投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「大山のぶ代の おもしろ人生あれこれ」(上旬) 五色そろえば

======ご講師紹介======

大山のぶ代さん(女優)

☆ 演題 「大山のぶ代のおもしろ人生あれこれ」

大山のぶ代さんは昭和11年東京生まれ。

都立三田高校在学中に劇団俳優座養成所入学、昭和三十一年「この瞳」(NHK)でデビュー。

女優・声優として「名犬ラッシー」「ブーフーウー」「江戸を斬る」「ドラえもん」など、ラジオ・テレビに幅広くご活躍です。料理の腕前にも定評があり、料理関連の著書も多数あります。

昨年5月に『ぼく、ドラえもん』(小学館)を発刊されました。

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 なぜ小さい時から「世の中はこういうもんだよ」っていうことを、周りの大人がちゃんと後輩たちに教えておかなかったのかしらと思うと、すごく寂しくなります。

だから、せめて私は覚えている限りのことを伝えたい。

例えば、昔おばあちゃんが言っていた「一日五色」、よく考えてみたら赤・青・白・黄・黒の順番はどうであろうと、この五色がお膳に並んでいれば満足なんです。

 だから、家族十三人分のお膳ができて、そこに並んだおかずには贅沢なものはないですけど、白菜のおしんこが丼に山盛りになっていて、タコとコンニャクが煮えてて、一週間に二回ぐらいはちゃんとお魚の煮魚とか塩焼きとかが出るんです。

その程度のおかずであっても、全部がそろったらおばあちゃんが見回して「うんいいよ」と言うと、家族がそれぞれ家族を呼びに行って、十三人がぞろぞろ集まって、いただきますと言って一緒に食べるのがご飯です。

 そういう時に、おばあちゃんが言っていたのは、赤は赤身の魚もあれば、トマトとかニンジンとかの野菜もあります。

青は青魚もあれば魚野菜があります。

白は白い大根などの野菜がいっぱいありますし、白身の魚もある。

今ごろだと鱈(たら)なんか湯豆腐に入れたらおいしいです。

黄は今で言う有色野菜なんですね。

ジャガイモとか根菜類もそうです。

 そして黒は大事なんです。

これは何かと言うと、海藻類なんですね。

だから、どんな時にも、この頃は常備菜という言い方をしますけど、よく煮込んだり、日持ちのいい煮物とか酢の物、大きな丼にいつもフタをされて、出てきたフタを取ると、中にはひじきが油揚げと豆が入っているのが煮えていたり、昆布と大豆が煮えていたりと、そういう煮物です。

 これは朝ご飯の時に出てきて、終わると一回引っ込みます。

そしてまたお昼に、うちに残っているおじいちゃん、おばあちゃんたち四人と、私とお母さんとお姉ちゃんと、それがまた出てくるので、他のおかずと一緒にそれも食べる。

夏になると、ワカメの酢の物ときゅうりが入ったのを食べるんです。

 考えてみると、五色そろうということは、ビタミンがとか、カルシウムがとか、タンパク質がとかではないんです。

最近、コラーゲンがとか、みんながお医者さんみたいな言葉を平気で使っていますけど、私の友だちの医者から聞いた話ですが、このごろ患者さんが来て問診をするときに「どういう具合ですか」と聞くと、

「胃のこの辺がこうだから、これは何々じゃないかと思いますけど…」

と、自分で病気の名前を言うんだそうです。

それで「わかっているのなら(病院に)来るなって言いたくなる」と言うんです。

 それでも、この頃おじいちゃんやおばあちゃん、そして若い人達にとって、あまりにも情報があるもんだから、「納豆がいい」と聞くと、みんなが納豆を食べてしまうような時代です。

本当に正しいことがわかっていたかどうか分からないなんて思うこともいっぱいあるのに、おばあちゃんはカルシウムもビタミンもわからないけど、五つの色がそろっていれば、それで全部のバランスがいいんだということを知っていたんです。

「非行」

 今日、非行という言葉は、主として刑罰法令に触れるような行為をした少年に対して用いられています。

「非行少年」「非行集団」「非行化」など、日常よく使われる言葉です。

他にも、家庭内暴力、陰湿ないじめなどの行為を指すこともあり、いずれも非行を犯した少年は要保護性を有し、公的機関において、保護・観察・拘束・教育・処遇などの対象になります。

