聖人は本当に自分の行いが、正しく善であるかを問わしめているのです。

「大山のぶ代の おもしろ人生あれこれ」(中旬) “ああ医者いらず”

 一つがいいと言うから、そればっかり食べるんじゃなくて、バランスよくいつも食べるということです。

そして、おばあちゃんが「うん」と言って見回して「赤・青・白・黄・黒、全部あるね。はい、いいよ」ってことで、ご飯が始まる。

こういう中で私は育ったんだと思うと、本当に良かったと思います。

 だって、たまの煮魚なんて、それこそイワシと生姜がいっぱい入って甘辛く煮えてたり、それって前の日にお鍋で小さなイワシをいっぱい煮るんです。

いっぱい煮て、前の日はお皿の上に二、三匹ずつみんなの分を盛りつける。

こればかりは山盛りにして、全部をみんなで突っ付いたりしない。

だって骨があって危ないし、汚らしくなるからみんなそれぞれ盛りつけるんです。

 ところが、この煮魚が出たときに限って、私もお膳の自分の席に座ろうとすると「のぶ代」って誰かが呼んでくるから、その人のそばに行って「アーン」て口を開けるんです。

そうすると、お魚の煮えた目玉を取って、私の口へ入れてくれるんです。

中の白いコリコリとツルツルが一緒になったのを噛んでいると、また誰かが呼んで、結局家族中の私以外の魚の目玉は全部、だから二十四の瞳が全部私の口の中に入っちゃうんです。

 それで、私は大人に聞いたんです。

「何で私にばかりみんな目玉をくれるの」と言ったら、「目玉を食べると、目のいい子になるんだよ」と、ただそれだけのことで本当かどうかもわからない。

私はそれを、みのもんたさんの番組でもって

「青魚は、一週間に何回か食べましょう。

血圧の上昇を抑えたり、血行をよくしたり、血管が詰まるのを防ぐ。

そしてドコサヘキサエン酸というのが入っていて、それが一番多く含まれているのが目玉の後ろだ」

と聞いた時に、おばあちゃんはなんでそれを知っていたんだろうと思いました。

 週刊誌もテレビもない時代に生きた人が、ちゃんと目玉を食べさせる。

そういうことは、みんな口移しでもって知っていたんです。

だから夢中になって、お魚をきれいに、猫だって横向いちゃうくらいの骨だけにしちゃうんです。

 そのあとおじいちゃんは、熱いお湯を注いで魚の骨を押して、中から骨の隨みたいなのが手出てくるのを飲んで「ああ医者いらず」と言うんです。

私も真似して一緒になって飲んで「ああ医者いらず」って言っていました。

でも、これはカルシウムとかの栄養素は何があるかわからないけども、骨の芯まで全部飲んで、言葉で楽しみながら身体にもいいことをちゃんとしていたんだと思います。

 今は学校で学んだり、世の中も情報が多くなっていろんなことを教えてくれるし、テレビを見てなるほどと思うこともあります。

けれども、昔の人が言葉から言葉へ伝え合っていたことは、今の時代に通じないような難しいものもあるけれど、その中に人が生きるだめに何が必要かということが全部入っていたんだって思うと、日本人ってすごい知惠を持っているから、それをなくしちゃいけない。

せめてそれを知っている私たちが、生きている間に次の世代に伝えておかなくちゃと思ったんです。

『お仏壇の中にいるのは誰?』

お仏壇でもっとも大切なのは「ご本尊」(ほとけさま)です。

ご本尊とは、「信仰上、もっとも尊ぶべき礼拝の対象」であり、私たちの浄土真宗では「阿弥陀如来」がご本尊となります。

ですので、お仏壇の中心、中央には阿弥陀様をご安置いたします。

「お位牌(過去帳)や遺影はどうするのですか?」と問われることがありますが、お位牌や遺影というのは、あくまでもその方の生きた証を記録しておくためのものであり、それらが礼拝の対象となるものではありません。

では、これまでに亡くなられたご先祖をどうするのかというと、ご先祖は阿弥陀様のお浄土にお生まれになり、阿弥陀様と同じ仏様になられたと味わうのです。

したがってお仏壇では、ご先祖を拝むというよりは、亡き方を偲ぶ中に、ご先祖をお救い下さった阿弥陀様のお心を味わわせていただき、阿弥陀様に心から手を合わすことが、すなわちそのままご先祖を敬い、感謝することになるのです。

(注)浄土真宗本願寺派『法式規範』

「人間」という言葉は、私たちが人と人の間を生きる存在であることから出来た言葉だと

「人間」という言葉は、私たちが人と人の間を生きる存在であることから出来た言葉だと思われます。

それは、人はいかに他人にかまってもらいたい存在かということです。

つまり、私たちはいつも自分が誰かから見つめられ、気にしてもらい、話しかけられ、相手にしてもらっている、そのような何らかの関わりがないと生きられない存在なのです。

このような意味で、人間ほど孤独に弱い生き物はないのだと言えます。

学生さんに何が怖いか聞くと、その多くは「孤独が怖い」と答えます。

孤独は「寂しい」とか、「嫌だ」ということよりも、直感的に「怖い」と感じているのです。

そのような思いを端的に示しているのが「圏外孤独」という言葉です。

携帯電話の電波の届かない場所に行くと「圏外」の表示が出ますが、いつでも友だちと携帯電話やメールで繋がっていると安心である一方、メールも届かなければ、携帯電話も繋がらない「圏外」の状態になると、その途端不安になり怖くなるのだそうです。