 ところが仏教で非行は「ひぎょう」と読み、「理屈・道理に合わない」という意味で用います。

それは批判の対象にはなっても、そこには必ずしも悪いという意味はありません。

要保護性のある少年には、大人に対するような犯罪という言葉を使うのではなく「非行」と呼ぶのはあるいはそのような意図があってのことかもしれません。

 この場合とは語源は異なりますが、仏教には別の意味で「非行(ひぎょう)」という重要な概念があります。

「行に非ざるもの」という意味です。

「行」とは、無限の過去を背負っている私たちの存在を成り立たしめているその根底にあるはたらきです。

その反意語である「非行」とは、人間のあらゆる計らいを超えたものであり、仏の境地そのものです。

なお『歎異抄』に「念仏は行者のためには非行非善なり」とあるのはこの意味で、念仏は私の行う行ではなく、仏の願いのはたらきそのものであり、私は生きているのではなく、生かされているという立場です。

※参考文献「仏教が生んだ日本語」(毎日新聞社刊/大谷大学編)

『彼岸を仰ぎながら 此岸に生きる』

春秋の彼岸は、日本独特の風習だそうです。

「彼岸」とは、さとりの世界、お浄土をさす言葉です。

これに対して、私たちの生きるこの世は「此岸」といって、迷いや苦悩に満ちた世界のことをいわれます。

一説によると、太陽が真東より昇り真西に沈むこの日に、日没を観想してお浄土を偲び、おそらく聖徳太子の時代に四天王寺で法要が行われたのが最初ではないかといわれています。

 沈みゆく夕日、それは私たちに人生の終焉を思わせます。

当たり前に生きている私が、「死」を縁として、「いのち」と向き合う時間。

今は亡き懐かしい人を偲びつつ、いのちの行く先を、お念仏の教えの中に聞かせていただきたいものです。

今では、お彼岸といえば、先祖の墓参りをする、という風習だけが残っている感じがします。

よくテレビでお墓参りの様子が放映され、

「先祖の霊を慰めていました」

というナレーションが決まり文句です。

しかし、それがともすれば

「さあ終わった」

「ご先祖もこれで文句はないだろう」

となってしまっては、あまりにも寂しく思います。

一年の中でも一番気候のいいこの時に、進んでお寺の仏事に参加して、ご縁を深めることも大事なのではないでしょうか。

お念仏の教えにあい、法悦に満ちた詩をたくさん残された榎本栄一さんは

『わたしを見ていて下さるひとがあり わたしを照らしていて下さる人があるのでわたしはくじけずにこんにちをあるく』

と詠っています。

 手をあわす私が照らされている。

懐かしい方々が彼岸より仏のはたらきとなって、私に彼岸への人生を生きるのだよ、と導いてくださるのです。

「親鸞聖人の往生観」(3)3月(後期)

真実の法に、自分が照らされていることを知るということは、仏の大悲心を信知することができた姿だといえます。

ときにここで、「仏の恩とは何か」ということが問題したいと思います。

 浄土真宗では、古来「報恩」ということを重要視してきました。

そこで、念仏を称える時も

「報恩行の念仏でなければならない」

とか、

「救われた有り難さから感謝の思いで念仏を称えよ」

といったことが、繰り返し教えられてきました。

けれども、そのような念仏は、本当の意味での報恩の念仏ではないと思われます。

なぜなら、そこでの念仏は

「こうであらねばならない」

と規定されているのですから、これはいわば無理強いされて称える念仏だといえなくもありません。

また、このように本人の意思に反して、強制されるような報恩など実はありえないのです。

たとえば、親が自分の子どもに向かって

「お前は親のお蔭で大きくなったのだから、親の恩というものを知らなくてはならない。

と言っても、子どもが親の恩を実感することは容易なことではありません。

また、このように強制されたことによって、報恩の思いが湧いてくることなどないのです。

しかしながら、わざわざ

「親の恩を知れ」

などと子どもに言わなくても、親の恩が何かのはずみで子どもに明らかに知られると、子どもは自然と親の恩を報じるようになるものです。

仏の恩も、まさにそれと同じであるはずです。

私たちに、仏の真実の理が明らかになると、何も言われなくても、私たちはおのずとその徳に報ぜずにはおれなくなります。

 親鸞聖人は、ものの道理が明らかになることによって、初めて恩が知られることになり、またそのことによって必然の道理として徳を報ずる道が可能になるのだと教えて下さいます。

 したがって、私たちにとって何よりもまず重要なことは

「仏の大悲心を信知すること」

だといえます。

言い換えると、阿弥陀仏の救いを信じ、往生が確かになることが大切なのです。

それが獲信なのですが、獲信して初めて報恩・感謝の念仏を称えるようになるのです。

 そもそも、阿弥陀仏は私たちに

「感謝の念仏を称えよ、救う!」

というようなことを誓ってはおられません。

「念仏せよ、救う!」

と誓っておられるのです。

したがって、救われていることが明らかになった時、自然に感謝の心が出てくるのです。

このような意味で、報恩の念仏とは、救われているからこそ称えられるのだといえます。

信心も何もなしに、阿弥陀仏と向かい合って無関心でいる者が、感謝の念仏など称えられるはずなどありませんし、ましてや阿弥陀仏を信じないで、そのまま救われていることもないのです。