そこまで極端ではないにせよ、やはり「圏外」にいる時に落ち着かない気分になる人は案外多いのではないでしょうか。

このように、人間は非常に「孤独」という状態に弱い存在であり、常に誰かにかまってもらいたい、あるいは自分が周りの誰かから見守られているということを求めている存在なのです。

人間として一番悲惨なことは、貧しさでも病気でもなく、自分はもう全ての人から見放されていると感ずることが、何よりも悲惨な状況だといわれます。

そうすると、周りの誰かに

「見放していないよ」

という呼びかけられることで、生きる勇気を持つことが出来るのだと思われます。

このように「孤独」を恐れる私たち人間の在り方から考えると

「あなたは私にとって本当に大事な存在なんだよ」

と言ってくれる人がいたり、そういう言葉に出会うとき、私たちは本当に自分がこうして生きて有ることに感動する心を持つことが出来るのではないでしょうか。

『あたり前の中に 大切なことがある』

  小さい頃、朝晩必ず仏さまの前に座らされました。

「仏さまに手を合わせてお礼をしようね」

「ナモアミダブツととなえるんだよ」

ナモアミダブツってなに?と聞くと、

「仏さまありがとう、という意味だよ」

と教えてもらいました。

 先日、ある本を読んでいると、

「ありがとう」

の反対語は

「あたりまえ」

だと書いてありました。

言われてみれば、なるほど納得です。

普段「あたりまえ」に元気に過ごしていて、いざ病気になって初めてその「ありがたさ」に気づく。

本当はいつも「有る」ことが「難しい」毎日を過ごしているのに、「あたり前」の中からは感謝の気持ちなどとても出てきません。

逆に、

「あたり前」

と思っていたいろんなことが

「特別なこと」

に思えたら、自然に

「ありがとう」

が口から出てくるのかもしれません。

 街で見かけたある絵ハガキに、こんな事が書いてありました。

  あたり前のことなんて

  何ひとつないと気づいた時から

  歌を歌うことも

  水たまりを飛び越えることも

  朝起きて歯を磨くことさえも

  楽しいことに思えてきます。(澤田直見) 

本当にその通りですね。

あたり前なんてどこにもない。

でも、なかなかそう思えない私だからこそ、

「仏さまに手を合わそうね」

と教えてもらったのだと思います。

本当に大切なことに気づかされるように。

親鸞聖人の往生観 (5)4月(前期)

 『歎異抄』の第三条に

「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」

という言葉があります。

この思想は、これまで一般には親鸞聖人の独自のお考えであると言われてきました。

ところが、近年親鸞聖人の師匠であられる法然上人の伝記に同じ言葉が見られるということで、これは本来、法然上人がおっしゃった言葉だと言われるようになりました。

伝記に記載してあるのですから、おそらくその通りかと思われます。

 ただし、ここで注意しなければならないのは、その法然上人の言葉は、法然上人独自野も野ではなくて、浄土教の教えそのものが、実は

「悪人往生の教え」

だということです。

聖者や善人は、別に阿弥陀仏の本願に頼らなくても、仏になる道は存在します。

けれども、悪人、とくに極悪人は、阿弥陀仏の本願による以外、仏果に至る水戸は存在しません。

阿弥陀仏の本願を信じ、念仏を称え、救いを求める以外、極悪人の救われる道はないのです。

とすれば、阿弥陀仏は殊に誰を救おうと願われているか明らかになります。

その本願は当然、阿弥陀仏に頼るしか道のない者こそ救おうとしておられるのです。

阿弥陀仏の大悲はもともと、悪人に向けられているのであって、悪人こそが救われる、これが浄土教の最も大切な教えの一面になるのです。

したがって、法然上人が「悪人こそが救われる」と教えられたのは、当然のことだといえるのです。

ところで、ここで大きな問題が生じます。

現在の浄土真宗と浄土宗の、教えの一つの大きな違いは、浄土宗は善人往生を説き、浄土真宗は悪人往生を説くということです。

浄土宗も浄土真宗も、その根元は法然上人の教えにあり、その流れを汲む宗派です。

そして共に、法然上人から悪人往生の教えを聞いているのです。

それがなぜ、一方が善人往生を説く教団に、他方が悪人往生を説く教団に発展したのでしょうか。

これは二つの宗派の一方が、法然上人の教えを聞き誤ったということではありません。

両者とも、法然上人の教えをそのごとく一心に聞き、教えのごとく浄土の教えを実践したのです。

では、それがなぜ一方が善人往生に、他方が悪人往生にと、大きく二つに分れたのでしょうか。

その違いは何かが、ここで問題になります。