 親鸞聖人は

『阿弥陀仏の「念仏する衆生を必ず浄土に往生せしめる」という本願を信じて、念仏する衆生は必ず(往生せしめられ)仏になる』

と説いておられます。

「信心正因・称名報恩」

とセットにして語られますが、

「信心=称名」

であり、報恩とはただ単に口に念仏を称えることではなく、私が頂いた獲信の喜びを周囲の縁ある人びとに伝えていくこと、念仏を讃嘆していくことだといえます。

「幸せを増やすために放送したい」(下旬) 二十三年分の灰

 「実は、この町は二十三年間、ゴミを焼いた灰を近くの谷に捨て続けているんですよ。

その下には川が流れていて、その先には田んぼもあるし、小学校もあります。

今はゴミを焼いた煙から出てきたダイオキシンが問題になっていますが、自分はそちらの方がものすごく心配で、まずは何とかして、二十三年間積もりに積もった灰を掘り起こしたいと思っています。

でもお金もないし、どうすればいいか迷っています。

それでも自分としては何とか町長と話し合って、捨ててしまったものを取り除きたいんです」

と、初めての電話で話して下さいました。

 こんなことはそれまでありませんでした。

だって亀甲さんが悪かった訳ではないんですよ。

たいていの場合、過去の行政の担当がされたことというのは、あまり話したくないのが普通ですから、隠すことが多いんです。

それを全部掘り起こしたいとおっしゃったんです。

それで私はその話をしながら「この方だ」と思いました。

 「その取り組みは、みなさんにとってすごく参考になることなので、まず町が掘り起こす作業を、カメラで追いかけさせて下さい」

とお願いしました。

そうしたら

「ええ、私たちも覚悟を決めています。

それが取材されて役に立つのであれば、町長から許可がおり次第ご協力します。

ただ、自分たちも町民と一からやり直そうとしているところなので、叩かれるのであればやはり取材はお受けできません。

でも応援してくださるのならいいでしょう」

と言われたので、「もちろん私たちもそのつもりです」とお答えしました。

 その二、三日後に許可がおりて取材が始まりました。

実はそれは今も続いています。

そして、その事実を隠さない素直な姿勢は、伝えるごとにどんどん共感を呼ぶようになったんです。

私はこの取材を経験して、自分が放送の仕事にかかわれることをとても幸せだと思うようになりました。

現代では、地方で作った番組というのは、なかなか県外で見ていただける機会がありません。

 でもおかげさまで、気に入って下さる方があちこちにいらっしゃって、いろんな方々が上映会を開いて下さいました。

この番組を作ることで、私たちが思う以上に、鹿児島で起こっていることに魅力を感じて下さる県外の方が多い、ということを感じることが出来ました。

「分別」

「分別くさい」

「分別盛り」

というように、世間のことに関して常識的で慎重な考慮・判断をすることや、その能力を指す言葉を「分別」、その反対の言葉に「無分別」があります。

「無分別なことをいう」

「無分別きわまりない」

などは、いずれも思慮を欠いた状態を指していわれる言葉です。

この「分別」「無分別」は、仏教でもしきりに使われる言葉ですが、その意味するところは、日常での使い方とは正反対のものとして考えられています。

仏教で「分別」というときは、言葉や考え方によって、勝手にこしらえ考え出す妄想という意味で、「無分別」は妄想にとらわれず、ありのままに正しい真理を理解することです。

この「分別」については、中国古代の思想家の荘子も同じようにその欠陥を指摘しています。

この宇宙における真理はどのようにしてとらえるのかという場合、私たち人間の常識では、何かを理解しようとすると「分かる」という言葉が示すように、物を「分ける」ことによって事がまず始められます。

あるいは

判断(物を半分に分断する)、

分析(物を分けて析く)、

理解(物にすじめをつけて分解する)

というように、人間は一つのものをそのままでは「知る」ことが出来ず、必ずこれを二分することを通して初めて知ることができるのです。

したがって、知識でとらえられた世界は、必ず前後・左右・善悪・美醜という相対差別の姿であらわれます。

けれども、二分された姿は果たして本来の形、ありのままの姿なのでしょうか。

真の姿をとらえようと思うならば、「無分別」という相対的なものの見方を離れた絶対の立場からのものの見方でなければ、一部を全体と見誤ってしまうことになるのだと思われます。